はじめに
八甲田山というと映画「八甲田山」(とてつもなく寒いシーンの連続なのに何故か暑苦しい演技が連続する映画)を思い浮かべる方もいると思いますがかくいう私もその一人です。むしろ、それしかイメージが湧かなかったりします。映画ではあたり一面雪だらけのため何処が何処だかわからなかったりします。そこで実際にその跡地を巡ることにしました。
八甲田とは
本州中央を南北に縦貫する那須火山帯の北端に位置しています。普通、八甲田連峰と呼ばれるのは八甲田大岳を主峰に、高田大岳、井戸岳、赤倉岳、小岳、田茂萢岳、前岳、石倉岳を総称して呼んでいます。また、別名で北八甲田連峰とも呼ばれています。八甲田とは八つの山が亀の甲羅のように位置していることから付けられたそうです。
雪中行軍の目的と現実
一触即発の日露関係を踏まえて、「青森歩兵第5連隊」は八戸平野に上陸したロシア軍を三本木平野にて迎撃するという想定のもと、青森から八甲田山を越えて三本木(現十和田市)へ進軍できるか否かの調査のため雪中行軍を計画したのでした。計画では青森から田代までの一泊行軍とし、天候不順の場合は雪中露営も予定されていたましたが、出発当日から一週間に亘り大寒気団が上空に停滞したため総勢210名中199人の犠牲者を出す大惨事になったのでした。
出発
明治35年1月23日午前6時55分、神成文吉中隊長指揮の下、総勢210名が営門を出発します。第五連隊兵舎は筒井村にあり、地元のタクシー運転手によれば現在の青森高校のあたりがそうであるとのことでした。
雪中行軍経路
営門から幸畑→田茂木野→小峠→大峠→賽の河原→馬立場→田代元湯へと行軍します。当時の夏道はわかりませんが、現在の県道40号線がその道といえると思います。
現在の田茂木野→
賽の河原→
雪中行軍一日目(1月23日)
田茂木野辺りから山坂が多くソリ隊の遅れが目立ち始めます。午前11時半に小峠に到着しますが、このあたりから天候が急変しはじめます。午後4時に馬立場(現在の銅像茶屋)に到着します。設営隊を編成し、田代元湯へと向かわせますが折からの猛吹雪により道に迷い、いつのまにか隊列の最後尾に付き、大混乱に陥ります。午後9時に露営を決定します。
↓平沢第一露営地
雪中行軍二日目(1月24日)
夜半を過ぎて風雪は激しさを増し、気温はマイナス20℃を下回りました。山口ユ(しん)少佐が帰営を決定し(ここで命令系統がおかしくなります)、午前5時出発予定を一刻でも早くと午前2時半に出発します。しかし、いきなり道に迷い鳴沢渓谷に入り引き返そうとしますが、方向を間違い駒込川本流に出てしまいます。猛吹雪の中行軍を続け午後5時に窪地に露営することになりますが、消耗した体力を空腹、睡魔、寒気と猛吹雪が容赦なく襲い掛かり昏倒者が続出し、この日に1/3の兵士が亡くなりました。
↓鳴沢第二露営地
雪中行軍三日目(1月25日)
鳴沢渓谷を下っていくが依然として吹き荒れる吹雪のため何度も迷い、午前5時半頃、前夜の露営地に着きます。斥候志願者を募り、これを2隊に分けて田茂木野方面への道の確保と救援要請、連隊本部への報告を命令して出発させます。午前11時に帰路発見の報告が入り、出発しますが途中で落伍者が続出し、午後3時頃に馬立場に到着したときには散り散りとなってしまいました。午後5時に露営を決定しますが食料燃料共に無く、瀕死の状態でありました。
↓中の森第三露営地
雪中行軍四日目(1月26日)
午前1時頃の人員点検では30名、うち比較的元気な者は10数名でした。一行は田茂木野までの前進を決定します。午前11時頃天候が悪化し、神成大尉と倉石大尉は二手に分かれて進むことにします。倉石大尉一行は駒込川の渓谷に進入し、流れに沿っていくも青岩付近で両岸断崖に阻まれます。神成大尉一行は帰路を発見するも大滝平で限界に達し全員が倒れました。
