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気仙坂

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少子高齢化の要因
☆★☆★2009年12月13日付

 内閣府は平成四年以降、一年から二年おきに「男女共同参画社会に関する世論調査」を行っている。国民意識を把握し、今後展開する施策の参考にしようというものだが、今年十月に全国の二十歳以上の男女五千人を対象に行った調査(三千二百四十人の65%が回答)で、驚くべき結果が出た。
 というのも、「家庭生活等に関する意識」の質問項目で、「結婚は個人の自由であるから、結婚してもしなくてもどちらでもよいか?」との問いに、「賛成」が70%(「賛成」48%、「どちらかといえば賛成」22%)を占め、「反対」が28%(「どちらかといえば反対」16・9%、「反対」11・1%)だった。
 前回(平成十九年)の調査結果と比べると、「賛成」の割合が4・9ポイント上昇し、その分「反対」が低下。年齢別に見ると、「賛成」は二十歳代から四十歳代、「反対」は六十歳代と七十歳以上でそれぞれ高くなっている。
 特筆すべき点は、「結婚しても、必ずしも子どもをもつ必要はないか?」との質問に、「賛成」が半数近い42・8%(「賛成」22・5%、「どちらかといえば賛成」20・3%)もいたのに対し、「反対」が52・9%(「どちらかといえば反対」30・1%、「反対」22・8%)しかなかったことだ。
 これは、前回調査よりも「賛成」が6ポイント上昇し、「反対」がその分低下。「子どもを持つ必要はない」と答えたのは男性38・7%だったのに対し、女性は46・5%と半数近くに上った。年代別では二十歳代が63%、三十歳代が59%と高く、若い世代ほど子どもを持つことにこだわらない傾向にある。四十歳代は47・5%、五十歳代43・1%、六十歳代35・8%、七十歳以上22・8%だった。
 この結果から、近年の少子化傾向に歯止めがかからない大きな要因が読み取れる。特に若い世代が「結婚してもしなくても良く、たとえ結婚しても子どもを持つ必要がない」と考えているのだから、少子高齢化が進むのは当然といえる。
 少子化対策は、国を挙げて取り組んできているもののなかなか結果があらわれずに出生数が低下している。一人の女性が一生の間に産む子どもの数を示す出生率(合計特殊出生率)をみると、低下が始まる前の昭和四十六年に「2・16」だったものが、平成二十年には「1・37」まで減少。国内人口を維持するには「2・08」は必要といわれているにもかかわらず、この数値をかなり下回っているのが現状だ。
 少子化は単に人口減少をもたらすだけでなく、経済全体に大きな影響を与える。年金問題といった社会保障をはじめ、労働市場に打撃を与える深刻な問題であることは言うまでもない。
 政権交代した民主党は、今年の夏に行われた衆院選のマニフェスト(子育て施策)で▽最大五十五万円の出産助成▽中学卒業まで一人当たり月二万六千円の子ども手当支給▽公立高校授業料の実質無料化、私立高校生には年十二〜二十四万円の助成▽大学生などの希望者全員が受けられる奨学金制度を創設──などを掲げたが、これらはいずれも既婚家庭が対象となっている。
 しかし、今回の男女共同参画社会に関する世論調査結果をみると、国民の非婚化や子育て離れをどのようにして歯止めをかけるかということも大切であることが分かる。若者世代が結婚に魅力を感じ、子育てに充実感を抱くような環境づくりはないものか。少子化は国の存亡にかかわってくる問題なだけに、対策を急がなければならない。(鵜)

