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泥濘(ぬかるみ)に足とられないように―日韓併合100年に寄せて(3)

李喜鳳2009/12/02
前回記事:泥濘(ぬかるみ)に足とられないように―日韓併合100年に寄せて(2)

雨森芳洲―たがいに欺かず、争わず

 1990年、来日した韓国大統領盧泰愚(ノ・テウ)は、「宮中晩餐会」の挨拶で、雨森芳洲をとり上げて「誠信の交わり」について話しました。芳洲は、韓国では有名な日本人です。

 「朝鮮通信使」の、陰の立役者が雨森芳洲でした。芳洲は(1668年〜1755年)は、木下順庵の高弟であり、順庵の推薦によって対馬藩に仕え、この藩の主要政務である『朝鮮』との応接に活躍した儒者です。(*1)

 芳洲の国際政治学理論とは、「公益を通し、その余利をもって人数を召しおき、軍用を調べ、国境を守る部隊をたてて異国を防ぐ」です。

 対馬は、その地理的位置からあきらかなように、古代から、大陸との交通の要としての役割を果たし、江戸時代には、朝鮮との交流が許可された唯一の地域です。

 前回、「国交回復は、家康の命により、対馬藩の奮闘でようやく修復された」と書きましたが、それは誕生間もない徳川幕府を震撼させるほどの「柳川一件(やながわいっけん)」を超えてのことでした。

 「壬辰倭乱」で対馬は、すっかり疲弊してしまい、戦後、対馬単独の判断で1598年末、急ぎ、朝鮮へ使者を派遣していたのですが、朝鮮では、秀吉の襲来を「此賊乃吾邦百年之讐」といって撥ね付けるばかりでした。

 ところで、対馬の外交に徳川家康の智謀ぶりが垣間見えます。まだ関が原の戦いも始まっていないという1599年、早くも、対馬藩主に朝鮮との和親回復の意図を伝えていたのです。

 このときより、朝鮮方役に就いていた芳洲が奔走することになります。芳洲は中国語も朝鮮語も堪能でしたが、ことに朝鮮儒学者[李退渓]を尊崇していましたから、全身全霊をもって臨みました。

 しかし、朝鮮は懐疑的であり、あくまでも、侵略の謝罪と、「被虜人」の全員送還、王陵をあばいた犯人の縛送を要求し、譲りませんでした。

 このとき、対馬藩家老の柳川調興は野望から裏切りをしかけたのですが(敗北)、芳洲は徹頭徹尾、「誠信の交わり」を説き、「朝鮮との外交は欺かず、争わないものであるべき」と貫きました。

 芳洲は、「通信使」に、二度、「真文役」として同行していますが、それは、つききりの世話役です。円滑に旅程をすすめるために礼を尽くして説明し、食材から、食器にまで気配りしました。

 困ったことには、しばしばお互いの立場や面子のために…それは挨拶の仕方に異議を唱えて紛争になるなど、心労の絶えないものでした。(*2)

 一行の往復には6カ月もついやされたのですが、見送りに、対馬の厳原で別れの挨拶をかわす芳洲の頬は、涙で濡れていたといいます。(『海遊録』申維翰)    

 芳洲は、稀にみる辣腕の外交官でした。対馬藩「朝鮮役」とは、つまり交易国との外交を司るという大仕事ですが、難題課題ばかりです。

 善隣外交の姿勢を堅持しつつも「国益」を念頭に朱子学の問答の形式で議論を重ね(*3)しばしば難航することがありました。しかし芳洲は、相手の多重的な主体性を認めつつも、丁々発止の交渉をとおして、結果、相手側に「肝胆相照らす仲となった」と言わしめた傑物でした。


 ここで、朝鮮の儒学と日本の儒学を比較してみたいと思います。日本では、統一後も「藩政」という分権政治でしたから、朝鮮のようにひとつの学派が圧倒的に支配するというようにはなりませんでした。ですから多様な学派が並存して相互に批判、刺激しあって、独特な発展をみせました。
 中国・朝鮮の場合は、朱子学一尊であり、体制教学的に朱子学が発展し、それは、党派争いにまで進んでしまいましたが、日本の場合、近世儒学は、武士が世襲的に支配する封建社会のなかでの成立でしたから、「科挙制」には結びつきませんでした。
 また、中国・朝鮮のように「修己治人の学」として徹底していなかった分、社会の習俗の中に浸透することが困難でした(*4)。これは幸いであったと思われます。隙間があった分、学問が庶民にも広がりましたし、また、日本独特ともいえる「神儒仏」の三教一致の心学思想も形成されました。

