2009-12-17 江藤淳の暗さ
江藤淳が夫人を殴ったことが書いてある「日本と私」を読んだ。これは1967年に三カ月『朝日ジャーナル』に連載され、中断したもので、単行本に収められていないのみか、自筆年譜からも抹消されていた。2001年にちくま学芸文庫『江藤淳コレクション』2に入ったのだが、180ページとかなりの分量がある。
先日来、中島ギドー『ウィーン家族』とか仲正昌樹『Nの肖像』とかを読んで来て、やはり江藤が自殺しているということもあって、これがいちばん不気味だった。これは64年の米国からの帰国から、65年の山川方夫の事故死までを描いており、なぜか山川が「Y」という具合に、みなイニシャルで書かれている。
私は修士論文を書いたころちょっとした江藤淳マニアで、古書店で『夜の紅茶』『こもんせんす』とか、果ては全四巻の『江藤淳対話集成』まで買い込んでいたのだが、これと『三匹の犬たち』とか『一族再会』とか、江藤が身辺や家族のことを書いた随筆は、いずれも独特の暗欝さを持っていて、何ともやりきれず、『夜の紅茶』と『こもんせんす』は売ってしまった。
死して十年、「江藤淳論」は書かれているがまだ伝記はない。江藤はかなり詳しく自分について語る人だが、その割に隠されていることも多く、「日本と私」が未完とはいえ単行本に入らなかったのもそのせいだろう。妻を痣ができるほど殴り、しかもその間犬が吠えかかったというから、何度も殴ったことになるが、それは山川が交通事故に会う前日なので、2月18日の夜のことだ。だがその原因は書かれていない。昼間は二人でミュージカル映画を観に行き、江藤が大声をあげて笑っていたのに、映画館を出てみると妻は疲れ切った顔をしていたという。
ここに描かれていることで一番大きいのは、実父との複雑な関係である。江藤は幼くして実母を亡くし、父は再婚して弟妹が生まれている。そのことが複雑さを招いているのだろうが、それを江藤は全的には語らない。父を憎んでいるというのでもなく、疎ましく思っているふうに描かれている。それはまるで、『成熟と喪失』の、子が成長して旅立っていくのを嫌がる母のようなのである。かといって、父が江藤をかわいがったというのでもない。さらに江藤は、義母に対する感情をほとんど描いていないから、余計に分からない。
江藤の妻は、病弱なのか、『アメリカと私』で、米国到着後いきなり激しい腹痛に襲われるさまが描かれていたが、その後もそういうことがあったようで、帰国後も蕁麻疹や霜焼けに悩んでいる。江藤はずいぶん若くして、同年の妻と結婚しているが、その経緯が描かれたのはまだ読んだことがない。夫人は慶大卒業後、高校教師でもしていたのだったろうか。ここで江藤は、カネがないことを憂えていて、それだけならほかの文学者にもあることだ。だが不思議なのは、夫人が働くという話がまったく出ないことである。江藤はここで、夫人が割烹着を着て働いていることが嬉しいと書いているから、江藤の意向だったのだろうか。
幼くして実母を亡くし、義母が来たといえば、志賀直哉がいる。しかし志賀と江藤は、何かひどく対極的である。鶴田欣也もそうだが、これは米国留学中に父を失っている。江藤は家に住むための借金の保証人を、嫌々ながら父に頼む。ここで、夫人の父に頼む、という発想はないようだ。夫人の父は関東州長官だった三浦直助である。江藤はこの人のことも書かない。江藤が描く夫人は、まるで孤児のようだ。江藤夫人の母親も戦後49年、夫人が中学生のころ死去して父は後妻を迎えているから、江藤と似た境遇ということになるが、江藤のように後妻に弟妹ができたというのではないようだ。
江藤は慶大時代、西脇順三郎に嫌われたというが、教師が学生を嫌うといっても、その嫌い方はすさまじく、いったい江藤に何があったのかと思うほどである。
全体として、江藤は、戦前的な家長として振舞おうとしている。その一方で、近代的な個人であろうともしている。家族が鬱陶しいというのは誰しも感じることだが、やはりこの場合、夫婦ともに実母がいないということが、ある陰惨さの理由であろう。