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反日偏向歪曲報道に終止符を打たせよう。
8月15日のテレビ朝日ニュースステーションで、南京戦証言と称する報道が行われたが下記のように明らかに虚偽捏造の重大疑惑がある。
果して全く証言信憑性の無いものを敢えて報道する反日偏向ぶりがニュース報道として許されて良いものか?
こうした自国のみを悪者に捏造するマスコミの偏向反日報道に終止符を打ち中国の戦争犯罪や人件犯罪を公正に報道すべく政界としてマスコミ正常化に向けて運動と働きかけを行うべきではないでしょうか?
因みに中国軍が日本人居留民に対して行った虐殺事件『通州事件その他』の戦争犯罪はテレビ朝日は一切隠蔽して報道しない。 また旧ソ連軍が満州に侵略したときに行った婦女暴行と虐殺の犯罪等も隠蔽している。
因みにテレビ朝日は中国共産党の工作で家庭用洗剤の大手プロクタ&ギャンブルが中国に進出する許可を得るのとバーター条件として、テレビ朝日のスポンサーになり反日番組を徹底的に放送するという、明かに放送法・放送倫理規定に違反する犯罪行為を行ったと言われている。
事実ならば、テレビ朝日の放送免許を直ちに取り消しを行うべきである。
1)報道の捏造疑惑と偏向性
8月15日のテレビ朝日の報道について。
テレビ映像 昨日の報道の南京戦特集
完全版(15分05秒、103Kbps、11.1MB)
http://yami.plala.jp/upldr/data/1481.wmv
番組の要点:
・ 久米宏が、本の表紙をしつこく画面に向けるという、明らかな本の宣伝。 「南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて―元兵士102人の証言」 編集 松岡
環 ・ 靖国参拝の報道の直後に、この本の宣伝をした。 ・ 南京事件があったとされるのは65年前。
昨日のニュースステーションで現れた、いわゆる『南京虐殺??』を行った「元日本兵達」の経歴は明かに詐称であり捏造である。 例えば下記のように事実としてあり得ない「偽兵士」の証言が登場する。
三上翔(83歳・仮名)1919年生まれ、当時18才 支那方面艦隊第3艦隊大1船隊第24○○艦隊→戦争の始め頃に18歳の兵士はいないと思われる
鬼頭久ニ(76歳・仮名)1926年生まれ、当時11才 第16師団歩兵第33連隊第1大隊→11歳では兵役に就けない。
報道についての歪曲点
1.鬼頭久ニ(76歳・仮名)・南京で一般市民を大量に殺害、女性を強姦したことになっている。当時11歳! 果たして、11歳(小学校五年生)が日本軍人になれたか。そして、大人の女性を強姦できたか。そんなことはあり得ない。
テレビ映像一部 http://ime.nu/yami.plala.jp/upldr/data/1477.mpg
2.三上翔(83・仮名)志願兵・・・・・支那方面艦隊第3艦隊大1船隊第24○○艦隊 第3艦隊=第2遣支艦隊と報道されている。 遣支艦隊の創設は、昭和14(1939).11.15。 南京事件は1937年の8月だから、遣支艦隊はこの時点では存在 しない。 参考ホームページ http://www.d7.dion.ne.jp/~ishida_m/ren_kiso.html http://www.warbirds.nu/kakuki/kyosaku/2kan/serika.htm http://www.kt.rim.or.jp/~kaliy/CF411201.htm
「初代」第二遣支艦隊司令長官 昭和14(1939).11.15
海軍中将高須四郎 http://homepage2.nifty.com/nishidah/ja03.htm#2CF
3.「家族にも言えなかった」事を嬉々と話していた。 松岡環(編者)という女性がインタビューしているにも拘らず、強姦の部分を堂々と話せる。 「日本人はここまで恥知らず」、とでも言いたいのか? そもそも、下記の”仮名”で登場する元兵士と自称する人物が本当に日本軍の兵士で実際に南京攻略戦闘に従軍しかつ、証言している内容の行為を行ったという具体的な確証は存在するのか?それらを検証してテレビ朝日は報道したのか?
どうも叩けば幾らでも埃が出てくる内容である。
2)個人の犯罪を日本軍に責任転化する報道犯罪行為
更に百歩譲って、下記の証言が一部事実であっても、いわゆる犯罪行為を行ったのであれば、責任は証言している自分自身にあるわけであり、一義的には糾弾されるべきは本人ではないか? 個人の犯罪責任を関係の無い日本軍に全て擦り付けているだけではないか!