27日10時頃、この中でこの惨状を連隊に報告するべく、神成大尉の命令を帯びた後藤房之助伍長が豪雪の中に仮死状態で佇立しているのが捜索隊により発見されます。
捜索隊の派遣
23日に連隊本部は行軍隊は田代まで到達したと考えていました。23日夜に大寒波となったので田茂木野まで出迎えを出しましたが空振りに終わりました。
25日午後10時になっても帰還しないので連隊長は三神定之助少尉を隊長とする捜索隊の派遣を決定します。26日午前5時45分に捜索隊が出発します。
27日午前6時に田茂木野を出発し、先述の後藤房之助伍長を発見します。救急処置により11分後に蘇生し、其の微かな発言により一行が後方に散在していることが判明します。捜索隊から一報を受けた連隊長は翌28日から大規模な捜索を開始します。捜索は難航し、その年の5月28日に最後の白骨死体を収容、若干の銃器を発見するまで7月まで続けられました。また、この捜索にあたり酷寒地である北海道の生活に慣れたアイヌ人を呼び寄せるなどしています。
県別の斃死者をみると岩手、宮城両県で185名を数えます。これは当時青森県出身者は弘前第31連隊へ、岩手、宮城県出身者は青森第5連隊へと入隊していていたことによります。遠くでは興津景敏大尉が熊本県出身です。岩手、宮城も寒冷地ですが豪雪地ではないので雪山を生活を通しては経験していなかったこともこの遭難の原因といえます。また、村松文哉伍長一人だけが田代元湯で発見されていることから必ずしも不可能とは言い切れない行軍計画と見ることもできます。(映画では緒方拳さんがこの人の役をやってました)
奇跡的に生還した17名のうち四肢健全なものは3名で、他は重度の凍傷かかっており経過不良で6名が死去しています。尚、山口少佐の死に関しては拳銃自決といわれますが凍傷で肥大した指で拳銃の引き金が引けるのかという疑問等があり、色々な憶測を呼びますが現在では陸軍がないため確認のしようがありません。
八甲田雪中行軍遭難資料館
平成16年7月22日オープン。幸畑陸軍墓地併設。シアターの映像はもちろん「八甲田山」です。耐寒装備が経験できます。
八甲田雪中行軍記念館 鹿鳴庵
銅像茶屋にあります。四六時中映画「八甲田山」が上映されています。
雪中行軍遭難記念像(後藤房之助伍長像)
後藤房之助伍長が発見されたのはこの場所より青森市へ2キロの地点ですが、この馬立場に立てば青森湾と市街を一望できるのとここで多数の凍死者を出したことから敢えてこの地に建立しました。大山巌参謀総長、児玉源太郎台湾総督等が発起人になり明治37年10月23日に竣工しますが、日露戦争中のため明治39年7月23日に除幕式が行われました。撰文は寺内正毅陸軍大臣、揮毫は吉田晩翠翁、彫刻は大熊氏広、鋳造は東京砲兵工廠です。像は青森市の方を向いています。
行軍地図
付録
「東道旌表碑」
青森第5連隊が八甲田に向かう頃、弘前第31連隊の福島泰蔵大尉が指揮する一行が三本木方面(現十和田市)から八甲田に向かいますが、この際道案内をした地元青年の記念碑です。裏には道案内をした7人の名前が彫られています。弘前隊は弘前→切明→銀山→宇樽部→戸来をへてここまで来ていますが道中道案内をつけていました。土地の者から情報収集をしたかしなかったかの差が弘前隊と青森の差ともいえます。
この碑の左隣に説明版があるのですがその中に、《福島大尉に「過去二日間のことは絶対口外すべからず(青森歩兵第五連隊の遭難目撃のこと等)」と言われたことを、明治を終わり、大正を過ぎて、昭和五年までだれ一人として語る者がなかったことは、律儀な南部人の鑑であろう》とあったのですが、もしそうだとすると両隊は八甲田で遭遇したことになります。このことには諸説あるのでこれ以上ふれませんがこのようなミステリアスな部分があるから八甲田山雪中行軍のことは現代まで語り継がれるのかもしれません。