静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

八識(八つの心)

2009-11-22 20:03:27 | Weblog
仏教の根幹である因果の道理とは、

○善因善果
○悪因悪果
○自因自果

のことです。

「因」とは原因。「果」とは結果のこと。
「道理」とは、三世十方を貫く真理。
すべてのことは、「原因」があって「結果」がある。これは億分の一、兆分の一の例外もない大宇宙の真理です。
特に私たちの最も知りたい「幸福」と「不幸」についての原因と結果の関係を、「善因善果 悪因悪果 自因自果」と釈尊は教えられています。「因」とは私たちの「行為」のことであり、「果」とは分かりやすく言えば「運命」のことです。

ということは、

○善因善果──善い行為が、善い運命(幸福)を生み出す
○悪因悪果──悪い行為が、悪い運命(不幸)を生み出す
○自因自果──自分のやった行為が、自分の運命を生み出す

これが運命のしくみと教えられています。


次に行為とは、仏教では

○身業(体でやる行為)
○口業(口でしゃべること)
○意業(心で思うこと)

の三つを言い、これを三業といいます。

これら身口意の三業(行為)が、目に見えず、消えることもない業力となって残ります。これを「不滅の業力」といいます。
この「業力」が因となり、縁と結びついて、自身の運命(結果)を生み出す。
「縁」とは、因が結果を引き起こすのを助けるものをいいます。

例えて言えば、お米の「因」はモミダネですが、モミダネだけではお米にならない。お米となるにはもろもろの条件が揃わねばなりません。この場合なら、土や水、太陽の光や養分など。これら因にはたらきかけて結果となるのを助けるものを縁といいます。

ところで三業でつくった因(業力)はどこに残るのでしょうか。

仏教では心を八つに分けて教えて、八識といいます。識とは心のことです。

まず、視覚とか聴覚とかの感覚も識と教えられています。感覚は5つあると考えられ、それぞれ
・眼識(げんしき、視覚)
・耳識(にしき、聴覚)
・鼻識(びしき、嗅覚)
・舌識(ぜつしき、味覚)
・身識(しんしき、触覚など)
と呼ばれます。これは総称して「前五識」と言います。

次に意識、つまり自覚的意識が来る。
これは前五識を統制し、記憶、判断、思考、命令する心です。

その下に末那識(まなしき)と呼ばれる潜在意識が説かれ、これは自分に執着し続ける心といわれます。

さらにその下に阿頼耶識(あらやしき)という根本の識があり、これが三世(過去世、現在世、未来世」を貫く永遠の生命です。すべての業力をおさめている処だから、蔵識ともいわれます。

この識が前五識・意識・末那識を生み出し、さらに「身体や、他の識と相互作用して我々が【世界】であると思っているもの」も生み出していると説かれています。


このことを明らかにしていけば、ほとんどの人の価値観がひっくり返ると思います。と同時に、疑謗破滅もなおさら盛んとなるでしょう。仕方のないことです。
この世のことしか分からないのですから。いや、本当は、この世のことすら何も分かっていないのです。だから平気で仏説を誹謗するのです。
それは大変、恐ろしいことなのですが、常識とか、科学的思考とかに凝り固まっている人には、分かってもらうことは中々に難しいことであります。

ではまた。

(つづく)
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