日本軍は他国、特に中国兵よりも遥かにモラルが高く軍規が厳粛であったと言うのは事実である。 仮に上記のようなモラルに反する兵士がいたとすれば却って日本軍の面汚しであり日本軍にとっての敵ではないのか。
本来、発覚すれば処罰されるべき個人的犯罪を日本軍の責任に転化するなど許しがたいモラル犯罪ではないのか。
最近テレビ朝日やTBSの局員が婦女暴行・痴漢・淫行を行っていることがたびたび報道されている。 しかし婦女暴行を行ったとしたらその一義的責任は本人であり、法的に罰っせられるのは本人個人だけである。 TBS職員が暴行行為を行ったからといって彼の所属するテレビ局自体には本来何の法的属性と責任もない。
どうも下記のような証言は犯罪者自身が自らの犯罪行為を反省もせず嬉嬉としてぶちまけて、その責任を関係の無い日本軍全体になすりつけている異常言動以外の何物でもない。
いずれにせよ証言の信憑性に具体的な検証も証拠も無い状況で公共の電波に流すのは報道犯罪行為ではないか?
3)中国軍の戦時犯罪
日本と中国の紛争時における中国軍の残虐行為と戦争犯罪は際立っています。今後以下のような中国軍の残虐行為こそ今後、国際的に究明して行かねばならない戦争犯罪である。
1.「通州虐殺事件」
中国人による日本人虐殺事件 「通州事件(Tong zhou Incident)
」が発生している。 盧溝橋事件から三週間後の7月29日、通州の中国人保安隊が当時通州にいた日本人朝鮮人居留民を一軒残らず襲撃し、結果この事件で居留民380人の大半が虐殺され婦女子はレイプされた上で虐殺された事件が存在している。
2.中国軍による上海での日本人捕虜虐殺事件 上海において中国兵による日本人や市民虐殺が実行された。
3.尼港事件(大正9年1920);ロシア、中国人からなる四千名の共産パルチザンが襲撃領事夫妻以下居留民384人(内女子184人)軍人351が陵辱暴行された上虐殺される。通州事件は「第2の尼港事件」と呼ばれる。 4.南京事件(第一次;昭和2年1927) 日1英2米1伊1仏1デンマーク1が死亡、2百人の中国軍兵士と女子供を含む数百人の一般人暴徒による各国領事館銃撃、暴行、略奪は床板・便器・空瓶にまで至った。このとき日本は完全無抵抗を貫いた が、米英は軍艦より砲撃をPM3:40より1時間行った。死者12傷者20であった。 此の事件は共産コミンテルンの陰謀であることは国際的にも承認されている。此の事件について中国側刊行の「中国歴史」は破廉恥にも 次のように大嘘の言辞を弄している。 「帝国主義は中国での半藤支配を守るため革命を破壊しようとした。3月24日北伐軍は南京を占領した。その日の、英、米、日などの帝国主義は狂ったように南京城を砲撃し、中国軍民二千人余りを死傷させた」 ここまで自己の悪行を抹殺し、二桁の水増しをし、無抵抗であった 日を砲撃に含ませる。 5.済南事件(昭和3年1928)中国兵による略奪陵辱暴行殺人事件。 略奪被害戸数136、被害人員約400とある。中国側も立ち会いの済南医院による検死結果を1つだけ挙げる。 西条キン(女性24歳) ・全顔面及び腹部にかけ、皮膚及び軟部の全剥離。 ・局部に約2糎平方の木片深さ27糎突刺あり。
6.日中戦争(支那事変)の戦争責任は中国共産党にある 最近の研究では日中戦争のそもそもの発端は「盧溝橋事件事件」 における、中国共産党による挑発謀略による可能性が高くなっており、戦争犯罪と責任所在は日本軍ならびに蒋介石軍ではなく中国共産党にある可能性が高まっている。
そして現在も....
