サイトトップ > Media 「本・ノンフィクション」
Media 「本・ノンフィクション」ページメニュー
八甲田山雪中行軍事件「史実」系
史実考察<青森第5連隊>
歩兵第五連隊 遭難始末・・・青森第5連隊による事件報告書の復刻版
陸奥の吹雪・・・陸上自衛隊第五普通科連隊による事件報告書
歩兵第五連隊史・・・まるまる一冊歩兵第五連隊!
青森歩兵第五連隊 雪中遭難記録写真集・・・手軽に入手できる入門書的雪中行軍写真集
雪中行軍記録写真特集 行動準備編・・・研究家のプライベート写真収録の雪中行軍写真集
吹雪の惨劇記録写真特集 遭難編・・・小さな小さな雪中行軍写真集
八甲田山雪中行軍の光と影・・・ドクター弘前(?)による山口少佐の死因検証
戦死者のゆくえ・・・遭難事件と靖国神社と民間信仰
八甲田山雪中行軍遭難事件と「勇士」の表象・・・ある兵隊が「勇士」になるまで
日本史の現場検証・・・現地を歩いて
八甲田遭難救出アイヌ分隊・・・救助活動とアイヌとアイヌ犬の活躍
青森連隊惨事雪中の行軍・・・明治35年発行の事件解説本
青森連隊遭難 雪中行軍・・・明治35年発行の事件解説本
第五連隊遭難始末・・・明治35年発行の事件解説本
青森5連隊関係 いろいろ
青森大学「雪国環境研究」第6号、軍事史学「防衛研究所戦史部年報」第2号、日本スキー学会誌「公文書が語る歴史秘話」、事件で見る明治100話、明治三十年代前半の歩兵連隊雪中行軍、八甲田山雪中行軍遭難事件と「勇士」の表像
史実考察<弘前第31連隊>
われ、八甲田より生還す・・・弘前隊の雪中行軍を再検討
八甲田山から還ってきた男・・・福島泰蔵の生い立ちから、士官になるまで
実録八甲田山指揮官 福島大尉の人間像・・・福島大尉の漢詩本(ブ厚い!)
上州人 豪雪の八甲田を征す・・・上州人による上州人の研究本
孫が挑んだ もう一つの八甲田雪中行軍・・・間山伍長のお孫さんによる冬の八甲田踏破「再現」
史実考察 総合
雪の八甲田で何が起こったのか・・・史料が教える事件の本当のこと
八甲田山の山の彼方に・・・読み応えありの予感
八甲田 死の雪中行軍 真実を追う・・・孤高の記者が追った雪中行軍遭難事件を追う
郷土史・地方史・日本史・明治史
青森市史 別冊3・・・オフィシャル八甲田山雪中行軍遭難事件本?
青森の本 いろいろ・・・その他の青森県史、青森市史、書籍や研究誌など
鷹巣の本 いろいろ・・・秋田県・鷹巣での研究誌など
日録20世紀 1902明治35年・・・ぱらぱらとめくる20世紀本
碑は語る われも生きるなり・・・地道な石碑本
時よ語れ 東北の20世紀・・・写真でふりかえる東北の100年
教科書が教えない歴史・・・この本は教えてくれる
ニュースで追う 明治日本発掘・・・テレビがないころのジャーナリズム
事件で見る明治100話・・・100つの事件からみえる明治時代
軍事・軍隊研究
続しらべる戦争遺跡の事典・・・意外と身近にある戦争の記憶
日露戦争 史跡を歩く・・・これを持って歩きにいこう
八甲田山という山
名山の日本史・・・八甲田の名の由来
山の民俗誌・・・まだスキーがないころ
雑誌掲載記事
朝日ジャーナル 世紀末の一年
週刊朝日「八甲田山雪中行軍の真相」・・・雪中行軍とリーダー論
週刊朝日「八甲田山の犠牲は黒溝台に生きた」・・・軍医がのこした雪中行軍の教訓
週刊文春「不肖・宮嶋 史上最低の作戦」・・・不肖・宮嶋、八甲田山へ
週刊新潮「雪中行軍で生還した兵士たち」・・・生還者の写真
週刊新潮「連想・八甲田山梅雨行脚」・・・自衛隊のガス事故後の八甲田
Outdoor「八甲田、死の彷徨ルート再び」・・・青森第5連隊ルート踏破にトライ
サンデー毎日「銀塩記憶・八甲田「死の彷徨」」・・・昭和30年の後藤伍長像
歴史群像「八甲田山雪中行軍」・・・青森隊と弘前隊の比較
※文体をスッキリさせるため著者名などを「敬称略」してありますので、ご了承願います。ごめんなさい!
遭難始末青森第5連隊による遭難事件報告書<復刻版>
「遭難始末」
歩兵第五連隊/編、財団法人稽古館/発行所、1977(昭和52)年8月7日/発行日
明治35年に発行された同名冊子の復刻版。銅像茶屋にて購入可能。(品切れのときも)


史実に興味があるのならぜひ入手したい本。資料が豊富がだ、製本に手間がかかるので再版が難しそう。新田次郎さんは古書店でこの本と偶然出会って短編『八甲田山』を執筆した。

↑page Top
陸上自衛隊第五普通科連隊による事件報告書
「陸奥の吹雪」
陸上自衛隊第五普通科連隊/編、1965(昭和40)年6月/発行日
入手は困難。再版がのぞまれている。復刊ドットコム「陸奥の吹雪」復刊リクエスト投票


