03/11/04


鹿児島県 知覧町



町に入った途端に道の両側に灯籠が続く 知覧から飛び立った1028人の護国の英霊1028基の
灯籠だ
特攻観音堂に至る約2000メートルの道路両側に並んでいる

鐘楼流しでは無く これぞ 灯籠流しに見えたスクーターで走っていると

特攻隊員の亡霊か?奇妙な光景だった

又知覧には桜の花をこよなく愛した護国の英霊をしのんで桜が多い

知覧町は薩摩半島の南部中央に位置し 東西約9.4km 南北約22.3km 総面積120.19平方km
鹿児島市から約36kmの距離に在る



薩摩の小京都の名にふさわしく情緒あふれる町並みが続く





この特攻平和会館は太平洋戦争の末期、沖縄決戦において特攻という人類史上類のない作戦で
沖縄戦の際には ここから436名の特攻隊員が沖縄海域へ飛び立っていった爆弾搭載の飛行機
もろとも肉弾となり 一機一艦の突撃を敢行した多くの特攻隊員の遺品や関係資料を展示している

知覧特攻平和会館
897-0302
鹿児島県川辺郡知覧町郡17881番地
Tel 0993-83-2525 Fax 0993-83-4859




特攻銅像 とこしえに

画像の戦闘機は ゼロ戦似で 戦後の傑作練習機 T−6G
戦後にアメリカや(日本航空自衛隊)で練習機として使用

第2次世界大戦中 ノースアメリカン社製  
通称 「SJN−4 テキサン」

日本では 「T−6 レシプロ練習機」と言う名称で呼ばれていた


陸海軍特別攻撃隊烈士の不滅と護国の英霊と戦闘機

特攻会館に来て最初に足を踏み入れるのがここ
 

シルバーウィングのゼロファイターとは




日本の撃墜王 坂井三郎氏

大戦中大日本帝国日本海軍に「零戦」と呼ばれる戦闘機が存在した
昭和12年に開発が始められた戦闘機は 昭和15年海軍に制式採用となり
皇歴2600年の末尾の0をもって零式艦上戦闘機と命名

零戦は、日中戦争におけるデビュー戦以来 太平洋戦争(大東亜戦争)全期間を
日本海軍の主力戦闘機として戦い抜いた



目的 攻撃機の阻止撃攘を主とし なお観測機の掃蕩に適する艦上戦闘機を得るにあり

そして昭和十三年一月の官民合同研究会の時に 
敵戦闘機との空戦において 優越せる艦上戦闘機なるを要す

  1. 最大速度   高度4000mで270kt(500km/h)以上
  2. 上昇力    高度3000mまで3分30秒以内
  3. 航続力    正規状態高度3000mを公称馬力で1.2〜1.5時間
           過荷重状態(増設燃料タンク装備)高度3000mを公称馬力で1.5〜2.1時間
  4. 離陸滑走距離 風速12m/sのとき70m以下
  5. 着陸速度   58kt(107km/h)以下
  6. 滑走降下率  3.5m/s〜4.0m/s
  7. 空戦性能   九六式二号艦戦一型に劣らぬこと
  8. 機銃     20mm機銃2挺、7.7o機銃二丁
  9. 爆弾     60kg爆弾2個、30kg二個
  10. 無線機    96式空1号無線電話機1組、ク式空3号帰投方位測定器1組
  11. その他の装置 酸素吸入装置、消化装置、夜間照明装置、一般計器
  12. 強度     急引き起こしの後期:荷重倍数7.0、安全率1.8
           急引き起こしの初期:荷重倍数7.0、安全率1.8
           急降下制限速度の時:荷重倍数2.0、安全率1.8
           背面飛行からの引起し:荷重倍数3.5、安全率1.8





母の像



知覧町 護国神社

当時の旧軍人 知覧町が発起人となって建立された




浄財を集めてつくられた特攻平和観音像 
昭和30年建立

この観音像は大和法隆寺の秘佛(夢ちがい観音)を模造したものであり高さ一尺八寸体内に
特攻勇士の芳名を謹記した巻物が納入されている




三角兵舎の復元

平和会館の右隣りに 復元した三角兵舎がある この三角兵舎は戦時 
知覧飛行場周辺の松林の中に在って屋根だけが地上に出て居る半地下式バラック仕様 
当然擬装されていたが 外から観ると屋根しか見えないので三角兵舎と呼ばれていた
 
内部は 通路を挟んで両側が一段高くなって まるで僧堂の様だ 板敷きの床板
畳一畳の世界で窓は無く風通しが悪く快適とは言えないナメクジ兵舎だ 





白いモヤは・・・?