傍聴席が見えているか
☆★☆★2009年12月12日付

 あまりに寂しいが、しかしそれほど珍しい光景でもない。空席ばかりが目立つ、大船渡市議会の傍聴席である。
 十日から今年最後の一般質問が始まったが、初日に訪れたのは一日を通じて十人ほど。時間によっては、無人になることもあった。
 議場内にある傍聴席は、議員たちが座る椅子の背後に設けられている。三十人ほどが座ることができるが、各種団体の会員らがまとまって訪れたり、改選期が近いといった特別な事情がない限り、座席に困ることはない。
 日常生活でも、背後に誰か人がいると、気になるものである。三役や部課長がズラリと並ぶ当局側にとっても、自然と視界に入る位置に傍聴席がある。傍聴する人がいるだけで緊張感が生まれる。
 議員たちは市政のどの分野に関心を抱き、当局側はそれについてどのような認識を持っているのか。一般質問は大船渡市が今取り組まなければならない優先事項や地域課題を考える上で、絶好の機会である。広報などでは紹介されない動きや、おそらく当局側としては知られたくないマイナスの情報が飛び出すこともある。
 通告を受けた質問内容に対し、当局側は開会前から時間をかけて答弁をまとめる。議員一人に最大で五十分間の質問時間が与えられるため、その場だけの対応でしのぐことはできない。議員、当局それぞれが、準備を重ねた上で一般質問に臨んでいる。
 ただ、残念ながら今、傍聴席で聞き続けることを、自信を持ってオススメすることはできない。住民の声や関心を反映させるべき一般質問だが、市民レベルでも分かりやすい形で行われているとは言い切れない。端的にいえば、面白くない。
 当局は正確な答弁をしようと、事前にまとめた原稿を読み上げる。答弁によっては、部課長一人だけで五分以上かかる時もある。
 紙に目を通しながら語るが、そこには傍聴席で聞くことができる市民への配慮が感じられない。答弁原稿が渡されるわけでなく、耳で聞き、頭で理解しなければならない立場を思い浮かべながら語っているだろうか。
 答弁自体は、難しく専門的な用語ばかりでもない。しかし「検討する」「実現に向けて努力する」といった結論の前に、施策説明が延々と続く。その割には、実現や努力につながる具体的な取り組み姿勢はあまり伝わってこない。
 行政が今、何を考えているのかを知りたくて訪れた市民に対して、分かりやすい説明をしているとはいえない。本来、答弁とは相手に理解してもらうための手段であるのに、言葉とは相手に思いや情報を伝えるためにあるのに、かけ離れている現状がある。
 議員側にも問題がある。一般質問の場では、登壇しての質問後に、再質問、再々質問が認められ、最大で三回当局側を質すことができる。通告に沿ってまとめられた一回目の総体的な回答をふまえた上で、再質問以降はもっと突っ込んだ追及や提言をすべきだが、核心に届くほどの議論は少ない。
 質問に歯がゆさを感じながら、終了後に部課長らに対して追加取材することもある。議員たちは有権者の票を積み重ねて当選し、支持者や地域の期待を背負って議場に入っている。しかし今、傍聴席に座る権利がある有権者の声を質問に反映できていると、自信を持って手を挙げられる議員はどれほどいるだろうか。
 一般質問は、議員と当局だけのためにあるものではない。議場だけでの活動が全てではないが、市予算では約二億円が議会運営費として投じられている。この二億円も、議員と当局だけのためにあるものではない。
 地方分権や地域主権が叫ばれる中で、議会改革の必要性も指摘され、意欲的な市議もみられる。一方、行政側は市民との協働を掲げる。それぞれがその実現を目指すのなら、まずは議場傍聴席の現実を直視してほしい。
 緊張感や深みのある議論を生むには、市民の傍聴は欠かせない。多くの人々が足を運ぶようになるにはどうすればいいか。その実現が、住民に密着した地方行政の一歩目のような気がする。(壮)

失いたくないもの
☆★☆★2009年12月11日付

 先月の下旬、「気仙郷土芸能まつり」の取材に行ってきた。
 二市一町でつくる気仙広域連合主催の同まつりは、幾世代もの間伝承されてきた郷土芸能を広く普及して地域活動活性化を図るとともに、発表機会を提供することで技術錬磨や保存伝承を促進させようとの目的。「ふるさと市町村圏基金」を活用して平成十一年に始まったもので、以降毎年、各市町持ち回りで開かれている。
 今年の開催地は住田。大船渡、陸前高田、住田と担当を仰せつかって計十年にして、ようやく取材にうかがうこととなった。
 出演は、地区内が大船渡市の板用肩怒剣舞保存会(日頃市町)、小通芸能保存会(同)、永浜鹿踊保存会(赤崎町)、平七福神保存会(大船渡町)、陸前高田市の生出鹿踊保存会(矢作町)、気仙町けんか七夕保存会(気仙町)、二日市寅舞保存会(同)、住田町の大平梅ノ木念佛剣舞保存会(世田米)、小府金神楽保存会(同)の九団体。
 加えて特別出演として、「早池峰神楽」として九月末にユネスコ無形文化遺産に指定されたばかりの大償(おおつぐない)神楽保存会(花巻市大迫町)、国指定重要無形民俗文化財の西馬音内(にしもない)盆踊保存会(秋田県羽後町)がステージにのぼった。
 迫力ある気仙町けんか七夕で幕を開け、各団体が地域に伝わる伝統芸能を舞台狭しと繰り広げた。
 鹿踊は三団体が披露したが、「浜どこ」の永浜は勇壮さが際立ち、小通はシカのしぐさをよくとらえ、生出は跳ねるように踊るなど、地域性といっていいのか、同じステージで見ると、それぞれの違いが鮮明なものになっており、カメラのファインダー越しながら、興味深く見させてもらった。
 大船渡町の大船渡小学校区生まれのこちらがもっとも楽しんだのは、平七福神。地元の男児がにぎやかなお囃子を背に舞い踊るもので、五年祭や中学校の文化祭で七福神となり、やんやの喝さいを浴びる同級生たちをうらやましく思ったりしたもの。この日も、いかつい鎧姿の毘沙門天はどこか誇らしげで、弁財天にはいくばくかの恥じらいが感じられ、現代っ子だってわれわれの世代と変わらない子どもらしさがあるものだと少し安心したり。
 そして、ユネスコ無形文化遺産登録を受けたばかりで、今回の目玉ともいえた大償神楽。大迫町岳地区の岳神楽とともに「早池峰神楽」として、始まりは南北朝時代とも伝わる。同日は日本書紀に由来し五穀豊穣を願う「天熊人五穀」を披露したが、「ユネスコ」の権威は抜きにして、他の芸能とは一線を画す壮厳さを感じさせられた。
 出演団体のほとんどに、踊り手やお囃子の中には次代の後継となる青少年が加わっていた。多くの保存会が後継者不足に悩むとされる中、舞台に躍動するその姿がとても頼もしく見えた。
 この郷土芸能祭の少し前、住田町下有住の外舘地区に伝わる外舘鹿踊に、町外から同地区に移り住んだ二十代男女二人が踊り手として加入したとの情報提供をいただき、稽古場所の公民館で取材させてもらった。
 こちらの鹿踊は宝暦年間(一七五一〜六四)の始まりとされ、中断と復活を挟みながらも長く伝えられているが、例に漏れず、近年は少子化などで後継者不足が大きな課題。保存会が地区外から踊り手を募るなどしながら何とかつないでいる状況という。
 この中で、「住田に骨を埋めるつもり。真の住田人になりたくて参加させてもらった」と未経験の場に飛び込んだ若い二人に、保存会の先輩は「ありがたいのひと言。外舘の宝だ」と言っていた。
 郷土芸能をはじめ、なくしたくない風習が気仙にはたくさんある。これらをどう受け継ぎ次代に渡すか、いまを生きるわれわれが考えていかねばならないだろう。(雅)