国会図書館で閲覧したが、あまりにも壊れそうな製本に驚いた。新田次郎さんはこの本を高く評価し、小説『八甲田山死の彷徨』の執筆の資料にした。

↑page Top
まるまる一冊歩兵第五連隊!
「歩兵第五連隊史」
栗田弘/著、歩兵第五連隊史跡保存会/発行所、1989(昭和48)年/発行日



倉石大尉のエピソードが興味深い。倉石大尉が陸軍幼年学校の生徒監をしていた時、生徒に東条英機がいたらしい。東条は倉石大尉が信望していた上杉謙信を好きになって、のちの同盟国のムッソリーニ首相と、ヒトラー総統に川中島合戦の額を送って武士道を紹介したらしい。当時の新聞はこのエピソードを「倉石大尉の影響による」ものだと報道したとのこと。

↑page Top
雪中遭難記録写真集銅像茶屋でぜひどうぞ、入門書的写真集
「青森歩兵第五連隊 雪中遭難記録写真集」
小笠原孤酒/監修、銅像茶屋/発行所
銅像茶屋にて購入可能。定価は税込みで1300円


写真にキャプション(説明書き)がないので不親切だけど、入門書としては充分。

↑page Top
雪中行軍記録写真集小笠原弧酒プライベート写真(?)収録の雪中行軍写真集
「八甲田連峰 雪中行軍記録写真特集 行動準備編」
小笠原孤酒/編・著、自費出版?/発行所、1980(昭和55)年8月31日/発行日


A4サイズの大きな本。青森連隊の将校のバストアップ(近影というのか)写真や、中隊集合記念写真、隊員の名刺、なぜか遭難救助中の写真(行動準備編なのに)などなど掲載。写真のキャプション(説明文)が少ないので不親切。
付録は「写真に見る著者の生活と取材活動」の写真。著者とはもちろん小笠原弧酒さんのことで、取材中の写真や、青森や仙台のテレビ番組に出演していた写真もある。(その番組見たいなー)

↑page Top
小さな雪中行軍写真集
「吹雪の惨劇記録写真特集 遭難編」
小笠原孤酒/編、我楽多文庫/発行所、1986(昭和61)年5月28日/発行日
国会図書館で閲覧可。状態悪し


小笠原弧酒さんの詩ではじまる写真集。雪に半分うもれた営門、官舎、兵営の写真。アイヌの方も参加した捜索活動中の写真。 田茂木野、治療中の生存者たち。写真のキャプション(説明文)がないので不親切。

↑page Top
八甲田山雪中行軍の光と影ドクター弘前(?)からみる山口少佐の死因検証
「オスラーの考えに沿っての21世紀の医の展望」
松木明知/公演、克誠堂出版/発行所、2001(平成13)年12月8日/発行日
公演者の松木明知は、弘前大学医学部麻酔科学教授。


松木明知さんの公演発表を聴きおこした本。遭難者救援のため青森に派遣された軍医・中原貞衛をとおして山口少佐の死因について医学的に検証している。正直、かなりショックな内容で、もしこれが真実であるならば「真実」は隠蔽されて当然だろうなと思ってしまう。だがつくづく雪中行軍遭難事件は、様々な分野で研究されるべきなんだなーと実感する。

文中で、講談社発行「目録20世紀1902」の表紙を映画のワンシーンだと書いてあるのは間違い。




↑page Top
八甲田山雪中行軍遭難事件の靖国神社合祀問題について
「戦死者のゆくえ」
丸山泰明/執筆、川村邦光/編、青弓社/発行所、2003(平成15)年11月20日/発行日
執筆者の丸山泰明は、大阪大学大学院文学研究科博士後期課程(民俗学・宗教学)?


雪中行軍の犠牲者たちは靖国神社に合祀されていない。なぜ合祀されなかったのか。なぜ合祀されたという「民間信仰」ができたのかを考える論文。
・いまや「遭難者を合祀すべし」の気風は無いが、「怪談話」として遭難者たちは「民間伝承」され続けている。
・小笠原弧酒が「合祀請願」のために署名をあつめ、靖国神社に掛け合うが、取り下げられていた。

↑page Top
軽石三蔵二等卒が「勇士」にさせられるまで
「日本学報」―八甲田山雪中行軍遭難事件と「勇士」の表象―
丸山泰明/執筆、大阪大学日本学研究室発行の「日本学報」に掲載、2004(平成16)年3月/発行日
執筆者の丸山泰明は、大阪大学大学院文学研究科博士後期課程(民俗学・宗教学)?

軽石二等兵が「勇士」として神格化される軍隊的事情と、日本人心理を読み解いた論文。

・遭難現場写真を天皇が見ることで、『モノを介して天皇と民衆が結びつく』という関係が形成された。
・天皇の代理人の現地視察は、『民衆のあいだに生じた陸軍への反発と恐怖を抑える意図があった』らしい。
・遭難死者を『名誉ある死だと意味づけることによって』、民衆を「国民」にしようと利用した。

いまと違って「国民」の概念が希薄な時代。「国民」はその後確実におとずれる日露戦争の「国民皆兵制」の基であった。政府による「美談」化操作が行われた一方、民衆にもそれを受け入れる素地があった。

・事件直後、事件をモチーフにした芝居が興行された。そこには、『兵士が服を脱いで隊長に着せる』描写があるが、これは軽石二等兵の「美談」ではない。なぜなら軽石二等兵が「発見」される前だからだ。

ちなみに現在では上官を介抱して(しているように見える)倒れた軽石二等兵は「別人」説が有力である。丸山泰明さんは『八甲田山雪中行軍遭難事件の見世物化』についても研究している。ぜひ読んでみたいものだ。