デジカメのモニターを観てビックリした これは何ぞや?超常現象か?○◎写真か?

すぐに撮り直した一枚↓ 白いモヤは消えていたが 波長が合ってしまったか?




特攻隊員が出撃前夜、今生最後の夢を結んだ三角兵舎

神風特別攻撃隊とは

海軍首脳の計画した特攻の責任者は大西中将である 中将は特攻の命令を出し
若者達を死地に送り続けた

大西中将の言葉とは

特攻は統率の外道である

わが声価は棺を覆うて定まらず、百年ののち、また知己なからんとす

終戦翌日 大西中将は自決した 

国のため、そして信じるもののために命をかけた若者がいた

太平洋戦争終盤 我が国の敗色が濃くなってきた1944年10月17日比島沖海戦 に備え
日本軍はひとつの作戦の実行を決意した零戦に250キロの爆弾を抱かせ敵空母に
体当たり攻撃を敢行する−戦局打開のためにとられた まさに一撃必死必殺の作戦

神風特別攻撃隊の誕生であった 関大尉を指揮官とし23人の未だ酒の味もしらぬ若き
塔乗員によって編成されたこの部隊は比島沖へ 二度と帰らぬ空へと飛び立っていった



出撃前の関大尉



出撃 米空母セント ローに体当り 散華(享年23歳)
ワレ キシュウニ セイコウセリ

戦果では関行男大尉を「世界最初の正式人間爆弾」としている

誇り高き死か 単なる戦争の犠牲者だったのか いまなお涙とともに愛国心と戦争の
悲劇を世に問う神風特攻隊の姿

知覧の特攻会館は後期の本土からの作戦基地




米軍の艦砲弾幕で蜂の巣に 蟻の這い出る隙間も無い空間を250キロ爆弾を抱えて



別れの杯



出撃



体当たり




出撃飛行服に着替え出撃命令を待つ特攻隊員

沖縄戦で戦死した陸軍特攻隊員は千三十六人 このうち朝鮮半島出身者は十一人

特攻隊員最期のは余りにも痛ましい 特攻機の大部分は固定脚の旧式型で ノモンハン事件の
時に使用した旧式が含まれている 

日本陸海軍の精鋭パイロット達は南方戦線で大半が戦死して 優秀なパイロットは皆無だった
沖縄戦では空中戦の経験の無い若者が本土防衛と言う大儀名文だけで出撃して行った

最大速度
350qの旧式機で250キロ爆弾を積載して飛行すると時速300qが限界で 
沖縄海域の米軍機動艦隊迄の距離は知覧から約600キロ 沖縄海域迄2時間余り
2時間の間に人生が終焉を迎える 二十歳そこそこの特攻隊員が

待ち構えている米海軍の主力戦闘機F
6F グラマンヘルキャットの最大速度は約時速600q 
オンボロ戦闘機に最新鋭のアメリカ海軍艦上戦闘機F6F グラマンヘルキャット

コレでは勝負にならない スズメと鷹の戦いで事実 特攻成功は初期の日比島沖海戦ぐらいで
沖縄戦では米軍に先を読まれ 殆ど撃墜されている まさに海の藻屑

旧式戦闘機に滞空時間の短いにわか戦闘員を出撃させた大本営や指令官 作戦参謀は
間違いなく ○ホで有る 特攻は邪道で極まり無い愚策そのものだ

100%目標に
激突出来ないと分かっていながら 将来有る若者を死に向かわせた責任は重大だ

日本陸海軍の特攻機の命中率はわずか13%にすぎなかった




出撃前夜に女子挺身隊からの贈り物に喜ぶ 特攻隊員

沖縄戦では この知覧基地を主軸に万世 都城基地などから出撃し 1035人の隊員が戦死した
期の時 彼らは さようなら と飛行機の翼を上下斜めに降りながら
地上の人々に別れを告げて開聞岳上空に消えていったという

