2009-12-13
なぜ勉強しろと言えば言うほど成績は下がるのか。
机に座っている時間で能力が比例して伸びるならば誰も苦労はしません。机に縛り付けて、ひたすら量をこなさせればいいからです。各種のパターンを頭の中に刷り込み、試験ではそれらの詰め込んだ知識を確認するものであるならば、試験のための学習にしかなりません。勉強の量を問題視しても本当の学力には繋がらないのです。むしろ、親の勉強させ続ける労力の方が子供が勉強する労力を上回ってしまいます。
知識の量=優秀
いままでは以上の方程式が成立しており、たくさん覚えていることが優秀とされてきました。たくさん覚えるためには必然的に地道に繰り返していくしかありません。公教育においても未だに、ひたすらテープレコーダーを流すような授業を展開しているところもあります。もちろん大半の子供達は飽きて勉強しなくなります。
テストの点数を見て不安になる親に目をつけたのが学習塾です。短時間で効率的に暗記する方法や、理解度を上げる様々な工夫を行なうことで、効率的に試験の点数を稼ぐ『学習』を販売するようになったのです。
しかし、効率が違うだけであって学習の目的『知識の量を増やすこと』は公教育も塾も対して変わりません。いかに効率よくパターンを認識させるかを歌い文句に、ただただ『知っている』『覚えている』自己満足に陥っている『優秀な』人間を増産しています。
パターン以外のものを創造するといった本当の学力は試験では点数になりません。いつまでたっても追いつけ追い越せの発展途上型の学習方法から抜け出せず、本来の創造といった学習の本質を見極められない大人が、効率よく分量をこなし、ひたすら暗記している子供達を作っています。
どの分野をどこまで学習するのかといった方向性や量が分からない。
それは子供に責任を持って決めさせることではないでしょうか。目標達成への計画と実践は子供自身が行うことです。勉強しすぎるのは、学習効果も下がり時間だけ浪費することに繋がります。集中力が落ちてきて疲れてきたなと感じるのは子ども自身です。ペース配分も子供が管理すべきことです。
集中できる時間は大人でも限られています。子供なら尚更です。だらだら勉強しているのは勉強しているフリをしているだけです。これは仕事も同様です。時間数に比例して成績が良いわけではないというデータがそれを裏打ちしています。
自らの道を模索する力と、その道を歩んでいく力を育むのが真の教育。
暗記しただけで使うことをしない知識はすぐに忘却することは周知の事実です。基礎的な知識は使用頻度も高いので忘れませんが、応用になればなるほど専門外のモノは忘れてしまうということはよくあることです。営業を行なっている大人が理工学に疎くなるのは当然で、技術開発をしている人が純文学に疎くなるのは必然です。
試験が目的になり、パターンの量を競うのは学習の多くの無駄を生んでいる。
将来を決める選択肢として広く学ばせることは重要だと思います。ただし、それは基礎のみにおいてです。基礎を習熟させる事を疎かにしてパターン認識を強要すれば学習はつまらなくなり、学習自体に嫌悪感を覚え、本当の学力から子供達を遠ざけてしまいます。基礎的な力が身に付いていれば好きなことは掘っておいても自分からできるようになります。不足していると感じたなら自ら取り組むはずです。
教える側も課題は多いです。昔に比べて教えることのできる知識が膨れあがっています。しかし、学習方法やに教育技術に関する技術やノウハウが意図的かどうかは分かりませんが継承されず、ひどく劣化してきたために教えるための時間ばかりが足りないという結果になっている気がしないでもありません。
教えるべきコアな部分というのはいつの時代もそう多くは無いはずです。
全てを教えなければならないというのは教える側の傲慢以外のなにものでもありませんし、実現不可能な夢を追いかけて地に足がついていない方が学習効果が下がります。必要なことは基礎を活かして徹底的に遊ばせることです。その遊ばせる部分のサポートこそが教育の真髄だと思います。蓄えた知識がどのように使えるのかを知ることができれば、知識と社会の関係を知ることができ、そして次の学習への意欲へと繋がっていくからです。
勉強しろといえばいうほど成績がさがるというジレンマ。
なぜ勉強しろと言えば言うほど成績は下がるのか。それは、試験以外使う当てのない知識を無理矢理インプットさせる行為であり、試験を乗り越えた先にはなにも残らないという虚脱感を子供達は知っているからです。それは実は私たちも子供の時は知っていたはずです。なぜ同じ事を繰り返すのでしょうか。
本来、学習の目的は『夢を実現させる道のりを歩く力を身につける』という楽しいものであるはずです。勉強をつまらなくしているのは他ならならぬ私達自身なのです。
参考文献
参考記事