↑page Top
現地を歩いて分かる事件の経緯
「日本史の現場検証2 明治・大正編」―八甲田山死の彷徨 雪中行軍訓練で起こった悲劇―
合田一道/著、扶桑社/発行所、1999(平成11)年11月10日/発行日
著者の合田一道は、北海道在住のノンフィクション作家であり日本放送作家協会会員。


文献と現地取材(タイトルとおりに)を通して事件の経緯を21ページにまとめているが、「神成大尉と途中で出会う約束をしていた福島大尉」など、映画と史実の基本的な区別ができていない。

↑page Top
アイヌ救助隊からみた遭難事件
小田原金一/執筆、文藝春秋(1977年10月号)/掲載、特集「日米経済戦争」
筆者の小田原金一は、青森市在住の作家で、遭難捜索活動の小説「雪中行軍始末」の作者。祖父が遭難者捜索隊の嚮導(先に立って導くこと)をつとめていた。


東京から来たセントバーナード犬は八甲田山の吹雪に怯えてしまったので、津川連隊長はアイヌとアイヌ犬に期待した。捜索隊の将校たちは、つまご(ワラの雪沓)や輪カンジキの履きかたさえ知らず、1000人を越す捜索活動にもかかわらず成果はあがらない。

アイヌと村人で編成した「特別捜索隊」は、駒込川などの難所から遺体や武器を発見する成果をあげた。アイヌたちは4月中旬に任を解かれ(67日間の捜索活動!)津川連隊長のとりはからいで弘前城を見学したのち、船で函館に渡って、ふたたび幸畑に来ることはなかった。

筆者の父は、雪中行軍隊を小学校に行く途中の幸畑で見かけている。最後尾の山口少佐は『白毛まじりの顎鬚をはやし、杖をついた、温顔の』軍人だったらしい。

↑page Top
明治35年に発行された研究本?
佐藤陽之助/編、1902(明治35)年4月24日/発行日、工業館/発行所
近代デジタルライブラリーウェブサイト(ネット閲覧可能。「雪中行軍」で検索)



目次(内容)
・雪中行軍(佐藤氏の前文、青森隊の概要、ルート図)
・混成大隊(隊員名リスト)
・遭難の顛末(携行品、服装、後藤伍長救助時の状況について)
・後藤伍長の談話(遭難に至るまでの状況。山口大隊長が行軍中に亡くなったとしている所が気になる)
・倉石大尉の談話(駒込川の渓谷で救助を待つ様子。山口大隊長は生きている)
・長谷川曹長の談話(炭小屋で数名と救助を待つ様子)
・談話九則(立見師団長談、石黒男爵談、村松伍長談、某上長官談、武谷一等軍医、小川第四師団長、川田青森市助役、某発見者、救助人夫)
・惨事五彙聞(事件後日のエピソード)
・付録 奈翁の雪中行軍(奈翁とはナポレオンのこと。ナポレオン軍のロシア進出の時の雪中行軍について)

↑page Top
事件直後に発行された事件顛末解説本
百足 登(ももたり・のぼる)/編、1902(明治35)年2月16日/発行、木文書店(宮城県仙台)/発行所、有千閣書店(宮城県仙台)/共同発行、定価12銭
近代デジタルライブラリーウェブサイト(ネット閲覧可能。「雪中行軍」で検索)


昭和52年に稽古館(閉館した青森市内にあった民俗博物館)で発売された復刻本を入手。
百足登さんは東北新聞社(仙台)の記者。

救助活動の記述(意訳)に心が痛んだ。
雪中行軍に加わらなかった新兵は各哨所に配置され雪中忙しく働いているが、いつも兄のように敬慕していた古兵の死体を扱っているすがたは、むしろ戦時の時よりも命令を行うのが困難であると、ある将校は語った。

弘前第31連隊の行軍にも触れているのが特徴的。多くの困難をのりこえてきた弘前隊だが、八甲田山系に突入してからの描写が際立っている。(以下意訳)
外套は凍りつき、羅紗(ウール)の性質は失われ、板のようにボキボキ折れた

賽の河原付近で2丁の銃と、遺体2体を発見したが、運搬することはやむを得ずあきらめたとの記述もある。
新聞「萬朝報」の記事を転載して、青森隊の捜索活動の緩慢ぶりに驚いている。(真実はどうなのか・・・)

↑page Top
事件直後に発行された事件顛末解説本
北辰日報編輯部(青森県弘前市)/編、1902(明治35)年3月1日/発行、近松書店(青森県弘前市)/発行所、定価12銭
近代デジタルライブラリーウェブサイト(ネット閲覧可能。「雪中行軍」で検索)


昭和52年に稽古館(閉館した青森市内にあった民俗博物館)で発売された復刻本を入手。
事件や捜索活動のエピソードを紹介している内容なので読みやすい。捜索活動の初期に、三神少尉(文中では三上少尉)が休みなく走り回ったことは見逃せない。(以下意訳)
三上少尉の働きは容易なことではなく、大抵のものならば休息を取るところだけど、健気な壮年士官の三上少尉は、そんなことはせずに、復命をしたあとに津川連隊長に向かってあらためて翌日の勤務を問い、「なるべく捜索線の最前線への派遣を望みます。前日の経験もあって多少の考えもありますから」と陳情した。

弘前隊については、経過を数ページにまとめただけで、2丁の銃や青森隊を見たかどうか書かれていない。

↑page Top
青森大学 雪国環境研究 第6号
杉見良作/執筆、青森大学雪国環境研究所報/発行所、2000年3月31日/発行日
八甲田雪中行軍の再考−遭難百年を控えて−/タイトル
執筆者は青森短期大学教員?