特攻隊員の英霊コーナーには 1035柱の隊員の写真が出撃した月日の順に掲示されている
特攻隊員たちが家族友達に送った手紙 遺書 辞世寄せ書き 絶筆等が展示されている

遺書 手紙等観ると 必ず始まりは お母様で お父様とゆーのは少ないこれは如何に母親が
頼りに成るかの表れで男より女の方が つおい 男は子供から観れば・・・

子供を産んだのは母親やさかいしゃあ無いか 無念

しかし特攻隊員の手紙 遺書は達筆で驚いた 現在ではこうしてパソコンで字が書ける
殆ど手紙を書く事は無いし 電子メールで事が済む時代

二十歳そこそこの若者が人生に達観した文面を書けるとは 驚きの連続やった




陸軍4式戦闘機 疾風

中島 キ84 4式戦闘機「疾風」1型甲
設計主務 小山悌技師
用途 重戦闘機
型式 低翼・単葉・固定脚
乗員 1
発動機 ハ45-21 空冷式複列星形18気筒、基数1
     離昇出力 1,860hp/3,000rpm
     公称出力(1速)1,860hp/1,750rpm/3,000m、同(2速)1,620hp/6,100rpm/3,000m
全幅 11,238mm
全長 水平 9,920mm
全高 水平 3,515mm(尾翼先端)
主翼面積 21.00u
自重 2,690kg
全備重量 3,750kg、過荷重 4,405kg
燃料 翼内前縁 134リットル(航空92揮発油)
    翼内中央 346リットル
    胴体内 217リットル 
    落下式増槽 200リットル×2
    メタノール 40リットル
武装 胴体 ホ130固定機関銃 12.7mm×2(各々350発)
    翼内 ホ5固定機関砲 20mm×2(各々150発)
    爆弾 250kg×2
性能 最大速度 624km/h/6,500m
           687km/h/6,100m(米軍140オクタン燃料/点火プラグ使用)
    巡航速度 380km/h/4,000m
    着陸速度 138〜142km/h
    上昇時間 6′26″/5,000m(1,200m/min/S.L.)
    実用上昇限度 12,400m
    航続距離 (正規)1,000km+空戦3

知覧基地には飛行第103戦隊の疾風40機が駐留し 特攻機の直掩 誘導や迎撃にあたった
一部徳之島基地駐留

 沖縄戦では特攻機として使用され 宮崎県都城東・西基地を中心に出撃し 118機が未帰還
うち知覧基地から4機出撃し2機未帰還

 この「疾風」は 昭和20年1月フィリピンに進攻した米軍が完全修復し その後米国の私設航空博物館
に払い下げられ 昭和48年里帰り飛行を行った後 日本へ買い取られ栃木県宇都宮 京都嵐山美術館
を経て知覧特攻平和会館へ展示





海軍零式戦闘機 いわゆる 米軍に恐れられた ゼロファイターである
この零戦は 昭和20年5月甑島の手打港の沖約500メートル、水深約35メートルのところに
沈んでいたのを知覧町が昭和55年6月引き揚げた

 機体は35年間海中にあり 無残な姿であるが 往時をしのぶ姿をとどめている
機体は旧海軍の52丙型で大戦末期の改良型で 20ミリ機関砲2 20mm機銃弾を100発から150発
13ミリ機関銃2を装備。20mm機銃弾を200発




三菱零式艦上52丙型(三菱A6M5)

エンジン 中島 栄21型 1,130馬力 空冷二重星型14気筒
プロペラ ハミルトン定速3翅 直径3.05m
全幅 11.00m 
全長 9.121m
全高 3.57m
翼面積 21.3u
重さ 自重 1,894Kg 全備重量2,743Kg
最大速度 559km/h(高度6,000m)
実用上昇限度 11,740m
航続距離 1,550km(正規) 燃料 570L+320L
武装 7.7mm機銃 2丁 (各々200発)
20mm機銃 2丁 (各々150発)
爆弾30Kg又は60Kg 2発
無線機 九六式空一号無線電話機 一組
ク式三号無線帰投方位測定機 一組





この左翼に在る20ミリ機関銃は正確には 20ミリ機関砲で当時の戦闘機には搭載が
希で破壊力は抜群であった 看板の間違いを指摘すべきで有った・・・?





