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階級闘争であれ、近親相姦であれ、教師が口にしてならないものはない。というのもかれの地位、人格、人物が暗にかれのことばの「中立化」を含意しているからである。また、言語は、つきつめていくともはやコミュニケーションの手段でありえず、呪縛の手段であって、その主要な機能はコミュニケーションとその伝達内容に関わる教育的権威を証明し、かつ押しつけることにあるからである。

ピエール・ブルデュー&ジャン=クロード・パスロン『再生産』

2009年12月09日

30人31脚を即刻廃止すべきである7つの理由

http://www.ncctv.co.jp/events/upload_images/top.jpg

クラス対抗30人31脚
廃止を望みます



 現在、小学校教育現場の一部で、テレビ朝日系列局が放映している「太陽生命・30人31脚」というテレビ番組への出演を前提とした「教育活動」が行われています。その公式ルールを見れば明らかなとおり、この競技は、クラス全員が参加の同意を表明することを前提としていますが、クラス全員参加による30人31脚の教育的意義は、以下で述べるとおり、全く確かなものではありません。そればかりか、かえって、児童の身体発達、人間関係、ライフスタイルに深刻な害悪を及ぼす危険性すらあります。

 したがって、テレビ朝日をはじめとした同競技の主催者、および学級担任や保護者など小学校教育の関係者には、即刻、クラス全員参加による30人31脚を中止することを提言します。(以下、特に断らない限り、「30人31脚」とはクラス全員参加による同競技のことを指します)


1. 「クラス全員が参加に同意する」ということが、いかに尋常でない状況であるかを認識して下さい

 前述のとおり、30人31脚は、出場に際し、クラス全員の同意を必要とします。しかしながら、この「同意書」をもって、「すべての生徒が自発的に30人31脚への出場を望んだ」などと解釈することは全くできません。「本当はやりたくないけれど、(様々な事情から)仕方なく同意せざるを得なかった」といった児童も少なくないと考えられます。


 まず、確率的に考えてみます。1クラス30人として、そのクラスの児童全員が「自発的にやりたい」と思う確率を考えてみます。

 仮に、一般的な児童の3人に2人は、30人31脚を「自発的に」やりたいと思うと考えます(この仮定はかなり譲歩したものだと思います。現実的にはもっと少ないでしょう)。あるクラスがそのような児童のみで構成される確率は、2/3の30乗、つまり、0.0005パーセントです。わかりやすく言えば、100万クラス中、5クラスしか存在しないことになります。

 文部科学省・学校基本調査(平成20年度)によれば、日本の小学校の学級数は約2万2000であり(同9ページ)、「全員が自発的に同意した」クラスが存在する可能性はごくわずかなのです。地方大会も含め数百ものクラスが応募しているようですが(正確な数はわかりませんが)、そのような状況は確率論的に「異常」であり、むしろ、「応募に際し、仕方なく同意した児童もいる」と考えるほうが自然です。

 したがって、「やりたくないがやらされている」児童がいることを、主催者も担任も保護者も、真剣に考えるべきです。


 もちろん小学校教育には「児童が望まなくても、やらせなければならないこともある」というのは事実です。しかし、それは、「教育的成果」という観点から判断されるべきで、あらゆる「強制」が、手放しで肯定されるわけではありません。つまり、「30人31脚によって得られる児童の成長」が、「やらせなくても得られた成長」よりも大きいことが前提となります。

 しかしながら、以下で述べるとおり、30人31脚にそのような教育的成果は期待できません。むしろ、身体の発達面や生徒の人間関係を著しく害する恐れのほうが大きいと言えます。以下、順次、説明します。


2. 児童の身体的発達にとって有効ではありません

 身体教育的な意味で30人31脚を見ている人も多いかもしれませんが、児童の身体発達を考えるのであれば、30人31脚という教育プログラムを選ぶ理由はまったくありません

 言うまでもなく児童の身体能力は様々であり、その能力発達も様々です。少し練習をすればすぐ脚が速くなる子もいれば、どんなに努力しても少ししかタイムが伸びない子もいます。こうした児童の多様性を前提にするならば、児童個人個人が各自のタイムを計測し、各々の努力で、記録向上を目指すことが重要です。これは、他でもなく、従来の体育教育が行ってきたことです。

 「速い児童は遅い児童にあわせ、遅い児童は速い児童にあわせる」ことを訓練する30人31脚には、個々の能力に応じた身体発達的な視点はありません。つまり、身体的発達という観点からいえば、30人31脚に教育的効果はありません。従来の体育教育で十分なのです


3. 児童の身体発達にとって、害悪ですらあります

 これは、とくに保護者の方によく理解して頂きたいことです。30人31脚は、主に、学級担任の指導によって行われていますが、学級担任はあくまで小学校教育の専門家であって、スポーツトレーニングの専門家ではありません。科学的に間違った「しごき」が、「練習」の名の下で行われることも容易に想像できます。そうした非科学的な「しごき」が、まだ発達途上の児童に与える悪影響は、はかりしれません。

 たしかに、従来の体育科教育でも同様の問題はありました。しかしながら、以下の理由により、「普通の体育」は、30人31脚よりも害はありません。

  • 小学校教育の体育科に関する研究には、戦前から、非常に膨大な蓄積がある
  • 体育教育に関しては、現場の教員だけでなく、教育学者やスポーツ(科学)の専門家の意見も反映されている
  • 過度の競争を煽るものが少ない

 30人31脚はまだ新しい「競技」ゆえ、教育学的蓄積がほとんどありませんし、スポーツの専門家から、確たる助言もありません。身体的にかなり負担を強いる活動であるにもかかわらず、その危険性はきちんと把握されていないのが現状なのです。

