7月22日(水)24時35分〜
戦後14年が経った沖縄で、整備不良の米軍の戦闘機が小学校に墜落し、17人(児童11人)が死亡し、200人以上が重軽傷を負う事故が起きた。燃料が体に燃え移り助けを求める子や「戦争だ」と叫びながら逃げ惑う子など、学校は一瞬にして地獄絵と化した。しかし原因究明も責任追及もなされず、事故は全国的にあまり知られることがなかった。なぜなら当時の沖縄は米軍の施政権下に置かれていて、日本本土から遠い存在だったのだ。
国も社会も、自分たちの思いを受け止めてくれないと、50年間、堅く口をつぐんできた遺族たち。そんな彼らが50年の節目に重い口を開き始めた。
“重いやけどに苦しんだわが子を思い、火葬しなかった父親”、“全身50パーセントのやけどを負いながらも体育教師を目指し、大学に進学するも、事故から10年以上経って後遺症でこの世を去った青年”、事故はずっと人々を苦しめ続けていた。
戦中、戦後と時代に翻弄されながらも、わが子を思い続けた遺族たち、彼らの言葉から事故の実相に迫る。