静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

三世因果 セミの知恵

2009-10-17 17:47:15 | Weblog
善因善果 悪因悪果 自因自果 という因果の道理を真に理解されたなら、それは現世のみならず、三世に広がることもまた了解されうることでしょう。

しかし、因果の道理をひと通り耳で聞いて合点し、大体、確率的にそういうことも言えるでしょうくらいの理解ですませてはいないでしょうか。
だから、もっと深い教えはないのか、と先を急ぎ、お聖教の難解な御文の海に溺れてしまう人も出てくるのです。

親鸞会を非難している人の大半はそうだと思います。
でもそれは他人事ではまったくないのです。
だからこそお互いに、因果の道理の理解を、堅実に深めていきましょうと思ってこれを書いています。


さて、こういう話があります。

 同じ木の梅の実でありながら、大きいのやら小さいの、
丸いものやら凹んだもの、みんな形がちがっている。

"納得できぬ"と、セミが不審がる。

"六月頃、地中から這い出して、夏のことしか知らないが、
お前が地中にいた春という季節には、この木に白い花が
一杯だった。
 蜂や蝶が飛んできて、荒された花は小さな実となり、
荒されなかった花は大きな実となったのだ"

"そんな馬鹿な!"

いくら説いても、セミの知恵には無駄だった。



私といっても、肉体のこととしか思えない私たちには、三世因果ということが感覚的に理解できず、すべては己が蒔いたタネと言われることに、何か不条理で、理不尽なものを感じてしまうことがあります。
しかしそれは、私が「私」というものを誤認したところから生じた謬見(びゅうけん)ともいえるのです。

「私」とは何か?
これは古来から謎とされてきました。
常識的には、この肉体を指して「私」と言い、それで特に問題はないのですが、突き詰めて考えると、その信念も実は根拠があいまいで、よく分からなくなってくるものなのです。

私とは肉体のことではなく、かといって、肉体に宿った何か、でもありません。
(それについては、だいぶ後になると思いますが、詳述したいと考えています)

本当の「私」とは、肉体が生ずる前も、肉体の滅したあとも存在します。
それはあたかも、大河の水面に泡がポッと生じ、しばらく流れたのち、忽然と消えていきますが、泡の消滅とは関係なく、大河の流れは一貫しているようなものです。我々の生命も肉体の消滅とかかわりなく、悠久の過去から永遠の未来へ続く不滅のもの、と仏教では教えられています。

因果の道理は、この三世(過去世・現在世・未来世)を貫く永遠の生命の上に説かれていますから、三世因果の道理といわれるのですが、これを「納得できない」と言い張る人は、例えて言えば、上記のセミのような人だということです。

(つづく)
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