玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

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age 28


50音インデックス


■28歳の
シンクロニシティ



浅井 長政/淺井 長政
日本左衞門


千夏
ブランドン・リー
日塔貞子
青木 繁
エゴン・シーレ
北原怜子
サンテリア


長野政雄
伊藤野枝
ヒース・レジャー
山中貞雄
ノヴァーリス


■28歳のエポック


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28歳の語録

 

「人は一生のうち、一冊の聖書を書くために生まれてきた存在である」
(ノヴァーリス)

28歳のシンクロニシティ!

  • 青木繁エゴン・シーレは共に28歳で夭折した。洋の東西互いに接触もないのに何というシンクロにシティか!!。
      
    ●破滅型の明治時代の夭折の画家・青木繁(1882.07.13〜1911.03.25)は無念にも病没し28年3ヶ月と12日の生涯で病没(蟹座)。
    ●オーストリアの天才画家・エゴン・シーレ(1890.06.12〜1918.10.31)も愛した妻の死の3日後に、スペイン風邪で死亡し28年4ヶ月と19日の生涯(双子座)を閉じた。
    28年11ヶ月と23日の生涯(牡牛座)を肺結核で閉じたノヴァーリス(1772.05.02〜1801.03.25)と共に、青葡萄のような存在達だった。

    (2008.08.13更新)
       
                 『月刊ランティエ。-師走』より。



28年?生涯

浅井 長政/淺井 長政
Nagamasa Azai   【浅井家の4代目にして最後の当主】

(1545.?〜1573.09.26=〜天文14年〜天正元年9月1日)
父の久政と共に自害---?座

  • 浅井家の4代目にして最後の当主(大名としては3代目)。豊臣秀頼や徳川家光の祖父。曾孫は徳川家綱・綱吉や明正天皇など多数。
  • なお、名字および所領地の「浅井」の読みは「あざい」が正しく、「あさい」という読み方は誤りであると考えられてきたが、最新の研究では、やはり「あさい」が正しいという学説もある。
  • 受領名は備前守。官位は贈従二位中納言(徳川家光の外祖父にあたるため、死後の寛永9年(1632年)に贈られた)。
  • 浅井氏を北近江の戦国大名として成長させ、織田信長と同盟を結ぶなどして浅井氏の全盛期を築いたが、のちに信長と決裂して織田軍との戦いに敗れて自害し、浅井氏は滅亡した。
  • 天文14年(1545年)に浅井久政の嫡男として六角氏の居城・南近江観音寺城下(現在の滋賀県安土町)で生まれる。幼名は猿夜叉丸。
  • 当時、浅井氏は六角氏との合戦に敗れ初代当主・浅井亮政の代に手に入れた領地を失い、六角氏に臣従していた。そのため長政自身も生母・小野殿と共に六角氏との停戦のための人質になったとされる。久政は六角氏との外交に力をいれ、かろうじて北近江を維持していた。家臣の中には久政の弱腰な政策に反発する者も多く、また先代に活躍した武将も世代交代という名目で低い扱いを受けていた。
  • 15歳で長政が元服した時、六角氏は六角・浅井の関係が臣従関係にあることをはっきりさせるため長政に対し六角氏の当主六角義賢の一字をとって「賢政」と名乗らせる。また1月、六角氏の家臣・平井定武の娘との婚姻も強いた。
  • このような状況に不満を持つ家臣達は知勇に優れた長政に期待を寄せ、久政を竹生島に追放して隠居を強要した。長政は家督を強奪に近い形で相続したのであった。長政は六角氏から離反する意思を明確にするため「賢政」の名と「平井定武の娘」を六角氏に返上し、名を新九郎に戻した。
  • 永禄3年(1560年)、長政(新九郎)は15歳の若さで軍を率い六角軍を相手に野良田の戦いで見事な戦ぶりを披露した。これによって重臣の赤尾清綱・海北綱親・遠藤直経らを心酔させたと言われている。
  • 野良田の戦いの勝因は短期間で寄せ集めの軍備しかできなかった六角氏と異なり、久政隠居の頃から合戦の準備を始めていたためと思われる。また朝倉氏に援軍を求めた様子もないことから朝倉親交派である久政や家臣達ではなく、長政本人が戦の主導権をとっていたという見方もできる。合戦後は朝倉氏との関わりを少なくした独立政治を展開している。
  • 翌年永禄4年(1561年)6月20日付けの資料に「長政」の名が見えることから、これ以前に、名を長政と改めたと思われる。
  • 永禄6年(1563年)、六角氏の筆頭家臣であった後藤賢豊が暗殺された。世にいう観音寺騒動である。この騒動で六角を離れ浅井に仕官した者も多く、六角氏の改革失敗が決定的になった時期である。同年、長政の美濃遠征中にその留守を狙い六角氏が軍を動かしたため、長政は軍を反転・機動させて六角軍を撃破した。殿(しんがり)を守らせた海北清綱はわずか500の兵で見事な働きを見せた。この2つの出来事で浅井氏は領地を拡大したが、その後は六角氏との停戦協議によって膠着状態が続く。
  • 1560年代(時期明確にならず)、織田信長は斎藤氏との膠着状態を打破するため不破光治を使者として送り、長政と同盟を提案した。
  • 永禄11年(1568年)7月、朝倉氏に滞在していた足利義昭は一向に上洛の意志をみせない義景に見切りをつけ、信長に身をよせた。これによって、9月に信長は上洛を開始した。上洛の道中、反抗する六角氏を攻撃。これにより長政の宿敵である六角氏は比叡山に撤退。浅井氏も義昭を守護しながら上洛を掩護した。
  • 元亀元年(1570年)、信長が長政と交わした「朝倉への不戦の誓い」を破り徳川家康と共に琵琶湖西岸を通過して越前の朝倉方の城を攻め始める。
  • 同年6月には長政は朝倉軍とともに姉川の戦いで織田徳川連合軍と戦う。浅井軍の先鋒・磯野員昌が織田軍の備え13段のうち11段まで崩す猛攻を見せ、織田軍は敗走の用意をしていたという。しかし長政の側面に位置していた盟友の朝倉軍は、徳川軍の3倍の兵力があるにも関わらず榊原康政らの猛攻により敗走。結果として浅井軍の側面に隙ができ、そこを織田軍別働隊の美濃三人衆に突かれ浅井軍も崩れて敗走した。これによって徳川軍の強さは天下に響き、朝倉軍の脆弱さも浮き彫りになった。
  • 姉川の後、本願寺(野田城・福島城の戦い)・毛利・武田・上杉など諸大名が反信長の意志を起こした(信長包囲網)。また藤堂高虎は姉川の戦いに名もない兵卒として参戦し、多くの武功をあげ長政に感状を送られた。
  • 9月には朝倉軍や延暦寺、一向宗徒と連携し再び信長への攻勢を強め(志賀の陣)、坂本において森可成、織田信治らを討ち取る。だが浅井氏と協力関係にあった比叡山延暦寺は、元亀2年(1571年)9月に信長に比叡山焼き討ちにあい壊滅してしまう。
  • 元亀3年(1572年)7月、信長が5万の大軍を率い北近江に来襲した。長政は朝倉義景に援軍を要請、義景は1万5,000の軍勢を率い近江に駆けつけた。
  • 同年9月、将軍足利義昭の要請に応える形で武田信玄が2万7,000の軍勢を率い甲斐を進発。信玄はこの時、長政・久政親子宛に書状を送っている。「只今出馬候 この上は猶予なく行(てだて)に及ぶべく候」
  • その後、信玄は遠江で織田・徳川連合軍を蹴散らし(三方ヶ原の戦い)、三河に進んだ。長政らに与えられた役割は、北近江の織田軍を岐阜に戻さないことである。北近江に織田軍を釘付けにすれば信長は全力をもって信玄の軍勢とぶつかることができず、反信長連合軍の勝機は高まる。織田軍の物量に押されじわじわと追いつめられていた長政にとって、信玄の西上は必ず成功させたい重要な作戦であった。
  • しかし同年12月、北近江の長政領に在陣の朝倉義景の軍が兵の疲労と雪が降ったことを理由に越前に帰国。義景の撤退により北近江に縛られていた織田軍は悠々と美濃に戻った。長政の寡兵だけでは退却する織田軍の追撃を行えなかったからである。信玄は義景の独断に激怒し再出兵を促す手紙(伊能文書)を義景に送ったが、義景はそれに応じることが出来ずだんまりを決め込んだ。それでも信玄は義景の再出兵を待ち軍勢を止めていたが、翌年2月には何の反応も示さない義景に痺れを切らして家康領の野田城を攻め落とす。しかし信玄は長陣の疲れや真冬の寒さ、義景に対してのストレスなどの影響によって以前から深刻な状態であった持病を致命的に悪化させてしまい病死。武田軍は甲斐に退却した。
  • 天正元年(1573年)7月、信長は3万の軍を率い再び北近江に攻め寄せる。長政は義景に援軍を要請、義景は2万の軍で駆けつけるが織田の軍勢が北近江の城を落とし始めるとまともに交戦もしないうちに越前に撤退を始めた。信長は逃げる朝倉軍を追撃し滅亡させた後(一乗谷城の戦い)、軍を浅井氏に向けた。
  • もはや長政に反撃の手段は無く、信長の大軍によって一方的に勢力範囲を削られるのみであった。ついに本拠の小谷城(滋賀県湖北町)が織田軍に囲まれる。しかし信長は長政を高く評価していたようで、一気に進撃せず、何度も降伏勧告を行った。降伏した後は大和へ新領地を与えるという、裏切りを嫌う信長にとっては破格の案も出されたという。不破光治、木下秀吉なども使者として送られたが長政は断り続け、最終勧告も決裂した。
  • 長政と仲睦まじかった正室の市は運命を共にする決意であったが長政から諌められ、帰還を決意した。市が信長の陣営に帰還する時、浅井・織田軍も一切の攻撃をしなかったと言われている。同年9月1日(9月26日)、父の久政と共に自害。
  • 「父親の代で没落した浅井家を弱冠15歳で立て直した北近江の雄。そして肉親の情に厚い男。信長は久政の命と引き換えに長政を助命するつもりだったのに長政は断わったという。長政の裏切り以後、そして長政の死の以後、信長は根絶やしに近いやり方で敵対勢力と戦っていく。信長の狂気を生んだのは義弟として信頼していた長政の裏切りと死であったとしか思えません。それほど長政という男は大きい男だったのでしょう。ドラマや映画では誠実な優男風な役者が演じる事の多い長政氏ですが、実際の身長は180センチ以上で、非常に恰幅がよかった。この大柄な肉体とともに戦国武将らしからぬ肉親への情愛は、娘の茶々と孫の秀頼にしっかり受け継がれた感じがあります」(1)。
  • 墓所は滋賀県長浜市の徳勝寺。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    浅井長政-Wikipedia
    (1)投稿者:Miwaさん..2009/ 5/14 09:06:11(木) [4826]