殿堂入り火の玉野球∞
☆★☆★2009年12月10日付

 「球春沸騰!燃える甲子園」のタイトルを見て、すぐ当時の感動がよみがえってきた。チーム一丸の火の玉野球≠掲げ、昭和五十九年のセンバツで全国四強入りを果たした、大船渡高校野球部の快進撃。それは多くの野球ファンにも、鮮烈な印象として残っていると思う。
 その大高野球部のユニホームが、来年オープンする甲子園歴史館の「高校野球の歴史」コーナーに展示されるという報道があったばかり。長く本棚に積ん読¥態だった第五十六回センバツ大会特集の週間『毎日グラフ』を手にし、改めて読み入ってしまった。
 現地取材に行っていた筆者だが、今になって知る事柄が続々と出てきた。むしろ現地で選手たちの追っかけに終始していたため、大高の試合以外はほとんど見ていない。当時のファンなら知っていることばかりだろうが、特集号から取材≠オ、さわりだけでも若い世代に紹介しておきたい。
 一言で言えば、当時の大高野球部は記録破りだった。センバツにつながる前年秋の東北大会で、秋田・金足農業との死闘を制した末に、気仙高校球界の悲願だったセンバツ切符を初めて手にした。
 佐藤隆衛監督と熊谷守部長が率いるチームは、金野―吉田のバッテリーをはじめ、大船渡一中時代に全国大会を経験したメンバーが五人もいた。予選となる大会を通じ、金野投手は全国屈指の防御率を残し、小さな大投手≠ニ書き立てるスポーツ紙もあった。
 しかし今もそうだが、東北勢は甲子園の優勝旗を一度も持ち帰っていない。中でも岩手県勢は、「出ると負け」が通り相場。甲子園取材に出かける時、会社の先輩には「三鉄開業もあるので、すぐ帰ってきます」と、まずは組合せ抽選会に間に合うよう軽い気持ちで出発した。
 その抽選会で決まった初戦の相手が、なんと新チーム結成から二十四戦負けなしの多々良学園(山口)。いきなり中国地区の覇者と当たってしまった。
 甲子園取材ではお決まりの、対戦チーム同士の主将や両校監督の対談があった。佐藤監督や吉田主将から変な気負いを感じることはなかったが、相手は自信に満ち溢れていた。
 異常寒波の年だったが、開幕と同時に球春満開。出場三十二校の半数十六校が史上最多の初陣。杏里の「キャッツ・アイ」の行進曲に乗って、甲子園の土を踏んだ全国代表。フレッシュさもあってか、記録ずくめの展開となった。
 まず開幕戦。いきなり史上初の先頭打者ホームランが飛び出したのを皮切りに、昭和五十年から採用の金属バットが火を吹いた。前年まで、名将・蔦監督率いる池田(香川)が筋肉トレーニングで成績を残していた影響もあって、打つわ打つわ。
 優勝候補筆頭のPL学園(大阪)は、桑田・清原の二年生コンビが初戦の対砂川北(北海道)戦で三本のホームランを放つなど、チーム一試合最多本塁打六本、同じく塁打四十二本の記録を樹立。桑田投手を温存したため、砂川北に7点取られはしたが、PLは18得点の圧勝。
 大会を終わってみれば、安打五百十五本、二塁打八十三本、本塁打三十本の打高投低。特に本塁打は、従来の記録十八本の倍増近い量産。もっとも、うち一本はワンバウンドのフェンス越えが誤審で満塁本塁打とされたもの。大会本部に抗議電話が殺到し、第九回大会以来の伝統だった外野フェンスへの歴代優勝校の白い校名板が外されるという場外戦もあった。
 高校野球では、審判は絶対的存在。まして甲子園では抗議さえできないような雰囲気にあったことも知らされたが、ともかく破壊力満点の試合が相次いでいただけに、東北は岩手、気仙の代表チームが一体どうなることかと、不安を抱えたまま大船渡の初戦取材に臨んだ。(谷)

