1 はじめに
平成21年に裁判員裁判制度が導入されることもあり,近時,アメリカ合衆国の陪審制度や刑事手続について様々な側面から紹介されていますが,アメリカの証拠法自体を紹介したものは必ずしも多くありません。アメリカの証拠法は,我が国のように刑事訴訟法の一部とされておらず,刑事訴訟法とは独立して設けられていることがその原因の一つと思われます。アメリカの刑事手続を理解するためには証拠法を理解するのが重要ですので,本サイトは,アメリカの証拠法のうち,連邦手続に適用される連邦証拠規則(Federal Rules of Evidence)を紹介します。
本サイトでは連邦証拠規則の全文和訳を掲載するとともに,以下のとおり,諮問委員会の注釈など公表されている公的見解を条文ごとに掲載しました。
1 改正経過
2 制定当時の注釈
(1) 連邦最高裁判所の諮問委員会の注釈
(2) 連邦議会の下院司法委員会の注釈
(3) 連邦議会の上院司法委員会の注釈
(4) 連邦議会の両院協議会の注釈
3 その後の改正に関する諮問委員会の注釈
2 連邦証拠規則制定の歴史
では,どのような経緯で連邦証拠規則が制定されたのでしょうか。ここでは,連邦証拠規則が制定されるに至った経緯を見てみましょう。
連邦証拠規則制定前夜 |
もともとアメリカ合衆国の証拠法は,イギリスのコモン・ローを継承したものであり,このような成文法化されていないコモン・ローを基にして裁判例の集積によって修正を加えてきたものでした。このように裁判例の集積により形成された証拠法は複雑化した上,法的安定性という見地からも問題があったことから,法曹や学者から統一的な証拠法の制定を求める声が高まりました。
1934年,連邦議会は,規則制定法(Rules Enabling Act)を成立させ,これにより連邦最高裁判所は,連邦裁判所の手続に関する規則を制定する権限を与えられました。1938年に連邦最高裁判所がこの規則制定法に基づき連邦民事訴訟規則を公布したことに伴い,連邦裁判所の手続に適用される統一的な証拠規則を作ろうという機運が盛り上がりました。
その後,1946年には連邦刑事訴訟規則も施行された上,それと同時期である1942年にアメリカ法律協会(America Law Institute)が模範証拠法典(Model
Code of Evidence)を起草したり,1953年に統一州法委員会全国会議(National Conference of Commissioners on
Uniform State Laws)が統一証拠規則(Uniform Rules of Evidence)を起草したなどの背景もあったことから連邦証拠規則を起草しようという動きに拍車がかかりましたが,最終的にこのような連邦証拠規則の制定を求める流れは結実するに至りませんでした。
連邦最高裁の規則の起草 |
1961年,合衆国司法会議(Judicial Conference of the United States注1)は,連邦裁判所のために統一的な証拠規則を制定する可否を検討することとし,当時の連邦最高裁判所長官アール・ウォーレン(Chief Justice Earl Warren)は,「証拠に関する特別委員会Special Committee on Evidence」を設置しました。同委員会は,2年間かけて検討し,「連邦最高裁判所は規則制定法に基づき証拠規則を制定公布する権限を有しており,連邦裁判所のために統一証拠規則を作ることは可能であり,望ましい。」という結論を下し,この検討結果をまとめた報告書を公表しました。
【注1】合衆国司法会議は,1922年にもうけられた連邦裁判所裁判官の会議であり,連邦最高裁判所長官と巡回区裁判所の各首席裁判官と各巡回区の地方裁判所裁判官1名が参加して毎年開催される。連邦裁判所の司法行政の指針や連邦手続に関する諸規則の検討等を行って連邦最高裁判所に提言を行う。
1963年に合衆国司法会議は,証拠に関する特別委員会の検討結果を承認し,連邦最高裁判所に対して連邦証拠規則を起草するために諮問委員会(Advisory
Committee注2)を設置するように勧告しました。連邦最高裁判所は,この勧告に従って規則制定法に基づいて連邦証拠規則を作ることとし,立案作業を開始することとなりました(これと同じ時期にカリフォルニア州やニュージャージー州などの州においても証拠法を成文化する動きがありました)。
【注2】合衆国司法会議が規則を制定する際には5つの諮問委員会(上訴,破産,民事,刑事及び証拠)が補助することになっている。各諮問委員会の委員は,連邦最高裁判所長官が裁判官や弁護士や学者から指名する(任期は3年であるが,1回に限り更新することができる)。諮問委員会の上位組織として,「合衆国司法会議の訴訟手続及び証拠の規則に関する委員会Judicial Conference Committee on Rules of Practice, Procedure, and Evidence(「常任委員会Standing Committee」とも呼ばれている。)」があり,各諮問委員会の作業を監督する。
