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オバマ大統領のノーベル平和賞受賞演説全文(5/7ページ)

2009年12月11日6時53分

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写真:オスロで10日、ノーベル平和賞のメダルと証書を受け取り、笑顔を見せるオバマ米大統領=APオスロで10日、ノーベル平和賞のメダルと証書を受け取り、笑顔を見せるオバマ米大統領=AP

 一方でまた、イランや北朝鮮などの国がこのシステムをごまかさないよう主張することが、すべての国にとって必要だ。国際法を尊重するという国は、法が守られない状況から目を背けてはならない。自国の安全を大切にする国は、中東や東アジアの軍備競争の危険を無視するわけにはいかない。平和を求める国は、核戦争のためにほかの国が武装するのをただ傍観するわけにはいかない。

 同じ原則は、自国民を残虐に扱うことで国際法を犯している者にも当てはまる。(スーダンの)ダルフールでの集団殺害、コンゴ(旧ザイール)での組織的なレイプ、ビルマ(ミャンマー)での抑圧などは、必ず重大な結果が伴うべきだ。もちろん、対話や外交も行われるだろう。だが、そうした営みが失敗したときには重大な帰結を招くべきなのだ。我々が団結を強めればそれだけ、軍事介入と抑圧の共謀者となるという二者択一に直面しなくても済むだろう。

 そこで私は二つ目の点、我々が求める平和の本質について語りたい。なぜなら、平和は単に目に見える紛争がないということではない。すべての個人の持つ尊厳と生来の権利に基づく公正な平和だけが、本当に持続することができるのだ。

 この知見こそが、第2次世界大戦後に世界人権宣言の起草者たちを後押しした。荒廃の中にあって、人権が保護されないのなら平和はうわべだけの約束にすぎないと、彼らは悟ったのだ。

 それなのにあまりにも頻繁に、これらの言葉は無視されている。一部の国では、人権はいわば西洋の原則であって固有の文化や自国の発展段階の中では異質のものである、という間違った主張をもとに人権を維持しない口実にしている。そして米国では、自らを現実主義者と称する人々と、理想主義者と称する人々との間の緊張が長く続いてきた。その緊張が示すのは、狭い国益を追求するべきか、世界中で我々の価値を押しつける終わりのない運動をするべきなのか、という厳しい選択だ。

 私はこうした選択肢を拒絶する。自由に話したり、好きなように礼拝したり、自分たちの指導者を選んだり、恐れず集会を開くといった権利が否定されている場所では、平和は不安定なものになると信じる。抑圧された不満が募り、部族や宗教に根ざしたアイデンティティを抑えれば暴力につながりうる。我々はその逆も真実であることを知っている。欧州は自由になった時、やっと平和が訪れた。米国は民主主義国家に対する戦争は一度もしたことがなく、我々と最も密接に関係がある諸国の政府は、彼らの市民の権利を守る。いかに冷静に定義しようとも、人類の希望を否定することは、米国の利益にも世界の利益にもつながらない。

 米国は、様々な国の独自の文化と伝統を尊重しながらも、普遍的な希望のためにいつでも声をあげる。我々は、静かに威厳を保っている(ミャンマーの)アウン・サン・スー・チーのような改革者の証人となる。暴力にさらされながらも票を投じるジンバブエ人の勇気や、イランの通りを静かに行進した何十万の人々についても証人になる。これら政府の指導者は他のいかなる国家の力よりも、自国民の希望を恐れるということがわかる。そして、希望と歴史に根ざしたこれらの運動に対して、我々が味方であることを明らかにするのは、すべての自由な国民と自由主義諸国の責任だ。

 もう一つ言わせてほしい。人権の促進は、言葉で熱心に説くだけでのことではない。時には、困難な外交と組み合わせなければならない。抑圧的な政権と対話すれば、憤りの純粋さという満足感に欠けることは私も分かっている。しかし、相手に手を差し伸べずに制裁を科すことや、議論を経ないままの非難が、ひどい現状を継続するだけになりうることもわかっている。開かれた扉という選択肢がなければ、どんな抑圧的な体制も新しい道を進むことはできない。

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