つぶやきの連鎖で広がる世界
☆★☆★2009年12月09日付

 本格的に利用を開始して約二週間。米国発のミニブログ「Twitter(ツイッター)」が面白い。
 ツイッターは、個々のユーザーが百四十文字以内の短いつぶやき(ツイート)を投稿し、それに他のユーザーが反応することで緩やかなコミュニケーションが発生するネット・サービス。二〇〇六年にサービスがスタートし、現在、世界で数千万人が利用しているといわれる。
 パソコンや携帯端末を使って投稿、閲覧できる手軽さもあり、日本国内での利用も急速に拡大。ニールセン・オンラインの調べによると、今年九月の利用者数は二百五十七万人で、一月の二十万人から約十三倍に増えている。
 ツイッターを利用するためのユーザー登録(無料)は簡単だ。公式サイトでユーザー名とパスワード、名前、メールアドレスを入力し、アカウントを取得すれば完了。登録後、各ユーザーに与えられる専用サイトには、自分のつぶやきとフォロー(読者登録)したユーザーのつぶやきがリアルタイムに近い速さで表示される。
 自分の場合は、身の回りの出来事や大船渡の風物詩についてつぶきながら、趣味や思考ベクトル、気になるテーマなどを選択フィルタとしてフォローするユーザーを増やしていった。
 その中で、気になるつぶやきに返答し、自分からも話題を提供。こうしたことを繰り返しているうちに少しずつフォロワー(自分のつぶやきをフォローしてくれるユーザー)がつき、それが百人を超えた頃からツイッターの面白さを体感できるようになった。
 数日前のことだが、息子さんが三陸町に住んでいるという鹿児島在住のフォロアーから自分宛に「かまさとう、って何ですか」という投稿があった。以前、三陸町から鹿児島に帰る際、盛駅から上野駅までずっと一緒だったおばさんから「農作業の合間に食べるおやつ」と聞き、興味を持ったらしい。
 さっそく「それは、かまさとうではなく、かま餅では」と答え、簡単な作り方を教えたら「記憶違いでした。今度、息子に言って、牡蠣と一緒に送ってもらいます」と返事が来た。ツイッターをやっていると、こうしたことがままあり、見知らぬ人との繋がりができていく。
 一つのつぶやきにフォロワーが返答し、その返答やコメントの引用から新たなつぶやきが生まれる。一人のフォロワーは多くのユーザーをフォローしており、一つのつぶやきが無限のWeb空間の中でどんどん連鎖していく。自分にとってのツイッターの魅力は、この「つぶやきの連鎖」によってコミュニケーション世界が広がっていくことだ。
 もちろん、ツイッターの有用性に注目し、その活用を図っているのは、自分のようなプライベートユーザーだけではない。最近は、最新ニュースの配信にしのぎを削る大手メディアや販売促進を狙う企業がアカウントを開設するなど、商業利用の動きが特に活発だ。政界でも必殺仕分け人≠ニして脚光を浴びた民主党の蓮舫参院議員らツイッターの使い手が増えている。
 これらは、ツイッターを新たな情報発信ツールとして活用しているケースだが、不特定多数に瞬時に情報が広がる強力な伝播力、伝播される情報の鮮度の高さ、低コストという特徴に着目すれば、企業、政治家ばかりでなく、自治体にとってもツイッターは非常に有用なものになるのではないか。
 国内ではすでに、青森県や長野県小諸市、北海道陸別町といった自治体が公式アカウントを開設している。ただ、多くは自治体ホームページのトピックを流し、リンクを張るといった使い方に止まっており、有効活用するまでには至っていないようだ。
 例えば、イベントの実況、観光地からの動画の配信、まちの今を伝えるリアルタイム情報の提供。知恵を絞れば、もっと多くの活用法を見つけることができるだろう。地域活性化へのソフト戦略として、気仙三市町もツイッターの可能性を探ってみるべき、と提案したい。(一)