    (2009.05.15更新)




▲戦国時代(室町時代末期)の武将で、北近江の戦国大名、浅井 長政/淺井 長政。




28年?生涯

浜島庄兵衛/日本左衛門
Syoubei Hamamura   【「白波五人男」の頭領】

(1719.?〜1747.03.21)
処刑---?座

  • 盗賊、「白波五人男」の頭領・日本駄右衛門のモデル。
  • 日本左衛門こと浜島庄兵衛は、享保四年(1719)、尾張藩の下級武士の子として生まれ、父親が「七里役」という役職に就いたことから金谷の地で幼い頃を過ごした。なかなか利発で親からも期待されていた。庄兵衛は十代の後半から博打に手を出すなど放蕩を繰返すようになり、弱冠の年にはとうとう勘当されてしまう。そして後は、お定まりの盗人稼業一筋ということになるが、あくまでも武家出身の彼はそれなりの修行も積んでいた。
  • 「日本佐衛門と申す者は、悪党大勢の棟梁と申しながら知恵深く、威勢強く、力業、剣術早業の達者にて常に大小を指し大勢の者をよく手なずけ、武家の方も恐れず、昼夜徘徊仕候」。この日本佐衛門、遠州の豊田郡貴平村を本拠地に東海八カ国を荒らし回っていたのですが「昼夜」を問わず出没していただけあって、相当見た目を気にしていたらしい。
  • 指名手配の人相書きは彼の外見を、黒革の兜頭巾に薄金の面頬黒羅紗、金筋入りの半纏に黒縮緬の小袖、黒繻子の小手・脛当てを着け銀造りの太刀を佩き、手には六尺余りの神棒を持ち、腰に早縄をさげたいでたちと表現していますから、そのまま歌舞伎の舞台に立てそうな強盗ルック。
  • 不義にして富める者の財物は、盗み取るとも咎めなき理なれば(『甲子夜話』という盗人の論理があった。
  • お芝居では、反権力の立場を貫く格好いい義賊の一人として描かれた日本佐衛門も実像は荒っぽい強盗集団の頭目。
  • 延享三年(1746)の事件では富裕な民家からニ千両もの金を強奪、大名・旗本領そして天領などが複雑に入り組んだ治安の不安定な地域を狙って出没を繰返した。
  • 配下の同心22名という大規模捜査の結果、子分たちは次々とお縄を頂戴したのですが、肝心の日本佐衛門は雲隠れ、美濃、浪速、安芸と逃げ回った挙句、なんと京都町奉行所に自首。
    町奉行の取調べの際、日本佐衛門が切った大見栄を下敷きにしたものだとする説が残っている。
  • 延享四年(1747)三月、日本佐衛門は生まれ故郷の遠州で処刑され短い人生を終えた。
  • 白波は、昔「中国で黄巾の賊・張角の残党が西河の白波谷にこもり白波(はくは)賊と呼ばれ、その訓読から盗賊を意味するようになった」とある。
  • 歌舞伎・白波五人男「稲瀬川勢揃いの場」で、日本駄右衛門が真っ先に述べる口上、「問われて名乗るもおこがましいが、産まれは遠州浜松在六十余州に隠れのねえ賊徒の首領日本駄右衛門」は有名。
  • 「「問われて名乗るもおこがましいが…」の日本駄右衛門から弁天小僧菊之助、忠信利平、赤星十三郎とつづき、「さてどんじりに控えしは…」。南郷力丸が締めくくる。歌舞伎の“白浪(しらなみ)五人男”、「稲瀬川勢揃(ぞろ)いの場」である。華のある見せ場であるところ。口上に観客が耳をすませるところ。5人のうち1人が欠けても成り立たないところ」(1)。
  • 盗賊は別名を白波(白浪)という。ボクが焼酎で一番好きなのが「白波」。あの臭さがいい。臭いほやをつまみに、臭い白波で飲む。これが最高。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    石川五右衛門と白波五人男
    (1)読売新聞2005.08.27朝刊「編集手帳」より抜粋。

    (2004.08.26更新)




