現地の写真を手に、南京で見た様子を語る三谷翔さん(左)と松岡環さん=大阪府内南京入城式の日に行進する旧日本軍=1937年12月、中国・南京
三谷さんは「悲しいとか気の毒だとかの感情は全くわかなかった。戦争とはこんなんかと思った」という。
佐世保に帰ると、上官から「南京で見たことは口外するな」と言われた。「やっぱり、まずいことなんや」。その後、海軍航空隊の整備兵になり、中国大陸や台湾を転々とし、敗戦を北海道で迎えた。戦後は刑務所職員や日雇い労働、天井張り職人などで妻子を養い、「南京の記憶」は封印した。
目撃から60年後の97年12月、三谷さんは市民団体の呼びかけに応じ、大阪で開かれた集会で証言した。当時、一部の政治家や評論家から「虐殺は中国側が作り出したウソだ」という発言が続いていた。集会場へは裏口から入り、客席との間はついたてで遮られた。言葉を絞り出すように語った。「何万人もが殺される場面を全部見たわけじゃない。でも、虐殺がなかったなんてありえない」
証言はそれっきりにするつもりだった。
もう一度語る気持ちになったのは、80歳半ばを過ぎてからだ。南京戦の主力となった兵士の多くは、1回目の徴兵を終え、再び召集された予備役(よびえき)や後備役(こうびえき)の兵士で、三谷さんら10代の志願兵は少数派だ。「気がついたら最後の生き残り世代になっていた」
2007年12月、三谷さんは市民団体のメンバーと南京を再訪。中国人学生らの前で、子ども時代に受けた教育の実情とともに南京での体験を証言した。「戦争に無理やり行かされたんじゃない。進んで行ったんだ」と語ると、学生たちから「日本への偏見が改まった」と握手を求められた。
今回、証言を頼んだ元小学校教員の松岡環(たまき)さん(62)=大阪市=は12年がかりで、総勢約250人の元兵士の聞き取りをした。多くは鬼籍に入ったか、体調を崩しているという。