生存者 倉石大尉の遭難談


1月23日 山口大隊は第五聯隊を出発し直ちに田代街道に向った。
この日午後一時頃風雪烈しくすこぶる進行困難したが、ますます勇を鼓し火燧山の所に至った時、稍雪も小晴れとなった。
行進が続けられたが寒気激烈、手袋をとることができなかった。
午後五時、露営しようと止った所は猿沢で、約二千bばかりに樹木があって寒さを凌ぐのに適していた。

露営にはまず雪を掘り、その周囲に雪塊を積み重ね暴風雪を防ぎ、携帯した炭をたき僅かに暖をとった。
この時、大隊本部は大樹の下に露営した。

午後九時、風雪甚だしく、晩食に炊事当番が釜をかけようと雪を一丈余も掘ったが土に達せず、枯木の枝をとり燃やそうとしたが下に雪があって完全な飯を得ることが出来なかった。
しかしとにかく半煮えの飯を食し、なお携帯行李を解いて餅3個を兵士に分配し食おうとした時、既に凍って石の様に堅く、僅かに火に暖めてかじったが中の餡の味もしなかった。
しかし今やかれこれする場合ではないのでそれを食し飢を凌いだ。
しかも寒気甚だしく兵士に足踏みと軍歌を歌わせ、相互に助け助けられ、辛くも凍傷を防いだ。
疲労と寒さで知らず知らずに眠りを催す恐れがあるので午前二時、一同出発に決した。

1月24日 雪ますます加わり、風いよいよ強く兵士に寒さを防ぐ為に酒を与えたが、皆あとの寒さを恐れ飲まなかった。
ただ悲壮なる軍歌をもって勇を鼓し前進した。
寒さはますます激しく午前五時、再び前露営地に引き帰そうとしたが、ついに目的地に達することができないばかりか駒込川の辺に出た。
前夜の露営地と異なり木無く焚火することが出来なかった。
このとき将校以下下士卒は髭眉毛凍り寒さのため如何ともする事が出来なかったが各々相互に助け合い、手は他人の防寒外套の間に入れ凍傷を防いだ。
その時既に凍傷にかかった兵士の倒れるもの三、四あったが救助の策なく残念ながらそのまゝにして前進したが中野中尉のごときは既に凍傷に侵され、顔は一面紫色に変じた。
他の将校兵士は指凍り、ズボンのボタンをはずすことができず、そのまま便をなした。
中野中尉はその時、殆ど手が凍傷に侵されていたので、余は三、四回吹き飛ばされまいとして帽子を被らせ、ズボンのボタン等をはずしてやって便をさせた。
時は日暮れに近く風荒く降雪甚だしく咫尺を弁ずることができず、辛うじて鳴沢西南の窪地に達した時は全体の兵士の三分の一くらいは倒れ、空腹で前進することが不可能となった。
興津中隊長は全身の知覚を失って人事不省に陥り、各々抱き合い介抱したが蘇生せず、小山田特務曹長は終夜看護に務めた。

この日既に食料は尽き、空腹は益々迫ったが何ともできず、翌朝の天候に望みを抱き、各人相擁して輪を作り最も凍傷のひどい者を取り囲み露営した。

1月25日 午前三時、倒れた興津中隊長を携い暗を犯して前進した。
このとき余は青森街道と約千bばかり異なるのを発見し、回れ右の号令をなし行路を転じたが悲しむべし、凍傷に倒れる兵士多く三十名ばかりは屏風を倒すように倒れた。
総身の熱意をもって勇気を鼓舞したかったが、日本特有の魂は確かだが身体の自由を奪われた時には何の甲斐もなかった。

午後七時、天は余らをますます悲運に陥らせた。
山口大隊長は再び人事不省となり、将校数名は相抱いて樹下に風雪を凌ぎ生木の枝を集めて火を点じたがジュジュと音がするだけで暖をとることができなかった。
ここにおいて万事の望を没し去られた余らの胸中は今語ろうとしても形容する辞がない。
僅かに背嚢に板片があることが判ったので、死者の携えるのを集め焚火となし、大隊長を暖めた。
しかし大隊長は蘇生せず斃れる者ますます多く、今や一刻も立ち止まる時に非ずと行進すること一時間、天の一方に碧空を認めた。
時に雪少し小晴となったので、一組八名の下士斥候を編成して一は田茂木野に出る道を捜させ、一は田代に通ずる道を捜させた。
その間、健脚な兵士を集め、近傍に死んだ者の食物を集めさせた時、突然山口大隊長蘇生したので、全軍一同勇気づき猛然と前進を始めた。
この時、大隊長の命により神成大尉各隊を指揮し火燧山付近に着いた時は正午十二時であった。

ここに停止した時、大橋中尉が倒れた。永井軍医の診断で空腹であるためと言う。
そこで残った食物をかんで与えたら蘇生するを得た。
それから賽の河原の方向さして進んだが、大橋中尉、永井軍医その外の兵士の多くは、この辺から遅れた。
余が賽の河原の西方で待っても来らず、然るに約千bの渓谷に人の声が聞えた。
これぞ前進した神成大尉の一行であろう。
既に日は暮れ寒気酷烈、進むことができず露営することに決した。
その夜は心身共に疲労し空腹、昏睡したが今泉見習士官に二度三度呼び起された。