「まずまず」復活の到来を待つ
☆★☆★2009年12月08日付

 「まずまず」という言葉は死語と化したのであろうか。大阪弁で言えば「ぼちぼちでんな」というニュアンスを持つこの経済的日常会話用語≠ヘ、好況時ありふれた使い方をされていた。「どうですか?」「まずまず」というように。ところが最近というかここ十年前後ほとんど聞いたことがない。「風と共に去りぬ」なのである。代わって新型インフルエンザという風邪が居座っている。
 いまや過去完了形となったこの用語が毎日交わされた時代が懐かしい。みんなしこたま儲けているのに、そんなことはおくびにも出さず「なんとか」とか「どうやら」といった具合に少し腰を引いて答えるのが常だった。日本人の謙譲の美徳というものであろうか。これが欧米人だったらそうはいかない。そこそこにしか儲けられないようならそれは経営者として失格だと自ら証明しているようなものだからである。それでは誰も投資などしてくれないのである。
 日本にも欧米流の市場原理主義が持ち込まれ、自社の業績を声高に強調する経営者も現れるようになったが、しかしホリエモンや村上ファンドの退場≠最後に自信たっぷりの経営者を見かけるのは希有となった。それは誰もが儲けなくなったからではなく「知るものは言わず言う者は知らず」という東洋哲学が復活しただけだろう。つまり「まずまず」の精神である。
 しかしその「まずまず」が地方ではほとんど聞かれなくなったのは、どんなに謙遜しようとしてもその余地がないという状況が普遍的になったからだろうか。この変化は二十世紀から二十一世紀の境にかけて起こった一大変化というものであろう。そのはざまに生まれ育ってきた世代は郷愁を込めて「二十世紀は良かったな」とつぶやくのである。
 バブル崩壊後ずっと底をうごめいていた日本経済はやや持ち直しかけたところで、リーマンショックに伴う世界同時不況のパンチを食らい屋台骨がゆらいでいる。そこへもってドバイショックという新たな逆風が襲い、最近は「二番底」というキーワードがしきりに使われるようになった。元々株式用語だが、最悪の状態が再び訪れるという警鐘代わりに用いられている。要注意、用心を怠るなという意味においてである。
 しかし少なくとも地方には二番底がないと考えるべきだろう。というのも一番底で大打撃を受けたのは中央経済で、地方は余波を浴びはしたものの、深刻さの度合いは低かった。「いいこともないがそれほど悪いこともない」というのが実は地方で、それは好不況の振幅が小さいからである。実際、バブルの崩壊も地方には直接それほど響いていない。ただ長期不況の影響だけは免れないのも事実である。
 さて、地方に「まずまず」を復帰させるにはどうすればいいかということだが、実のところ、すでに一部では復活しているのである。それは第一次産業とその延長にある一・五次産業で、具体的に名を挙げるのは差し控えるが、そんな元気企業、元気組織の存在を知って頼もしかった。
 「こんな時期なので申し訳ないし、大声では言えませんが毎年右肩上がりです」という若い経営者の声を聞いた時はわが事のようにうれしく、相手からは後光が差して見えた。どんな時代でも着実に業績を上げている人々がいる。すべて景気のせいには出来ないのである。
 こういう実例を知ればこそ、小欄は前途を悲観していない。必ずや日本経済は不死鳥のように立ち直り一陽来復が訪れると信じてやまない。その到来を確かめるためにも健康だけは「まずまず」の状態を保つことにしよう。(英)

