鼻毛の長い人生 RSSフィード

2009-12-11

信仰から絶え間ない探求とイノベーションへ

プロ倫」とか読んでませんけど、そういう文化全体というよりも、個々人の中で「信仰的な資質(脳神経の傾向というのか?)」が大きく社会に反映されることもあるだろうかと。。

ちょっと面白かったコメント。ハンドルネームがBookittyさん。

Ah, the question always asked of atheists. “If you have no God, by what higher authority do you base your moral code.” Great question, you always get such interesting answers.


For myself, it’s faith. Not religion. Organized religion is merely a political commonwealth without land. Faith is what we believe without proof.

倫理の基礎をなすものは宗教ではなくて、Faithであるという。でも、“What we believe without proof”って、日本人の目から見ると宗教とどう違うのか、分かったような分からないような話ではある。


ニセ科学批判が本来持っているはずの一傾向〜今日の雑談

http://d.hatena.ne.jp/jura03/20091208/p2

私は欧米人のいう「信仰」というのは、「何を?」ではなくて「どのように?」というところで他の民族の「信仰」と一線を画していると見ている者である。それは欧米人自身には説明できないことだろう。


おそらくキリスト教というのは西欧人からみれば「外来もの」なわけで西欧人がセム人のように元から「一神教体質」だったわけじゃない。だから同じキリスト教がやってきた日本で、歴史的にいくつか広がる機会があったのに未だに「信仰」が全然ひろまらないのをみると、西欧人がローマ時代以降キリスト教を取り入れたのはいかなる「需要」だったのかが知りたくなる。


そもそも「無神論」なんていう数でいえば「」みたいなものを発明したのは西欧人なわけで、プラトンのような古代人からすれば「神様なんかいない」という考えよりも「神様はいるけど、無関心」とか「神様は賄賂を受け取る」という方が不敬虔で罪が重いといっているくらいである。日本人にはそもそも「いるーいない」っていう知的な論争自体がない(興味ない)

倫理の基礎をなすものは宗教ではなくて、Faithであるという。でも、“What we believe without proof”って、日本人の目から見ると宗教とどう違うのか、分かったような分からないような話ではある。

もとを全文読んでいる訳ではないのだけど、ここでwithout proofってようするに「公理」みたいなことを云っているのではなかろうか。。倫理はこの証明のいらない公理から演繹されるような考えなのでは?


逆にいえば宗教同じfaithでも、このproofを探求して、「神」の存在という観念の探求に延々と関わるのだと思う。


私はこのjura03さんの記事をみて、とある英国人のクリスチャンに「faithってfixed ideaじゃなくて、もっとdynamicもしくはprogressiveなもんなの?俺ら信仰っていうとどうも固定観念とか、あることにずっと固執してるような印象があるんだけど」っていったら、bingo!っぽくて、「そうだ、信仰は探求とともに深まる」という返答であった。


私のような無信仰そのものからするとfaith迷信もあんまりかわらないけど、そうじゃないんだよね。探求と信仰は同じもので、西欧人は「神様」体質というよりも、どこまでもどこまで探求していく、ある意味前進的攻撃的な精神構造にセム族の理屈っぽい「神」っていう概念がかなりよい「玩具(失礼!)」としてはまったんだよね。


で重要なのはそれが12世紀あたりからイスラムを通してギリシアイスラムの学問、芸術、技術がイベリア半島シチリアから入ってきたとき、神やそれまでの権威をのりこえていくほど「探求」「追求」がとまらなくなったことだ。


信仰がそれまでの信仰の対象自体を吟味しはじめた!「この対象は俺らの強力なfaithに耐えられるほどのものなのか?」ともしそうでなければ、それは何にとって替わるのか?と


そして大まかにいって「科学」という「真理」「法則」を探求するものになったわけだ。


これがいわばひとつの典型的なイノベーション、破壊的イノベーションの例だと思う。


イノベーションはあくなき持続累積前進するfaithと対になっている探求上におこるものだ、そもそも「おこすものかどうかさえ怪しい」、12世紀以降いくつものルネサンスは大小おこっていて、中世が静的でルネサンスがいきなり16世紀にくるとはもはや誰もおもってないだろうけど、思った以上西欧はイノベーションの嵐なのかもしれない。西欧芸術音楽の歴史をローマ聖歌以降、欧の「前衛」から米の「実験」音楽までみていけば、いかにそれが激しい探求の猛攻撃と破壊的イノベーションの歴史かわかる。ロッシーニは料理まで探求したほどだ!(関係ないか)


そういう意味で信仰する神経の薄い日本人に破壊的イノベーションとか起業的なことを求めるのは問題があるように思えるのだが?どうだろうか?結局小役人的な根性をうじうじ蔓延らせる結果に終わらないかな?


そも日本の起業ブームっていうのは明治10年代後半から20年代くらいがまずあるけどそれだっていわば国策的な面も強く、何よりもすべてが0からの始まりだったっていうことだ。自分でお店を出すっていうのを起業だっていうなら、業界のフリーランスと同じで昔からいるだろう。タケクマさんがいうような「街のパン屋さんみたいな出版社」っていうのはある。もちろんここから始まって大きくなったものもあるだろう。池袋東口のただの安定食屋だった大戸屋がチェーンになったのはそういう例だと思う。


でも今いわれているような起業スタートアップは技術やシステム自体の発明である。そういう根本からの創出としての起業は、なんも今まで探求、追求してきたもののない人には全く無理で無意味だよ。あたりまえだけど。。もちろん「そんな奴にはいってない。大学や企業の研究所で独創的な研究をしようとしてる若者に対していってるんだ」ってことになるんだろうけど、そういう資質の若者ってどれくらいいるんですかね?そこは私もわからないけど。。


そこだけいえば、とても穿った意見である「破壊的イノベーションによる開発と起業」は私もそれだけなら大賛成だけど、なんか結局空回りしておわりそうなスローガンな気がしてならない。つまりどこ見渡してもそんな奴が現れない、砂漠の真中でクジラが潮を噴くのを待っているみたいな。。



あんまり、悲観的なこといいたくないから、ちょっと疑義っていうことで。。

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