 このような伏線があって、日本独自の「古学」がおこります。萩生徂徠が登場しますし、三浦梅園、安藤昌益他の独創的な成果が生まれます。また、儒教そのものを真っこうから批判する「国学」の大成者、本居宣長がつづきます。その学問は、まさに批判哲学と呼ぶべきものでした。(*5)


(*1)外交においては、まず相手国の心を知らねばならず、それを尊重していかねばならないとして、朝鮮に留学して「朝鮮言葉稽古」をし、その文化・風俗・習慣まで心得て「朝鮮風俗考」、「交隣是醒」他を著し、また、「全一道人」を翻訳しています。

(*2)将軍交代のたびに江戸城内では儀礼の形式が変更されたのですが、形式主義の朝鮮はそれをなかなか受容しません。また、吉宗の時代には幕府側の計画として、帰途、方広寺代仏殿での招宴が用意されていたのですが、通信使側は「秀吉の願堂の前で招宴をうけるなど、どうしてできようか」と主張して譲りませんから、芳洲は往生しました。

(*3)議論のためには、朱子学という学問の教養が求められ、また、問答は「事実に基づき真理を求める」という原理原則を中心にするのでなければ、相手から信頼されません。朝鮮国から、「それ一世の騒壇なり」と誉められた人物に新井白石がいます。白石と芳洲は同門であり、芳洲は、11歳若いのですが先輩にあたります。

(*4)徳川時代の封建社会の呪縛は、しばしば嘆かれますが、実は、中国・朝鮮の封建社会に比べると緩やかであったと指摘しなくてはなりません。儒教でがんじがらめに縛り上げられたために、日本の元禄時代のような「町民文化」が開花しませんでした。乗り遅れて、近代資本主義経済を見る前に、植民地支配されてしまいました。

(*5)学問の上では、大いに批判しあったのですが、林羅山以来「封建支配」を批判した儒学者は見当たりません。常に、幕藩体制の危機を意識し、徳川幕府を正当化しなければなりませんでしたし、また「国学」においては、それは「神の心」に反するものとされたからです。そのために、結局は、単なる古代尊重や外国排斥につながっていくことになりましたこれを、後に、福沢諭吉は厳しく批判しています。

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[56018] 金玉均の言葉
名前:明石晶
日時:2009/12/13 21:21
「閔妃を亡きものにしない限り、開化も独立も実現しない」
金玉均
[返信する]
[56017] ならば李王朝を復活させなかったのは何でだよ
名前:明石晶
日時:2009/12/13 21:16

在日の強制連行説には一切反応しないで、閔妃の問題には即反応か。
前者が全く勝ち目のない、民族の汚点だと言う自覚がある証拠だな。
自分たちの汚い惨めな歴史を隠蔽し、日本を悪役に仕立て上げて満足するその性質は
あんたが嫌ってやまないレイシズムそのものだぞ。



さて、そんなに国民に愛されていた閔妃。
にっくき日本に無残に殺された閔妃。

ならば、何故日本の敗戦で独立したにも関わらず、王政復古しなかったんだ?
李朝の生き残りは日本にいたぞ。
国民に愛されていた、日本人に虐殺された、悲劇のヒロイン閔妃は戻らないにせよ、
王政を再び建てることは可能だったはずだ。何故それをしなかった。
朝鮮人は王室を憎んでいたから復帰を望まなかったんじゃないか!!
いい加減にしろ!!


李喜鳳よ!
お前は、今の金正日体制を倒すために何かやってるか?
お前の同胞がたくさん苦しんでいるぞ!
お前が日本で飢えに苦しむこともなく、言論の自由も保証されているなかで、取る
に足らない事で「差別だ差別だ」と喚く暇があったら、金王朝を倒すために何かや
ってみろよ。

李朝の後継と言える封建国家北朝鮮の現状について何ら行動しない人間が、過去の
閔妃殺害について日本を批判する資格などない。自分たちで封建国家から脱出する
こともできず、金王朝を倒すこともできず、日本を逆恨みするだけか。

いい加減にしろ。
もう一度言う。
いい加減にしろ。
[返信する]
[56016] 閔姫は明石さんの言うとおり朝鮮人に殺されたと言うのが歴史ですよ。
名前:金丸剛
日時:2009/12/13 21:14
李喜鳳サン