そして現在も中国は、下記の記事のとおり自国内での拷問や殺人虐殺を続けており、中でも気功集団「法輪功」に関し、メンバーが何千人も 投獄されたり強制労働キャンプに送られたりしていると述べた上で、複数の筋の情報として百人以上が拷問などにより拘束中に死亡したとしていると人権委員会は報告している。
中国政府による人権弾圧行為とチベット虐殺行為
ダライ・ラマ/著『チベットわが祖国―ダライ・ラマ自叙伝―』 中公文庫、1999年の、328〜332頁からの抜粋。
私は、大部分の人々が、極端な残虐行為について読むことを欲しない、と思う。私もまた、それを書きたいとは思わない。しかしながら、わが国民に公平であるためには、あの偏見のない公正無私な調査が明らかにした、弾圧行為を、ここに要約しなければならない(同委員会の報告書
「チベット問題と法の支配」「チベットと中華人民共和国」 ――一九五九、一九六〇年、ジュネーブ、法律家国際委員会―― の中に、同委員会が受理した全供述書、その分析と結論が公表されている)。
何万というわが国民が殺された。軍事行動においてばかりでなく、個人的に、また故意に殺されたのである。彼らは共産主義に反対したとか、または、金をたくわえた、という嫌疑だけで、あるいは、単に彼らの地位のため、または、全く何の理由もなく、裁判もしないで殺されたのである。しかし、大体、基本的には、彼らがその宗教を放棄しなかったという理由で、殺されたのである。 彼らは銃殺されたばかりでなく、死ぬまでむち打たれたり、はりつけにされたり、生きながら焼かれた。溺死させられたり、生きたままで解剖されたり、餓死させられた者もあった。 絞め殺されたり、首を吊って殺されたり、熱湯によるやけどで殺された。 また、ある者は生き埋めにされたり、腸(はらわた)を取り除かれたり、首を切られたりして殺された。 こうした殺人行為はいずれも公衆の面前でなされた。犠牲者の同じ村人、友人たち、隣人たちは、それを見物するよう強いられた。
―中略―
国際委員会は、収集したあらゆる証拠資料に基づいて、中国側が、「いかなる人間、または国家といえども、これ以上非難され得るものはないほどの、最も重大な反道徳的、反社会的犯罪」を犯していると考えた。すなわち、集団大虐殺の罪――「国家的、人種的、民族的、あるいは 宗教的集団を、ただそれだけのことで、その全部もしくは一部を滅亡させる計画的意図」の罪――に該当する中国側が、チベットの仏教徒を、滅ぼそうと意図していたことは間違いないと確信したのである。
大量殺犯罪、宗教迫害侵略行為(チベット、ウイグル)と、他国での虐殺行為への関与(カンボジアポルポト政権大量虐殺への中国政府の関与)などの国家責任が従来何ら国際的に追及されず放置されているのが国際社会での問題であり現状である。
(抗議先)
テレビ朝日 視聴者センター
電話番号:(03)3587-5445 受付時間:8:00〜23:30(土日祝祭日を除く)
総務省(郵政省)
opinions-2002@soumu.go.jp
総理大臣(首相官邸) 〒100−0011 東京都千代田区永田町2−3−1 TEL: 03−3581−0101 FAX: 03−3581−3883 ご意見先 : http://www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken.html
グレアム・グリーン
■回答
さて、グレアム・グリーン様、この度は自由主義史観研究会宛てにメールいただきありがとうございました。僭越ながら、下の各人の所属した部隊がどのような行動をとっていたか、私の知る範囲内で返信いたします。 ==========(引用開始)===========
町田義成(89歳・仮名)、1913年生まれ、当時24才 第16師団歩兵第33連隊第3大隊
大田俊夫(89歳・仮名)、1913年生まれ、当時24才 第16師団歩兵第33連隊第3大隊
三木本一平(89歳・仮名)、1913年生まれ 、当時24才 第16師団歩兵第33連隊第2大隊
===========(引用中断)==========
第16師団歩兵第33連隊と38連隊は津市に本部を持つ第30旅団を構成します。この第30旅団と第19旅団とで第16師団を構成しています。師団本部は京都です。
さて、まず33連隊の動きについて説明します。12月13日、南京が陥落した日には、この連隊は昼間は下関を掃討し、夜は下関に野営しました。このうち、第2大隊が14日に城内に進入し、宿営しています。
この日の旅団命令では第33連隊は金川門より西中山北路ぞいの三角地帯、獅子山を担当し、支那兵を撃滅すべしということでしたが、果たしてそこに第二大隊が向かったところ、獅子山砲台で約200人の敗残兵に遭遇、これを投降させました。夕刻に城内に入った第二大隊の羽田一等兵は市役所に集結した市内には死体をほとんど見かけなかったと南京戦史にあります。また、歩兵33連隊史によれば、第二大隊が獅子山にて武器を捨て便衣着用の残敵に遭遇、2−300人投降したと書いています。