 児童の身体発達を真剣に考えるのであれば、より安全な教育プログラム(=従来の体育教育)を選択することが、教育者に必要なことではないでしょうか。


4. 普通の徒競走にくらべ、きわめて大きな危険性があります

 容易に想像がつくとおり、「転倒」が非常に多く起こります。さらに、両サイドから引っ張られているため、一人で走っていた時よりも大きな重力を、転倒の衝撃時に受けることになります。

 また、「足並みをそろえる」という目的から、かけ声を出しながらはしるチームもありますが(たとえば、「いち、に!いち、に!」)、舌を噛むなど、口の中を傷つける危険性が増します。


5. チームワークも育みません

 「たしかに身体発達的な利点はないかもしれないが、チームワークや協調性を育むうえで30人31脚は重要だ」と考える人もいます。しかしながら、こうした「チームワーク」の理解の仕方は、きわめて狭い見方で「チームワーク」というものを考えていると言わざるを得ません。

 こう考える人のほとんどが「足並みがそろっている」ことをもって「心もそろっている」――つまり、協調性――と考えている傾向があります。しかしながら、「足並みをそろえる」ことは、協調性がなくても可能です。逆に、協調性があっても「足並みがそろわない」ことはよくあります。なぜならば、「足並みをそろえる」ために最も必要な能力は、「チームワーク」などではなく、身体反応の柔軟性だからです。

 軍隊自衛隊の行進を考えればすぐわかります。彼らの足並みは非常にそろっていますが、それはそのように訓練されているためであり、心から互いを思いやったり、互いの個性を尊重しているからそうなったわけではありません(じじつ、互いに「顔見知り」程度の隊員もいるでしょう)。


 そもそも「チームワーク」が、身体的な次元のみに限定されていることが問題です。チームワークそして協調性とは、たとえば「勉強ができる人はできない人をサポートする」「互いの意見や経験を尊重する」「困っている友達がいれば助けあう」ことも含む、幅広い考え方です。「クラスの一致団結」は、必ずしも、身体活動で達成されなくてもよいのです。そうした「一致団結」は、従来の小学校教育が、ことあるごとに行ってきたことです(例、合唱コンクール、テーマ学習)。にもかかわらず、他でもなく30人31脚を選ばなければならない教育的根拠はあるのでしょうか。


6. むしろ、チームワークを損ないます

 1.で述べたとおり、すべての児童がやりたいと願っていることはまずありません。児童には、様々な事情があるからです。例えば、塾や習い事が忙しい、野球やサッカーの練習で30人31脚の練習どころではない、そして、そもそも走るのが苦手等々。進んで練習に参加する児童がいる一方で、できれば練習を休みたいとおもう児童も多いでしょう。

 クラス全員の参加を前提とする以上、こうした児童間の温度差は、かならず児童間の人間関係に軋轢を生みます。ある児童が練習を休めば、練習に参加した多数派児童に「不満」が残ります。いやいやながら参加した児童は、推進派の児童を内心「余計なことをしてくれた」と思うでしょう。また、脚の遅い児童は、文字通り「脚を引っ張る奴」という目で見られるでしょう。

 小学校の学級は、まったくの偶然の結果、集まったメンバーによって構成されています。同一目的を持つ必然性のないメンバー全員に、一律参加、同一行動を強制するような活動には、人間関係を害する構造的な原因があるのです。

 もちろんこうした「構造的問題」を含むカリキュラムは、小学校教育の至るところで見られます。たとえば、合唱コンクールや一斉給食、集団下校、体育祭などのダンスなどをあげることができます。しかし、30人31脚は、こうした「普通の集団行動」よりも、いっそう深刻な問題点を持っています。それは、ひとりの失敗により、全体が大打撃を受けるという点です。その他の集団活動では、合唱にせよ、ダンスにせよ、一人の失敗が全体に与えるダメージは大したものではありません。一人や二人くらいひどい音痴がいたとしても、全体がしっかりしていれば、合唱がまったく崩壊してしまうことはないのです。むしろ、集団全体が少数の音痴をカバーすることすら可能です。つまり、「普通の集団行動」は、その程度の「個人差」を許容できるのです。しかし、30人31脚では、こうはいきません。一人の失敗が集団全体の失敗を意味します。そして、一人の失敗を集団はカバーできません。失敗をひたすら回避することが協調性でしょうか。一人の失敗すらカバーできない競技でチームワークが育まれるのでしょうか。


 担任の強力なリーダーシップのもと、よく統制された動きをしている児童を見れば、「なるほど、チームワークのあるクラスだな」とつい思ってしまう気持ちも分かります。そのようなクラスを「築き上げた」担任自身であれば、なおさらです。しかし、その背後には、子どもたちの複雑な葛藤が潜んでいるということにも想像力を働かせてみてください。



結論

 以上の理由から、主催者および教育関係者は、クラス全員参加を強制する30人31脚を、即時、中止するべきです。具体的には、来年度以降、大会の開催あるいは大会への参加をやめるべきです。

 もちろん、私は、「30人31脚をやりたい児童」の権利を奪おうとしているわけではありません。あくまで、クラス全員を前提とする30人31脚をやるべきではないと述べているだけです。

 したがって、児童の「自発的な参加」に基づく30人31脚までは否定していません(ただ、当然ながら、途中で嫌になった児童がいれば、その子は自由に脱退できることも必ず保証して下さい)。

 もしその形態であれば、必然的に、現在の「クラス対抗」という形にはならなくなるでしょう。有志対抗、学校対抗あるいは自治体対抗という形になるかもしれません。あるいは、現在の30人という人数を考え直す(もっと少なくする)ことも一つの案でしょう。30人というのは、「学級」を前提にしているように見えてしまいます。


以上、関係者のご検討をよろしくお願い致します。

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