大鹿靖明

--「ライブドア」という名前を知ったのは、いつ、何がきっかけですか?

大鹿靖明氏(以下、大鹿) もともと、朝日新聞の記者として青森、静岡支局などを経て、東京本社の経済部に配属されました。そこで、2年半ほど東芝、ソニー、パイオニアからアスキー、ソフトバンクといった企業まで幅広く取材する電機と呼ばれる部門を担当し、その後1年数ヶ月ほど兜町担当をしました。
 ちょうど兜町の担当だった2000年4月ごろ、マザーズ市場にオン・ザ・エッヂが株式公開をして、その頃にオン・ザ・エッヂという社名は認識していました。ただ、ライブドアという名前に関しては、エッジがライブドアを買って、社名を変えたときが最初です。
 その後、堀江さんを取材したのが、2002年頃、AERAに移ったあとです。ちょうどリナックスのOS「リンドウズ」をオン・ザ・エッヂが発表していて、世間でも脱ウインテル(Windowとインテル)の機運が高まっていたときでした。
 実は取材依頼したときは、堀江さんではなくてもいいと思っていたんです。リンドウズのことは、担当部門のほうが詳しいだろうし、社長のアポイントは日程調整が面倒だろうと思ったからです。
 ところが、当時の広報担当の方から、「社長も出ます」と。現場の担当の方と堀江さんの2人にそれぞれお会いしたときが、堀江さんを取材した最初でした。
 そのときの堀江さんの印象は、マスコミに出るのが好きなのかなという感じでしたね。尖がっているというか、初対面でお会いしたにしては、傲然としている人だな、と。ビジネスについては、非常にユニークな会社だなというのが第一印象でした。
 その取材を元にAERAで記事にしたのですが、おそらくその記事を広報の方が気に入ったんじゃないかと思います。その後、何かにつけて「取材をしてください」と連絡をいただきました。
 特にイーバンク騒動があったときに、堀江さん、宮内さん、そして、当時ライブドアファイナンスのヴァイスプレジデントだった塩野さんに、それぞれお会いしてお話をする機会を得ました。
 塩野さんにお会いしたときは、その雰囲気や話しぶりから、どこか大手の金融機関に勤められていたんじゃないかという印象を受けました。お伺いしたら、ゴールドマンサックス、シティバンクと来て、こちらに転職してきた、と。そんなエリート街道を歩いている人が転職してくる会社なんだ、と驚いた記憶があります。
--イーバンク騒動のときは、当時のイーバンクの社長の電話の音声をサイトにアップするなど、話題になりましたよね。

大鹿靖明大鹿 実は、あの音声ファイルをアップする以前の宮内さんの印象は違っていました。それまでは、堀江さんがイーバンクの経営陣を感情的に非難するのに対して、理路整然と事の成り行きを語ってくれたのが宮内さんだったので、これは孫正義と北尾吉孝の関係と同じで、ビジョナリーのCEOと番頭のCFOの組み合わせ、やんちゃな社長の御守役なんだな、と思っていたんです。
 ただ、イーバンクを買う理由を聞くと、エッジグループが新興企業に投資する、その目利きを自分たちがやるんだという答えでした。
 それ以前に、ソフトバンクが日債銀、今のあおぞら銀行に資本参加する際に、ソフトバンクのグループ企業にお金を用立てる銀行、これを機関銀行というんですが、そのために銀行を買収するなら認めないと金融庁から厳しく言われていた件もあったので、それはモラルハザードなんじゃないか、と問い質したんですね。ところが宮内さんは「それがどうした」みたいな、全く意に介さないふうで、そこに違和感を覚えました。
 特に、イーバンクサイドと紛争が泥沼化したときに、松尾社長が宮内さんの留守電に残した音声を宮内さん自らがサイト上で公開したときは、それまでの良い女房役とは一転、子どもっぽい、もっと言えばガキっぽい印象を受けました。とはいえ、この一件に関しては、全体としてはエッジ側に分があるとは思っていましたけどね。

--その後、ライブドアを密に取材することになったのは、プロ野球騒動からですか?