青森第5連隊の遭難を気象の観点から読み解く。「八甲田山雪中行軍当時の気温試算表」が興味深い。 津軽地方からの南西の風と、陸奥湾から八甲田山腹へ吹きつける北西の風が衝突した複雑な風の流れの所で、遭難したのだと分かる。

「人間が自然の中で、生死を分かつ極限状態にある時、本能的に風上に向かって行動する習癖がある」らしく、事件報告の「三十余りの死体は皆、頭を西北に向けて横たわっていた」を裏付けている。
「Web東奥」ホームページ・・・検索欄に「杉見良作」と入力して「検索」すれば出てくる。

防衛研究所戦史部年報 第2号
中尾裕次/執筆、防衛研究所戦史部/編集発行、1999(平成11)年/発行日
著者は、防衛大学校卒。防衛庁防衛研究所戦史部主任研究官を経て、現在、防衛研究所図書館史料専門官。(Amazon参考)

防衛研究所(東京・中目黒)は防衛庁の機関で、幹部自衛官などの教育や、戦史の調査研究等を行っている。さらに「戦史資料」の管理も目的のひとつであり、図書館史料室で一般への閲覧も行っている。

「戦史研究年報」(1998年(平成10)に刊行開始)は、戦史に関する論文や、戦史部の活動が掲載されている本。この号では、「歩兵第五連隊雪中行軍遭難事件」関係史料の7点が紹介されいる。陸軍省作成書類は、「東京が記憶している雪中行軍遭難事件」といえるかも知れない。(言えないか)

軍事史学
太田弘毅/執筆、軍事史学会/編、錦正社/発行所、2006(平成18)年6月19日/発行日
軍事史関係史料館探訪コーナー

リニューアルされた「八甲田山雪中行軍遭難資料館」の展示について。

公文書が語る歴史秘話
小玉正任/著、毎日新聞社/発行所、1992(平成4)年7月5日/発行日
著者は、元国立公文書館館長

公文書館に所蔵されている「歩兵第五連隊第二大隊雪中行軍遭難顛末書」をもとにした事件の概要。この文書は児玉源太郎陸相から桂太郎首相あてに提出されたもの。

日本スキー学会誌 第16巻
平井憲治/講演者、日本スキー学会誌編集事務局/発行所、2006(平成18)年8月22日/発行日
同学会の講演をまとめた冊子。講演者の平井憲治は、八甲田ボランティアガイドクラブ代表など勤めている。

映画とは違う史実の概要。スキースポーツも、『不可能を可能にしているかのような開発・研究が先行され、自然を克服しているように錯覚』をしてないだろうかと問題提議。

事件で見る 明治100話
中嶋繁雄/著、立風書房/発行所、1992(平成4)年12月20日/発行日
著者は元「歴史読本」の編集長。「日本名僧100話」などユニークで博識な本を多く書いている。

事件から当時の人と世相を感じさせてくれる本。就寝前に寝床で読もうと買ったのだが、最近やたらと寝つきがよくなかなか読めないでいる。歩兵第五連隊編の「遭難始末」を参考にして6ページの記事が収録されている。

明治三十年代前半の歩兵連隊雪中行軍
小関恒雄/著、日本医史学会関西支部/発行所、1999(平成11)年3月
医学雑誌「医譚」bV4に掲載。著者は新潟大学医学部教員(?詳しくわからずスマヌ)

青森第5連隊の雪中行軍は、のちの日露戦争での凍傷対策に役立ったといわれている。しかし、青森第5連隊が雪中行軍する前にも、ほかの連隊でも雪中行軍は行われており、凍傷や橇の運搬の報告があげられている。著者は、『八甲田山事件全史』の各部隊での雪中行軍の事例をいくつかあげて、これらの雪中行軍も『正当に評価されるべき』であると述べている。

八甲田山雪中行軍遭難事件と「勇士」の表象 ―ある兵士の写真と銃をめぐって―
丸山泰明/著、大阪大学日本学研究室/発行所、2004年3月、日本学報bQ3に掲載。
執筆者の丸山泰明は、大阪大学大学院文学研究科博士後期課程(民俗学・宗教学)


↑page Top
われ、八甲田より生還す福島大尉の甥による研究本
「われ、八甲田より生還す」弘前隊・福島大尉の記録
高木勉/著、サンケイ出版/発行所、1978(昭和53)年3月7日/発行日

著者は作詞家。弘前雪中行軍隊長・福島大尉の甥にあたる。

本書は群馬県の福島家に私蔵されている資料をもとに執筆され、行軍の過程に焦点があてられた内容。著者の高木勉さんは「両隊の雪中行軍ルートはまったくちがうのだ」と力説している。つまり遭難者に出会っていないと。地元住民を案内役にした雪中行軍の成功ポイントは、見方を変えれば一般人を冬山行軍の危険にさらしたことになるが、本書には地元住民を案内役にしたことのマイナス面には触れられていない。






↑page Top
八甲田山から還ってきた男 福島泰蔵の生い立ちから士官になるまでを克明にたどった必読の書
八甲田山から還ってきた男
←<単行本版>文藝春秋/発行所、1986(昭和61)年5月15日/初版
<文庫本版>文春文庫/発行、1990(平成2)年2月10日/初版→

著者の高木勉は、作詞家。福島弘前隊隊長の甥にあたる。
八甲田山から還ってきた男

「冬山という自然を征服しようとはせず、むしろ共存するかのように挑んだ」福島大尉の原動力は、「寒さ」に対しての「憎しみ(トラウマ)」だったのではないかと、本書を読むと感じる。

高木勉さんは、福島大尉による隊員奮起の訓示「諸子夫レ天ニ勝テヨ」と、山口隊の「一大尉」の洩らした一言を比較して論じているが、これこそが、福島大尉が恐れていたことではないか?だからこそ、資料の封印を家訓(?)にしたのではないか?・・・なんて思います。