零戦の計器板(複製)





炭酸ガスボンベは火災消火器





コックピット 操縦レバーに フラップのラダーペタル スロットルレバー 車軸格納レバー





10気筒レシプロエンジン





零戦の腹に抱える250キロ爆弾 ゼロ戦爆装


   

38式歩兵銃                      死亡通知書




B29空飛ぶ円盤イヤ 空飛ぶ要塞に体当たりを遂行して撃墜に成功した 野辺 高木両隊員
正に特攻精神 肉弾戦術 大和魂 一億総玉砕魂 アメ公は恐れおののいたコトだろう

ちゃんとB29の死角からの攻撃 B29の乗組員はビビッタはずだ!

   

明治時代の帝国海軍の制服                 飛行服

   

銃剣                        機関銃の弾倉

   

軍刀                           大東亜戦争の支配地図

   

飯盒 水筒 弁当箱                    穴の空いた鉄兜

   

日の丸寄せ書                     映画ほたるの石碑

特攻会館に興味の在る人は是非 鹿児島の知覧町に その目で確かめて下さい!
知覧は良い所です 情緒が在る




知覧町の武家屋敷通り

鹿児島らしい薩摩隼人の雰囲気で 薩摩の小京都と讃えられる知覧町

質実剛健な鹿児島の風土にあって その優美さは格別の感がある 
金沢の武家屋敷とはまるで雰囲気が違う




枯山水の庭が全ての屋敷に在る

知覧第18代邑主 島津久峯(1732〜1772)は、かねてより書を嗜んでいたところ
江戸往復の折り京都の青蓮院家に入門し、書の修行に勤しんだ

そして久峯に扈従した家臣らも京都の文化にふれ 名園に感動、京文化にならい
庭園は『母ヶ岳』を借景とする枯山水様式の庭園を持つ屋敷を築造したといわれている





茅葺きの屋敷で昔は皆 こうゆー所に住んで居たかも 多分





居間と台所と小部屋が在る位で現在の住宅とは大違い 暖房設備は囲炉裏だけで十分
薩摩は南国で暖かい





こっちにも囲炉裏が ぶら下がってるんは尺八と思いきゃ 一輪挿しか?
裸電球が懐かしい 柱時計も





余りにも綺麗な竹林だったので一枚 京都の嵯峨野みたいやで




指宿スカイラインから見えた西日本最大の石油備蓄タンク群

途中九州自動車道で えびのIC向かってる時にバックミラーを見ると白い乗用車が
何時の間に来たんやろ 速度は110キロ 30キロの速度違反

本能的に覆面と判断 しつこく追尾して来る 90キロ迄減速した所で追い抜いてIC
に出て行ったが 白のスカイラインGTR

ココで注意事項が 出て行ったフリをして即戻って後ろを捕られる可能性が在るので
注意





えびの高原途中の神社の紅葉 画像をゲットする人達で賑やかな
これから上へ行くと紅葉どころか 落葉でコーナーでは枯葉でタイやが滑らない様に注意した

しかし寒い 標高800メートルを超えると下界仕様の服ではたまらん寒さやで




えびの高原の全景

霧島連山に囲まれた標高1200mの高原 平均気温20度 春のミヤマキリシマ
夏の草木の緑、秋のススキと紅葉、冬の樹氷と四季折々の自然がすばらしい

ススキは毎年8月下旬になるといっせいに えびね色 に変わり 韓国岳(からくにだけ)
中腹から見ると赤いジュウタンを敷き詰めたようになり 絶景となる

これは噴出する硫気により変色するためで ここ えびの の地名もススキが一面のえびね色の
野になることから名付けられたものと言われている





そうやで今頃気ィ付いたが 今日は理事長屋の43回目の誕生日やないかえ 一人
寂しく えびの高原を散策かぇ 孤独やな 孤独 孤独を楽しむのも又一興

薩摩揚げで43回目の誕生日を祝うか 土産モン屋の店で薩摩揚げを


 
ううっなんちゅう味やな 甘い 揚げモンが甘い 喰えやんでこらぁ
500円も出して買うたのに 帰って一週間後 スクーターのトランクの中で
薩摩揚げ発見!即 ゴミ箱行きに