1965年,ウォーレン長官は,新しい規則を起草するために全国から優れた法曹や法学者15名(裁判官3名,弁護士8名,学者4名)を集めて諮問委員会の委員を任命しました(注3)。アルバート・E・ジェンナー弁護士が諮問委員会の委員長を務め,報告者であるクリアリー教授が中心となって連邦証拠規則の起草作業を進めました。諮問委員会は,14回にわたって会議を開催してクリアリー教授が作成した規則案を検討し,3年半以上かかって連邦証拠規則案を完成させました。
【注3】諮問委員会の委員
裁判官 |
サイモン・E・ソベロフ連邦控訴裁判所裁判官(Simon E. Sobeloff) |
メリーランド州 |
ジョー・E・エスティーズ連邦地方裁判所裁判官(Joe E. Estes) |
テキサス州 |
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ロバート・ヴァン・ペルト連邦地方裁判所裁判官(Robert Van Pelt) |
ネブラスカ州 |
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弁護士 |
アルバート・E・ジェンナー弁護士(Albert E. Jenner) |
イリノイ州シカゴ市 |
デビット・バーガー弁護士(David Berger) |
ペンシルバニア州フィラデルフィア市 |
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ヒックス・エプトン弁護士(Hicks Epton) |
オクラホマ州ウェウォカ市 |
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エグバート・ヘイウッド弁護士(Egbert Haywood) |
ノースカロライナ州ダーラム市 |
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フランク・ライケル弁護士(Frank Raichle) |
ニューヨーク州バッファロー市 |
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ハーマン・セルビン弁護士(Herman Selvin) |
カリフォルニア州ロサンゼルス市 |
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クレーグ・スパンゲンバート弁護士(Craig Spangenbert) |
オハイオ州クリーブランド市 |
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エドワード・ベネット・ウィリアムズ弁護士(Edward Bennett Williams) |
ワシントン特別区 |
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学 |
トーマス・F・グリーン・ジュニア教授(Thomas F. Green, Jr.) |
ジョージア大学 |
チャールズ・W・ジョイナー教授(Charles W. Joiner) |
ミシガン大学 |
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ジャック・ウェインステイン教授(Jack Weinstein) |
コロンビア大学 |
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エドワード・W・クリアリー教授(Edward W. Cleary) |
イリノイ大学 |
諮問委員会は,1969年に連邦証拠規則の第1案を公表して広く意見を求めるパブリックコメント手続を行いました。
1970年,パブリックコメント手続で数多く寄せられた意見を踏まえた修正案を作成して合衆国司法会議に提出しました。この修正案は,合衆国司法会議で承認されて連邦最高裁判所に提出され,連邦最高裁判所は,この修正案を更にパブリックコメント手続に付するために合衆国司法会議に戻しました。修正案が広く公表されると,司法省等から規則案は法執行に与える影響を考慮に入れていないなどの強い反対意見等を提出されました。
1971年,諮問委員会は,これらの意見を取り入れて更に修正した最終案を作成し,再び連邦最高裁判所に提出しました。司法省は,連邦最高裁判所に更に修正するように求め,連邦最高裁判所は,修正の上,1972年11月20日に連邦証拠規則として制定公布しました。
連邦議会の審議経過 |
