仏教以外の宗教を外道をいいますが、大別して2種あります。
・断見外道──「死後は無になる」という教え。無の見ともいわれる
・常見外道──「死後、肉体は滅びても、常一主宰(固定不変)の霊魂が存続する」という教え。有の見ともいわれる
釈尊ご存命の当時、インドには95種の外道がありましたが、断見外道と常見外道に大別されます。そして、仏教はそのいずれでもないことを明言されたのが、
「因果応報なるが故に来世なきに非ず、無我なるが故に常有に非ず」(阿含経)
というお言葉です。
たった1行ですが、仏教以外の全宗教をなで斬りにした、すさまじい釈尊のお言葉です。
この経文の意味はこうなります。
「蒔いたタネは必ず結果を生ずるから、『死後は無になる』ということはない。固定不変の『我』というものは存在しないから、『死後、霊魂なるものが存続する』ということはない」
この釈尊のお言葉を理解するには、まず、
因果応報
ということをよく知らなければなりません。
これは「因に応じた結果が必ず生ずる」ということです。経験則として、確率的に大体そういうことが言える、という程度の話ではなく、これに一つの例外も認めないのが仏教です。
大体、私たちの一般的な感性からいっても、
1人殺しても、犯人は1回の死刑
10人殺しても、犯人は1回の死刑
100人殺しても、犯人は1回の死刑
1000人殺しても、犯人は1回の死刑
…………
このあとも際限なく続きますが、これでも分かる通り、死んですべてが終わるなんてありうることでしょうか?これは、以前、このブログでも書きましたが、肉体が終わっても、「私」のすべてが終わるわけではないのです。
「因果応報なるが故に来世なきに非ず」という理屈は理解しやすいですが、因果応報ということ自体を本当の意味で理解するのは、大変なのです。
しかも、これ一つ分かれば、後生は一大事と明らかになるのですから、極めて重要な教えでもあります。だから釈尊は45年間、一貫して因果応報を説かれたのでしょう。
ということは、
後生は一大事であると、どうしても認めたくない人たちにとっては、因果の道理は絶対に認められないことになります。一旦認めれば、後生の一大事も否定できなくなってゆき、カルトとか何とかという非難の根拠を失ってしまうからです。
だから疑謗破滅の人々にとっては、因果の道理の誹謗は、言うなれば上陸を阻止する水際作戦みたいなものでしょう。ここを突破され、橋頭堡(きょうとうほ)でも築かれたら、彼らにとっては甚だ都合の悪い事態になるでしょうから、あらゆる手段で攻撃してくると思います。
まあ、この程度のブログで粛々と書いているうちは、無視されるだけでしょうけれど。仏意がどうこうという話ではなく、非難のための非難というのは本当に寂しい話です。
いろんな非難を受けますが、その根っこはここ。
因果の道理は真理や否や。
この最初のボタンを掛け違えたところから、疑謗破滅は起きています。だから、ずっとここを書き続けたいと思います。
さて、因果の道理が広く浸透すれば、三世を貫く生命の実相も明らかになり、世の中の価値観はひっくり返るでしょう。
「人間はただ夢・幻の間のことなり、後生こそまことに永生の楽果なり」
とも、
「人間は五十年・百年のうちの楽しみなり、後生こそ一大事なり」
とも、
「在家の身は、世路につけ又子孫なんどのことによそえても、ただ今生にのみ耽りて是れ程にはや目に見えてあだなる人間界の老少不定の界と知りながら、ただいま三途・八難に沈まん事をば、露塵ほども心に懸けずして徒に明し暮す」
とも、蓮如上人が教えられている通りです。
現実生活の持つ意味が大きく変わるでしょう。
・断見外道──「死後は無になる」という教え。無の見ともいわれる
・常見外道──「死後、肉体は滅びても、常一主宰(固定不変)の霊魂が存続する」という教え。有の見ともいわれる
釈尊ご存命の当時、インドには95種の外道がありましたが、断見外道と常見外道に大別されます。そして、仏教はそのいずれでもないことを明言されたのが、
「因果応報なるが故に来世なきに非ず、無我なるが故に常有に非ず」(阿含経)
というお言葉です。
たった1行ですが、仏教以外の全宗教をなで斬りにした、すさまじい釈尊のお言葉です。
この経文の意味はこうなります。
「蒔いたタネは必ず結果を生ずるから、『死後は無になる』ということはない。固定不変の『我』というものは存在しないから、『死後、霊魂なるものが存続する』ということはない」
この釈尊のお言葉を理解するには、まず、
因果応報
ということをよく知らなければなりません。
これは「因に応じた結果が必ず生ずる」ということです。経験則として、確率的に大体そういうことが言える、という程度の話ではなく、これに一つの例外も認めないのが仏教です。
大体、私たちの一般的な感性からいっても、
1人殺しても、犯人は1回の死刑
10人殺しても、犯人は1回の死刑
100人殺しても、犯人は1回の死刑
1000人殺しても、犯人は1回の死刑
…………
このあとも際限なく続きますが、これでも分かる通り、死んですべてが終わるなんてありうることでしょうか?これは、以前、このブログでも書きましたが、肉体が終わっても、「私」のすべてが終わるわけではないのです。
「因果応報なるが故に来世なきに非ず」という理屈は理解しやすいですが、因果応報ということ自体を本当の意味で理解するのは、大変なのです。
しかも、これ一つ分かれば、後生は一大事と明らかになるのですから、極めて重要な教えでもあります。だから釈尊は45年間、一貫して因果応報を説かれたのでしょう。
ということは、
後生は一大事であると、どうしても認めたくない人たちにとっては、因果の道理は絶対に認められないことになります。一旦認めれば、後生の一大事も否定できなくなってゆき、カルトとか何とかという非難の根拠を失ってしまうからです。
だから疑謗破滅の人々にとっては、因果の道理の誹謗は、言うなれば上陸を阻止する水際作戦みたいなものでしょう。ここを突破され、橋頭堡(きょうとうほ)でも築かれたら、彼らにとっては甚だ都合の悪い事態になるでしょうから、あらゆる手段で攻撃してくると思います。
まあ、この程度のブログで粛々と書いているうちは、無視されるだけでしょうけれど。仏意がどうこうという話ではなく、非難のための非難というのは本当に寂しい話です。
いろんな非難を受けますが、その根っこはここ。
因果の道理は真理や否や。
この最初のボタンを掛け違えたところから、疑謗破滅は起きています。だから、ずっとここを書き続けたいと思います。
さて、因果の道理が広く浸透すれば、三世を貫く生命の実相も明らかになり、世の中の価値観はひっくり返るでしょう。
「人間はただ夢・幻の間のことなり、後生こそまことに永生の楽果なり」
とも、
「人間は五十年・百年のうちの楽しみなり、後生こそ一大事なり」
とも、
「在家の身は、世路につけ又子孫なんどのことによそえても、ただ今生にのみ耽りて是れ程にはや目に見えてあだなる人間界の老少不定の界と知りながら、ただいま三途・八難に沈まん事をば、露塵ほども心に懸けずして徒に明し暮す」
とも、蓮如上人が教えられている通りです。
現実生活の持つ意味が大きく変わるでしょう。