NaokiTakahashiの日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

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2009-12-17

どっちが誤読だかね。

Apeman 「法的に規制容認論には違いない」 なにこの無意味カテゴライズ? 刑法230-232条とか刑法175条を容認するなら「法的には規制容認」かw

なんで条文の番号で書くんだろw刑法230-232条といえば「名誉毀損罪」(と侮辱罪)、これは名誉権との衝突が問題になっているのであって、表現の自由が否定されているわけではない。今回、反規制派のたぶんほとんど全員が「直接具体的な人権侵害でない限り」ということを断っていて、本来なら誤読しようがないはず。というか、当のエントリコメント欄でその議論やってるだろうに。それを意図的に無視して誤読してるのはどちらだろうね?

で、俺は再三言ってるとおりわいせつ規制には全面的に反対している(刑法175条はわいせつ頒布罪)。いずれ廃棄されるべき条文だと考えている。わいせつ規制の文脈から表現規制正当化を図るのは、つまりまさに道徳規制論者です。また証拠がひとつ積みあがったねえ。

tari-Gtari-G 2009/12/17 18:55
余計なことだと思いますが、議論の見通しが少しでも良くなればと思い、読者に向けて若干整理的なコメントをさせてもらいます。

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まず、人権の制約の一般的原則というものがあり、主として「公共の福祉」論で語られますが、現在では、基本的に、人権の制約とは具体的な各人権の衝突を調整するためのもので、つまり、制約の根拠は各人権に、その性質から必然的に内在されているのだとする考え方が有力です。

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そして、ここでのテーマですが、A「名誉毀損罪や侮辱罪」も、B「わいせつ物頒布罪」もどちらも表現の自由への制約と見るのが一般的な理解であると思います。

両者の一番大きな違いは、保護法益が、Aは個人的法益であり、Bは社会的法益であることでしょう。

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Aについては、保護法益が「個人の名誉」という個人的法益であり、「名誉権」と「表現の自由の権利」という対立する具体的な人権間の調整という意味で、規制自体の必要性にはあまり争いがありません。つまり、名誉の問題は、表現の自由に予め内在されている問題だと見る訳ですね。

ですから、NaokiTakahashiさんが、「これは名誉権との衝突が問題になっているのであって、表現の自由が否定されているわけではない。」というのも、私は「名誉の問題は表現の自由に元々内在している制約であり、表現の自由に基づく問題で、個人の権利ではなく社会道徳等漠然とした集団的利益による外在的な論理から制約しようとするものではない」という文脈で述べられているのではないかと理解しました。

なお、名誉毀損罪や侮辱罪については、刑事法による規制は行きすぎだという意見は根強くあります。

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一方、Bの「わいせつ物頒布罪」の場合、保護法益は、個人的法益ではなく、性道徳などの社会的法的だとされています。つまり、社会道徳等漠然とした集団的利益を措定し、それを背景に規制するわけですから、基本的には、対立する人権の調整という形にはなりません。つまり、現代の標準的な人権制約論である内在的な制約論にはなじみにくい構造になっています。

そのため、「わいせつ物頒布罪」は全面的な違憲論が昔から有力です。私もそのように考えています。

(ちなみに、有力な違憲論者の奥平康弘の証言が↓で読めます。とてもおもしろいですよ
http://www.geocities.co.jp/AnimeComic-Tone/9018/shoubun0714-06.html
http://www.geocities.co.jp/AnimeComic-Tone/9018/shoubun-index.html)

NaokiTakahashiNaokiTakahashi 2009/12/17 19:17 なるほど、「表現の自由に元々内在している制約」という言い回しが正しいわけですね、了解です。

で、わいせつ物頒布罪の条文と運用を無謬の前提にして論じられたら、まあお手上げですな。そういう意味でキンタマ握られてるってのは、議論の最初期に指摘はしていたつもりだったのだけど、結局そこに戻るのか、と。脱力。

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