静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

唯物論への疑問(3)行方不明になる私

2009-11-27 18:09:10 | Weblog
いきなり気持ちの悪い模型で恐縮です。

私とは何か?という問いに、視覚的な分かりやすさがあるので使いました。

さて、

私というものは、肉体の外にはなく、内に見出せるものとして、それは一体、肉体のどこにあるか?

多くの人は、頭部にあると信じていますが、頭部といってもいろんなパーツからできています。
つまり、頭部=目・鼻・口・歯・下・耳・髪・骨・脳……
この中のどれが私なのか?
多くの人は、それは脳だろうと考えます。それ以外の部位は、私の目、私の鼻という言い方になるように、「私」そのものではなく、「私の所有物」ということになります。

しかし、

脳といっても、やはりいろんなパーツからできています。
脳=大脳・小脳・間脳・延髄・脳幹・脳下垂体……

このうち、どれが「私」なのでしょう?

精神活動の大半が、大脳で司られているそうですから、大脳こそが「私」の究極の本拠地なのだろうという漠然とした思いがあります。
しかし大脳もまた、いろんなパーツの集合体ではありませんか。
大脳=前頭葉・頭頂葉・後頭葉・側頭葉・灰白質……
さて、どれが「私」なのでしょう?

こうなると、だんだん「私」が行方不明になってきます。

それぞれの部位が、さらにいくつもの部位に分けられ、さらに突き詰めれば、どの部位も無数の細胞の集合体であり、その個々の細胞自体が、またさらに分子、原子と分かれるのですから、結局、人体から一切の「私の所有物」を除外し、その末に究極の「私」を見出そうとするやり方は破綻するようです。

肉体は「私」そのものではなく、「私の所有物」なのでしょう。
手・足はもちろんですが、頭部も例外ではなく、「私の頭部」であって、私の所有物に他なりません。

では、その「私の……」と言わしめる私とは?

それともひょっとして、私というものは存在していないのか?

いえ、「私」の存在は、何よりも歴然としているように思われます。

しかし肉体のどこを分解しても「私」を取り出せないとしたら、一体どこに「私」はいるのでしょう?

このように議論を詰めていくと、「私」とは、そんな人体を分解してどこかに見つかるものではないという結論になってきます。

そうなると、「もろもろのパーツの集合体」を「私」と呼ぶのだ、という考え方も出てきます。

確かにそうなのですが、だとすると、また別の問題を引き入れてしまいます。
どういうことか?それは次回に譲りましょう。

では。(つづく)
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