八甲田山雪中行軍隊映像資料
2007年11月 志村英盛 Hidemori Shimura 随時補稿
地図、映画『八甲田山』資料及び『日録20世紀』資料以外の
航空写真・地上写真は筆者が撮影した。
読者の【視野の拡大】【視点を変えた観察】【立場を変えた考察】と
潜在能力の開発に貢献することを願っている。
小説『八甲田山死の彷徨』に描かれた雪中行軍隊の悲劇
新田次郎氏の小説『八甲田山死の彷徨』(新潮社 1971年9月発行)と
東宝映画『八甲田山』(1977年公開)は、いずれも、今から100年以上前の
1902年1月に青森県の八甲田山に雪中行軍に出かけた210人の軍人が遭難し、
199名が死亡、生存者がわずか11名という悲劇を描いた名作である。
小説・映画共、部分的には事実とは異なる点があるといわれている。
小説と映画とでも異なったとらえ方をしている部分がある。
1青森空港から見た八甲田山
2津軽平野−弘前市−青森空港−青森市
3雲谷山(もやさん)から見た八甲田山
4北八甲田山:雪中行軍隊が遭難したのはいちばん北の前岳の山麓である。
5八甲田山−銅像茶屋・馬立場−青森県道40号線−青森市街一帯:
2007年3月1日11時38分、高度約1万2000米上空ANA機より志村英盛撮影
6八甲田山−田代平−青森市一帯:志村英盛撮影
7八甲田山−田代平−青森市一帯
8青森市
9前岳と銅像茶屋:
10銅像茶屋前の雪中行軍遭難記念碑:この碑の裏側一帯が鳴沢である。
210名が参加した。193名凍死、救助後6名死亡、結局、死亡者199名、
生存者11名。雪山での遭難事故としては最悪の事件であった。
参考サイト:八甲田山雪中行軍遭難事件
11雪中行軍隊行軍経路:田茂木野−青森県道40号線−銅像茶屋
青森県道40号線は国道394号線に繋がり青森から七戸町・十和田市へ行く近道であるため、
交通量はかなり多い。冬期間は閉鎖される。
資料出所:八甲田山雪中行軍遭難資料館
12旧第5連隊所在地(現在・県立青森高等学校:青森市桜川)
「中隊の指揮はいっさい神田大尉にまかせます」
山田少佐は津村連隊長にはっきり説明した。
山田少佐は雪中行軍の計画書を上司である連隊長の津村中佐の
ところへ持って行った。
「中隊の指揮は神田大尉が取るのだな」
津村連隊長は山田少佐に念をおした。
中隊編成で行軍するのだから,中隊長が最高指揮官である。
その中隊長を指揮するために更に大隊長が行く必要はなかった。
大隊長が行くのは、中隊の指揮をするためではなく、
大隊長としての見識を広めるとともに、雪中行軍自体を
研究課題として取り上げるためてあると解釈したから、
指揮権について念を押したのである。
「中隊の指揮はいっさい神田大尉にまかせます。
随行する私と大隊本部の主たる任務は研究にあります」と
山田少佐は津村連隊長にはっきり説明した。
新田次郎著 『八甲田山死の彷徨』 第41頁より抜粋引用、一部文言修正。
13出発:研究資料・出所:東宝映画『八甲田山』1977年製作
14雪中行軍隊行軍経路:青森県道40号線(田茂木野−銅像茶屋:国土地理院・地図
15雪中行軍隊露営地(新田次郎著『八甲田山死の彷徨』(新潮社 昭和46年9月発行)裏表紙資料に加筆)
16青森県道40号線小峠(標高370b)から見た青森市街
17雪の進軍:研究資料・出所:東宝映画『八甲田山』1977年製作
18橇(ソリ)隊が加わったことが行軍速度を低下させ、遭難の一因となった。
:研究資料・出所:東宝映画『八甲田山』1977年製作
山田少佐は津村連隊長に対する説明を裏切って
神田大尉の指揮権を奪った
「雪中行軍を中止して、ひとまず帰営すべきだと思います」と
永田軍医が神田大尉に進言した。
指揮官の神田大尉も、進路を遮断している地吹雪を見て、
案内人なしで雪中行軍を続けることは無理だと思っていた
ところであった。
神田大尉は山田少佐に、雪中行軍を中止して帰営するとの
方針を報告した。
しかし、山田少佐は雪中行軍隊指揮官の神田大尉のこの
雪中行軍を中止して帰営するという方針を承認しなかった。
津村連隊長に対して、
「中隊の指揮はいっさい神田大尉にまかせます」と
はっきり説明しておきながら、
神田大尉の指揮権を無視したのである。
山田少佐は各小隊長を呼んで作戦会議を開いた。
この作戦会議が開かれたことはまことにおかしなことであった。
山田少佐は雪中行軍隊の指揮官ではないのだから、
本来、この行軍途中で作戦会議を開く権限はなかったのである。
作戦会議で永田軍医は雪中行軍を中止して帰営すべき理由
について説明した。
「昨22日の夜、青森測候所を訪れて、測候所長に天気のことを
聞いたところ、優勢な低気圧が太平洋上を北上しつつあるので、
もしその低気圧が東北地方の沿岸に近づけば、山は大暴風雪に
なるだろうということでした。小峠あたりまで登って、北西の風が
強いようなら、低気圧が近づきあるものと見て引き返した方が
いいだろうということでした。風速は急激に増加し、
気温も急降下しています。即刻引き返すべきだと思います。
それに加えて、兵卒は小倉の軍服であること、
携行食が凍ったがため、食事をしなかったものが3分の1ほど
あることも重大な問題です。」
突然、山田少佐は軍刀を抜き、吹雪に向かって「前進」と怒鳴った。
それはまことに異様な光景であった。
自分が招集して作戦会議を開きながら、会議を途中で投げ出して、