連邦最高裁判所が制定した連邦規則は,連邦議会に送付して連邦議会が特段の決議を行うことなく90日を経過して始めて施行できることになっていました。連邦証拠規則も,当初,このような手続を経て1973年7月1日に施行することを予定していました。
しかし,連邦証拠規則は,特権に関する重要な規則や実体法の分野に踏み込んだ規則を含んでいたことから議論を引き起こし,連邦議会において慎重に検討すべきであるという声が強くなりました。
それに加えて,1972年6月,後にニクソン大統領を辞任に追い込むことになったいわゆるウォーターゲート事件が発生し,アメリカ合衆国史上稀に見る重大な政治的スキャンダルとして取り上げられるようになるに従い,連邦議会の審議にも影響が生じ始めました。ウォーターゲート事件の影響により連邦証拠規則の審議も長期間遅延することが避けられなくなりました。
そこで,連邦議会は,時間をかけて連邦証拠規則を審議する必要があると考え,1973年2月7日,上院ウォーターゲート特別委員会が設立されたのとまさに同じ日に,連邦議会が明示的に承認するまで規則の効力が発生しないという法律(1973年3月30日法律,第93回議会一般法律第12号,合衆国法律全集第87巻第9頁(1973年))を制定しました。
(連邦議会)
1973年3月12日に下院に規則案が提出され,下院の司法委員会で審議を行って規則案を修正し,同年11月15日に司法委員会から修正について下院に報告がなされました(第93回議会下院報告書第650号参照)。1974年2月6日になってようやく下院にて修正可決されました。
その後,上院に規則案が提出され,上院の司法委員会で審議して修正を加え,1974年10月11日,上院の司法委員会が修正部分につき上院に報告し(第93回議会上院報告書第1277号参照),同年11月22日,上院にて修正可決されました。
下院と上院で意見が分かれた部分については両院協議会を開催して意見を調整しました。1974年12月14日,両院協議会は,両院協議会報告書を下院に提出し(第93回議会下院報告書第1597号),同月16日には上院が,同月18日には下院がそれぞれ同報告書に同意しました。
連邦議会での審議の過程で最も議論が集中したのは,特権に関する規則であり,当初は13条の条文をもうけて詳細に規定していましたが,最終的には削除されて第501条のみとなりました。
1975年1月2日,連邦議会が連邦証拠規則案を可決し,フォード大統領が署名して連邦証拠規則が成立しました(1975年1月2日法律,第93回議会一般法律第595号,合衆国法律全集第88巻第1926頁(1975年))。連邦証拠規則は,同年7月1日から施行されました(注4)。
【注4】連邦証拠規則制定の流れ
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その後の改正 |
1975年に連邦証拠規則が制定された後,性犯罪事件に関する規定(第412条以下)が追加されるなど逐次必要な改正を重ねてきました。
連邦最高裁判所は,連邦議会に連邦証拠規則案を提出した後,証拠に関する諮問委員会を解散しましたが,その後,長期間にわたって諮問委員会が設置されることはありませんでした。諮問委員会の再設置を求める声が高まったため,合衆国司法会議は,1992年に連邦証拠規則の改正の要否を検討するために証拠に関する諮問委員会を再設置し,2年間検討した結果,1994年に連邦証拠規則を改正しました。しかし,諮問委員会は,基本的に「連邦証拠規則が実務上うまく機能していないことや諮問委員会が誤っていると考える政策判断を取り込んでいることが証明されない限り改正すべきでない」という自制的な姿勢をとっており,この時も連邦証拠規則の全面的な改正には至らず,約15か所の形式的な改正にとどまりました。
3 連邦証拠規則の特徴
連邦証拠規則を我が国の証拠法と比較した場合,以下のような特徴を指摘することができます。
@ 我が国の証拠法は民事訴訟法(第2編第4章)や刑事訴訟法(第2編第3章第4節)という訴訟法の中に組み込まれて規定されているのに対し,連邦証拠規則は,連邦民事訴訟規則や連邦刑事訴訟規則とは別個の独立した証拠法として制定されていることです。
A 我が国では民事訴訟法と刑事訴訟法それぞれに証拠法が規定されている結果,民事手続と刑事手続とで適用される証拠法の内容が異なってきますが,連邦証拠規則は民事手続と刑事手続の両方に共通して適用されます(ただし、民事手続と刑事手続で制度内容が異なるものもあります)。
B アメリカ合衆国では連邦と州という2元的な法体系を採用しており,連邦証拠規則は連邦裁判手続にしか適用されません(ただし,現在約42の州が連邦証拠規則と同一又は類似の証拠規則を採用していると言われています)。
C 連邦証拠規則は,証拠法の分野すべてを網羅しているわけではなく,重要な証拠法であるにもかかわらず明文規定をもうけずコモン・ローに委ねている部分がある(特権など)。