2009年12月11日

オウム事件の真相に迫る

最高裁で井上被告の死刑が確定しました。オウム事件では9人目の死刑確定になるそうです。

 


私は、個人的には麻原彰晃以外は無期懲役刑でいいと考えています。なぜならば、彼ら実行犯は、麻原教という宗教に利用された「兵士」であり、過激な麻原教がなくなった現在や将来に、彼らが再び凶悪な犯罪を起こすとは考えにくいからです。

 


日本社会では、厳罰に処せば犯罪が少なくなると考えられているようですが、私はそうは考えません。事実、秋葉原連続殺傷事件の被告のように死刑を覚悟で凶悪犯罪に突き進む人間もいるのです。

 


量刑にはマスコミの影響もあると思います。マスコミは自分たちの報道商品の価値を高めるために、遺族に取材し、遺族の怒りを必ず報道します。それにより「遺族感情を考えると死刑は妥当」などという言葉が発せられるようになったのです。

 


同じ殺人でも、ホームレスの人を殺した方が刑は軽いと言わんばかりの論法です。

 


私は、刑の軽重を問うことより、なぜオウムに入信したのか、なぜ実行に及んだのかを明らかにした方が、オウム教団のようなカルト教団が引き起こす事件の真相に迫る上で重要であると思います。反対に言えば、オウム事件を追いかけているジャーナリストも弁護士も事件の真相に迫れていないと私は考えています。

 


地下鉄サリン事件から10年後の2005年2月25日の朝日新聞に江川紹子氏は以下のように記しています。

 


<引用開始>

一連のオウム裁判を通して、オウムにはまった若者たちには、差し迫った悩みというよりも、自分の人生の目標を探しあぐねているごく普通のどこにでもいるような青年が実に多いことが分かった。


<引用終了>

 


「オウム」「自分探し」で検索すると、あたかも「自分探し」が入信の目的だったように書かれていますが、私は見方が甘いと思います。なぜならば「自分探し」という言葉には、自分の個性や進む道を探すという意味が含まれるからです。

 


キリスト教を理解しないで中世や近代の歴史を語ることができないように、キリスト教を理解しないで、人の心理を語ることはできないと私は考えます。

 


カルト教にはまるのは「自分探し」ではなくて、「ゼロになれる自分探し」が理由です。これが真相であると私は確信しています。

 


以前にも書きましたが、すべての人にはこの公式が成り立ちます。

 


現在 − 過去 = ゼロ

 


キリスト教では、洗礼による新生がこれに当たります。

 


映画「千と千尋の神隠し」や「ゼロの焦点」、そして「おくりびと」の意味も同じです。「千と千尋の神隠し」の主題歌には「ゼロになるからだ 充たされてゆけ」という一節があります。

ネタばれになりますので詳しく書けませんが、「ゼロの焦点」のゼロも「ゼロになるからだ」という意味だと私は理解しています。

 


「おくりびと」には、「人の死は門をくぐること」とい台詞があったと思いますが、人は誰でも「ゼロになれる自分探し」の「門」を探し、「入門」したり「入信」したりするのです。

 


もう少し詳しく、「ゼロの自分」について説明します。結論から言いますと「ゼロの自分」とは、「純心無垢な自分」であり、「ペットや弱い者を愛するやさしい自分」、「子どもの頃の自分」なのです。「ディズニーの世界を愛する自分」と言ってもいいでしょう。

 


精神科医の斎藤学氏は、東京新聞のコラムにこのように書いています。

 


<引用開始>

人の行動を動機づけるのは恐怖だ。最近話題になっている詐欺女の悪行と、その犠牲になった男たちの報道に接し、あらためてそう思う。

 

あらゆる恐怖の源には「見捨てられる恐怖」がある。そもそも私たちの精神活動はここから始まった。乳児はある瞬間、オッパイが自分のものではないことに気づく。

 

<中略>

 

以後、生涯にわたって、この恐怖にさらされ続け、それをごまかしながら生きる。


<引用終了>

 


人の深層心理を突き詰めれば、オッパイをもらっていた時点が「ゼロの自分の原点」なのかもしれません。なぜならば、人は誰かとつながっていないと生きてはいけないのですから。