韓国岳は霧島連山の最高峰である 山頂はすり鉢状の火口になっていて噴火当時の
すさまじさが残る山腹からは至る所で硫黄が噴出している

高千穂峰 大浪ノ池など霧島連山の絶好の展望台で はるかに噴煙を上げる桜島を
望むことが出来る

霧島火山群は長径約20km 短径10kmの楕円形の地域に大小20を越える火山が連なった
一つの複合火山であり 標高1,700mの韓国岳はその中央部に位置し 霧島連山の最高峰




土産モン屋発見 
おおっ カズラのカゴやなが 何処にでも在るで

赤松などの原生林が残る高原の標高は1200m 春は天然記念物ミヤマキリシマ
秋は紅葉と大自然が満喫出来る

南国では珍しい樹氷が見られる冬には人工スケート場もオープン




韓国岳(からくにだけ)

真中に窪んでいる所が火口後 直径900m幅深さ300m頂上は直径900mのほぼ円型の
火口があり 内壁は断崖絶壁で西側が爆裂火口のため破壊されている
磐梯山によう似てるで ホンマ!

韓国岳からの展望は素晴らしく 特に新燃岳を前景に御鉢 高千穂を望む景観は
良く写真に写されている





遠く韓国まで見渡せるという意味から山の名前が・・・
 付いたとゆう伝説か 何ぼ何でも韓国は見えやんやろ・・・?天体望遠鏡でも・・・?




六観音池

水深は14m 酸性湖のためにコバルト色綺麗やった 俗称霧島四十八池のなかで
もっとも美しい池とされている 池の周りはカエデ ナナカマド モミ ツガが多く

六観音御池の湖畔には六観音堂が佇む 伝説が紹介されていた 
村上天皇の時代(926年〜967年)に、性空上人(仏教と神道を併せ持つ修験道の開祖の一人か)
がこの六観音御池の湖畔で法華経の読誦をしていると
忽然と白髪の老人が現れてこう言った


我はヤマトタケルノミコトである
白鳥と化してこの峰に住むこと久し 今 師の読誦苦行と徳に感応して身を現すものなり」とあの
ヤマトタケルノミコトが現れた そこで上人は湖畔の出現場所にお堂を経て
中に手彫りの六観音を安置したと伝えれている 

    

 読んでくらはい                       ハルリンドウ 
 



展望台の正面には 韓国岳が眺められ 得に秋は対岸の紅葉が湖面に映えて素晴らしい景観




千里ヶ滝

えびの高原から霧島スカイラインを下り霧島神宮方面に向かう途中に 滝の看板
発見
自然と右折して林道を2キロばかし走ると滝が在るハズやが無い どうやら滝までは
自力で辿り着くんやな
それにしても がいな坂やし迷いながら降りて行った メットを被りながら 下から
上がって来た夫婦はヘトヘトで 青色吐息

オバハンに情報収集するが 凄い綺麗な滝でしたと
ほんまかいな 嘘ちゃうやろな 違いますょと

ほな行かなアカンな 行こか

行ったはエエがこの坂道を登るんは大変やで 斜度30度
スキーでゆーたら急斜面 上級者コースやで





分かりにくいが この急勾配





登りの階段 ヘルメット着装で死ぬ程しんどいで 駐車場に辿り着いた時には座り込んで
しまったし 頭が放心状態で グローブを忘れてしまった

気が付いたのは 遙か都城やった ショックやで
この滝のせいで帰ってから3日間 強烈な筋肉痛に襲われた




宮崎の青島

島の周囲約 1000メートル 面積 13、479坪

はるばる来たで青島 鬼の洗濯岩とはこの事か 日南海岸国定公園 眼前には雄大な
太平洋が広がり 潮騒の香り音を五感で感じる理事長屋 光太夫

周囲の岩盤は 新第三紀(2400万年から200万年前迄)海床に堆積した砂岩と泥岩の
規則的互層が傾き〔走向北三十度東、傾斜二十度東〕海上に露出し 波浪の浸蝕を受け
堅さの違いにより凹凸を生じたものである

岩上には、ひびや断層が多く団塊(だんこん)や浸蝕による蜂こうがみられる

青島の隆起海床と奇型波蝕痕 昭和9年5月1日国指  






鳥居の前の人力屋のおっさん 暇そうなんで画像に入って貰ったとゆーより
入りたそうな顔してたんで 入れちゃったんよ

ポーズを決め 余裕の在る表情だ 伊達に洗濯岩を毎日拝んでる訳では無い
洗濯してたりして・・・?毎日?