野球の好きな日本人
☆★☆★2009年12月06日付

 「おーい、どこに行くんだー。寄ってきなよ、面白い話があるぞー」
 「何ですかい?貧乏暇なしって言うがごとく、あっしはご隠居さんと違って忙しいんでさぁ。野球も大相撲も終わってしまい、退屈なんでしょ」
 「どうやらお見通しのようだな。仰せのとおりじゃ。何かないかと新聞を眺めていたら、今年のスポーツ人賞が決まったと出ていた。これを肴に、しばしスポーツ談義に付き合ってくれんか」
 「スポーツ人賞?あぁ毎日新聞がやっているやつでしょ。ウチは別の新聞をとっているんで詳しくは知りませんが、この一年に活躍したり話題になったスポーツ選手や団体を表彰するそうですね」
 「毎日スポーツ人賞と言うんだが、スポーツの幅広い分野で優れた実績を挙げた個人、団体を顕彰するんじゃ。文部科学省や日本体育協会、日本オリンピック委員会なども後援しているというから、一新聞社を超えた国民的事業≠ニ言ってよかろう。今年で十七回目なそうじゃ」
 「て、ことは平成五年からですね。で、今年はどんな選手や団体に?」
 「スポーツ・文化活動のすべてを通じた一番≠ノ与えられるグランプリは、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で二連覇に輝いた日本代表チームじゃ。ずいぶん昔のことかと思っておったが、たった九カ月前。他にも多くの話題があったものの、全国民の関心を呼んだスポーツイベントでの二大会連続世界一だから、文句なしじゃな」
 「そうそう、そうでしたね。第一回大会で不評だった運営方法は敗者復活戦方式にしたけど、韓国と五回も戦ったのは、まだ納得がいきませんがね。でも、難敵キューバを6―0、5―0と連続完封し、誤審で前回惜敗した米国に9―4と快勝した時は積年の恨み≠晴らしたようで、胸のつかえが下りましたぜ」
 「積年の恨みとは穏やかじゃないが、国際大会はそんな気持ちにさせてしまうから、やむを得ないか。それにしても、日本といい準優勝の韓国といい、アジア勢が強いことを改めて実感した。その象徴が2勝2敗のあとの決勝戦。3―3とがっぷり四つに組んだ末、延長十回にイチローの決勝タイムリーでケリをつけた。見ているほうも緊張したが、イチローが胃潰瘍で直後のレギュラーシーズンを八試合欠場するなど、プレッシャーは相当なものがあったようだ」
 「期待が大きかっただけに、あれには興奮しましたねぇ。それで、グランプリ以外は?」
 「文化賞がNHKスペシャル『ONの時代』制作チーム、国際賞がテニス四大大会六十二回連続出場の杉山、感動賞が体操世界選手権メダリストの内村と鶴見、ファン賞がプロ野球を盛り上げた野村監督と東北楽天、特別賞が米大リーグ・ワールドシリーズMVPのヤンキース松井、特別功労賞が戦後日本に勇気を与えたフジヤマのトビウオこと、水泳の故・古橋さんという顔ぶれ。これも異議なしじゃろ」
 「NHK『ONの時代』は録画しましたぜ。巨人V9の立役者だった王、長嶋の人となりはマスコミで幾度も紹介されましたが、番組は選手や指導者としての二人の証言をもとに、活躍の裏での苦悩、克服するための努力を、歩んできた時代と名場面とともに描いたドキュメント。審査員はよくこの番組を見ていましたね。どんな方が審査したんで?」
 「脚本家の内舘政子さん、女優の鳳蘭さん、元マラソンランナーの瀬古利彦さん、それに主催者、後援団体の代表の計五人。ファン賞は読者らの投票を参考にしたというが、まぁ誰が選んでもこうなるんじゃないかのう。何か不満でも?」
 「とくにありませんが、七つの賞のうちWBC、ON、野村楽天、松井と四つまでが野球関連。審査員は野球キチとは思えませんが、日本人はつくづく野球が好きですねぇ。あっしならついでにもう一つ、ファン賞に花巻東の菊池雄星くんも推すなぁ。東北球界に陽を当てたという功績は楽天と同じか、それ以上だと思いますがね」
 「同感。でも、若い時分に大きな賞を上げてしまうと、伸びしろに影響しかねん。期待賞とか新人賞とかがあれば別だがね」(野)