閔姫は明石さんの言うとおり朝鮮人に殺されたと言うのが歴史ですよ。
日本通信使の間違いも訂正できない貴方が何を言っても説得力ないし。
[返信する]
[56005] はなはだしい誤謬について、苦言を呈します。
名前:李喜鳳
日時:2009/12/13 20:07
まずは、この事件が世界帝国主義歴史上、他に例をみない残虐非道な事件であった
ために、この蛮行が世界に知れて大ひんしゅくを買い、その後の日本の地歩をも
危うくもしたのです。

何というお間違いを!これは、日本公使三浦梧楼(みうら・ごろう)の直接指揮のもとに、
日本人駐留軍人と日本人大陸浪人を動因して王宮に押し入っての狼藉でした。

よろしいですか? 朝鮮王朝の后(明では朝鮮皇后と呼んでいました)を、日本人公使が首謀者
として虐殺したのです。「閔姫」とは、日本でいえば、天皇の后にあたります。

西太后に似ている、似ていないは問題の外です。ここでは明石さんの主観は論外なのです。
その虐殺事件とは、閔姫ほか2名の女官を虐殺した上に死体を陵辱して、石油をかけて
焼き払ってしまうという、身の毛もよだつ粗暴な事件なのです。
国際世論の非難を避けようと、日本政府は三浦らを召喚して形だけは裁判
にかけましたが、まもなく「証拠不充分」として全員免訴になりました。
三浦は、晩年、学習院院長という名誉ある地位を与えられています。

証拠は、国立国会図書館憲政資料室にあります。
憲政史編纂会収集文書 外交問題主要事件資料 546
朝鮮王妃事件関係資料 546-1
[標題]石塚英蔵書簡、法制局長官末松謙澄宛" マイクロフィルムです。

ここまでのことをあちらこちらで発言されておられるのですから、是非とも見るべきです。

また、一般の人へのお勧めとしては、角田房子:閔妃暗殺―朝鮮王朝末期の国母」があります。
これは小説ですが、ほぼ史実に忠実です。目を見張る、読ませるノンフィクションです。
この小説が、国立図書館では分類は「文学」ではなく、「歴史」となています。

親日作家が、「西太后に似ている」と書いて裁判になり、敗訴しています。
*「名誉毀損」であるとして賠償金命令9600万ウォン。

JANJANでは、記事は客観的事実を書くべきと要請されていますから、せめてウキィでも
ぞんざいに斜め読みされないで、調べてから投稿していただきたいと思います。

ことに論争がある場合は、両者を併記していますが、その数々を読まれて、矛盾点こそ注目
されて、読み込んだ上で記事を書いてください。朝鮮の歴史については日本人の大半は
知る手立てが乏しいために多少の誤謬は致しかたないないと思いますが、
明石さんの場合は、あからさまな意図をもっておられるように感じています。

また、恋人ではないのだから「李喜鳳よ」などと呼ばないでください。
[返信する]
[55926] 金玉均が死んだのも閔妃が死んだのも全部日本の責任なのか?
名前:明石晶
日時:2009/12/12 15:12
>*壬午軍乱、甲申事変(閔姫虐殺といえばイメージできるでしょうか?)

近年、閔姫が日本により虐殺された悲劇のヒロインみたいな扱いになってるが、いい
加減にしてくれ。日本が加担したのは事実だが、犯行のメインは朝鮮人だ。閔妃は
朝鮮版西太后とも言える存在で、私利私欲の為に国家財政を破綻させ国を売った存
在として朝鮮人に恨まれていたんだ。

多数の餓死者と独裁体制に苦しむ庶民を救うために金正日暗殺に協力したら、いつ
のまにか日本が庶民の良き理解者金正日を暗殺した極悪人として糾弾されている感じ
に近い。

親日的だった金玉均だって、朝鮮人に凌遅という中国式の残虐な処刑方法で殺された
にもかかわらず、いつのまにか日帝の犠牲者みたいな扱いで美化されてるし。


これで、朝鮮人を差別するなという方がおかしい。
助けなければ恨まれる。
助けてやっても逆恨みされる。




李喜鳳よ。
そんなことばっかり言ってたら本当に日本に居場所がなくなるぞ。
今は団塊の世代がいるからどんなことを主張しても同情されるが、その下の世代は
「朝鮮人は信用ならない」という認識が広がってる。