山田少佐は独断で雪中行軍続行を宣言したのであった。
新田次郎著 『八甲田山死の彷徨』 第112頁〜第115頁より抜粋引用、一部文言修正。
筆者注:映画『八甲田山』ではこの場面は省略されている。
19賽の川原
20平沢第一露営地
21田代平
22馬立場−鳴沢第二露営地一帯(国土地理院・2万5千分の1地形図)
23駒込川べりを行く:研究資料・出所:東宝映画『八甲田山』1977年製作
24吹雪の中で:研究資料・出所:東宝映画『八甲田山』1977年製作
25鳴沢第二露営地
26鳴沢露営地一帯の遭難者捜索状況写真:
研究資料・出所:講談社『日録20世紀 1902(明治35年)』平成10年10月20日号第7頁
27吹雪の中で立ちすくむ:研究資料・出所:東宝映画『八甲田山』1977年製作
28露営:研究資料・出所:東宝映画『八甲田山』1977年製作
29中の森第三露営地
30後藤伍長発見の地
31雪中に埋まっていた後藤伍長を発見:研究資料・出所:東宝映画『八甲田山』1977年製作
32銅像茶屋から見た八甲田山・前岳
33銅像茶屋周辺地図
34八甲田ロープウェーから銅像茶屋へ行く道
35銅像茶屋裏
36雪中行軍隊後藤伍長銅像:
青森県道40号線と国道103号線と国道394号線の合流地点にある銅像茶屋の上の馬立場にある。
馬立場の前岳方向の下が鳴沢である。
37旧資料館:1998年1月24日撮影
38鳴沢第二露営地一帯:1998年1月24日撮影
39幸畑陸軍墓地:左が山口少佐(小説では山田少佐)、右が神成大尉(小説では神田大尉)のお墓
山田少佐の悲劇
この遭難は日本の気象観測史上最悪ともいえる悪天候に
見舞われたため起きたともいわれているが、
遭難の第一原因は、山田少佐が大隊本部という余計なグループを作り、
雪中行軍隊に随行したことである。従って、これを許可した
津村連隊長も雪中行軍隊遭難の共同正犯である。
遭難の第二原因は、雪中行軍隊に随行した
大隊長の山田少佐が、雪中行軍隊の指揮官である
神田大尉の指揮権を行軍途中で奪ったことである。
遭難の第三原因は、指揮権を奪った山田少佐が、その後
何度なく判断の誤りと指揮の誤りを繰り返したことである。
山田少佐はまじめで組織に忠実で責任感も人一倍強かったが、
組織のリーダーとしての素質と能力を欠いていた。
山田少佐は気象が急変する厳冬期の八甲田山の恐ろしさについて、
情報を集めて研究してはいなかった。
山田少佐は行軍経路の地形についても何らの予備知識がなく、
現在の青森県道40号線よりはるかに狭い道を、200人規模で
雪中行軍することの危険性を全く予測していなかった。
山田少佐は気象観測史上まれにみる気象の急激な悪化という
非常事態に直面しても、事態の深刻さを理解できなかった。
山田少佐は、どう対処すべきかの体験も情報も準備もなかった。
そのため何度となく判断の誤りと指揮の誤りを繰り返し、
最終的には、隊員全体の約95%、199名が死亡する
という大惨事をひき起こしたのである。
遭難後救出され病院に入院していた山田少佐は、
見舞いにきた上司の津村連隊長に対して
「おめおめと生き残ったのは、
連隊長にすべてを報告する義務があったからです。
今回の遭難の最大の原因は、
自分が山と雪に対しての知識がなかったからです。
第2の原因は、
自分が神田大尉の指揮権を行軍途中で奪ったことです。
すべての原因は
この二つに含まれ、そしてその全責任は自分にあります」と
報告している。
自分の情報収集力や予測力が弱く、
判断や指揮を誤ったため失敗しても、
原因を他人や状況変化のせいにする人が多いなかで、
山田少佐は
はっきりと、自分の判断と指揮の誤りと
自分が指揮権を神田大尉から奪ったことが遭難原因と認め、
それを上司に報告することが自分の責任だと考えていた。
冬山と雪中行軍について【無知で愚か】であつた山田少佐は
非常事態におけるリーダーとしても完全に失格者であった。
集団行動においては、誰が指揮・統率するのかが
その集団の運命を左右することを全く理解していなかった。
局地戦闘においては、地形を熟知し、天候の変化を予測することが
相手の兵力を推察することと並んで、戦闘に勝利する基本である。
山田少佐のような【戦闘の基本を全く知らない】軍人が
大隊長であったということは信じられないことである。
山田少佐は軍隊のリーダーとしては完全に失格者であったが、
人間としては責任感の強い非常に立派な方であった。
人間として立派であることは、企業においても、
経営者やマネジャーにまず求められることである。
しかし、現在の、企業にとっては、いわば非常事態ともいえる
経営環境にあっては、経営者やマネジャーは
事態を的確に把握できるレーダー的情報収集力を身につけ、
事態の深刻さを的確に判断できなければならない。
現状が以前の予測とどのように違ってきたかを判断し、
非常事態に対処する適切な対策をとらなければならない。
非常事態において適切な対策をとれない経営者やマネジャーは、
小説『八甲田山死の彷徨』の山田少佐のように、
人間的に立派であっても、
最悪の場合、企業を破綻させ、
企業を支えてくれていた多くの人たちに
多大の犠牲を強いることになる。
関連サイト:
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