▲ 「白波五人男」の頭領・日本駄右衛門。

28年1ヶ月と26日の生涯

千夏
Chinatu     【ワイルドワンズに全てを懸けた生涯】

(1978.08.15〜2006.10.10)
死因・病死(詳細は未公開)---獅子座

  • 神奈川県茅ヶ崎市在住。
  • ホームページ上(現在は削除されている)で、大好きな加瀬邦彦とザ・ワイルドワンズをはじめとするグループ・サウンズ、加山雄三について記述されていた。また、植田芳暁をはじめとするワイルドワンズのメンバーとの記念撮影写真も掲載されていた。また、料理やドラゴンクエスト、ポケットモンスターの話題なども記述されていた。
  • 2006年8月下旬、千夏さんは体調を崩して入院した。9月中は元気が無かったという。掲示板に、千夏さんあてに励ましの書き込みが寄せられたが、その願いも空しく、千夏さんは同年10月10日に息を引き取った。28年2ヶ月弱というあまりにも短い生涯だった。同年11月2日はワイルドワンズ初の武道館コンサートが行われ、千夏さんもこのコンサートを見に行く予定だったが、それが叶う事は無かった。
  • 千夏さんは読売ジャイアンツの熱心なファンだった。その巨人は、千夏さんが亡くなった2006年こそは前年の5位に次ぐ2年連続Bクラス、4年連続V逸という巨人史上前代未聞の記録を生んだものの、2007年からは3年連続でリーグ制覇を遂げ、2009年に至っては日本シリーズで日本ハムを4勝2敗で下し日本一になった。
  • 今となっては、ホームページは削除されてしまったが、千夏さんの掲示板では、今でも千夏さんのご両親や友人の方々が書き込みに来ている。
    (バイボ制作者:コミバナさん)
  • 「たびたびフォローが遅くなってスミマセン。千夏さんの御両親には、バイボ掲載の承諾をいただきました(いささか戸惑いがあったといいますが 汗)。写真掲載については、現在交渉中です。しばらくお待ちください。
    俺が千夏さんを知ったのは、メンバー全員が60歳を越えた2009年現在も、昔と変わらぬ元気な姿を見せている「加瀬邦彦とザ・ワイルドワンズ」というバンドのサイトにカキコミしたことがきっかけです。
    2006年3月のグループ・サウンズの番組で、ワイルドワンズが昔と変わらぬ活躍を見せており、中でもドラム・ヴォーカルを披露した植田芳暁さんが一番かっこいいと思いました。同年8月上旬に、ワイルドワンズのサイトの掲示板にカキコミをしたのですが、その文中に「中でも、ドラムヴォーカルを披露していた植田芳暁がカッコ良かったです」とカキコミしました。
    それからしばらくして、千夏さんが「あなたの書き込みで気になったことがあります。「植田芳暁さん」のことを「植田芳暁」と呼び捨てで書くのはどうかと思いますので、もしミスでであればお詫びのメッセージを書き込んだほうがいいと思いますよ。気をつけてください。それでは失礼いたします。」というメールを送ってきました。あとで分かったのですが、当時、周囲には「植田さんのことを呼び捨てにしてたので、抗議のメールを送っておきました!」と語るなど、怒り心頭だったそうです(汗)
    さすがに、明らかに本人が見ている掲示板で、フルネーム・敬称略でカキコミするのはまずかったと思い、改めてお詫びのカキコミをし、千夏さんにもその旨をメールでお伝えしました。その時いただいたお返事が「こんばんは、千夏です。そうなんですよ。
    ワンズのメンバーの皆さんも読んでいらっしゃるし、時々加瀬さんご自身が書き込みもされています。それに私たち20代くらいの若いファンがいてくれることをとてもうれしく思ってくださっています。これからもよろしくお願いいたします。」という内容でした。
    それから掲示板でやりとりをしていたのですが、8月下旬に、突然、千夏さんが体調を崩されて…9月中には何度か、励ましのカキコミもしました。しかし、10月中旬に、少しブランクがあいて掲示板を見たときは、千夏さんの御葬儀が執り行われた、という内容のものでした。掲示板の前ページを見てみると、亡くなったのは10月10日でした。偶然にも、これは俺がお世話になった方の命日でした(多くは語れませんが、この人物は「自殺」という形で生涯を閉じていますので、並べてとりあげるのは賛否もあると思われますが)。
    2008年に、千夏さんについてMYブログで記事を書きました。「ケメコの夢」さんからは、「バナナさんのその時のコメ今も覚えています。私は、植田さんのカッコよさに、興奮してうっかり書いてしまったものだと思ったので、またすぐに訂正もありましたし、気にしないでと、書いた覚えがあります。とあるリサイクルショップに、ワンズの40周年記念のDVDが売られていましたが・・・・寂しかったです。でも時の流れとはそういうものです、明るく真っ直ぐだった千夏さん、ホームページは自信にみちあふれたワンズへの思いがいっぱい。お料理なども載せてあって、暖かい感じでしたね」というコメントを、「ご機嫌15度(хдх;) 」さんからは「千夏さんって凄くピュアーな方だった んですね。心あたたまる良いブログです(^人^)紹介してくれて感謝します」というコメントをいただきました。
    千夏さんとのやりとりはほんのしばらくでしたが、俺は、「貴重な体験」ができて、ある意味幸せ者だと思っております。(そうでもないかもしれませんが)文が長くなると思いましたので、予告していた掲示板ではなく、メールでもってフォローの文を作成しました」(1)。
  • 千夏さんはボクの全く存じ上げない存在なので、リクエスト投稿者のコミバナさんにバイボを作成いただきました。
  • アイコンは現在も御両親が引き継いでいるサイトから「ジャイアンツ優勝パレード」の写真を採用しました。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    千夏の部屋掲示板 URL
    (1)コミバナさんよりメールにて

    (2009.11.25更新)



▲読売ジャイアンツの熱心なファンだった千夏。

28年1ヶ月と30日の生涯

ブランドン・リー
Brandon Lee   【故ブルース・リーの息子】

(1865.02.01〜1993.03.31)
撮影中の銃の事故で死亡---水瓶座

  • アメリカの俳優。米カリフォルニア州出身。
    ブルース・リーの息子で、シャノン・リーの兄。93年、撮影中の銃の事故で死去。
  • 出演作1986年「ファイヤー・ドラゴン」「カンフー・ファイター」。1989年「バトル・ドラゴン」「リトル・トウキョー殺人課」。1992年「ラピット・ファイヤー」。1994年「クロウ〜飛翔伝説〜」。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

    (2004.01.29更新)