↑page Top
福島大尉の人間像福島大尉の漢詩本
「実録八甲田山 指揮官福島大尉の人間像」
高木勉/編著、講談社出版サービスセンター/発行所、1983(昭和58)年6月/初版

編者&著者は作詞家で、弘前雪中行軍隊長・福島大尉の甥にあたる。

福島大尉がのこした多くの漢詩を紹介した、気合の入ったブ厚き一冊。完読は遠い・・・

田茂木野で5連隊の惨事を聞き驚愕し、青森の旅館で、作った漢詩の一節。
蹂践(じゅうせん)の迹(あと)腥(なまぐさ)し過ぎ去るの路(みち)

↑page Top
上州人による上州人の研究本
「上州人 豪雪の八甲田を征す」
塚越真一/著、自費出版、2005(平成15)年8月27日/出版日

著者は、郷土史研究家。特に地元の群馬県倉渕村(合併で高崎市倉渕町)にくわしい。

弘前第31連隊の福島大尉が群馬出身なのは有名(?)だが、弘前連隊の副官・茂木大尉も群馬出身であることはほとんど知られていない。そして両人は同郷のせいか交流があったそうである。

著者の塚越真一さんは村長など務めただけあって、地元の人脈・資料収集については羨ましくなるほどである。しかし高齢で『調査が尽くせなかった』せいか、資料を活かしきれず、各資料の抜粋のような内容になってしまった。

しかも著者ならでは入手できた資料がありながら、新田次郎の「八甲田山死の彷徨」から引用するなど、もったいないことである。史実を追求するなら小説の存在は忘れるべきである。
読んでいて頭が混乱するワシが悪いのかも

さらに青森第5連隊の行軍の失敗について3ページも費やし、あげくには、『一方大きな失敗に終わった当事者には、(中略)そちらの方が盛大な墓地建設と銅像健立とは不公平な話しである。』とは、その無念さは分からぬではないが、なんとも・・・である。

福島大尉および弘前第31連隊の研究は、まだまだ未開で、やりはじめたら奥が深い分野になるはずである。青森第5連隊の失敗の原因などに気をとられず、福島大尉出身の地を中心にして研究が盛んになることを祈る。・・・なんてエラそうに言ってしまったが本当はこの研究誌の存在を知ってうれしかった!!

塚越真一さんは1年後に第二作「福島大尉のメッセージ」を発行。(2004年8月1日発行・自費出版)
いづれも群馬県立図書館、川崎市立図書館のご尽力をいただき閲覧に至りました。感謝!

『偉大な人の偉大な足跡はいつまでも評価されてよいと思う。しかも私たち上州人の大先輩が挙げた大きな成果を当時の国の都合でかき消され、今は群馬県人も殆どその功績を知らない状況である。』

数ヶ月前に立ち読みした本(署名失念)に、新田次郎さんの「アラスカ物語」の主人公・フランク安田の功績を取材したレポートが載っていた。「アラスカ物語」を読めばわかるように、あれだけの人だから当然、アラスカでは有名人で、記念館などありそうではないか!・・・・・・しかし、アラスカで(しかもフランク安田がエスキモー生存のために開拓したビーバー村でも)彼を知る人は少なく、しかも取材されても困るといった風情。

ガッカリした記者は(立ち読みしている私もガッカリ)、フランク安田(安田恭輔)の故郷・宮城県・石巻を訪問したが、ここもアラスカと同様に、安田を知る人は少なく、詳しいこと聞かれても困るといった風情。もちろん記念館もない。

そのときはじめて記者は、フランク安田に無関心なアラスカ人への怒りに近い感情が、実に勝手で方向違いなんだと気がつく。まずは日本で安田恭輔さんを忘れないでいることが必要なのだ。

・・・というわけで、いつか群馬に行かねばならないと思う管理人でありました。フランク安田さん関連の物件にも行きたいわー。

↑page Top
孫が挑んだ もう一つの八甲田雪中行軍
間山伍長のお孫さんによる冬の八甲田踏破「再現」
間山元喜/著、中経出版/発行、2009年10月16日/初版

筆者は、弘前第31連隊の間山伍長の孫であるがゆえにある日、冬の八甲田踏破を決心する。だが山岳事故をおこせば、100年前の関係者の血縁であるがゆえに”八甲田山の怨念”と扱われるのは明白である。事故は「八甲田そのものを汚すことになる」のだ。

12日間をすべて徒歩で踏破した弘前第31連隊の「八甲田雪中行軍」に比べると、4日間の車両機動も含めた筆者の「再現」計画はあっけなく感じられるが、これは踏破成功のための計画であり、計画内容がどうであれ、冬の八甲田の風雪の過酷さは変わらない。福島大尉が現代の人ならば文句なくこの計画を立案しただろう。

それにしても筆者を支援する地元ネットワークに感心した。地方の小さな社会は閉塞や停滞を感じさせる一方、個人の決心を達成に導くパワーもある。「孫」だからこそ支援を受けられたかも知れないが、それでも良い。元気が出る。

できれば、間山伍長の「雪中行軍日記」を文末に置かず文中に挿入して、御祖父を通した筆者の「再現」を体験したかった。2丁の銃のくだりは蛇足。
100年前の遭難事故の要因は・・・筆者の解説はシンプルだが、確信に触れたような気がした。
↑page Top
雪の八甲田で何が起こったのかこんな本が読みたかった!必読の書
「雪の八甲田で何が起こったのか」
川口泰英/著、北方新社/発行所、2001(平成13)年1月20日/初版