しかし彼らが宿営した場所はラーベらが管理していた安全区の外であり、人っ子一人見あたらないゴーストタウンの部分にいたに過ぎません。12月15日からは城外掃討に移ったので、(つまり南京城の外)彼らの内14日に安全区に入って狼藉を働くものがいるとすれば、三本木氏のみです。
しかし、安全区には歩哨が立っていて、ここには連隊長といえども入ることが許されていなかったので、第二大隊のメンバーが安全区内の難民に危害を加えることは物理的に不可能です。すなわち、町田氏と太田氏は南京戦に参加したと言っても南京城の外にいたのであって、難民ひしめく安全区はおろか、南京市内そのものに入れたわけではありません。
12月21日になると、新配備計画により、各部隊の配置が変更になります。第1大隊と、第二大隊が城内を警備することになり、第3大隊は南京南方約30キロの江寧鎮を守備することになりました。つまり、第3大隊は南京市内にここでも入っていません。町田、太田の両氏は結局、南京市民とは接触していないはずです。また、第二大隊が守備を命じられたのは住民が既に避難していないはずの南京市の南部であり、安全区があるのは漢中路以北でありますから、やはり住民との接触は考えられません。三本木氏が南京市民と接触するとすれば14日以外は考えられませんが、先に述べた通り、安全区内には入っていません。
なお、この33連隊は1月22日以後北支にに向かったので、以後は南京市とは関係ありません。
===========(引用再開)==========
田所耕太(86歳・仮名)、1916年生まれ、当時21才
第16師団歩兵第38連隊第1大隊
===========(引用終了)==========
問題はこの38連隊です。この38連隊は13日には城外北部を掃討にあたり、夜は城外に野営しました。14日には第1・3大隊が入城しましたが、夜は城外で宿営しました。15日から24日にかけては城外を掃討し、新配備計画が出ると38連隊が安全区も含めて警備に当たりました。
だから虐殺に関係したとすれば、38連隊の疑いが濃くなりますが、安全区内には住民が20万あまり、敗残兵も2万人弱はおり、警備する日本軍は2千人弱です。さあて、これで中国がいうように30万人も虐殺できるのだろうか。(笑)
田所氏は第1大隊だとのことなので、14日に南京城内に入ったことになりますが、これは安全区ではありません。城の北部ですが、この日は33連隊の第2大隊とは違い、夜にはもう南京城を出ています。
なお、安全区には金沢第7連隊の第1・2大隊が担当しています。この第7連隊は12月24日をもって第9師団麾下の諸連隊とともに蘇州へ転進し、南京を去っています。事務引き継ぎの関係上、第38連隊が安全区を含めた南京北部を掌握するのは25日以後です。それまで第16師団の各隊は南京城東方の敵と戦っていたので、南京市内にはいませんでした。なお、安全区内に入ったのは、38連隊の中の1個大隊ということなので、実際に住民と接触があったのは2000人の中の3分の1に過ぎません。
さて、38連隊がそうすると虐殺を働いていたのか?ということですが、全ての安全区内の文書の事例や残留外国人報告事例、ヴォートリンの日記の事例、ラーベの日記の事例を全てたしても、殺人は91件です。いわゆる日本軍の非行を全て足すと、全部でのべ967件あることになります。このうち、目撃者のいる事件はのべ101件です。
しかし、その中で立件可能な事件(記録者が明らかであり、被害者も特定でき、目撃者もいる)は殺人が2件で、歩兵38連隊が関わった事件が1件です。いいですか。たった1件なのです。
あれだけ外国人ジャーナリストやら日本のジャーナリストやらがいて、目撃された38連隊による殺人が1件とは。
その事件は1月9日に起こったものです。安全区文書及びラーベ日記に記載のあるものですが、山西路で追跡された支那人男性が射殺されたというものだが、これはあの誰何事件のことです。ちなみに洞富雄氏はこの原文がexecuteになっているにもかかわらず、これを虐殺としているのです。
私は残念ながら、久米宏が全体でどんなことを言っていたのかは知りません(最後のところだけしか見られなかったため)しかし、あの文章を読み上げる久米の顔はまるで悪魔教の経典でも読んでいるみたいだった(笑)。
会員 ヤンウェンリー
■再投稿
早速のご返事ありがとうございます。 これだけ具体的な根拠があれば、あの犯罪的な久米宏Nステを告発することが可能でしょう。 是非自由主義史観は告発してそれを産経新聞等に報道してもらってください。
グレアム・グリーン
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