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在日とは在日韓国、朝鮮人の人のことを意味するのはご存知の通り。 戦前は韓国(北も含む)も台湾は純然たる日本で京城帝国大、台北帝国 大学って当然あった。 で、戦後、日本から離れたのは元に戻ったわけだが朝鮮半島は分断 されてしまい、その挙句の戦争の特需で終戦後、経済の発展のきっかけ が掴めなかった日本はこれでは経済成長が始まったといっていい。 敗戦国でも本来ない、朝鮮半島が分断され、敗戦国の日本は分断も なく、おまけにその場の戦争を踏み台に経済成長をした、というので恨み はいやが上にも深まった。 戦前は日本ということだったので当然、戦後も在日は多い。戦後処理 が真の意味で終わっていない(台湾の『帰属』はタブーだったが)と言える。 別に日本人の中でも美人不美人、頭のいい人、悪い人がいるのと同じ でベトナム人でも美人不美人(まあ、一つの例示だが)韓国人でも美人、不 美人がいるので、別に民族としては皆、対等である。あたり前だが。 が、日本人は差別的で内部でも差別意識が強い。ハンセン病一つ、考え てみればいい。逆に外国で差別されているのが日本人だ、という意識、認識 を欠いている。(もう絶版の旧中公新書の名著「排日の思想」を読んでほしい) だが、最近、と言ってもだいぶん前だが福岡の西日本新聞社から再リリ ースされた安本末子さん著「にあんちゃん」またその映画化DVD. 彼女は昭和18年佐賀県東松浦郡入野村生まれ。三歳で母親を亡くした。 四人の兄妹の末っ子で本籍は韓国全羅南道宝城郡の在日だった。 先祖は名門の豪農だったが親友の借金の保証人になって破産。結局、 昭和2年、両親は新天地を求めて北九州に来たが品質の悪い石炭を少量 生産しか出来ない、さえない大鶴炭鉱で父親は働くことになった。臨時雇い の炭鉱夫というわけで赤貧を極めた。 「にあんちゃん」は「今日はお父さんがなくなって四十九日目です」という 文章で始まっている。とにかく全体として虚心坦懐で素直な目線で描かれて いて文句のつけようがない。 その時、長男、東石は二十歳。韓国人ということで臨時ということでしか 雇用してくれない。給与も安い。(映画では長門裕之)十五歳の姉(映画では 松尾嘉代)小5の次男(にあんちゃん)小3の末子が残された。 長男の低賃金では到底、生活できない。一家は生活保護とは無縁。教科 書も買えない。たまたま弁当を持っていく日は、にあんちゃん(次男・高一)が 気を利かして「自分のを持って行け」と言った。(在日だから生活保護は受け けられない) 事態は悪化の一途。住んでいる社宅まで追い出される。知人の家に転がり 込む。しばらくして長男は辺鄙な場所に一軒の炭焼き小屋を見つけ、住みつ く。にあんちゃんは夏休みはイリコ工場でバイト、それも終わると東京にバイト を求めて家出、自転車屋に行って頼み込む。このシーンは映画にもあった。 とにもかくにも貧窮の極の中で淡々と綴られた末子の日記。それを長男が 光人社に昭和32年、郵送した。光人社もしばらくは放置していたが、当時の 神吉(この名前で兵庫県出身者と分かる)出版局長が「あの日記はどうなったか な」と言って持ってこさせて読んだ。読んで「これはいける」と直感した。 「にあんちゃん」という題名も秀逸だった。別にその地方で使われている言葉 ではなく末子が次男を「高ちゃん」と呼んでいたら父親が「にあんちゃん、と呼べ」 と言ったのがきっかけだった。 カッパ・ブックスで出版されたが当初はサッパリだった。が、実際に読んだ人 からの手紙は感激にむせんだものだった。 かくして出版社がハッパをかけているうち、NHKが連続ラジオドラマを始めた。 まだテレビが出る直前のころ。このころまでの連続ラジオドラマは名作が多いが 、スクリプトも素晴しく、読者から「NHKで家族みんなで涙を流し、聴いています」 といって本を購入する人が多かった。 かくして「にあんちゃん」はベストセラーになった。映画化も昭和34年に今村 昌平監督で製作、公開された。今村監督とは思えない、素直な流露感が際立っ た。 母国、韓国でも翻訳され、出版された。が、有名になって逆に嫉妬、中傷も 浴びた。「私は有名になりたくない」と彼女はマスコミの取材を拒んだ「でも生活 が楽になるとは、こんな退屈なことか」と嘆いたという。 光人社に日記を送った長男は「おかげで私はゆっくり療養が出来、健康を取 り戻せ、高一と末子が進学できました」と喜んだ。 安本末子さんは中学から神戸に一家で移った。進学した兵庫高校の担任は 「学習態度も生活態度も立派なもので申し分ありません」と書いている。彼女は 早稲田文学部に、にあんちゃんは慶応大学に進んだ。 彼女は昭和48年結婚、二児の母となった。 1999年の西日本新聞には42年ぶりに育った地を訪れた現姓:三村末子の 記事を掲載した。 「旧大鶴鉱業所(佐賀県・肥前町)の炭鉱住宅を舞台に両親を亡くした在日韓 国人の少女と兄らが懸命に生きる姿を描いたベストセラー「にあんちゃん」の原 作者、三村(旧姓・安本)末子さんが42年ぶりに同町に帰省(現在、茨城県在住) 、町内で開かれた小中学校の同窓会に出席した。(中略)三村さんは中二で同町 を離れ、高二以降は一度も訪れていなかった。今回は還暦記念で同町へ。『家並 みは変わったけど友人との懐かしさは変わらない』と語った。」同時に「にあんちゃん 」の記念碑も訪れた。 私が映画を見たのはリバイバルの昭和37年(34年製作)だった。学校から見 に行った。内容は低学年のせいか、おぼえていない。落ち着いてDVDを見たい。 だが、やはり原作の方が映画よりはずっと良い。 何か歴史的なことを書こうと思ったら「にあんちゃん」のことになった。あの頃は まだまだ貧しい日本だった。私の場合、家庭愛というものが皆無で、何かその点 は羨ましいと感じる。 高三のとき、兵庫高校の校門前で撮った彼女の制服姿の写真が以前のカッパ ブックスから復刊しても載っているが本当に好感の持てる方のようだ。 ヒネて生きるしかなかった私が恥ずかしいと正直思う。でも、「にあんちゃん」を 知る(私も知るにはちょっと遅い世代だったが)人、知っていた人も少なく、また記憶 が薄れてきているのだろうか。が、終生、読んでおきたい本である。 |
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