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戦後すぐ、意気揚々と東京美術学校(現東京芸大)に入学した150人に、校長は訓示を垂れた。「諸君らのうち宝石はたった一粒です。その一粒を見つけるために君らを集めた。他は石にすぎません」。亡くなった平山郁夫さんの回想である▼自分は「石」だと思っていたそうだ。3年生のとき、ついに見切りをつける。だが新任の先生に「君の絵はこれ以上、下手にならない。おおらかにやりなさい」と言われ、続けることにした。この一言がなかったら、膨大な画業の一切を、私たちは目にできなかったかもしれない▼大河を思わせる画業の原点には、広島での被爆があった。だが15歳で見た地獄は、画家の筆を凍りつかせもした。描きたいのは「平和」だったが、原爆の絵は心の傷口を広げるのが怖くて描けない。悩み抜いてたどり着いたのが仏教だった▼「怒りではなく『平和への祈り』こそが私のテーマだとやっと気づいた」と、のちに語っている。以来、出世作の「仏教伝来」からシルクロードをめぐる作品まで、その活躍に詳しい説明はいるまい▼20年ばかり前、中国西域の砂漠の街カシュガルの民家で、平山さんの絵を見た。小さな複製をウイグル人一家が粗末な額に飾っていた。娘さんの言葉が良かった。「この絵のような砂漠が好きです」▼厳しい光景も、平山さんの内面を通るうちに浄化され、静謐(せいひつ)な叙情となって画布に現れる。それが砂漠の民も魅了したのだろう。娘さんは自分も描きたいと盛んに言っていた。一粒の宝石に、今ごろなっているだろうか。