日本になすりつけるだけじゃなくて、少しは自分たちを省みると言うことをしたら
どうかね。
[返信する]
[55924] 福沢諭吉:「文明の精神」と教育
名前:李喜鳳
日時:2009/12/12 13:50
私は、福沢諭吉を教育者として高く評価しています。
「人民独立の気力」を育成する仕事は、その本質からして、「私立の精神」に支えられた自由な知的
な活動によってのみ期待できるとして、権威と権力の担い手たる政府の営為によっては達成できない
いとして「学識職分論」を立てたからです。言うは易しですが、当時はまだ「権力の偏重」という
権威主義的風潮のなかにありましたから、一石を投じたもののなかなか理解されませんでした。

また、福沢は西洋文明のめざす方向が智徳の進歩であることをはっきりと捉え、現実にはその過程に
あって欠陥も多々あるが、という客観化を行っています。西洋文明に対するこのような明確な位置
づけは、他の明治期の思想家には見られないものでした。

しかし、このような提言が、やがて日本に政治的社会から独立した在野の自由な「知」の営為を育んで
いったものと思います。やはり「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」という
キャッチコピーは、多くの少年少女を励ましたと思います。言葉の力を実感します。
また、「士農工商の間に少しも区別を立てず、固より門閥を論ずることなく、朝廷の位を以て人を軽蔑せず、上下貴賎各々其所を得て、毫も他人の自由を妨げずして、天稟の才力を伸べしむるを趣旨とす。但し貴賎の別は、公務に当て朝廷の位を尊ぶのみ。其他は四民の別なく、字を知り理を弁じ心を労するものを君子として之を重んじ、文字を知らずして力役するものを小人とするのみ…」と自由・平等を唱えています。

また、迷信を打破し、国民全体が安楽で品位を保てるような国づくりをするために必要なのは、
実質的にそれに寄与できるような学問、すなわち実学であるといっていますが、
ドイツ留学から帰国した北里柴三郎のために、東京柴山内に伝染病研究所を設立に尽力し
北里を所長に迎えたとは勇断であったと思います。

ところで、福沢諭吉は吉野作造に共通していると述べる学者がいますが、中国・朝鮮へのアプローチ
の手立てが違うと考えます。吉野作造は、袁世凱の子どもの家庭教師だったこともありますが、
孫文と直接にかかわり、朝鮮の「3.1独立運動」の志士とも親しく交流し、その上で論説しています。
「朝鮮青年会問題」「北京大学騒憂事件について」「民族と階級と戦争」などの論文からもわかり
ますが、福沢のように上から目線ではないように思います。

また、福沢の門下から自由民権運動の思想的リーダーが育っていきました。福沢は日本に貢献した
歴史的な人物といえると思います。ことに植木枝盛は、世界における列強主導を容認せざるを得な
いとしても、つねに国家主義的に対応する福沢を批判し、後に、人民による「国会憲法」制定草案作
りのために奔走します(挫折してしまいますが…)。天地大動乱という明治時代、多くの傑物が輩出し、活躍しました。
[返信する]
[55922] 福沢諭吉と「征韓論」
名前:李喜鳳
日時:2009/12/12 13:46
福沢諭吉ほど、毀誉褒貶(きよほうへん)の多い人物も少ないと思います。
その評価は右に行き、左へ行き…です。

開国をめぐる体外的緊張の急速な高まりと、政治社会体制そのものの近代化が不可避となった幕末、
知識人たちは国民に新しい「文明」のイメージを伝える役目を負うことになりましたが、
とはいえ、洋楽を受容したものの、すぐさま従来の伝統的観念と断絶できるものではありません。
知識人は皆々、旧来の観念を読みかえて新しい文脈に組み替える作業を重ねなくてはなりません
でした。それは、佐久間象山の有名な言葉「東洋道徳、西洋芸術」が言い表していると思います。

このような時代…世の中が、経世論的色彩の濃厚な情報を求めていたのです。
福沢諭吉は、実利にさとい人であったと思います。新時代の情報を知的な方法を用いて提供していきました。

しかし、また一方で、福沢諭吉が著した「征韓論」は、近隣アジア、とくに朝鮮を
頑迷な腕力で圧服させる対象としてしか見ない対外観であり、日本の二度にわたる野蛮な武力挑発、
武力発動というものを中国・朝鮮にやきつけてしまったと指摘しておかなければなりません。
*壬午軍乱、甲申事変(閔姫虐殺といえばイメージできるでしょうか?)