1月26日 午前一時頃、神成大尉一行の集団した所に至るため出発した。
約千b進むのに二時間半を費やした。
この間不幸にも再び山口大隊長は人事不省に陥り、種々介抱したが「ああ」という声のみで蘇生しなかったので、強壮な兵士数名に守らせて前進したが、神成大尉一行は影だになく、そのうちの中ノ森で露営することとなった。
各幹部は厳然寒気と戦ったが、夜に入って疲労と寒さに血凍え昏睡しるに至ったもの数名あり。
この日行進した道は普通ならば二時間ばかりで達することができるのだが、一食もせずただ雪にかじりつつ行くので一日を費やしたのである。

1月27日 時間不明、ひとりの伍長告げて曰く「田茂木野道は分明せり」
各兵員を励まして行けども行けども田茂木野道に達せず、ただ右に小山があるので方角を定めるために登ると神成大尉、中野中尉、鈴木少尉、今泉見習士官等がいたので互に談合の上、二隊に分かれ、右と左に道を求め前進することになった。
その時、山口大隊長にあい蘇生したのを喜び、勇気百倍二隊に分かれ進行した。

午前六時〜七時の間と思う。
余の一隊は大隊長をはじめ伊藤中尉そのほか数名だったが、相擁しつつ前進すると前方に高址を発見した。
余は疲れた足を踏みしめ踏みしめ這い登り地形を考えたら、後方に駒込川があることが判った。
川べりを下ったら青森に至ることが出来るであろうと、それから一行はその方を指して進んだ。
しかし駒込川の断崖は氷結して甚だしく滑り危険というばかりでなく、この時既に日暮れも迫っていたので、ほどよい崖陰に身を潜め一夜を凌ごうとした。
時に今泉見習士官は下士一名を伴い、路を見定むべしと川を下って行ったままついに帰り来なかった。

1月28日 早朝、雪も小晴れとなったから、大隊長らをして崖を登らせようと努めたが、午後三時までに登ることができず疲労甚だしく元の所に帰った。
この時、大隊長は川のほとりに座を占めて動かず、余らも凍傷者の多くは斃れ一行七人だけとなった。
佐藤特務曹長は下士兵卒を率い聯隊へ連絡しようとして行ったまま行方不明となり、今は施すべき策がないので、余は伊藤中尉と相抱き運命を天に任せ、崖穴を死所と覚悟の座を占めた。
されど大隊長の事が気になったので、這い乍らその傍らに至り、「ここより我らの占めた場所は雪の甚だしさからぬ位置なればお移りなされよ」と再三勧めたが、頭を振り、「吾はここに死せん」として拒否。
止むを得ず余は再び穴に戻って死を待つだけであった。
ただ時々各々川に下りて水を飲み帰る時は「大隊長殿いかがでござる」と伺い寄るが、大隊長は動く意思なく「ここに死する」と答えるのみ。

1月29日 (記述無し)

1月30日 二等卒後藤惣助は我らのこもっている所に来たので一団五名となる。
ただ天を仰ぎ死を待つより外なかった。

1月31日 渓谷に陥り、崖穴に入って既に二日。
天候少し晴れたといっても何ともすることができず、昼は吹き来る雪に対し、夜は時々雲間の星を見るのみ。
前に進めば底深き水の流れあり、後に至れば断崖絶壁なり。
さればとて空しく座しては眠りを催すし、そのまま凍死するのみ。
なれば一生の勇を鼓し高地によじ登らんと努め、午前九時、各々登らんと試みたが、気のみ勇め足立たず、ようやく踏みしめ踏みしめ二百五十bばかりの所を午後三時までかかり、辛くも登りたりしに遥か彼方に人の彷徨するを認めた。

この時、伊藤中尉はその人々の運動が機敏なのを見て、凍傷兵の一行ではないと知り、救いを求めんとして四人声を合わせて呼びしに、果せるかな捜索隊にして余らは辛くも救助せらるるを得たのである。

(『五聯隊雪中行軍遭難実記』及『青森聯隊遭難 雪中行軍』)


註: 倉石一大尉は山形県米沢市の出身。
大尉は当時肝臓を患っており粥を食べており、雪中行軍に参加する予定ではなかったが、行軍隊の送別会に列席したところ山口大隊長から参加するよう誘われて加わった。
大尉は雪に慣れていたので遭難当時、隊員に「あまり騒がずに静かにしていたらいい」と忠告したが大半の人は聞き入れず犠牲となった。
大尉は行軍隊でただ一人、ゴム長靴を履いていた。
行軍前の正月、何かの講習会があって上京した際に、当時東京で流行っていたゴム長靴を一足購入していた為、凍傷を免れたという。
大尉は大滝の谷底で数日絶食したのが持病の肝臓を全快させたといわれている。

その後、明治37年秋、日露戦争に出征。
翌38年1月28日、黒溝台の一戦で望遠鏡で敵軍を偵察中直撃弾で即死した。
大尉で出征し、戦死後少佐に昇進、正七位に叙せられ、勲四等 功五級を受けた。



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