大鹿 そのときは、別の記者が取材していたので私はタッチしませんでしたが、2004年のプロ野球騒動を経て、その流れで堀江さんが次はメディアの買収に乗り出す、と。
 そのときは具体的なメディアの名前は聞けなかったので、もっと小さい、体力がなさそうな某新聞媒体かなと思っていました。それが、2005年2月のニッポン放送の株取得で、狙いがフジテレビだとわかったときは驚きましたね。
 そこからは、ライブドアに密な取材をするようになりました。各社堀江さんに張り付いていたので、宮内さんや塩野さん、熊谷さん、落合さん、園田さんといった取締役や執行役員クラスの方々に取材する過程で、ライブドア人脈が広がっていきました。
 一方で、その様子を冷ややかに見ていた、楽天やヤフーの方々からもお話を伺ったり、村上ファンドや、彼らの傭兵である、ゴールドマンサックス、リーマンブラザーズ、大手の弁護士事務所など、黒衣の人にも関心をもつようになりました。
 2005年2月のニッポン放送から始まって、選挙出馬、村上ファンドの阪神電鉄の買収など、ヒルズ族に絡んだ動きは取材していても非常に面白かったですね。
 そうした中で2005年暮れに、ライブドアが来年でかいことをやるぞという話をいくつかの方面から聞きました。それが後に明るみに出たソニーへの敵対的買収だったわけです。
 2005年暮れに、どんなことをするのかを取材しようと、堀江さんにアポイントを取りました。ところが、これがまったく取材にならなかった。インタビューしたとき、彼は二日酔いで、険悪な雰囲気で取材が始まったのを覚えています。彼が饒舌になったのは、宇宙ロケットの開発の話ばかり。取材が終わって、熊谷さんや園田さんに「ひどい取材状況じゃないですか」と言うと、毎晩のように飲みまくっていて、本業に身が入っていないんですと申し訳なさそうに言われました。 
堀江さんもすっかり人が変わったなという印象でした。自我の肥大化に歯止めがかからなくなったような感じでした。
 そのときの記事は「ライブドア大丈夫か?」というトーンで書きましたね。事実、熊谷さんや園田さんも、堀江さんが何かのトラブルに巻き込まれるんじゃないかと心配していたくらいです。
 結局その心配が的中してしまったのは、皮肉な感じもしますね。

--その頃から、『ヒルズ黙示録』『ヒルズ黙示録・最終章』を執筆しようと考えられていたのでしょうか。

大鹿靖明大鹿 実は本を書くことが決まったのは、2005年11月です。AERAの編集長から2005年の1年間を振り返って、ヒルズ族とその周りに起きた事件の舞台裏を描いて、1冊の本にしたらどうか、と打診を受けました。そこで、それまでの取材記事を整理しなおして、12月中に4割ほどの原稿を書き上げていました。
 ところが、年が明けて、ライブドアショックが起こった。その直後から、毎週事件の取材をやりつつ、原稿を書くという形になって、その後新しい事実も出てくるわけですから、泥縄状態で記事を継ぎ足していく結果になってしまいました。
 もともと、新聞記者が本を出すというのはそれほどめずらしいことではないんですよ。1970年代~80年代には、本多勝一さん、筑紫哲也さん、船橋洋一さんといった大先輩が本を出されていて、私も後輩として非常に尊敬していました。ただ、本を出せるようになったのは、朝日新聞社の社長交代があったことも大きかったんです。
 1999年から2005年は、朝日の中でも官僚化やサラリーマン化が進んでいました。マスコミというよりも、普通の会社になろうという方針を当時の箱島信一社長が打ち出していたからです。
 記者も専門職でいくよりも、ある程度の年次で、人事部門や財務経理を担当するようになった。スペシャリストよりもゼネラリストが求められるようになったわけです。この時期、社内が急速に萎縮していくのを感じました。

--日本のマスメディアについて、大鹿さんはどのような見解をお持ちですか?

大鹿 もともと日本のジャーナリズム全体を見ても、プロフェッショナルで生きていくというのは意外と少ないんです。というのも、40歳になると、中間管理職のポストがあって、マネージメント側に回らないといけない。ライターはいつまでたっても若い人がやっていく。若い人が短いインターバルで担当部署を移動するので、専門性を深めるまでには至らないし、経験が少ないため役所や企業にまるめこまれてしまう。耳学問で、浅い取材から脱却できないというジレンマに陥るのです。
 また、マネージャーになっていく層も、マネージメントの教育をまったく受けていない状態で、会計用語も知らずに役員になって初めて学ぶという人も少なくないわけです。結局、記者もマネージャーも総アマチュアが生まれてしまうということになります。
 これが2005年の社長失脚、交代とともに、少しは変わっていきました。
 現社長の秋山耿太郎が「ジャーナリズム宣言」をして以降、本業のジャーナリズムを大切にしようというムードは出てきましたね。 
今後の課題としては、プロフェッショナルライターやエディターを増やしていかないといけないでしょう。現在朝日でも編集・出版部門は2000人くらいると思いますが、本当に書ける記者は数パーセントしかいません。
 また、間接部門のコストが高すぎるのも問題です。50代で年収2000万円以上ももらって、コストを押し上げている人たちがゴロゴロいる。意思決定に時間がかかり、小回りが利かない。全般的に高コスト体質をなんとかしないといけないとは思います。