国内での自由民権運動には直接の支援を行わなかった福沢ですが、知る人ぞ知る、朝鮮開化派には
早くからコミットしていたのです。金玉均ら朝鮮の独立党を積極的に支援したのは、彼らが真の
報国心をもつ有為の人材であり、いっぽう清国に操縦されているような李氏朝鮮王国は打倒される
べき君主専制国家であるとみなしたからでした。
金玉均が来日して福沢と面会し(1882年)、朝鮮の近代化のために尽力してほしいと訴えると、福沢は井上馨外務卿を紹介していますし、朝鮮政府への銀行からの融資に便宜を図ってもいます。さらに福沢は日本国内で独立党を助けようとしたばかりではなく、実際に門弟を朝鮮に派遣して西洋文明の移入を図ろうとして、そしてその成果として1883年10月に朝鮮初の新聞『漢城旬報』の発刊にこぎつけています。
ところが、甲申事変が無残に失敗し、敗北感をかみしめると、その崩壊の衝撃のもとで
『脱亜論』を執筆するのです。「悪友を親しむ者は共に悪名を免かる可らず。我は心に於て
亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」といい、東アジアの悪友とは縁を切って近代化を進めて行く
ことが望ましいと結んでいます。この変化の脈絡を読まなくてはならないと思います。
結果に憤慨し挫折感をかみしめましたが、しかし甲申事変のような明らかな武装峰起をテロリズム
とは考えなかったようであり、自分を責めて悔恨するということはありません。いよいよ「文明の精神」
を説いていくことになります。

やはりここで問題となるのは、その「脱亜論」の背景に国権拡張の意識があったかどうかです。

やはり日本軍による朝鮮王宮占領という「甲申事変」への援助は、どのようないいわけをしても
野望があったと指摘しなくてはなりません。福沢は時代をよく読んでいました。

「甲申事変」とは、清仏戦争から漁夫の利を得て朝鮮から清国の勢力を駆遂し、一挙に独占的な勢力
を扶植しようとした日本の乱暴な陰謀であったからです。日本政府が計画に関わり福沢も同席して
いたからです。背後には、西洋帝国主義への重圧感、また、実は中国の国力への伝統的な高い評価
があり、食うか食われるかの賭けがあったでしょう。青木さんが指摘されるように内心ではまさに
「薄氷を踏むような」緊張のなかでの突進だったと思います。

ところで、「1980年、首相山県有朋は「外交政略論」にて、きっぱりと
「わが国、利益線の焦点は実に朝鮮にあり」と演説しています。そうして福沢はそのころ
「通俗国権論」において、英・仏・露などの政略は「実力の虚喝」であって、
現実に対兵力を日本
に遠征させうる力はないのだ、と論じているのです。さらに3年後、1881年9月「時事小言」にて、
1882年「朝鮮の交際を論ず」では、朝鮮の大火は日本に類焼するとして、日本は「防火建築」の
ために積極的な干渉を要すると主唱しはじめています
福沢は日清戦争では、官民調和論・国権興張論を書いたのですから、福沢にも同時代的な征韓論が
あったとみるべきでしょう。

これは何も福沢に固有の対外野心や膨張欲ではありません。日本では、台湾遠征や江華島事件の
前後から、朝鮮への軍国主義的国権拡張熱がひろがり、征台論・征韓論に熱中した不平士族層、
初期の過激派民権派壮士たちの鬱屈した志士的情念が、次々と弁論されていき、軍国熱・外征熱は
いよいよ高まっていったのです。私は、これを「時代の束縛」といいます。

福沢諭吉は、知識人の課題について「政治の局外に身をおく」としばしば言っていますが、その実、
いやいや政財界に知己が多く、常に日本の国家的独立や富国の達成という経世的な志から政治的
発言をしています。例えば、凡友に森有礼がいますが、清公使に任命され日清修好条約批准、半年後、
李鴻章との会談で、
「それは謬論だ。強きを恃(たの)んで約に背くと云うは万国公法も之を許さざる所です」というと、
あの森有礼が、「万国公法また無用なりです。」と言ってのけています。
私には福沢もこれに似た国際外交観、対外観があったとみえます。


福沢は、以下のように書いています。
古来より、両国とも保守的で進歩の方法を知らないようである。交通が便利になった時代であるのに「西洋の文明を受け入れようともせずに古風旧慣に恋々としている。」「教育については儒教主義を堅持して虚飾のみを重要視する。また実際については真理や原則を見抜く力もなく、道徳さえ残酷破廉恥を極めているのに、なお傲然として自省の念さえないようだ。」
これは、朝鮮改造論、朝鮮掌握論といえるものでしょうか。朝鮮人からみれば独りよがりのお節介
といえます。露骨な朝鮮蔑視ではないとはいえ、その奥にある隠れた認識をみてしまいます。

