前回記事:泥濘(ぬかるみ)に足とられないように―日韓併合100年に寄せて(2) 雨森芳洲―たがいに欺かず、争わず 1990年、来日した韓国大統領盧泰愚(ノ・テウ)は、「宮中晩餐会」の挨拶で、雨森芳洲をとり上げて「誠信の交わり」について話しました。芳洲は、韓国では有名な日本人です。 「朝鮮通信使」の、陰の立役者が雨森芳洲でした。芳洲は(1668年〜1755年)は、木下順庵の高弟であり、順庵の推薦によって対馬藩に仕え、この藩の主要政務である『朝鮮』との応接に活躍した儒者です。(*1) 芳洲の国際政治学理論とは、「公益を通し、その余利をもって人数を召しおき、軍用を調べ、国境を守る部隊をたてて異国を防ぐ」です。 対馬は、その地理的位置からあきらかなように、古代から、大陸との交通の要としての役割を果たし、江戸時代には、朝鮮との交流が許可された唯一の地域です。 前回、「国交回復は、家康の命により、対馬藩の奮闘でようやく修復された」と書きましたが、それは誕生間もない徳川幕府を震撼させるほどの「柳川一件(やながわいっけん)」を超えてのことでした。 「壬辰倭乱」で対馬は、すっかり疲弊してしまい、戦後、対馬単独の判断で1598年末、急ぎ、朝鮮へ使者を派遣していたのですが、朝鮮では、秀吉の襲来を「此賊乃吾邦百年之讐」といって撥ね付けるばかりでした。 ところで、対馬の外交に徳川家康の智謀ぶりが垣間見えます。まだ関が原の戦いも始まっていないという1599年、早くも、対馬藩主に朝鮮との和親回復の意図を伝えていたのです。 このときより、朝鮮方役に就いていた芳洲が奔走することになります。芳洲は中国語も朝鮮語も堪能でしたが、ことに朝鮮儒学者[李退渓]を尊崇していましたから、全身全霊をもって臨みました。 しかし、朝鮮は懐疑的であり、あくまでも、侵略の謝罪と、「被虜人」の全員送還、王陵をあばいた犯人の縛送を要求し、譲りませんでした。 このとき、対馬藩家老の柳川調興は野望から裏切りをしかけたのですが(敗北)、芳洲は徹頭徹尾、「誠信の交わり」を説き、「朝鮮との外交は欺かず、争わないものであるべき」と貫きました。 芳洲は、「通信使」に、二度、「真文役」として同行していますが、それは、つききりの世話役です。円滑に旅程をすすめるために礼を尽くして説明し、食材から、食器にまで気配りしました。 困ったことには、しばしばお互いの立場や面子のために…それは挨拶の仕方に異議を唱えて紛争になるなど、心労の絶えないものでした。(*2) 一行の往復には6カ月もついやされたのですが、見送りに、対馬の厳原で別れの挨拶をかわす芳洲の頬は、涙で濡れていたといいます。(『海遊録』申維翰) 芳洲は、稀にみる辣腕の外交官でした。対馬藩「朝鮮役」とは、つまり交易国との外交を司るという大仕事ですが、難題課題ばかりです。 善隣外交の姿勢を堅持しつつも「国益」を念頭に朱子学の問答の形式で議論を重ね(*3)しばしば難航することがありました。しかし芳洲は、相手の多重的な主体性を認めつつも、丁々発止の交渉をとおして、結果、相手側に「肝胆相照らす仲となった」と言わしめた傑物でした。 ここで、朝鮮の儒学と日本の儒学を比較してみたいと思います。日本では、統一後も「藩政」という分権政治でしたから、朝鮮のようにひとつの学派が圧倒的に支配するというようにはなりませんでした。ですから多様な学派が並存して相互に批判、刺激しあって、独特な発展をみせました。 中国・朝鮮の場合は、朱子学一尊であり、体制教学的に朱子学が発展し、それは、党派争いにまで進んでしまいましたが、日本の場合、近世儒学は、武士が世襲的に支配する封建社会のなかでの成立でしたから、「科挙制」には結びつきませんでした。 また、中国・朝鮮のように「修己治人の学」として徹底していなかった分、社会の習俗の中に浸透することが困難でした(*4)。これは幸いであったと思われます。隙間があった分、学問が庶民にも広がりましたし、また、日本独特ともいえる「神儒仏」の三教一致の心学思想も形成されました。 このような伏線があって、日本独自の「古学」がおこります。萩生徂徠が登場しますし、三浦梅園、安藤昌益他の独創的な成果が生まれます。また、儒教そのものを真っこうから批判する「国学」の大成者、本居宣長がつづきます。その学問は、まさに批判哲学と呼ぶべきものでした。(*5) (*1)外交においては、まず相手国の心を知らねばならず、それを尊重していかねばならないとして、朝鮮に留学して「朝鮮言葉稽古」をし、その文化・風俗・習慣まで心得て「朝鮮風俗考」、「交隣是醒」他を著し、また、「全一道人」を翻訳しています。 (*2)将軍交代のたびに江戸城内では儀礼の形式が変更されたのですが、形式主義の朝鮮はそれをなかなか受容しません。また、吉宗の時代には幕府側の計画として、帰途、方広寺代仏殿での招宴が用意されていたのですが、通信使側は「秀吉の願堂の前で招宴をうけるなど、どうしてできようか」と主張して譲りませんから、芳洲は往生しました。 (*3)議論のためには、朱子学という学問の教養が求められ、また、問答は「事実に基づき真理を求める」という原理原則を中心にするのでなければ、相手から信頼されません。朝鮮国から、「それ一世の騒壇なり」と誉められた人物に新井白石がいます。白石と芳洲は同門であり、芳洲は、11歳若いのですが先輩にあたります。 (*4)徳川時代の封建社会の呪縛は、しばしば嘆かれますが、実は、中国・朝鮮の封建社会に比べると緩やかであったと指摘しなくてはなりません。儒教でがんじがらめに縛り上げられたために、日本の元禄時代のような「町民文化」が開花しませんでした。乗り遅れて、近代資本主義経済を見る前に、植民地支配されてしまいました。 (*5)学問の上では、大いに批判しあったのですが、林羅山以来「封建支配」を批判した儒学者は見当たりません。常に、幕藩体制の危機を意識し、徳川幕府を正当化しなければなりませんでしたし、また「国学」においては、それは「神の心」に反するものとされたからです。そのために、結局は、単なる古代尊重や外国排斥につながっていくことになりましたこれを、後に、福沢諭吉は厳しく批判しています。 |
11月30日〜12月5日
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