▲ アメリカの俳優でブルース・リーの子・ブランドン・リー。

28年3ヶ月ジャストの生涯

日塔貞子
Sadako NIttou      【28歳で夭折した詩人】

(1920.12.14〜1949.03.14=大正9年〜昭和24年)
腸管閉塞---射手座

  • 山形県河北町の名家・逸見家に生まれ、生後十ヶ月で生母と生き別れ、生家(通称カモン様)はほどなく没落。祖母をカアチャンと呼んでの二人暮らしとなった。
  • 高等女学校(旧制)を卒業して翌々年に結核性関節炎で左足と右手を冒され、歩行困難となり、文字も書けなくなった。
  • 左ひざ関節炎の発病など波乱に満ちた人生を送りながら、詩を創作し続けた。折りしも戦争が熾烈化し、弱者が生きゆくには多難な世相となっていた。しかし悲鳴をあげながらも、精神的な屈折や屈服する様子は貞子には見えない。左手を鍛練し字体が整うと、日記や詩や手紙を書き出す。特に細字でびっしり埋めつくされた大学ノート大の日記二十一冊はすごい迫力。書かれた膨大な量の文字の群れが貞子を支えてくれた。
  • 四季派の詩人・日塔聰と1947年に結婚するが2年後に腸管閉塞のため28歳の若さで死去。死亡一年前から唯一の頼りである左手も使えないようになり、また全身に病魔がはびこって若い命は露のように消えてゆく。1957年に聰がまとめた貞子の詩集『私の墓は』が発刊され、人気を博した。
  • 「暦の上では既に春では有りますが、若き日の石垣りんのライバルだったと言われる夭折の閨秀詩人、日塔貞子をリクエストしたいと思います」(1)。
  • 日塔貞子の評伝『雪に燃える花─詩人日塔貞子の生涯─』(安達徹著、桜桃花会発行)。
  • 「彼女の残した詩はその中に社会性を求めることはできないものの、気高く美しく結晶しています。その聖性はリルケの詩にも匹敵するものではないかな……というのが、ぼくの第一印象。初版が1972年という『雪に燃える花』は、日塔貞子を広く知ってもらいたいと願う桜桃花会の4人の仲間(奥平玲子さん・植松美智子さん・佐藤ひろ子さん・小松あや子さん)が昨年復刊したもので、彼女たちは詩集『私の墓は』の復刊も果たしています。その熱意、そのバイタリティーに拍手を送りたい。ありがとうございました。そこかしこで高い評価を得て、詩集も評伝も幻ではなくなりましたね」(2)。
  • 「美人であった貞子の印象を丸山薫は次のように記している。「冷たい珠(たま)のような容姿。その内部に犯しがたい気品と、はげしい気魄が燃えていた。ときに、そこから不気味なものが人を圧してくるのは、東北地方の亡んでゆく豪家の血統に、不遇感を撥(は)ねのけようとする詩人の、才能の戦いがあったせいかと思われる」。けだし慧眼といわねばなるまい」(3)。
  • 「何時もながらの素早いお仕事には言葉も有りませんが、貞子は大正9年12月14日に山形県河北町に生まれ、昭和24年3月14日に28年の生涯を終えました。そして幾星霜の時は流れ、桜桃花会の方々の手に成る再版は、彼女の誕生日に併せられたと言う訳なですね。こちら 」(4)。
  • ▼遺稿詩集 「わたしの墓は」より
    私の墓は
    なに気ない一つの石であるように
    昼の陽ざしのぬくもりが
    夕べもほのかに残っているような
    なつかしい小さな石くれであるように

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    日塔貞子
    (1)投稿者:Thori-Tungさん..2008/ 2/ 9 09:31:36(土) [2782
    (2)「Web日記
    (3)「070215
    (4)投稿者:Thori-Tungさん..2008/ 2/10 08:59:03(日) [2787]

    (2008.02.10更新)




▲若き日の石垣りんのライバルだったと言われる夭折の閨秀詩人・日塔貞子。


28年3ヶ月と12日の生涯

青木 繁
Shigeru Aoki   【夭折の画家】

(1882.07.13〜1911.03.25)
無念にも病没---蟹座

  • 青木は今の福岡県久留米市に、旧有馬藩士である青木廉吉の長男として生まれた。武士の系譜を引く父は厳格な人物で、息子の画家志望を聞かされた時、「美術だと。武術の間違いではないのか」となじったという逸話が残っている。
  • 青木は同じ久留米生まれの洋画家坂本繁二郎とは同年で、両者は小学校の同級生でもあり、終生の親友でありライバルであった。
  • 同時代人の証言や青木自身による「自伝草稿」によれば、青木は歴山帝(アレクサンドロス大王)に憧れる早熟な文学少年であったようだ。青木は絵画のほかに短歌もよくし、短い生涯に多くの文章を残している。
  • 中学を中退し、17歳で上京、小山正太郎の不同舎に入る。翌年東京美術学校西洋画科選科に入学し、黒田清輝らの指導を受ける。
  • この頃青木は上野の図書館に通い、日本をはじめ各国の神話のほか哲学、宗教、文学などの書を耽読、後の画業の土台となる文学的、浪漫的天分を伸ばすこととなる。
  • その前年白馬会展に『黄泉比良坂』など日本神話に取材した画稿を出品、第1回白馬賞受賞画壇デビュー。22歳の『海の幸』、25歳の『わだつみのいろこの宮』は大きな反響を呼ぶ。
  • 同年 8月には父危篤の知らせを受けて九州に帰郷。しかし父親の死後、家族と衝突し家を離れる。九州各地を転々とする放浪生活の間、中央画壇への復帰を期して作画は続けられた。
  • 貧困と病苦の中、青木は福岡の病院で息絶える。わずか28年という短い生涯のなかで手掛けられた作品は、決して多いとは言えないが、明治浪慢主義を代表する数々の優品を残す。
  • 明治30年代の浪漫風潮をあますところなく伝え、近代日本美術史上最も重要な作品の一つに数えらる『海の幸』。その作品の中にある「理想主義的」なものは破滅型の夭折の画家によってもたらされた。
  • 美しい色調とロマン的な作風は、明治浪漫主義の絵画表現として近代日本美術の貴重な収穫となった。福田蘭童〔1905〜1976〕はその子。
  • 青木繁は『海の幸』を仕上げた二年後、群像の右から四人目の少年の顔をわざわざ女性の顔に描き直した。布良に同道した福田たねの顔である。
  • 「青木繁が、晩年描いたとみられる未発表の油彩画が見つかり、長野県東御市の梅野記念絵画館が2004年10月14日、発表した。夭折した青木の作品が新に見つかるのは珍しく、晩年の放浪時代を知る貴重な手がかりになりそうだ」(1)。
  • 「久留米市出身の青木繁は、文豪漱石も認める才能の持ち主だったが、落魄して放浪するとき、東京を意識しつつ福岡と佐賀の地縁ネットワークに依存して作品を残した」(2)。
  • 「1904年(明治37年)夏、東京美術学校を卒業したばかりの青木は、坂本繁二郎や、画塾不同舎の生徒で青木の恋人でもあった福田たねらとともに千葉県南部の布良(めら)に滞在した。『海の幸』はこの時描かれたもので、画中人物のうちただ一人鑑賞者と視線を合わせている人物のモデルは福田たねだとされている。この前後が青木の短い絶頂期であった。以後の青木は、展覧会への入選もかなわず、私生活にも恵まれず、放浪のうちに短い生涯を終えたのである。1905年(明治38年)8月、茨城県に滞在中に、青木と福田たねとの間の子である幸彦(後の尺八奏者福田蘭童)が誕生した。しかし、青木は福田たねとはついに正式には結婚しなかった。1907年(明治40年)8月、郷里の父の危篤の知らせを聞いた青木は単身帰郷、これが青木と福田たね・幸彦母子との永遠の別れとなった。画家としては「天才」と言われた青木であったが、父亡き後、一家を支えていく甲斐性は彼にはなく、1908年(明治41年)10月には郷里の家族とも別れて、天草、佐賀などを転々とする放浪生活に入った」(3)。
  • 元ちさとの『わだつみの木』とのシンクロにシティ。わだつみとは「海神」のことだ。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1) 読売新聞2004.10.15朝刊より抜粋。
    (2)読売新聞2005.07.24朝刊 田中淳著『画家がいる「場所」』の三浦篤による書評より抜粋。
    (3)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


    (2009.06.27更新)



▲ 破滅型の明治時代の夭折の画家・青木繁。
(イラスト 玉野安実嬢)