とはいえ、1880年、明治時代、「第2回通信使」として来日した金弘集らに面会した福沢は
20年前にロンドンを訪問した自らの姿を重ね合わせて彼らを励まし、さらに翌年イギリスの友人宛
の手紙に、「二名共先づ拙宅にさし置、やさしく誘導致し遣居候。誠に二十余年前自分の事を思へ
ば同情相憐むの念なきを不得」と書いていますからロマンティシズムはあったのかもしれません。
[返信する]
[55874] 朝鮮中国の汚点ならいっぱい知っているんだけど。
名前:金丸剛
日時:2009/12/11 21:54
日本近代の汚点って何?

朝鮮中国の汚点ならいっぱい知っているんだけど。
[返信する]
[55866] 日本近代の汚点
名前:深田哲也
日時:2009/12/11 21:33
大変,勉強になりました.知らなかったことばかりです.

身近にある近代史の書き物を読みますと,日本が朝鮮半島,大陸にしていた行為の情けなさを目の当たりにします.
日本人として猛省すべきことがらです.
歴史の誤ちを繰り返すことのないよう誓うべきでしょう.
[返信する]
[55855] 池辺幸恵様。お待たせいたしました。
名前:李喜鳳
日時:2009/12/11 19:24
煩瑣な日常に追われて、すっかり遅くなってしまいました。ことに、福沢諭吉につては、百花繚乱というほどの書き物がありますから、
無造作に書いてはならないと自覚して、資料、本などを読み直ししてまとめることにしました。お陰さまで、よい復習の機会となりました。

まずは、柳川一件(やながわいっけん)についてです。いつもは、ウィキを勧めませんが、これについてはかなり正確に書かれていると思われます。
一見してみてください。一言でいってしまえば「偽造」です。ただ、その脈絡は複雑に錯綜しています。
その奥にある隠された動機、裏側の真の認識を得るためには、少々、知識が要りますね。
前提として「対馬」の特殊事情を理解しなければならないと思います。対馬は貿易以外には生きる道はなかったのです。
また、家康にしても明との国交回復を熱望していたのです。つまり、室町幕府以来の宗属関係の回復・冊封を切望していましたが、
これは到底無理ですから、せめて、朝鮮ルートの交易に賭ける以外に方途はなかったのです。
当初、交渉をかたくなに拒んでいた朝鮮が国際情勢にかんがみ、ようやく宥和的となったとき(1605年)、
朝鮮側は徳川政権から先に国書を送るようにと要求してきましたが、記事に書いたようにそれに付随して、
朝鮮がつきつけた条件は難題課題でしたから、家康の「国書」は遅延するばかりでした。
そこで、対馬藩は国書の偽造を行って、朝鮮へ提出したのです。このとき、徳川氏は、「日本国王」を避けて、
「日本国源某」あるいは「日本国主源某」との称号を使用するつもりでいましたが…対馬藩家老柳川調興らは、
この称号をめぐって将来、両国間にいざこざが起きるのではないかと杞憂して、室町幕府の慣例どおり
「日本国王」としたのです。この事実を、1635年、藩主の宗氏と家老との内紛から、結局、柳川調興調興が
幕府に暴露したのです。勝ち目ありと読んでいたのですが、結果、柳川調興は罰せられました。
つまり、雨森芳洲は誕生してもいませんから関与していません。
これに関連していいますと、2回目より「日本国大院君」という称号について、1711年の「通信使」のとき、
新井白石が「日本国王」を復活させたのですが…朝鮮では「大院君」とは王子のうち、王位継承者を世子といい、
その他を大院君とするのですから、あながち、新井白石の主張、「日本国王」は間違っていないのですが、
その事件は、白石と芳洲との30年にわたる親交を断絶させるほどでしたし、また、一回限りの使用になって
しまいました。雨森芳洲の説得が功をなしたのでした。

私がお勧めしたい本 :「朝鮮通信使」仲尾宏(岩波新書)
            :中世倭人伝」村井章介 (岩波新書)


「福沢諭吉」については、上に別項として2編書かせていただきます。本来は「記事」として書くべきですが、
ただ今、時間に余裕がなく、「ご意見版」に書かせていただきます。ヨロシク。
[返信する]

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