静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

胡蝶の夢

2009-12-07 18:28:30 | Weblog
( Photo by (c)Tomo.Yun ) http://www.yunphoto.net

中国の昔の思想家で、荘子という人がいます。
その荘子の思想を表す代表的な説話に「胡蝶の夢」といわれるものがあります。どんな話か、ここに引いてみることにしましょう。


いつのことだったか、私はうたた寝の夢の中で胡蝶となった。
ひらひらと翅にまかせて大気の中を舞いあるくことの楽しさ。
私は私が私であることも忘れてその楽しみに耽った。
やがてふと目が覚める。私はやっぱり現身の私だ。
 
だが――
この現身の私が夢の中であの胡蝶になったのだろうか、
それともあのひらひらと楽しげに舞いあるいていた胡蝶が
夢の中で私という人間になっているのだろうか。
私が胡蝶なのか、胡蝶が私なのか。
夢が現実なのか、現実が夢なのか……。
 

荘子の思想については、専門外なので詳しいことは言えません。でも、思想的立場はどうあれ、「私が胡蝶なのか、胡蝶が私なのか?夢が現実なのか、現実が夢なのか?」という荘子の問いかけには、誰しもはたと立ち止まって考えさせられるものがあると思います。

現実的に考えれば、荘子と胡蝶とには歴とした区別があり、夢と現実とは明らかに相違しています。荘子は荘子であって、胡蝶が荘子ではありえません。

しかし、そう確信する根拠はどこにあるかといえば、「そうとしか考えられない」ということでしかないでしょう。だとするならば、

ひょっとして、私が現実と呼ぶものも、すべて夢みたいなものではなかろうか?

そう考えてみることも、あながち酔狂ともいえないのではないでしょうか。
もし、自分が、覚めることのない夢をずーっと見続けているとしましょう。その可能性は誰しも否定はできないのですから。

だとしますと、この現実と呼んでいるものと夢とを区別し、現実は夢ではないと科学的に立証してみせたところで、それも夢であるわけですから、ほとんど意味をなしません。

このようなことを言いましたのは、仏教では、私たちは客観的で、単一の世界の中で生きているように思っていますが、実は一人一人が生み出した世界に、一人一人が生きているのであり、またその中でしか生きられない、と教えられているからです。

そしてこのことが、唯物論、霊魂説の両説が乗り上げている暗礁に、別次元から道を開く見解であることを示していくつもりです。
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