   

青島神社

七福神の紅一点で、その美しい御姿から 愛情と親切心を表わす神と言われ インドでは水の神
と言われているだけに 我が国でも、海辺で多く祀られている

 青島の弁財天は、彦火々見命が海積宮より還幸の縁起もあり この島に祀られて 竜宮の琵琶の
音と寄せ来る波の音から音楽の神 又 その御姿から 美貌と才智をもたらす高貴な神とも言われ
江の島の弁天様と共に 青島の弁天様として 福徳大いなるものあり

 天孫瓊々杵命の皇子彦火々見命が海積宮から御還幸の際の御宮居の跡として 三神を奉祀し
国司巡視記「日向土産」(平安朝)に「嵯峨天皇の御宇奉崇青島大明神」と記されており

文亀(室町時代)以降は 藩主伊東家の崇敬厚く 明治以後は御祭神の御威霊を仰ぎ
熱帯植物繁茂する国内絶無の霊域を訪ね 縁結 安産 航海 交通安全の神として
四季参拝者絶ゆることなし





何かおかしいで 写真で観る洗濯岩ちゃうで 潮のせいやなこりゃあ潮が満ちて来たんでやな
大潮の昼間やったら がいなコト洗濯岩出てるやろな ちょっとショックやなココまで来たのに





何とかそれらしい岩を発見し画像をゲット こうゆーんが沖まで連なってるんやな
完全な形の岩を眺めながら 次はシーガイヤ行かな 時間も午後4時過ぎやし
帰りのフェリーは7時出航やし 日ィ暮れてくるしで

理事長屋の旅は何時も急ぎ旅と相場が決まっている





世界最大の室内ウォーターパークの中央に広がる海「グレートバンク」をはじめ
流れるプール「ドリフトウッズ」、スリル満点のスライダーなど南海の楽園


   

地上141m シーガイアの中でもひと際目立つ三角柱の建物は宮崎のシンボルタワー的存在
ここの展望フロアからは 九州最高層のオーシャンパノラマビューが広がる
拝観料 500円ナリ!

地下1階から地上43階まで直通のシースルーエレベーターも楽しみのひとつ
特にこのエレベーターは揺れも無くスムーズに一分程で43階に到着する優れモノ

ホテル内のロビーやアトリウムなどゆとりある空間も心地よい

   

ダンロップフェニックストーナメントの会場

ヤバいで日ィ暮れて来たでホンマに 和歌山やと太陽は海に沈み見事に消えて夜になるが
宮崎では何と陸に沈むがな 晩になれへんで 太陽の火ィ消えるんかな マジで?





ダンロップフェニックストーナメントの会場 と長い海岸線





ええ〜雰囲気のラウンジやがな 姫と来たらええやろな
ココで愛を語り合い一杯ひっかけて 43階の展望台へ 部屋は当然スイートルームを
チャージする

燃え上がる二人 理事長屋さん あたし少し酔ったみたい 躰を預けに来る姫
すかさず姫の肩を抱く理事長屋 光太夫 ええ雰囲気になって来たでぇ
何十年ぶりやろか?忘れかけてた感覚が今蘇る

バックミュージックは ♪ビバルディー♪

脳みその片隅で自然消滅しかかってた感性が

そろそろ 姫をエスコートして最上階のスイートルームにいかなアカンな・・・

うわっ!アカンがなアホな空想してたら フェリーに乗り遅れるで 行こ 行こ
理事長屋には間違てもそんなコト無いわ一生涯 人畜無害やで!!

さて帰りのフェリーでの二等客席を確保するかどうか走りながら考える 取り合えず
タコ部屋料金で行って ドライバー室に潜り込む作戦にするか

出たとこ勝負でどうにかなるやろ まさか命まで取られへんやろし


   

ドライバー室の食堂 トラック野郎が宴会してた現場を後で観たが凄い酒の入れモンやないかえ
6人で焼酎とビールと酒こんかい呑んだら明日は完全な二日酔いやで 多分 ええんかいな?

