善の勧めを、なぜ絶賛されたか
親鸞聖人といえば『歎異抄』、『歎異抄』といえば親鸞聖人といわれるほど、今日、『歎異抄』は親鸞思想の格好の入門書とされている。
だが、われわれ親鸞学徒は熟知していなければならない。
この『歎異抄』は、親鸞聖人の教えを誤解させるおそれがあるから「仏縁浅き人には、誰彼となく拝読させてはならぬ」と、蓮如上人が封印された書であることを、である。
とりわけ危険なのは、「悪人正機」で知られる第3章である。
「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」
(善人でさえ浄土へ生まれることができる、ましてや悪人は、なおさらだ)
この一節は、日本思想史上、最も有名な言葉といわれ、衝撃的な内容だけに、大変な誤解も生んだ。
事実、100年前に蓮如上人の禁が破られると、たちまち『歎異抄』は広範な読者の魂をとりこにした。親鸞聖人は「歴史上の人物ベストワン」と讃えられるほどになったが、蓮如上人の洞察どおり、その教えは大きく曲解され、〝悪をするほど助かるのだ〟と好んで悪を行う「造悪無碍」と呼ばれる輩さえも現れた。
今日に至るも、これは浄土真宗に広く浸透している根深い謬見である。親鸞聖人の真意を理解せず、一向に修善に向かおうとしない、無気力で、消極的、退嬰的な「善を勧めぬ浄土真宗」は、かくして崩落の一途をたどっているのである。
「悪人正機」を笠に着て、勝手気ままに領解し、「親鸞聖人に善の勧めはどこにもない」「どうせ、曽無一善の身でないか」「頭燃を灸うが如く努めてみても、雑毒雑修の善でしかないではないか」「そんな善を勧める必要がどこにある」「善を勧めるのは大間違いだ」と、やりたい放題、したい放題、言いたい放題。
仏法聞いていない人よりも浅ましい生きざまで、悪人製造の教えが親鸞聖人の教えだと世間に言わしめ、遂に、今日の浄土真宗の惨状に至らしめたのだが、当人たちはまだ目が覚めない。
善導大師のご教導
「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ」
これは、「大心海化現の善導」と親鸞聖人が称賛される、善導大師の有名なお言葉である。
「外」とは外面(言動)のこと。外面は、光に向かう努力精進の人となり、〝さすが親鸞学徒は違うなぁ〟と信頼される、言葉遣いや行為に努めなさい。
「内」とは内面(心)のこと。外面を幾ら賢善精進に飾っても、内面が醜悪であってはなるまい。心には、ウソ、偽り、妬み、嫉みなど、持たないよう慎むことを心がけなさい。何と厳しい教えではないか。
これが、早く弥陀の救いを求める人に説かれた、善導大師の教えなのである。
この善導大師を、「善導独明仏正意」(仏の正意を明らかにしてくだされたのは、善導大師、ただお独りであった)と、親鸞聖人は称賛なされ、「大心海化現の善導」とまでおっしゃっている。「大心海化現」とは、「安養の浄土からぬぅーと現れた仏さま」ということである。他の七高僧にも見られぬ褒め言葉だ。
弥陀の救いにあえて必要のない善ならば、なぜ、これほどまでに善導大師は厳しく善を勧められたのだろう。
その善導大師をまた、親鸞聖人は絶賛されるのであろうか。その深意を知る人が果たして、どれだけあるだろう。
寂しい限りである。