|
||
http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20091216/p1で提示されている「証拠」を検証する。股引用になるけど。
ちなみにここで言われてる差別的表現ってのは、陵辱エロゲを含むからね。議論上。
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20091004
このように、法は技術的制約ゆえに目指された正義とズレてしまうのが不可避です。だからこそ、法と正義の隙間を埋めるための、真剣な思考と実践が要請されるのです。具体的には、数々の差別的発言・差別的実践に対して、できる限り多くの怒りを表明すること、できる限り多くの反差別発言をもたらすこと、できる限り多くの反差別的実践がなされることが要請されています。差別をなくすことができないとしても、差別と戦うことはできるし、差別がもたらす悲惨を減らすことができるし、差別される人々を勇気づけることができるし、差別に対して共に戦うこともできます。それを実際になせばよい。少なくとも、それをしてから、後のことを考えるべきです。*2
そして、そのような試みがなされることだけが、「ヘイト・スピーチに対する法規制」のような強権発動の必要性を減らすことができます。あるいは、(強権発動をしない場合には)「表現の自由」のための生け贄を減らすことができます。だったら、最低限、その程度のことはやるべきです。
つまり、そのような問題表現の自由は差別反対運動への参加に紐づけられていて、そのような参加をした場合に限り、法規制の必要性を減らすことができるだけなんだよね(誰がどういう裁量で減らすんだろう?)、必要性があるということは前提になっている。これは法規制が必要だという議論です。
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20090611/p1
つまり、当然表現の自由は原則として保護されるべきであるが、個別的には保護されないものがある。陵辱ゲームが問題になっているのはその個別性のゆえんであって、
はい。明確に、陵辱ゲームは表現の自由で保護されない例外であるという主張です。
(追記)ブコメより。
hokusyu あたまがわるい その 直 前 に 陵辱ゲームも規制されるべきだとは思わないって書いてるじゃねーかw。個別性が問題なのであって一般論で話しても意味がないってか不誠実だっていう意味だよ。
馬鹿なの? ほんとに東大?w 個別性の議論次第では表現の自由がないことを認めるって言ってるんじゃねえかよ。だいたいお前が個人的にどう思ってるかなんて関係ないんだ。決めるのお前じゃないんだから。表現の自由の例外でありうるけど僕は規制しないほうがいいと思うニャー、そんなただの「感想」がなんの役に立つんだよ。表現の自由を認めないってことは、つまり法規制を可能にするってことなんだよ。現に規制論者がいるところでそういうことを認めたら、それは単に規制論じゃねえかよ。
このとおり、Apemanがあげたお二人の文章は、単に彼らが表現規制論者であるという証拠になっていますね。
http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20090602/p1
> 法規制は特定の個人の人権が具体的に侵害される場合に限るべきだ、というのは正論ではある。表現による暴力のうち特定の個人への具体的な侵害になっているものとそうでないものとの間に線をひくことには一定の合理性がある。しかしこの合理性は「ここに線をひけば表現による暴力に効果的に対処できる」という性格のものではなく「これより向こう側に線をひけば弊害がある」という事情によるものだから、「法規制に反対するとして、それからどうする?」が問われることになる。
この文章だけならまあごもっともかなとは思うけどね。「それからどうする?」の議論も、もう半年前にはやってたと思うのだけど。それこそ対抗言論の整備だし、ヘイトスピーチ規制を論じるにしても、単に大局的な社会状況を見て「構造的差別への加担」を言うだけでは十分ではないのは、それこそ地下猫さんとこで、地下猫さん自身が出した資料を参考にして、「サザエさん」やAppのクラナド批判やサドの小説なども絡めて議論を進め、それなりに得るところはあったとは思うんだけど、その時には既に議論からフェードアウト気味だったApemanさんが何故今突っ込みなおすんだろう、とは思う。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006607327/
仮にヘイトスピーチ規制を肯定するとしても、その表現が具体的にどのような状況におかれ、どのように機能したのか、という部分に分け入って個別に考えていかなければならないことであって、「差別的表現」だとか「ヘイトスピーチ」だとか「構造的差別への加担」だとかの大きすぎる区分で論じることは実際的ではない、ということでしょう。
(で、僕は、そうやって具体的な状況においてどのような人権侵害と結びついたがきちんと図示できるのであれば、「ヘイトスピーチ規制」という枠はいらないんじゃないかなと思うのですが)。
そして、表現を置く状況として、書いている内容がすべて絵空事だという宣言である「フィクション」という枠は、まさに長く認められてきたものだと思いますが。