同じくドライバー室の共同風呂 一般とは作りも形も一緒 サウナも完備している
水面に注目 船が揺れているのがお分かりかな?





無事部屋に潜入 これで帰りも快適な船旅が送れると安心して食堂のレンジでコンビニで買うた
中華丼を温めて食べてた所に 野郎が来たがな アカンがな 丼の食いかけ持って部屋を移動
する

よっしゃ仕切直して丼に食らい付くが バッタンとドアが 又来たいしょ 今日はどなえなってるんや
又移動するコレで3回目やで 今度は バッタンとドアやがな

アカンがな・・・又移動するが・・・ 丼は冷えかかってるし 早よ喰わなアカンな 又誰ぞ来たら行く
所無いがな・・・
唯一空いてる最後の砦やでココが・・・ バッタンとドア 来た〜っ コレでゲームセットやがな

移動する事4回 その距離約50メーター 最後にはデッキの上に弾かれてしまった理事長屋

肉布団さんとは午後6時からメールを交換しているのでケータイで状況を打電するが
肉布団さんはフェリーを夜行列車と間違えているらしく 状況は複雑だった・・・?

ドライバー室を確保したら デッキの上でパナマ産の上物の葉巻を吹かすつもりが逆に弾かれて
デッキの上で路頭に迷うハメになったがな 世の中上手い事行かんなぁ〜

冷静に状況を分析してみると 行きは大阪〜宮崎間はトラックの数が少なかったな 確か部屋も
まだまだ空いてたし

この宮崎〜大阪間は乗船するのに時間が掛かったちゅう事は トラックが多かったちゅう事やな
理事長屋見事な分析である

流石都会行きはトラックも人も多いちゅう事が判明した

船の店員にゆーて二等寝台でも確保せな ちょつと兄ちゃん二等寝台で空いてる部屋無いかぇ?
無理ゆーて悪いんやが 一人になれる部屋で頼むで

部屋の大福帳で調べる店員 偉いさんと二人で28番が空いてますと 理事長や>一人だけかぇ
店員曰く>そうです

よっしゃソレで行こか 何ぼな? キャッシュで払うで! 1580円で個室確保
肉布団さんに打電するが 肉布団さん曰く>どうせなら理事長さん特等室に潜入して欲しかったと

試みたが しっかりと錠前が・・・



6人部屋を一人占めすることに成功セリ

しかしこの部屋はロビーから二番目の部屋でロビーでの話声が丸聞こえで極めてウルサい
7時頃から 男が女を口説き出した

どうやら関西弁では無いらしいが まぁその内収まると思っていたが 一眠りして目が覚めた
ケータイを時間を見ると夜中の1時 笑い声が聞こえる 夜中に?幻聴か?

あの男まだ女口説いてるで アホちゃうか 何時間・・・6時間やで 6時間掛けてもまだ口説く?
あの◎○ぐらいやったら 2,3分でナシ付けてデッキに誘わんかぇ ワレ 何ゴチャゴチャゆーてんや

寝ようとするがウルサいんで寝れやんで 昨日に続き理事長屋 小噴火する!

ドアー開けて 怒鳴る

 おんしゃら何時やと思うてんのや エエ加減にせんかぇ 寝やれやんや無いけ アホんだら〜!

恐るべし 海南弁

事実迷惑で周囲の部屋の人は寝れやん人も居たハズやが
人助けちゅうモンは気持ちのええモンやな・・・?

2時頃便所に行ったが 今度は理事長屋の部屋から一番遠いテーブルでまだ口説いてたで
ヒソヒソ声で やっぱしアホやで 一目 目で挨拶して便所に


   

03/11/5 午前6時の夜明け

後一時間で南港到着 何とかトラブルも無く帰って来たかと一安心する

フェリー代7600円  GS2000円 高速3000円 特攻記念館拝観料500円 書籍500円
土産5000円 昼飯500円(薩摩揚げ)ん〜っマズい 弁当480円 B重油460円
展望拝観料500円

合計20500 円ナリ

総合計35968円ナリ

道中サポートしてくれた エッさん 元帥殿 勇次はん 肉布団さん 桃ちゃん 有り難う!!

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