著者の川口泰英は十和田市の文筆業。「雪中行軍七勇士の歌」を作詞。
多くの雪中行軍ファン(?)は、こんな本の出現を待ち望んでいた!
著者の川口泰英さんは、豊かな知識をもとに、多くの資料をまっさらな視点で読み解いている。しかも読みやすく、巻末の「参考文献」リストは、とても役立つ。
福島大尉の遺した漢文から、漢文だから残せた福島大尉の「本心」をさぐる作業は圧巻としかいいようがない。表紙センス良し。






↑page Top
八甲田山の山の彼方に「八甲田山の山の彼方に」
高野利大/著、紅露の会事務局/発行、1992(平成4)年/初版

実は、著者の高野利大がどのような方なのか?発行の紅露の会事務局とはどのような会なのかまったく不明。お恥ずかしい限り

渾身の一冊!でもまだ読めてません・・・

↑page Top
孤高の記者・小笠原弧酒とは
八甲田死の雪中行軍真実を追う
三上悦雄/著、河北新報出版センター/発行所、2004(平成16)年7月/初版

著者の三上悦雄は元毎日新聞記者。

三上悦雄さんは、赴任先で小笠原弧酒さんと出会い、小笠原弧酒さんが亡くなった後に独自に研究・執筆活動をはじめましたが、三上悦雄さんも執筆中に亡くなってしまい、三上悦雄さんに代わって記者仲間が尽力して本書を出版しました。

小笠原弧酒さんは八甲田山雪中行軍遭難事件のために心身を投じ、私財を使いきって取材をした人。その情熱は、この事件を「広めたい」気分と、「ひとり占めにしたい」気分で相反していたのではないか?本書に書かれる小笠原弧酒さんの不器用な生きざまは、読んでいて辛くなります。

小笠原弧酒さんは、『八甲田山死の彷徨』を書こうとしている新田次郎さんの取材に協力して、「同じ時期に雪中行軍していた弘前第31連隊がいた」ことを教えます。・・・たぶん、小笠原弧酒さんの「情報」がなければ、新田次郎さんは青森第5連隊単独の小説を書いたはずで、こんなにもヒットしなかったかも。(断言)

失意のまま亡くなり、なにかとモンダイの多い小笠原弧酒さんの「無念」が、三上悦雄さんによってようやく知られるようになりました。本誌の「1月31日に強震があり、それが幸いして「生存者」を発見できた」という情報はとても興味深いです。

↑page Top
青森市オフィシャル八甲田山雪中行軍遭難事件本
「青森市史 別冊3」
青森市役所/編、国書刊行会/発行所、1982(昭和57年)年/発行日



本文345ページからなる一冊まるまる雪中行軍本。内容(抜粋)は、
・60周年式典(阿部卯吉翁の墓前での追悼の言葉)の様子
・遺族の連絡先・式典当時の生存者(小原・村松・阿部各翁)の近況
・雪中行軍の準備〜行軍(1日目〜4日目)
・救護隊の活躍
・捜索、救援隊の報告(大隊長発見状況、倉石大尉の遭難談)
・伊藤中尉の口演(雪中行軍遭難について)
・遭難者の栄誉と追悼
・遭難将校の履歴
・遭難勇姿の美談(『遭難始末』と重複)
・雪中行軍遭難に対する世評
附録として『雪中遭難記録写真集』にも載ってる記録写真、遭難地之図、捜索線之図、八甲田山雪中行軍遭難墓標配置図等々がある。(情報提供TOSHIBOさん)

↑page Top
青森市の歴史
青森市史編さん委員会・青森市/発行、1989(昭和64)年1月15日/初版
近代の巻に「八甲田に散った一九九人」の項

青森市の歴史散歩
小沼幹止/執筆、よしのや本間書店/発行所
「軍国悲し、文明の破壊」に「勇ましかった歩兵第五連隊」の項
執筆者の小沼幹止(こぬまかんし)は青森を中心に活躍した作家、作詞家。

青森県史研究第7号
中園裕/執筆、青森県/発行所、2002年(平成14)12月/発行日
「雪中行軍」はなぜ有名になったのか?―遭難事件の処理過程から―/論文タイトル
執筆者の中園裕は、青森県史編纂室所属のメディア論に詳しい方。

『事件の本質が解明されることは結構多い』ということで、『事件の処理過程に注目した分析』をした13ページ論文。文末5ページ分の「注書き」が読み応え(?)があり、たいへん助かる。

↑page Top
たかのす人物伝
長崎 久/著、秋北新聞社/発行所、1992(平成4)年2月26日/発行日
著者の長崎久は、秋田県史研究家。100〜101pに神成大尉の記事(「鷹巣町史 第三巻」と同じ文面)

鷹巣町史 第三巻
鷹巣町史編纂委員会/著、秋田県鷹巣町/発行所、平成元年3月31日/発行日
387pに神成大尉の記事(「たかのす人物伝」と同じ文面)。行軍部分の記述は新田小説の引用のみ。

鷹巣町地方研究史
1)三日田吉治/著、?/発行所、八甲田山慰霊の探訪記/タイトル
鷹巣有志による日帰り慰霊記。遭難者慰霊の「線香絶えない場」が欲しいとの意見に同意。

2)秩父威仙/著、?/発行所、烏に助けられた八甲田山の長谷川貞三勇士/タイトル
長谷川特務曹長自身による履歴書を掲載。

↑page Top
日録20世紀ぱらぱらとめくる20世紀本
「週刊YEAR BOOK/日録20世紀」1902明治35年
講談社/発行所、1998(平成10)年10月/発行日



明治元年から平成10年にいたる20世紀の100年間の「日本の近現代史」を、豊富な写真と解説文で、1年間を40ページほどの1冊にまとめた雑誌。1902(明治35)年の表紙は弘前31連隊の写真で、赤い文字で大きく「八甲田山「死の彷徨」!」と書かれている。

ちなみに同年の出来事は、
2月1日 清国にて纏足禁止令発布
9月19日 正岡子規 死去34歳
12月10日 エジプト・ナイル川にアスワンハイダム完成・・・などなど

↑page Top
たのしき石碑研究本
「碑は語る われも生きるなり」
浅利健蔵/著、自費出版??