◆青木繁の代表作・『海の幸』。


◆青木繁の未発表作。


◆青木 繁《わだつみのいろこの宮》(1907年)石橋財団石橋美術館蔵。重要文化財 。

28年4ヶ月と19日の生涯

エゴン・シーレ
Egon Schiele   【アンドロギュヌス!】

(1890.06.12〜1918.10.31)
愛した妻の死の3日後に、スペイン風邪で死亡---双子座

  • オーストリアの画家。ニーダーエステライヒ州にトゥルン駅長の息子として生まれる。
  • 妹の夭折(3歳)、進行性麻痺による父の死(15歳)は、シーレに深い精神的傷痕を残す。
  • 17歳で画家グスタフ・クリムトと出会い、その影響下に創作活動を開始。クリムトは最初のパトロンだったらしい。
  • じつはあのヒトラーとも同世代であり、同じ美術学校を受験していた!シーレは受かり画家へ、ヒトラーは落ちて独裁者への道を歩んだ。
  • 提出作品が優秀だったため、美術工芸専門学校の薦めで16歳、直接アカデミーへ進学、保守的な教授との対立から19歳で退学。ウィーンのゼツェッシオンの第2世代に当たり、優れた素描力を駆使して、クリムトの装飾性とは異なる表現主義的な画風を展開。
  • 早くから後援者を得て、グラフィック作品を主な収入源とし、コレクターの注文に従い、少女をモデルとするポルノ的作品を多く制作した。鋭い輪郭線と激しい色彩の対比が、人間の孤独や愛欲の諸相をえぐり出す。人物像に優れ、エロティックな裸婦像や自画像に傑作を残した。
  • その自画像はデッサンを含めて一つとして似たものはないのにもかかわらず、そこにはどう見てもアンドロギュヌスがあらわれている。それは男であって女であるけれど、それとともに神であって人であり、少年と少女であり、男娼と娼婦であって、また着衣であって裸体の、性交と自慰の、二重化されつづけるアンドロギュヌス。
  • 21〜22歳、恋人ワリーとともに母の故郷ウィーン郊外のノイレングバッハに住んだが、「風紀良俗を乱す」という理由から住民に排斥され、ノイレングバッハでは拘留3日の判決を受ける。
  • 27歳、第49回ウィーン分離派展のメイン・ルームがシーレに与えられる。ポスターも製作する。同展覧会は、芸術的、経済的にも多大な成功を収める。エゴン・シーレの作品は広い層に迎えられ、画家としての地位は確立。チューリッヒ、プラハ、ドレスデンの美術展の重要な出展者となる。
  • この成功により、6月5日、ウィーン八区ヴァットマン・ガッセ六番地のアトリエつき住宅に移る。春からスペイン風邪(インフルエンザ)が大流行し、九月に襲来したその第二波に感染して10月28日、妊娠中の妻エディットが没する。
  • 三日後、10月31日の夜、シーレ自身もこの疫病の犠牲となり、妻の後を追って没する。その床のシーレをマルタ・ファインが撮影し、彫刻家アントン・ザンディヒがデス・マスクを製作した。
  • 11月3日にオーバー・ザンクト・ファイト墓地に埋葬された。この年の2月6日、クリムトも他界している。
  • 「第一次世界大戦のさなか、たった4ヶ月で地球を一周し、再び合衆国に姿を現したスパニッシュ・インフルエンザは、再来したときには、前代未聞の強い病原性をもつものに変異していた。1918年8月下旬。世界同時多発の爆発的流行の幕開きであった」(1)。
  • シーレの前にシーレなし、シーレの後にシーレなし。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2004.02.08朝刊 アルフレッド・W・クロスビー著『史上最悪のインフルエンザ』の書評 吉田直哉より抜粋。

    (2008.08.13更新)



▲オーストリアの天才画家・エゴン・シーレ。
(イラスト 玉野安実嬢)



 

 

シーレ語録

◆シーレ は自画像のためのスケッチに於いてこう述べている。
「ぼくは思う。“現代的な”芸術などありはしない。在るのはただ一つの芸術、永遠に続く芸術だけである」
(シーレ)

◆溜息を誘う美と震えるほどのエロス。「すべては生きながらに死ぬ」
(シーレ)。


28年5ヶ月と1日の生涯

北原怜子
Satoko Kitahara        【蟻の町のマリア】

(1929.08.22〜1958.01.23) 
腎臓病 獅子座

  • 蟻の町のマリアとは北原怜子のニックネームである。“マリア”はもちろん聖母マリアにちなむ。
  • 東京・杉並区生まれ。群馬大学教授で農学博士・北原金二の娘。1949年光塩女子学院にて受洗(洗礼名エリザベス/エリザベト)。翌50年に浅草に転居した際“ゼノ神父”ことゼノ・ゼブロフスキー修道士と知り合い、隅田川の言問橋周辺、現在の墨田公園の界隈にあった通称「蟻の町」の事を知る。 蟻の町は墨田公園の一角にあり、40世帯、百余名の共同生活体として発足したもので、私欲を排し、共同購入、 共同利用の方針をとっていた。そこで自ら廃品回収をしつつ、町の子供たちの教育にあたった。
  • ゴミ拾いをし、それで得た資金で蟻の町での奉仕活動を行った。初めは“良家の令嬢の気まぐれボランティア”と解され周囲から冷ややかな目で見られたが、やがて彼女の真摯な姿勢が認められ、支持者が増えていった。
  • 諸々の奉仕活動での体力的無理が祟り著しく健康を害し、1958年、惜しまれながら腎臓病で夭折。享年29(数え)。墓所は多磨霊園にある。
  • 29歳の若さで没するまで「蟻の町のマリア」と言われ親しまれた。 '60蟻の町は潮見二丁目に移転、そこに怜子の胸像が建てられた。
  • 彼女の活動は今日においても多くのクリスチャン等の間で語り継がれている。この地区の中から生まれた「蟻の町教会」(8号埋立地に移転し「カトリック枝川教会」)が、後に潮見に移転して現在のカトリック潮見教会となっている。
  • 1985年6月1日に完成して新しい聖堂に、「蟻の町」を被せて呼ぶことになり、今では「蟻の町のマリア潮見教会」と名乗り、この活動の歴史を伝えようとしている。また近年北原を福者・聖人に叙しようという動きもあり、注目されている。
  • 映画:「蟻の街のマリア」1958年松竹 監督:五所平之助(このバタヤ部落とも言われた貧民窟の元住人だった松居桃楼の『蟻の街のマリア』知性社の映画化。千之赫子が主演、丸山明宏、多々良純、佐野周二などが出演。)

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    読売新聞2007.12.17朝刊「東京の記憶」(小林直貴)より抜粋。
    蟻の町のマリア-Wikipedia
    北原怜子

    (2007.12.19更新)




▲1950年代東京都台東区で、キリスト教に基づき献身的な活動を展開したカトリック信者・北原怜子。


ヲ北原怜子の「くず物収集鑑札」


ヲ言問橋の近くにあった蟻の町の十字架


ヲ新・蟻の町と教会 1963年頃


ヲ蟻の街の人たちは廃品回収で生計を立てていた(1950年ころ撮影)


28年5ヶ月と10日の生涯

サンテリア
Antonio Sant` Elia   【イタリア未来派の建築家】

(1888.04.30〜1916.10.10) 
戦死---牡牛座

  • 1914年にドローイング『新都市』を発表。また彼による展覧会カタログの序文にマリネッティが手を加え、同年『未来派建築宣言』として発表された。
  • イタリアに前衛建築運動をもたらし、多くの大都市計画案を発表しながら未来都市の姿を追求し続けた。
  • 「新都市」と題されたドローイングには駅、高層住宅といった新しい都市のイメージを描いている。
  • 「建築を学んだものにとって「未来派 = 建築家アントニオ・サンテリア」をイメージするが未来派建築はドローイング・スケッチが残されているだけで実物(写真)を見ることは叶わない。スケッチを見る限りにおいて、それらはヒューマンスケールを超えた土木的スケールを持ち、威圧的であり、発電所やダム、軍艦を彷彿させ、至る所に屹立する塔や砲台がデザインされているのは男根(ファルス)を表象するものであろう。「未来派宣言」が詩人F.T.マリネッティになされたこともあってか、「未来派宣言」に関する研究は文学系に於て行われているようであり、理工系建築史では歴史的史実としてのみ認識されている程度なのだろう。「未来派宣言」は差別意識と暴力の肯定を前提とし、機械文明、戦争、軍国主義を讚え、それらを世界の唯一の衛生装置と見做し、女性蔑視を主張している。マリネッティは「機関銃の弾道を走るように見える自動車はサモトラケのニケよりも美しい。」と、その思想を表現している。だが、「未来派」に未来はなく、イタリアに於ては後にムッソリーニ率いるファシストに収斂され、彼らが讚えた戦争にも敗れることになり、戦争と云う衛生装置によって「未来派」や「ファシスト」が駆除されるとは皮肉な結末ではないだろうか。「未来派宣言」の男根中心主義とホモセクシュアルとの因果関係を研究した文献があるかどうか判らないが、マッチョ嗜好な「未来派」を見るにつけ、強ちそれを否定できない気もするのだが」(1)。
  • 未来派が待望した戦争に従軍して戦死。未来派は1944年イタリア戦争によるマリネッティーの死をもって終焉を迎える。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「MADCONNECTION: マニフェスト