「山の神」信仰の12日
☆★☆★2009年12月05日付

 マタギと呼ばれる人たちが活躍していた時代の十二月十二日は特別な日だった。この日は毎月ある「山の神の日」の中でも年に最後となるだけに、「しまい山神」として山には絶対に入らなかった。
 現代ではそうした風習は薄らいでいるわけだが、山の神信仰は今日でも各地に伝わっている。そもそも十二日が何故「山の神の日」かと言えば、山の神は年に十二人の子を産む。それも毎月の十二日と決まっているからだ。
 猟で生計を立てるマタギにとって、その日は山の神が入山を嫌い、山が荒れる心配があったため「山の神の日」と決めて信奉した。
 地域によっては山の神を男性、時には夫婦とする場合もある。しかし、陰陽道(おんみょうどう)では奇数は男性、偶数は女性と考えるだけに、十二という偶数は女性を暗示する。それを踏まえてかどうか、マタギたちは山の神を女性と考えていた。
 一年に十二人もの子を産むだけに、多産や安産の神として信奉。それだけでなく、山で獲物を得るも得られないも、すべて山の神次第という考えも根強く浸透していた。
 女性である山の神はまた、自分自身の容姿をかなり気にしているのだという。そのため、マタギが山に入るときの必須アイテムはオコゼの持参。山にはないグロテスクな顔をしたオニオコゼを乾燥させ、それを十二の袋に入れて持ち歩く。猟がなくなった時には、それを少しずつ開いて見せる。
 それによって山の神は「何とも変な姿をしているものだ。ワシより数段醜いものじゃな。それにしても、よくぞ見せてくれた。愛(う)いやつじゃ。どれ鹿の一匹でも捕らせてやるか」とご機嫌になり、マタギに獲物を授けてくれるという寸法だ。
 山の神のご機嫌を取ればよいわけだから、オコゼがない場合は代用品でも良いことになるが、とにかくマタギにとっては自分たちの生活が成り立つかどうかは、すべて山の神次第と固く信じていた。
 山の神の出産日である毎月十二日は山に入らないのはもちろんのこと、その日は神棚に餅や団子を供え、お神酒を飲んだりご馳走を食べたりで一日を過ごした。
 マタギたちが猟を行う場合、特に鹿狩りの場合には集団での役割分担が欠かせなかった。鹿を追い出す勢子(せこ)と、銃で仕留める役柄とは区別した方が効率が良いだけに、マタギにとって仲間はなくてはならない存在だった。
 集団内にあっては単独行動は許されず、猟を仕切るシカリの統率のもと、独特の信仰形態を維持。山中では里言葉は使わない、十二人で山に入らないなどのタブー(禁忌)があった。そうしたタブーの中には、広く里人にも普及したものがある。
 山の神の出産日には、できるだけ山に入らない。その日は、山の神が木を数える日にも当たるだけに、決まりを破って山に入ると、その人間も木として数えられ、山から出ようとすると大けがをしてしまうと信じられていた。
 年末と年始の出産日は、一年の締めと始まりに当たるだけに、より厳粛にタブーを守る。年末の「しまい山神」の日は決して山には入らず、男たちだけでお神酒を飲んだりご馳走を食べたりする。
 年始の一月十二日には、山の神碑や神棚に十二個の餅を供える。この時に注意すべきは、その餅を女性は食べてはいけない。子を授からなくなったり、不作になったりするからだ。逆に、その日以外に山の神を拝みながら餅を食べれば多産や豊作に恵まれるという。
 少子化の今日だけに山の神にすがりたくなってくるが、気仙では五葉山麓の鹿が増えすぎて農作物被害が拡大の一途。それだけに、早く適正生息数になるような鹿猟を祈念するためにも、来るべき十二日は「山の神」に思いをはせる日としたいものだ。(谷)

「ちょっと深イイ話」
☆★☆★2009年12月04日付

 先月のある晩、取り立てて見たいと思う番組もなく、テレビのチャンネルを変えまくっていた。
 そんな私の目と指がなぜか、日本テレビの『人生が変わる1分間の深イイ話』でとまった。
 ちょうどタレントの伊集院光さんが、四年前に体験した話を披露するところだった。
 番組によると、伊集院さんは高島屋へ奥さんの贈り物を買いに行き、お目当ての品物を注文した。
 ところが返ってきた答えは、
「あいにく在庫を切らしております」
 というもの。
 応対した女性店員さんは、
「少しお待ちくださいませ」
 そう言い置くと場所を移して電話をかけ、戻ってきた。そして、伊集院さんの人生を変えるほど驚かせるような言葉を口にした。
「伊勢丹さんに連絡を取りましたら、在庫があるそうなのでお取り置きをお願いしておきました」
 高島屋の店員さんは自分の店の利益より、お客様の願いを優先し、ライバル店へ電話して在庫を確認した上、予約まで入れてくれたのだ。聞けば、お店全体でそうした取り組みを行っているとか。
「自分が損をするようなことを敢えて言う店を俺は信用する!」
 以来、伊集院さんは高島屋に絶対的な信頼を置くようになった。
 番組の余韻が覚めやらぬ、ある夜のことだ。
 お世話になった方に資料をメール便で送ろうと、会社帰りに某宅配会社の営業所に立ち寄った。
 メール便は厚さが一aまでだと一通八十円と極めて安く、よく利用している。しかし、今回持ち込んだ封筒の厚さは規格をはるかに超えていたようだ。
「メール便扱いにはなりません。普通扱いですと七百四十円になりますが、よろしいですか?」
 一瞬、テレビで話していた伊集院さんの話が頭をよぎった。
 営業所の人は事実をきちんと説明し、私に考える余裕を与えてくれたのだ(と思った)。
「明日、郵便局に行ってみます」
 そう言って封筒を受け取った。
 翌日、ある郵便局に出向き、封筒を差し出した。
 計量を始めた窓口の方に、
「できれば速達で」
 と思わず声をかけた。
 お世話になっただけに、相手方にできるだけ早く届けたいとの思いがこみ上げてきたのだ。
「速達だと八百円になります」
 その言葉に私の表情が変わったのだろう。応対する窓口の方は、
「エクスパックだと五百円で、速達と同じように明日着きますよ」
 と言うが早いか、素早く厚紙の専用封筒を出してきた。
 そして、こうも言ってくれた。
「お忙しいようでしたら、私の方で宛名をお書きし、お出ししておきます」
 その時再び、伊集院さんの話が頭の中に浮かんできた。
 宅配会社の方も、郵便局の窓口の方も封筒をそのまま受け取り、正規の料金を請求しようと思えばできた。宛名もその場で私に書いてもらえば自分の手数が省けたはずだ。しかし、自分たちの損を覚悟で、私の懐具合や手間ひままで考え、声をかけてくれたのだ(と思う)。
 それぞれの上司の方々、決して応対した社員の方々を叱らないでください。そのおかげで、私の中では宅配会社や郵便局への信頼感が増したのですから。
 テレビ局で視聴者からの「深イイ話」を募集している。私の場合は番組に応募するほどの話でも、人生を変えるようなインパクトのある話でもない。とはいえ、身近で起きた「ちょっとばかり深イイ話」に心を勝手に和ませ、嬉しくなった。
 もっとも根が単細胞にできている私のこと。単にテレビの影響を受けた独り合点では、と言われてしまえばそれまでである。まあ、それでもいいかと思う。私の心が温かくなったのだから。(下)

