真珠湾攻撃を決めた卓抜した企画構想力
激動の時代こそ「日本人の原点」に学べ【1】
山本五十六は石油と航空機が日本の死命を制する大きな鍵になることを強く意識していた。
日本総合研究所会長 寺島実郎
ビジネスマンが歴史の中に何を読み解いて、そこに学び、自分のビジネスの糧としてゆくかを考えるときに、格好の素材になるのが、山本五十六だろう。
私がこの人物に興味を持って以来、抱き続けてきた疑問があった。それは「山本五十六は自分の眼で真珠湾を見たことがあったのだろうか」ということだ。
私自身、国際情報分析と経営企画の世界で生きてきた。三井物産が社運を懸けたイラン・ジャパン石油化学(IJPC)という巨大プロジェクトの撤退プロセスを経験するなど、経営にとって情報がいかに重要であるかを痛いほど味わってきた。
それゆえ、開戦早々、敵の基幹基地を航空兵力で集中攻撃する「真珠湾攻撃」という、乾坤一擲の大勝負に出た山本五十六の企画構想力は一体何に基づくものなのかと常々思っていた。国運を懸けた真珠湾攻撃を企画実行するに当たって、土地勘のない状態で踏み込むはずがない。この人物は必ず肉眼で真珠湾を自分の眼で見ているはずだ――という、非常に確信に近い思いがあったのである。
ところが、そのことに関して描かれた文献は意外に少なく、いわばブラックボックスの状態だった。そこで米国三井物産ワシントン事務所の所長時代の6年間、山本五十六の年表を作って、ワシントン時代の山本五十六の足跡を辿り、アナポリスの海軍施設に残された資料などを調べて回った。結論から言えば、山本五十六は真珠湾攻撃を仕掛ける前に二度、肉眼で真珠湾を見たことがあった。
一度目は1909年、25歳で巡洋艦「阿蘇」に乗り込んで、練習航海としてホノルル、サンフランシスコ、シアトル、バンクーバーを訪れたときである。
1898年にハワイ併合を強行したアメリカは、日露戦争以後、日本を太平洋方面における将来の仮想敵と意識し始めて、1908年から真珠湾に海軍基地を建設し、補強を進めていた。山本五十六は基地の拡充が急ピッチで進む真珠湾のロケーション、地の利をまず眼に焼き付けたのだ。
それから四半世紀が経過した34年、山本五十六はロンドン軍縮会議の予備交渉に海軍首席代表として出席した。これが二度目のチャンスで、アメリカ経由の旅程を組み、わざわざハワイに立ち寄り、真珠湾の地形に対して「鹿児島湾に似ている」という感想も残している。
山本五十六は、フィールドワークを重視する人物だった。駐在武官として勤務していたワシントン時代、彼は後輩に対して「駐在員が三度の飯を食おうなどと思うのはもってのほかの贅沢だ。三度の飯を二度にしてでも倹約し、その金でアメリカを見て歩け」と語っていた。
そして自らも驚嘆すべき行動力でアメリカを調べ歩いた。自費の貧乏旅行でメキシコまで足を延ばして油田を見にいったほどだ。途中、ボロボロの格好で歩いていたらメキシコの官憲に怪しまれ、日本の軍人だと説明しても信用されず、ワシントンの日本大使館に身元照会の電信が送られてきたというエピソードも残っている。
91年、テキサス州ヒューストン在住の日系人のゲストブックから山本五十六のサインが発見されたというニュースが報道された。これで、テキサスまで油田を見にいった伝説が証明されたのである。
山本五十六はアメリカで漫然と見聞を広げていたわけでない。明快な問題意識を持って、2つの切り口を決めてフィールドワークを行っていた。
そのキーワードとは「石油」と「航空機」である。山本五十六は石油と航空機が日本の死命を制する大きな鍵になることを強く意識していた。だから油田や製油所を訪ね、航空機についても生産現場のフィールドワークと文献研究に打ち込んだ。そしてそれらが、すべて真珠湾攻撃の伏線になった。
企画構想力というのは、経験と努力の延長線上に一瞬の閃きとなって開花するものだ。山本五十六の卓抜した企画構想力の源泉は、石油と航空機という切り口で問題意識を収斂してゆく鋭敏な感性であり、足腰の労を厭わない徹底的なフィールドワークだった。その2つがスパークして、真珠湾攻撃という途方もない構想が生まれたのである。
寺島 実郎
日本総合研究所会長
1947年、北海道生まれ。73年早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了。同年三井物産に入社。2006年から現職。多摩大学学長、三井物産戦略研究所会長を兼務。3万冊の蔵書を誇る「寺島文庫」を設立した。
武田薬品、富士通、資生堂……。経営者の知られざる素顔を描く。
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