    (2005.09.03更新)




▲イタリア未来派の建築家サンテリア。


▲サンテリアのスケッチ。

28年6ヶ月と28の生涯

長野政雄
Masao Nagano   【「塩狩峠」のモデル】

(1880.07.31〜1909.02.28)
線路に身を投げ出し自分の体で客車をとめた---獅子座

  • 尾州愛知郡水穂村に生まれ。三歳の時に父が死去、母は政雄の後見人として親戚の一人を立てるが裏切られ全財産を失う。そのため、彼は十三歳で、尋常高等小学校を卒業すると同時に名古屋監獄の給仕として働き、母と妹を養い始める。
  • 16歳の時、名古屋控訴院で働いているときに判事に認められ学僕となり函館に来て学舎に入る。そして勉強をしながら、19歳の時に大阪貯金管理所登用試験に合格、判任官の資格を取得。
  • 大阪時代、親友であり熱心なクリスチャンである中村春雨さんに誘われて教会へ行く。中村さんの忍耐強い働きかけにより、大阪天満教会で洗礼をうける。
  • その後、大阪時代の先輩が北海道鉄道部に勤務しており、明治31年5月、招かれて札幌へわたる。片足が不自由なうえに結核に冒されている吉川の妹ふじ子に思いを寄せる。明るく振る舞うふじ子や町で出会った伝道師の生き方に魅せられ、キリスト教をうけいれるようになる。信仰的に成長し不言実行の域に達す。
  • それは、言葉に頼るのではなく、自らの行いにより神の愛をこの世の中で実際に示していくものであり、これにより、長野さんの信仰の基礎が築かれたと思われる。
  • 明治34年11月に旭川に転勤して、明治42年2月28日まで、旭川の鉄道事務所に勤務。
  • 明治42年2月28日夜、塩狩峠に於いて、最後尾の客車、突如連結が分離、逆降暴走す。 乗客全員、転覆を恐れ、色を失い騒然となる。長野はとっさの判断で、線路に身を投げ出し自分の体で客車をとめた。長野は殉職、乗客は救われた。
  • その懐中より、クリスチャンたる氏の常持せし遺書発見せらる。 「苦楽生死 均(ひと)しく感謝。余は感謝して全てを神に捧ぐ」これは塩狩峠に立てられた長野政雄殉職の記念碑に刻まれた言葉だ。
  • 「彼の給料の大半は、教会の子供達のために寄付され、慎ましやかに生活した人で、あなたの隣人を愛せというキリストのことばを実行していました。それができていたのは、キリストを人生の方向として、しっかり定めていたからだと思います。彼が線路に身を投じたその日も遺言書は彼の内ポケットに入っていたそうです。その為、彼の死は自殺だったのだろうと言う方もいらっしゃったそうですが、最後線路に飛び込む時長野さんが後ろをふり向きうなずいて、別れの合図をしたのを見た方も数名いらっしゃるそうです。これらの事が証明する通り自殺ではありません」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    塩狩峠を訪ねて
    (1)「黒奔屋

    (2009.07.18更新)



▲三浦綾子さん(77歳で死去)の著書「塩狩峠」のモデルとなった鉄道員でクリスチャン・長野政雄。
(肖像はhagumi さんから投稿いただいたものです。感謝です!)




◆この写真は、実際に厳寒の「塩狩峠」を喘ぎつつ上っているSLの情景。


◆塩狩峠を上るローカル列車。この雪原があの日、真っ赤に染まった=平井実撮影


◆長野政雄氏顕彰碑
ここ塩狩峠は、古くは天塩国と石狩国の境界にある交通の 難所として知られた峠であり、標高272mに位置します。明治42年2月28日の夜、汽車が塩狩峠の急勾配にさし かかった時に客車最後尾の連結器が離れ、逆行暴走した 際に当時国鉄職員であり、偶然乗り合わせていた長野政 雄氏が自ら車輪の下敷きになり乗客の命を救いました。JR塩狩峠駅構内には長野政雄氏の偉業を讃え「長野政雄 殉職の地」顕彰碑が建立されています。

 


28年7ヶ月と26日の生涯

伊藤野枝
Noe Ito   【婦人運動家、アナーキスト】

(1895.01.21〜1923.09.16)
虐殺---獅子座

  • 福岡県糸島郡今宿村の没落した海産問屋・伊藤興吉(瓦職人の伊藤亀吉?)、ウメ夫妻の長女として誕生。
    本名はノヱ。
  • その文才は高等小学校から教師を驚嘆させ、それは、当時有名な小説家・村上浪六でさえ舌をまくほどもであったといわれている。
  • 1911年(16歳)東京上野女学校を卒業後、親の決めた結婚を拒み同校の英語教師辻潤と結婚。
  • 1912年(17歳)3月、上野女学校を卒業。同校の英語教師・辻潤と同棲を始める。
  • 1913年(18歳)9月、辻潤との間に長男・一(まこと)が生まれる。11月、「青踏社」に加わる。
  • 1914年(19歳)『近代思想』を愛読。大杉栄との交際が始まる。東雲堂書店からエマ・ゴールドマンの『婦人解放の悲劇』を訳出版。
  • 1915年(20歳)『青踏』の編集兼発行人になる。事実上の責任者として女性解放運動に参加。このころより大杉栄に接近。11月、辻潤との次男・流二が生まれる。
  • 1916年(21歳)4月、辻潤の家を出て、大杉栄との同棲を始めアナーキズム運動、労働運動を推進。1917年(22歳)9月─大杉との間に長女・魔子が生まれる。
  • 1918年(23歳)1月、大杉とともに『文明批評』を創刊。
  • 1919年(24歳)2月、北風会を結成。10月、近藤憲二、大杉らとともに『労働運動』を創刊。12月─次女・エマ誕生。
  • 1920年(25歳)12月、「日本社会主義者同盟」創立。
  • 1921年(26歳)3月、三女・エマ誕生。1922年(27歳)6月─四女・ルイズ誕生。1923年(28歳)8月─長男・ネストル誕生。
  • 1923年9月16日、関東大震災時に大杉(38歳)、橘宗一とともに麹町憲兵隊に虐殺される。(甘粕事件)
  • 6人の子どもを生み育てながらも、この偉業。何とも凄い28年の人生。記念すべき1500人目の登場人物は、だいぶ前から伊藤野枝と決めておりました。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    nennpu2

    (2004.09.16掲載)




▲ 辻潤、大杉栄の妻にして、6人の子をもうけながら時代を駆け抜けた婦人運動家・アナーキスト・伊藤野枝。

 


