静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

物理法則は人間のすべてに当てはまるのか?

2009-11-21 17:25:21 | Weblog
唯物論というのは、その名の通り、「唯、物質だけがある」という、ものの見方のことです。

科学では、普遍的な法則が自然界を支配していると考えます。
リンゴは木の枝から離れたら、100パーセント地面に落ちます。万に一つ、風船のように上空に昇っていくというようなことは起こりません。なぜかといえば、ここには万有引力の法則がはたらいており、質量あるもので、その法の支配を受けないものはないからです。

科学では、自然界のあらゆる現象は、世界を構成する基本要素(分子や原子、電子など)と、その要素間に働く力(重力、電磁気力など)の作用として、すべて合理的に説明できると考えています。

これが科学的な見解、態度というものです。

科学が対象とするのは、あくまで「物質」の世界であり、その閉じた領域内では、確かに科学法則というものは磐石で、絶対的なものに思えます。しかし問題は、それを丸ごと人間に当てはめていいのかどうか?ということです。

唯物論者は言います。人間のすべては、「基本要素」と「力」に還元され、人間の思考、感情、行動などすべて、物理化学法則で100パーセント合理的に説明できると。

先日見たテレビでは、男女間に起きる「愛」や、親子の「愛情」まで、目の網膜からの電気信号と、脳のある部位に生ずる物理化学反応で説明していました。人間とロボットの違いは、回路の複雑さだけの問題で、本質的な違いはないという印象を視聴者に与えていました。
出演者の中には、それではミもフタもないのでは?という顔をした人もありましたが、脳の専門家に、そうだ、と言われて反論できる人はいないでしょう。

こういう風潮にあっては、「因果の道理」は胡散臭い話に映るやもしれません。

因果の道理とは、「善因善果 悪因悪果 自因自果」という運命のしくみを明らかにした釈尊の教説ですが、なぜ善因が善果を、悪因が悪果を、自因が自果を生み出すのかというと、私たちの善悪の行為が「業力」という一つの力となり、それが縁と結びついて、善悪の結果を引き起こすのです。

しかし、業力という力は、物理の世界においては未知の力です。だから唯物論者は、そもそもそういう力の存在を認めることができないでしょう。

また、地震などの災害に巻き込まれて大怪我した場合、それも本人の業力のしからしむところと言われますが、なぜ業力というものは、未来に起きる地震の場所をまるで予測したかのように自分をそこへ引きずり出せるのか?悪因悪果といっても、少しも科学的、合理的な説明になってないではないかと感ずるのでしょう。

こういうところから、仏教なんて所詮……と軽んじ、誹謗しても平気でいられるのでしょうが、ここには大変な誤解のあることを、今から粛々と書いていきたいと思っています。(つづく)

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