静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

因果の道理を深信し、日々精進を

2009-12-12 18:28:41 | Weblog
 善因善果、悪因悪果、自因自果、カボチャの種からナスビの芽が出た、ためしがない。まいたタネしか、生えてはこないのです。むろん結果は、ただちに現れるものもあれば、数十年後、さらには、来世に結ぶものもあります。遅速はあっても、いつかは必ず、果報を受ける。歴然として私がない、この因果の大道理を深信し日々精進する、これが仏法者というものです。

 これまで見てきたように、人は皆、夢を現実と思って生きています。夢とはいえ、醒めない夢ならそれは〃現実〃。中途半端な虚無感や無力感に浸っている場合ではありません。

 自分の生み出した世界に生きているのですから、運命は100パーセント自ら作っていくのです。そこに、私は悪くない、悪いのはあの人のせいだ、この人のせいだ、などという自分の思いを持ち込み、因果の道理に反した言い訳や誤魔化しを通用させようとしがちですが、本当のことが分かれば、全くそれは意味をなさないのです。まさに「死んだ子の年を数える」ような愚痴。大馬鹿。

たとえ隠れてやったことでも、心中密かに思ったことでも、すべては業となって残り、いずれ自らに結果を出すのです。他人に見つかった、見つからなかったなど、他人の視線に左右されることではないのです。

この因果の理法を知らず、放縦邪悪の行為をすれば、この世から、恨み、呪いの苦患を受けねばなりません。
それは、自身の破滅のみならず、自分の周囲の人をも悲境に追いやることになるので、よくよく気をつけるべきでしょう。

道路には道路法規という法があり、そんなものオレは認めん!というのも勝手ですが、そんな調子で車を乗り回せば、あちこちで衝突を起こし、泣くのは法を無視した自分です。

仏教で説かれる法は、そんな人間の定めた、そらごとたわごとレベルの法ではなく、三世を貫く、三世因果の法なのです。それを謗り、無視し、ねじ曲げて、どうなるか。法謗罪の恐ろしさを少しでも感じてもらえたらと思います。そして因果の道理をどんどん人に勧めてほしいと思います。

私たちが、この理法に従った言動をもっともっと心がければ、必ず人生は変わるでしょう。自分が変われば、周囲も変わる。ひいては世の中全体が明るくなるでしょう。因果の道理がいかに大切な教えか、どれだけ強調してもしすぎることはないと思います。


さて、最後に、

一人一人が自分の生み出した世界に生きているとして、なぜ、私たちはお互い他者と関われるのか?例えば、自分が樹木を切り倒すとして、自分の心内の木が倒れるのは分かるとしても、なぜ、他人の目からもその木が倒れてしまうのか?この事実をどう解釈するのか、という疑問が残ると思います。

これについては、唯識とよばれる仏教の学問の中で詳細に説明されています。ただそれを書くことは大変煩瑣になります。複雑ですが、唯識をよく勉強しておられる人はちゃんと分かっているのです。私たちとしては、「説明されている」という事実を知っておくだけで十分ではないでしょうか。昔から「唯識3年、倶舎8年」ともいわれて、学びつくすには長い年月がかかるのです。それらの学問をしたとして、その知識が、善因善果、悪因悪果、自因自果、この因果の大道理を深信し、日々精進するという仏法者の生活に収斂(しゅうれん)してくるのでなければ、何のための学問なのか、ということにもなります。自分を飾るため、他人より博学なのを誇示するだけの学問では意味がありません。


ただ、それでは不満な方のために、もう少し説明しやすい科学、主に量子力学の世界から話をしたいと思っています。(つづく)

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