28年8ヶ月と20日の生涯

山崎富栄
Yamazaki Fue    【太宰治と玉川上水に入水】

(1919.09.24〜1948.06.13) 
太宰治と玉川上水に入水自殺---天秤座

  • 東京都本郷区東竹町十七番地に、山崎晴弘の二女として生まれる。 富栄の父晴弘は妻信子と共に、大正2年、日本最初の美容と洋裁の専門学校である東京夫人 美髪美容学校(通称:お茶の水美容学校)を創設。
  • 昭和13年、銀座二丁目にオリンピア美容院を開設、富栄は義姉山崎つたと共にその経営を 任された。
    昭和19年、奥名修一と婚約し12月9日に結婚したが、修一は12月21日三井物産マニラ支店に単身赴任する。 米軍上陸のため現地召集され、戦闘に参加したまま行方不明となる。
  • 昭和20年、B29による帝都大空襲により、お茶の水美容学校、銀座オリンピア美容院など焼失する。 富栄は父母と滋賀県八日市町へ疎開。
  • 昭和21年、富栄はミタカ美容院に勤めることになり、野川あやの方に下宿。 昭和22年3月27日、うどん屋で太宰治と知り合う。
  • 昭和23年6月13日夜半、太宰治と玉川上水に入水する。 6月19日早朝に2人の遺体が発見された時、太宰治の遺体は、数時間後に立派な棺に移され運ばれたが、富栄の 遺体は、午過ぎまでムシロをかぶせたまま堤の上におかれ、父晴弘が1人で、変わり果てた娘の前に忘れられた人 のように立っていたという。
  • 「入水したとされた場所に下駄を引きずった痕があったことから、富栄が太宰を無理矢理道連れにしたと思われたり、 何の根拠も無いのに、富栄が太宰治を殺したとする者もいた。 妻子ある男を愛し、心中した富栄は、太宰治を殺した悪女のように言われたが、その後当初入水されたとされた違 う場所に、男ものと女ものの下駄が揃えて置いてあったという新事実が明らかにされた。 また、山崎富栄の書き残したノートを読めば、合意のうえでの心中であったことは、間違いないと思われる。 しかし、山崎富栄は太宰治を心から愛していたが、太宰治が山崎富栄を愛していたか否かは、今となっては誰にも わからない」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「斜陽/山崎富栄

    (2004.01.18更新)




▲太宰治と玉川上水に入水した山崎富栄。

28年9ヶ月と18日の生涯

ヒース・レジャー
Heath Ledger   【オーストラリア出身の俳優】

(1979.04.04〜2008.01.22)
牡羊座---薬の併用・過剰摂取による急性薬物中毒による事故死

  • 西オーストラリア州パースにて、アイルランド及びスコットランド系の両親の間に生まれる。本名:Heath Andrew Ledger。ファーストネームのヒースはエミリー・ブロンテの小説『嵐が丘』の主人公ヒースクリフに由来する。ヒースが11歳の時に両親は離婚。兄弟は実姉と異父妹が2人、義妹が1人いる。
  • 幼い頃から劇団に所属し、1997年公開のオーストラリア映画『ブラックロック』で映画初出演を果たす。
  • 1999年公開の『恋のからさわぎ』でハリウッドに進出。翌年公開の『パトリオット』や2001年公開の『ROCK YOU!』でハリウッドスターの仲間入りをする。2005年公開の『ブロークバック・マウンテン』ではアカデミー主演男優賞にノミネートされ、ハリウッド期待の若手実力派俳優となる。
  • 私生活ではヘザー・グラハム、ナオミ・ワッツなど、年上の女性と交際することが多かった。『ブロークバック・マウンテン』で共演した女優ミシェル・ウィリアムズと2005年に婚約。同年の秋に女児マチルダ・ローズをもうけたが、2007年に婚約解消。その後はヘレナ・クリステンセン、ジェマ・ワード、メアリー=ケイト・オルセンとも交際の噂があった。
  • 2008年1月22日、マンハッタンの自宅アパートで遺体で発見された。28歳没。前年11月頃から不眠症となり、「とても疲れているのに二時間程しか眠れない」と映画『ダークナイト』出演に際してのインタビューでは睡眠薬服用を公言している。婚約解消と別居に重なる時期でもあった。以来不眠症、神経不安などを解消するために6種類の処方薬を服用していたとみられる。当時はインフルエンザにもかかっており、薬の併用・過剰摂取による急性薬物中毒による事故死だった。
  • 死亡時、テリー・ギリアム監督作『パルナッサス博士の想像力』の撮影途中であったため、ジョーカーを演じた『ダークナイト』が遺作になるものとみられていたが、コリン・ファレル、ジュード・ロウ、ジョニー・デップが代役に立てられたことで『パルナッサス博士』の製作が続行可能になったと報じられている。なお、本作でのヒースの演技はカット・加工されることなく予定通り使用される模様。
  • アカデミー賞ノミネートが発表された1月22日、2年前に「ブロークバック・マウンテン」の演技で主演男優賞候補になったオーストラリア人俳優ヒース・レジャーが、ニューヨーク・マンハッタンのアパートで遺体で発見された。28歳だった。
  • 警察の発表によると、ベッドに横たわっていた遺体は全裸で、近くに処方された睡眠薬が散乱していたという。発見者は彼の自宅でマッサージする予約があったマッサージ師とハウスキーパーで、午後3時30分頃発見。すぐさま蘇生を試みたが、心停止状態だった。検死解剖は23日の予定。なお、レジャーの広報は「自殺ではなく事故だった」と説明している。
  • レジャーは「ブロークバック・マウンテン」で共演したミシェル・ウィリアムズと婚約し、2人の間には現在2歳になる娘マチルダがおり、昨年婚約者と破局するまでブルックリンに3人で住んでいた。彼女の前には、ヘザー・グラハムやナオミ・ワッツとの熱愛もあった。
  • レジャーの出世作となった「パトリオット」(00)で父親役を演じたメル・ギブソンは「彼に大いなる希望を抱いていた。あんなに年若く逝ってしまうとは何て悲劇的な死だろう」と弔意を表した。
  • 彼の代表作は上記のほか、「チョコレート」(01)、「ROCK YOU! ロック・ユー!」(01)、「ケリー・ザ・ギャング」(03)など。ハリウッドの超大作よりインディーズ系映画を好んだ。近々日本で公開される出演作は、ケイト・ブランシェットら6人がボブ・ディランを代わる代わる演じる、トッド・ヘインズ監督の「アイム・ノット・ゼア」(GW公開)だ。
  • 死の直前まで「ブラザーズ・グリム」(05)で組んだテリー・ギリアム監督の新作ファンタジー「The Imaginarium of Doctor Parnassus(パルナッサス博士の想像力、の意)」に参加していたが、彼の実質的な遺作となるのは悪役ジョーカーを演じたクリストファー・ノーラン監督のバットマン映画「ダーク・ナイト」(9月公開)で、すでに撮影は完了している。
  • 今月初め、ノーラン監督は前任者ジャック・ニコルソンとの違いについてこう述べている。「ヒースにとって非常に偉大な挑戦だった。ものすごく独創的で、ものすごくゾッとさせ、恐ろしいほど神経質(なジョーカー)だった。とても若いキャラクターながら、アナーキーな彼の存在感は恐怖とパニックをもたらす」
  • その代償かどうか、レジャーはつい最近、とある新聞に「先週はたぶん平均して一晩2時間しか寝ていない。いろいろ考えると眠れないんだ。僕の身体はクタクタなのに、僕の精神はずっとギンギンに起きている」と語って、1時間ほどのその仕事中に、マイスリー錠(酒石酸ゾルピデム)を2錠服用したという。
  • エピソード:1989年制作『バットマン』のジョーカー役であるジャック・ニコルソンは、映画PRの為に訪れていたロンドンでヒースの死を知らされ、集まったパパラッチにコメントを求められると「俺は彼に警告したんだ」と答えた。この意味深な一言は注目を集め、翌日に行われた記者会見で質問されると、自分も以前、薬物(睡眠薬)を摂取しており、死にかけた事があるとヒースに話していた事を明らかにした。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄
    ヒース・レジャー-Wikipedia

    (2008.12.27掲載)