あらゆる石碑の碑面とその由来の研究本。雪中行軍関連も載っている。
一見、関係無さそうな本にも情報がある。図書館では気が抜けない・・・

↑page Top
時よ語れ 東北の20世紀写真でふりかえる東北の100年
「時よ語れ 東北の20世紀」―生還者―
河北新報社/編・発行所、2000(平成12)年10月30日/初版



後藤房之助伍長のご子息もまた、インパール作戦で密林を彷徨う運命に。

↑page Top
「教科書が教えない歴史 明治〜大正〜昭和、大事件の真相」
―ロシアへの脅威で「八甲田山雪中行軍」―
藤岡信勝・自由主義史観研究会/著、産経新聞ニュースサービス/発行所、1999(平成11)年6月30日/発行日、著者の藤岡信勝は東京大学教授&評論家。雪中行軍の項の執筆者、宮崎俊哉は青森市佃中学校教諭。

自由主義史観研究会とは、「自虐史観」から脱却した新しい歴史教育と歴史研究に取り組む団体。
教科書に載っていない歴史的な事件を、それぞれ4ページで紹介していて、雑学の本としても楽しめる。

↑page Top
「ニュースで追う 明治日本発掘 7巻」
鈴木孝一/編、河出書房新社/発行所、1995(平成7)年6月23日/発行日


編者の鈴木孝一はフリーの編集者。当時の新聞記事から関連するものを抜粋、読みやすい。

事件当時の時事新報では、「弘前隊は2挺の小銃と2体の凍死者を発見した」のに、そのまま帰途についてしまったと、なにげに弘前隊を非難している記事を載せている。(※事実はいまでも不明)

↑page Top
「続しらべる戦争遺跡の事典」―第八師団関連遺跡―
十菱駿武・菊地実/編、柏書房/発行所、2003(平成15)年6月30日/発行日




当時の軍施設の内容と現在がコンパクトにまとめられていて面白い。










↑page Top
日露戦争 史跡を歩く
矢沢高太郎/著、読売新聞社/発行、2005(平成17)年9月/発行日


八甲田山雪中行軍資料館、後藤伍長像が掲載されている。

日露戦争にしぼった戦跡の紹介本。68ページの薄さなのでこれをカバンに入れて、戦跡旅行をするのも悪くなさそう。誰かワシを連れてってー









↑page Top
「名山の日本史」
高橋千劔破/著、河出書房新社/発行所、2004年3月/発行日

著者は元『月刊歴史読本』編集長で、歴史に関する本を多く出版。
本書は雑誌『MOKU』で日本全国から選んだ100山の歴史やエピソードなどを紹介したもの。

本書によると、八甲田山とは狭義においては北八甲田山群をさし、主に田代平に散在する「湿原」や「地塘」(ちとう:高原地帯の小さな池)を、古くは「耕田」や「神田(こうだ)」と呼び、その「八耕(神)田」が「八甲田」になったそうな。ちなみに「八」は「萢(やち:谷地、湿地をさす)」が訛ったらしい。

著者の高橋千劔破さんは、小説『八甲田山死の彷徨』によって、遭難事件が『再び国民的関心事』となり、『ほとんど知られることのなかった雪中行軍の全容を明らかにするとともに(むろん小説であり、作者の推理によるフィクションを混えてのもの)』、『弘前第三十一連隊の存在をクローズアップした」と評価しています。

↑page Top
「山の民俗誌」―雪の八甲田山事件 スキー以前の話―
高須 茂/著、角川書店/発行所、1980(昭和55)年1月31日/発行日




とくに目新しくない内容だが、史実をていねいにまとめている。以下驚きの内容を引用。

『この第五連隊の遭難は、ビッグ・ニュースとして全世界に報道され、後日、ノルウェー政府は、雪中行軍の必需品として、同連隊にスキーを送ってきた。これが日本へのスキーの渡来した最初なのであるが、しかし誰もそれを問題にする者はいなかった。スキーは連隊の物置で埃にまみれ、やがて処分されてしまった。』

いやはや。本当なら困ったことだ。

↑page Top
朝日ジャーナル(1986年11月21日号)/掲載、松山巖/執筆、朝日新聞社/発行所
タイトルは、「世紀末の一年「死の雪中行軍」」

執筆者の松山巖は建築士。都市や文芸の評論、さらには小説の創作まで手がけている。

記事は連載の45回目。3ページの内容。
記事は読みやすく、義和団事件からはじまり、雪中行軍遭難事件をはさんで、海事冒険小説で締めくくられている。事件の解釈は既視感があり、『第三一連隊は第五連隊と行軍の途中で落ち合う予定であったが』という間違いも。

↑page Top
週刊朝日(1977年7月1日号)/掲載、朝日新聞社/発行所
タイトルは、「75年ぶり発見の新資料が語る 八甲田山雪中行軍の真相はこれだ!!」
サブタイトルは、「現代サラリーマン社会への一つの教訓」

新資料とは、福島大尉の故郷群馬の蔵の中から発見された「雪中行軍手記」など。

「熟慮断行のリーダーが危機を救った」
発見された手記から、福島大尉がかなり周到に研究をしていたことが分かった。それは八甲田山雪中行軍前の「岩木山雪中行軍」でおおいに活かされた。『三十一連隊や福島大尉にとって、本当の意味の”八甲田山”はこの岩木山訓練だったともいえるのだ。』