 


話をオウムに戻します。オウムの信徒は、「ゼロの自分」を探しにオウムに入信したのです。そして修行で「ゼロの自分」に到達したのでしょう。あるいは、到達したと勘違いしたのかもしれません。それでも、「ゼロ」ですから、与えられる教義をすべて「ゼロのからだに充たされてゆく」ものとして受け入れてしまったのです。

 


問題は、ここからです。それでは人は、なぜ「ゼロになりたい自分」を探し求めるのでしょうか。その答えは簡単です。自分の過去が「嫌い」なのです。ラケット感情から解放されたいのです。

 


ラケット感情


<引用開始>

ゲーム分析とラケット感情
私たちは、日常生活の中で「また、やってしまった、もう二度としたくなかったのに」と思う行動をくりかえして、その結果はあと味の悪い感情を味わうことが多々あります。



このあと味の悪い、憂うつな不愉快な感情をTAではラケット感情といいます。そして、二度とやるまいと決心しても、結果がこのラケット感情になることがわかっていても、なぜか反復してしまう「夫婦げんか」や「部下への怒号」等のことを、TAではゲームといいます。
<引用終了>
http://www2.ocn.ne.jp/~oshima/ta.htm
 


特に、自己責任論の強い社会に暮らす日本人は、「自己嫌悪」のかたまりのようです。(私もキリスト教を知るまでは、ラケット感情のかたまりのような人間でした。) 


江川紹子氏が記したように、オウムにはまった人は「普通の人」なのです。そして、「普通の人」であり、「善良な市民」であるからこそ、「もう止めよう」というラケット感情が働くのです。そんな自分を「ゼロの自分」にしたいから宗教にはまるのです。 


反対に言えば、悪い人間は宗教を利用するのであり、決して信徒として信仰することはないと私は考えます。 


それでは、どうすればカルト教による事件を防ぐことができるでしょうか。解決策は2つです。 


最も重要なことは、鳩山総理が語る「居場所と出番」のある社会づくりです。オウム事件の実行犯がいた社会は、「居場所と出番」のある社会でした。「見捨てられる恐怖」から解放された素晴らしい社会と実行犯は、信じて疑わなかったに違いありません。 


浮草のように漂っている多くの日本人は今、「居場所と出番」を求めています。国民全員に「居場所と出番」がある社会づくりを進めることこそが、カルトがからむ事件や、自暴自棄の殺人や自殺を防ぐ最も重要な「解決策」なのです。 


もう一つは、正しい宗教教育です。私たち日本人は恥ずかしいほどキリスト教を知りません。 


マーク・トウェインの警句です。
「災いを引き起こすのは知らないことではない。知らないのに知っていると思いこんでいることである」 


以前にも書きましたが、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの「マッチ売りの少女」の話は、貧困がテーマであるにもかかわらず、日本では異常に美化された「商品」につくりかえられています。 


キリスト教は、自分の限界を超えた問題を決して「自己責任」とは考えません。「人事を尽くして天命を待つ」ことを是としています。 


キリスト教に限らず、日本人は「宗教に頼るのは心が弱い」と宗教を卑下しています。各宗教を正しく学校で教えることこそ、カルトに走る人間をなくす次善策であると私は考えます。

 


最後に、当時のオウム信者にとって「教祖とは」に関し、私の推測を記します。

 


私は、「教祖麻原彰晃」とは、信徒の父であり、母であったのだと思います。前述のオッパイの話からも分かるように、人は最大の愛、つまり親からの愛を求め続けます。私は21歳で父を亡くしましたが、今でも父の愛を求め、墓参し、仏壇に手を合わせます。誰の心にも「子どもの自分」が存在すると私は思っています。

 


やはり、死刑が確定した早川被告は、事件を「私利私欲」のためでなかったと手記に記しています。教祖という「親」の指示に従ってしまった結果が、オウム事件だったのだと私は分析しています。




 

参考

マッチ売りの少女

日本人はだまされてきた@



 

厳罰主義の否定

論談投稿 巷のリスクアナリスト様とのリスクマネージメント議論
http://www.rondan.co.jp/html/mail/0802/080211-11.html