--大鹿さんは現在も現役で記事を書かれていらっしゃいますよね。

大鹿 私は現在44歳ですが、万年ヒラ記者です(笑)。ただ、同期前後を見ると、40代でマネージメント側に回る人間がほとんどです。そうなるとやはり、その上役の顔色を見て仕事をするしかなくなってしまう。
 もともと、弊社は東大出身者の比率が高い。社内調整は非常にうまいけれど、コンテンツを作ったり編集したりするのが苦手な人が多いんです。会議で立派なことを言っても記事が書けなかったり、新聞評論はできても取材ができなかったりする受験エリート出身の人が多いんです。
 入社したときから、そうした違和感はありました。社内で浮いているのであまり社内の人間と飲みに行くことはないんですが、送別会などで、先輩方と飲みに行くと、決まって話題の80%~90%は社内の組織や人事の話ですから。
 AERAには自ら希望して移りました。新聞記者時代、書き足りないという思いが強くて、もっとアウトプットできる場が欲しかった。そこでAERAだったら数ぺージの枠で思う存分書けると思ったんです。
 ところが、実際に入ってみると、毎週2~3ページを作るという作業は思いのほか大変でした。新聞だと、持ち場がかなり細分化されているので、自分の持ち場のエリアで起きたことだけを担当すればいいわけです。一方雑誌は、自分で引き受けなければいけない間口が大きい。かなり広範囲なことを週代わりでやらないといけないんです。AERAに移動した当初は、基礎的な知識や人脈が脆弱な状態だったので、非常にまごつきましたね。

--ブログなど個人メディアの台頭について、どのようにお考えですか?

大鹿靖明大鹿 一番感じるのは、インターネットメディアが出てきて、広告収入の減退、部数の低下などが顕著に現れてきている点です。
 ただ、いまだ、インターネットの世界のオリジナルメディアは玉石混交のように思えます。
 中には経済学者の池田信夫さんのブログのように、訴求力もあり、興味深いものもありますが、今のブログの限界はあまりにもパーソナルな個人に依存しているところではないでしょうか。その人の見解や感想の域を出ていないものが多いです。
 多方面を取材し、立体的に記事を作り上げるというのは、ネットメディアでもまだ成功しているところはないように思います。逆にそこがわれわれマスメディアの優位特性なのかもしれません。
 ただ、インターネットで動画を見る機会は増えましたね。YouTubeでマイナーなロックミュージシャンのモノクロ映像などが上がっていたりして、こんなものまで見られるんだというのは、新たな発見でした。
 ニュースも、自分の必要なテレビニュースをインターネットで見ることが増えましたし、朝日新聞や時事通信のニュースは携帯でチェックしています。
 ふと、堀江さんがフジテレビを傘下に収めていたらどうなっていただろうかと思うときがあります。オールドメディアとブロードバンドの融合。問題提起は悪くなかったと思います。ただ、それをどう接着していくか、そのやり方が拙速だったのかな、と。
 これから、個人のメディアが台頭してくなかで、われわれマスコミも取材能力や、原稿執筆能力の技術を向上させ、ものの見方を深めないといけないと思います。

--今のライブドアについて、取材対象としてはいかがでしょうか?

大鹿 正直、関心が薄らいだというのはありますね。今朝、妻に「今日はライブドアの取材なんだ」と言ったら、「え!? ライブドアってまだあったの?」と(笑)。
 世間一般の印象はそんな感じなのかもしれません。
 一連の取材が終わったあと、ちょうど半年前くらいに、役員の落合さんから昔話を聞いたんですが、ライブドアは変わったなという印象を受けました。
 例えば、広報立会いの取材なんて、以前のライブドアではありませんでしたから。広報を通さずに取材をしても、文句を言われませんでした。それがいいかどうかは別にして、当時のライブドアは、みんなが会社という枠の中で遊んでいるような、自由奔放な雰囲気が魅力でもありましたね。それが、いまや普通の会社になったな、と。
 これで、再上場でもしてくれたら、また取材意欲がわくと思います。


大鹿靖明(おおしかやすあき)
1965年生まれ。朝日新聞出版「AERA」記者。
ヒルズ黙示録 検証・ライブドア (朝日文庫)」、ヒルズ黙示録・最終章 (朝日新書)」など。