「第五連隊遭難の真因は管理職のもたれ合い」
小笠原弧酒のインタビュー。『決定的な差は、第三十一連隊が小規模な”研究踏破”に絞ったのに対し、第五連隊は仮想敵国ロシアを迎え撃つという想定が連隊長からの命令で決められていた』・・・その想定のもとで編成されたソリ部隊によって『惨劇への引き金』になった。

小説『八甲田山死の彷徨』に見る管理職のあり方
執筆者は堺屋太一。
徳島大尉を「仕事師タイプ」、神田大尉を「日本型律儀者」に分類。ややステレオタイプなリーダー論だが、『神田大尉は、どこか上司や同僚が干渉しやすい性格を持っているのではあるまいか。』との指摘は納得。

さらに、雪中行軍の極限で判断される指揮官の優劣と、平時のビジネス社会のそれとは同じではなく、『生死にかかわるような結果の明確な仕事などどいうものは、今の企業内では滅多にないのである。』の指摘は、八甲田山雪中行軍遭難事件を企業論にかえて講義する講師や、それを受ける受講者への心すべき諫言である。さすが太一!

福島手記や、小笠原弧酒さんによる「史実解明」や、堺屋太一さんのリーダー論など、ゴタゴタな内容だが、購読者層(おじさん)的には読みごたえのある特集だったのでは? じっさい反響があったみたいだし。

↑page Top
週刊朝日(1977年7月8日号)/掲載、朝日新聞社/発行所
タイトルは、「八甲田山の犠牲は黒溝台に生きた 上」
サブタイトルは、「日露戦争秘史 第八師団加藤軍医の記録から」
執筆者の大江志乃夫は、歴史家や軍事評論家。

加藤健之助軍医の報告書をもとに八甲田山の「教訓」を検証。
加藤健之助軍医は岩手県出身。日露戦争では第八師団・衛生隊付で、多くの報告書を遺した。事件があったころは、「陸軍衛生部委託生徒」(専門学校のようなもの?)で、ティーンエージャー(たぶん)。

「戦闘間衛生状況」では、『凍傷者壱名だもなかりしは快心の事なり』と、日清戦争時の装備(『兵靴は編上を佳良なりとす』)との、格段の差を報告している。それはすなわち、雪中行軍遭難事件の教訓(倉石大尉の長靴など)であったと推測することができる。※後編は未入手。

↑page Top
史上最低の作戦あの不肖・宮嶋です。
「不肖・宮嶋 史上最低の作戦」
宮嶋茂樹/著、文藝文春/発行所、2001(平成13)年4月10日/初版

週刊文春掲載の「不肖・宮嶋シリーズ」の文庫版

カメラを手に世界のあえてタイヘンなところへ出没しちゃうジャーナリスト宮嶋茂樹。
本誌ではノルマンディーやモザンビークなどのほかに、自衛隊の青森第5連隊とともに冬の八甲田山演習に参加するハメに。記事には史実と小説(映画)の混同があり間違いもあるが、それでも今の雪山演習を知るにはオモシロイ本。


不肖・宮嶋シリーズ全部読みたいにゃー



↑page Top
週刊新潮 1999年3月18日号(No.11) 新潮社/発行
グラビア記事。タイトルは、「明治35年、八甲田山雪中行軍で生還した兵士たち」

生還者(小原忠三郎伍長、後藤房之助伍長、村松文哉伍長、後藤惣助一等卒)の写真と解説文。

↑page Top
週刊新潮 1997年7月31日号(No.29) 新潮社/発行
グラビア記事。タイトルは、「「連想」八甲田山梅雨行脚」

自衛隊員のガス事故後に「八甲田山死の彷徨」の舞台を歩いた記事。まだかろうじて屋内に湯船がある田代元湯の写真が貴重。『ここだけが当時の困難を多少でも感じさせる場所だった』

↑page Top
Outdoor 2001年2月号(No.215) 山と渓谷社/発行
タイトルは、「雪の八甲田 死の彷徨ルート再び」。安藤眞/文・写真

オサレなアウトドアライフ記事の間になんとも渋い企画!(笑) 同じ時期に2泊3日の荷物25キロをかついだ筆者は青森高校校門から青森第5連隊ルートをたどり、賽の河原で雪洞を掘って一晩をすごす。(ちなみに安藤氏のスタートは9時40分) 降雪はあったが天候にめぐまれたみたいだし、現在、銅像茶屋から先は除雪されているので、まるっきり当時と同じ条件ではないが(それでいいのだ)、雰囲気を感じるには面白かった。

↑page Top
サンデー毎日 2005年2月6日号(No.4678) 毎日新聞社/発行
連載のグラビア記事。タイトルは、「銀塩記憶(メモリー) 八甲田山「死の行軍」」

記事は事件から53年後の1955(昭和30)年8月に、後藤伍長の奥様と子孫が、馬立場の後藤伍長像と初対面したときの写真。『老いた妻は、夫の像を何度も降り返りながら帰っていった』その瞬間が写真に収められている。

毎日フォトバンク
約22万件の膨大で貴重な写真データベース。「八甲田山」で検索すればこの写真を見ることができる。

↑page Top
歴史群像(戦略・戦術・戦史マガジン) 2003年2月号(No.57) 学習研究社/発行
タイトルは、「白い地獄に消えた第5連隊の誤算 八甲田山雪中行軍」。倉田典昭/文

青森隊と弘前隊の雪中行軍を比較した記事。

↑page Top

▲Page Top