▲ヒース・レジャー。


28年10ヶ月と9日の生涯

山中 貞雄
Sadao Yamanaka   【夭折した天才】

(1909.11.08〜1938.09.17=明治42年〜昭和13年)
戦病死---蠍座

  • 映画監督、脚本家。京都府生まれ(高知という説もあり)。
    1909年(明治42年)11月8日、京都市東山区本町通五条下ルに、父・喜三右衛門、母・よその末子として生まれる。
  • 1922年(大正11年)、旧制京都市立第一商業学校に入学、同級生にのちに松竹下加茂撮影所の脚本家となり「鳴滝組」の仲間となる藤井滋司、1年先輩に「日本映画の父」こと牧野省三の長男・マキノ正博がいた。
  • 1927年(昭和2年)、一商の先輩であるマキノ正博を頼って、マキノ御室撮影所へ入社する。マキノは活躍できるようにと1928年(昭和3年)、山中を脚本家兼助監督として、嵐寛寿郎の第一次嵐寛寿郎プロダクション(寛プロ)に移籍させるが、五社協定によりその年に独立プロは失敗。実家に戻った山中を親戚一同は縛り付けるように足を洗えと説得したが、心中の灯は消えていなかった。
  • 1930年(昭和5年)、嵐寛寿郎が東亜キネマに招かれると、山中を含む旧寛プロのメンバーも参集した。嵐は山中のシナリオを読んで天才だと評した。「むっつり右門」の脚本でその真価を確信した嵐は1932年(昭和7年)、長谷川伸の戯曲を脚色した『磯の源太 抱寝の長脇差』を監督第1作として発表させる。この作品が映画評論家岸松雄の目にとまり大絶賛されたことで注目が集まり、その結果、処女作にしてその年のベストテンに名を連ねるなど、山中は弱冠22歳にして日本映画界の巨匠の仲間入りをした。
  • 翌年に、第二次寛プロから日活京都撮影所へ移籍。以降、若き天才監督の名前をほしいままに、『盤嶽の一生』『街の入墨者』を発表。
  • 1934年(昭和9年)からは、それぞれが所属する会社の枠組をこえ、稲垣浩、滝沢英輔や脚本家の八尋不二、三村伸太郎ら俊才とシナリオ集団「鳴滝組」を結成、「梶原金八」の共同ペンネームで22作を発表した。時代劇映画に大きな革新を生み、批評家以上に観衆からも大きな支持を得ていた。交友関係も広く、「鳴滝組」の面々のほか、伊藤大輔や伊丹万作ら京都の映画人はもとより、小津安二郎、清水宏など東京在住の映画人とも、幾度となく盃を交えた。
  • 1937年(昭和12年)、東京に移り、P.C.L.映画製作所(現在の東宝スタジオ)で発表した『人情紙風船』を最後に従軍する。翌1938年(昭和13年)9月17日、中国河南省開封の病院で戦病死した。28歳没。
  • その短い生涯のうちのたった5年間の監督生活で発表した監督作品は、全26本(応援監督2本含む)である。しかし、現在、『丹下左膳余話 百萬両の壺』『河内山宗俊』『人情紙風船』の三作品しか、見ることができない。『磯の源太 抱寝の長脇差』『怪盗白頭巾』『海鳴り街道』はフィルム断片のみ残存。また前記の3作品も戦後公開版のため、オリジナルの尺・編集であるかどうかは定かではない。少なくとも『丹下左膳』は占領軍下の検閲によってチャンバラ場面が削除されたようである。このため、現代に生きる私たちは映画監督、山中貞雄の全容を知るには至っていない。
  • 甥に映画監督の加藤泰がいる。山中にもっとも深い影響を受けた1歳下の助監督、「鳴滝組」の仲間であり、のちの映画監督に萩原遼がいる。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    山中貞雄-Wikipedia
    山中貞雄を見よう

    (2008.04.21掲載)




▲戦争が若くして奪い去った最も痛嘆に値する天才の一人・山中 貞雄。1934年1月 小津安二郎(右)と


28年10ヶ月と23日の生涯

ノヴァーリス
Novalis   【ドイツ・ロマン主義の真随】

(1772.05.02〜1801.03.25)
肺結核---牡牛座

  • 本名フリードリヒ・フォン・ハルデンベルク。チューリンゲン地方の古い貴族の家系。筆名は家系に由来するラテン語で、「新しく開墾された(土地)」を意味する。「ハルデンベルクの改革」のハルデンベルクとは親戚。
  • イェーナ大学でシラーの講義を聴き師事、またF.シュレーゲルと知り合い感化を受ける。ライプツィヒ大学で鉱山学を学び、鉱山技師となる。
  • のちにイェーナに居住し、ルートヴィヒ・ティーク、シュレーゲル兄弟らと親交をもつ。詩文芸の無限な可能性を理論と実践において追求した。雑誌『アテネーエム』に参加し、評論などを書いた。
  • 23歳のとき13歳の少女ゾフィーと出会う。運命的な恋愛をして婚約するが、2年後ゾフィーの夭折。そのころから神秘力を確信し、彼女の住む闇の世界にあこがれ、深い哀切は抒情詩『夜の賛歌』を生む。
  • その3年後、大作『ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン』(Heinrich von Ofterdingen, 邦訳『青い花』)等が未完のまま、彼自身も肺疾患のため28歳の若さで夭折した。
  • 論文『キリスト教世界またはヨーロッパ』で宇宙・自然と自我の神秘的一致を主張する宗教的世界観を展開。ほかに未完の小説『ザイスの子弟』『青い花』の2作品があり、純粋で香気を感じさせる浪漫派の傑作とされる。
  • 26歳で着手した小説『ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン』は、真のロマン的世界を示そうとしたもので、主人公の見る夢にちなんで『青い花』とも呼ばれる。「永遠の生の神秘を啓示するものとしてのポエジー」というその思想はドイツ・ロマン主義の真随をなす。未完であることが何とも惜しい作品。
  • また、文学・哲学・宗教・政治・社会・自然科学などにも通じ、精神世界との合一を図った。
  • 「ノヴァーリスの作品の特徴は、婚約者ゾフィーの死、いわゆるゾフィー体験を中核にする神秘主義的傾向、とりわけ無限なものへの志向と、中世の共同体志向にある。後者は中世のミンネザングを主人公にする小説、『ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン』(未完)や、宗教改革前の世界をキリスト教というひとつの文化的背景によって民族性を超えた普遍的地盤をもつ共同体として称揚した、評論『キリスト教世界あるいはヨーロッパ』にことに顕著に現れる」(1)。
  • 「人は一生ののうち、一冊の聖書を書くために生まれてきた存在である」(ノヴァーリス)
  • 青い花、青い鳥、青い月、そして蒼い人---。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

    (2009.06.30更新)



▲ ドイツ初期のロマン主義を代表する詩人・ノヴァーリス。


 

◆「人は一生のうち、一冊の聖書を書くために生まれてきた存在である」
(ノヴァーリス)

 28歳のエポック!

  • 中里介山は28歳から大作『大菩薩峠』を連載し、56歳まで断続的に書きつがれるが、ついに未完。
  • ニールス・ボーア、28歳(1913年)でラザフォードの原子模型に量子条件を適用し水素の線スペクトルを説明(原子模型)。37歳でノーベル物理学賞。
  • マックス・エルンスト、1919年(28歳)にアルプとケルンでダダ運動を興す。
  • ドナルド・ダグラス、28歳(1920年7月22日)で独立してカリフォルニアのサンタモニカにダグラス社を設立。
  • 三船敏郎、1948年(28歳)で黒沢明の『酔いどれ天使』に出演、以後『羅生門』(30歳)など、黒沢作品に欠かせない俳優として活躍。
  • 3代目江戸家猫八 、太平洋戦争で入隊し、広島で被爆。1949(28歳)三代目猫八を襲名。
  • 大山倍達、1950年(28歳)に千葉県館山で牛と対決。牛を倒すこと47頭。その後、アメリカやメキシコでも牛と対決し「牛殺しの空手家」として世界にその名をとどろかせた。

    (2004.07.18更新)



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