続・平氏の末裔「渋谷嘉助」F
☆★☆★2009年12月03日付

 「ダイナマイト」を日本で最初に輸入販売したのは、渋谷嘉助であった。渋谷嘉助が大船渡湾に面した弁天山で石灰岩の砕石を始める二十八年前のことである。
 鉱山の岩盤の発破に有効なダイナマイトを、明治十五年(一八八二)、渋谷嘉助が経営する渋谷商店は鉱業用として販売を開始した。嘉助自身がその後、弁天山で操業を始めた渋谷鉱業の砕石作業でも当然使われたものと思われる。
 渋谷嘉助の先見の明によって、日本の鉱業界は急速に進展した。明治十五年、父の弟の忠兵衞の養嗣子となった渋谷嘉助は、大阪で立ち上げた事業を閉じて東京へ戻り、叔父が経営する陸軍御用達の銃砲火薬店の業務の一切を任される。
 その姿勢は親切実意、至誠を貫いたものであった。粉骨砕身の労苦を重ねた結果、業績が伸び、商業の中心地と仰がれる日本橋で押しも押されもせぬ一流の商人、屈指の紳商となっていた。
 世の中は、第一回帝国議会開会(明治二十三年)を目前に騒然としていた。そのころ叔父が亡くなり、渋谷商店を相続した渋谷嘉助は縦横の才覚で業界の内外で注目される存在となる。
 我が国で初めて銃砲火薬商業組合が組織されると、推されて頭取となった。
鉱業は一国富力の重点と考えた渋谷嘉助は、いち早く西洋諸国の技術に着眼した。国内の鉱業技術が未発達では西洋の文明諸国に伍することはできないと痛感し、西洋事情に通じた人々から情報を収集し、翻訳書と日夜首っ引きで研究した。
 ダイナマイトという驚くべき爆発薬があることを知り、その力が多くに利用されることから、直ちに輸入を計画した。当時は元士族が反政府の気勢を上げていた。危険を伴う爆発物の輸入は想像以上に困難を極めた。
しかし、百折不撓(ひゃくせつふとう)の渋谷嘉助は、度重なる困難に見舞われてもくじけることなく、遂にダイナマイトの輸入を実現した。
 人力に頼るだけだった、それまでの我が国の鉱業界。初めはダイナマイトに対してもろもろの危惧を抱き、輸入販売しても進んで使用する者がいなかった。
 そのような状況の時、最初に使用したのが、「銅山王」の古河市兵衞であったという。
 古河財閥の創始者で足尾銅山などに投資し、有望な大鉱脈を次々と開発していた銅山王は、ダイナマイトの破壊力を試し、その効力に驚いて実際に使用し始めた。
 これが国内の鉱業界でダイナマイトを使用した最初とされ、全国にある各鉱山も争ってダイナマイトを使用するようになった。
 渋谷嘉助と商取引があった古河市兵衞は、財界人の渋澤栄一や本県出身の平民宰相の原敬とも親交があったらしい。渋谷嘉助の頌徳記念碑の題額を渋澤栄一が書いており、各界とのネットワークが築かれていた。
 日本の鉱業界はダイナマイトの導入で進歩発展し、これを輸入販売した渋谷商店も業績を伸ばした。いち早くダイナマイトに着眼した渋谷嘉助は、鉱業界の画期的恩人と称すべき存在として、その名を喧伝することとなった。
(ゆ)


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