bjリーグ社長との再会
2008/3/7
■示唆に富むファン重視のバスケ道
「新潟県小千谷市ご出身ですよね」。初対面の人間にいきなり郷里を言いあてられたら、さすがに面食らう。相手はたった今、名刺交換した社長さんである。「中学時代は応援団長だったでしょう?」
「アナタハ誰デスカ?」
「バスケ少年」からbjリーグ社長となった中野秀光さん |
卒業後、中野少年は郷里を離れ新潟市にあるバスケの名門高へと旅立った。以来、まったく消息を知らなかった。「一体どんな人生を経て、こんなに偉くなったんだ?」
私がbjリーグを訪ねたのは本格的プロリーグに向けた展望や算段を聴くためだったが、それどころではなくなった。だが、聴いてみると、彼の経歴は示唆に富んでいた。
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4年前の震災で被災地となるまで小千谷市は無名の田舎街だった。中野少年は高校卒業後、家庭の事情で大学進学をあきらめ小千谷市にある実家の家紋店を継いだ。だがバスケへの思い断ち難く、19歳から母校の中学、高校のバスケ部コーチになる。以来25年、午後3時に体育館へ駆けつけ生徒とバスケに打ち込む毎日。資格はない。無給である。
30歳から地域のボランティア活動も始めた。ゲートボール教室や交通指導員などに交じって青年会議所の活動もあり、初めて「スポーツで地域を元気にすることはできないか」と考えた。転機だった。熊谷組や能代高校などバスケの強豪チームを招き、手応えを得ると、満を持して提案した。「本場NBAを呼ぼう」
「こんな田舎に正気の沙汰(さた)じゃない」と周囲は言った。費用面などでOB選手にはしたが、ジェームズ・ウォージーら元オールスター選手らがズラリそろって、それでも締めて6000万円。「本当にチケットが売れるのか、さすがに心配で、円形脱毛症になった」。家を売る覚悟まで決めて臨んだが、完売、黒字見込みになった。それなのに、この人は赤字にしてしまう。
暗い場内を走るレーザー光線に吹き上がるスモーク、派手なライトアップ、そしてチアリーダー。「ここは本当に日本か?」とウォージーが漏らしたという逸話も残る凝った演出に、1500万円もつぎ込んだからだった。
中野社長曰く「一生で一度の体験なんだから強烈で楽しい時間にしてほしかった」。1996年当時、こんな演出は国内のどこにもなかった。本場の選手が驚くのだ。観客が喜ばないはずがなかった。今や“中野方式”としてbjリーグの定番になっている。
「地方の街にNBAを呼んだ男」としてバスケ界で有名になる中野氏だが、地域の活性化以外にも狙いがあった。教え子たちの強化である。
「多くの人に見られているという環境は、プレーの質を上げさせる。要はうれしいんです、彼らも」。イベントでは常に前座として地域の子供たちの試合が組まれた。ヤンヤヤンヤの満員の大歓声に乗せられ地元の中学生たちは強くなり、県大会上位3校を小千谷勢が独占、「バスケの街」と呼ばれるまでになった。
地域の活性化と強化。この両輪はbjの理念でもある。ほどなくバスケ好きの無給コーチは、バスケのプロ化をにらんだ新潟アルビレックスの目にとまりスカウトされる。専務を経て2004年には社長に就任、中野方式は新潟方式となりbj所属各チームの視察が続き、昨年9月、リーグへの普及加速を狙ってリーグ社長へと押し出された。
中野社長を見込んだのは、Jリーグで「新潟の奇跡」を生んだアルビレックス新潟の池田弘会長その人である。
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次期役員人事を巡り内紛が続く日本バスケットボール協会に、日本オリンピック委員会(JOC)は「退会処分が相当」という異例の厳しい見解を示した。五輪年に強化費が下りない異常事態である。内紛は昨年3月、世界選手権の巨額赤字の補(ほ)填(てん)をめぐって表面化した。1年たっても「権力闘争」をやめない、あきれたトップを頂くバスケ界だが、中野社長の行動と彼を引き上げたbjの姿勢は、やり方次第でバスケもプロとしてやっていけることを示している。
新潟時代、中野社長はチームの拠点を各地に作った。立派なスタジアムが必要なサッカーにはできない芸当だが、周囲はさすがに心配した。
「大丈夫なんです。バスケは収容規模が小さいから2000人や3000人入る会場はある。むしろ『こんな田舎まで来てくれるのか』と、どんどん人が集まる」。中野方式を駆使し田舎町をNBA会場にしてしまう。縁日のように露店を並べるなど、盛り上げることは何でもやった。
ファン、選手、スポンサーのうち、まず誰を見るか。中野社長は迷わず「ファンですよ」という。「ファンが盛り上がれば選手が変わる。それを見れば、スポンサーはやってきます」。権力闘争に明け暮れる協会幹部の頭には、こんな発想は育たない。
(産経新聞運動部長)
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【用語解説】bjリーグ
1月11日に行われたbjリーグ「仙台89ERS対対人具福岡」戦。勢いあるプレーに観客も息をのむ=仙台市体育館 |
日本協会内に20年以上前からプロ化の声がありながら実現しない中、新潟とさいたまが日本リーグ機構を離脱、先行する形で設立された。日本リーグとの将来の一本化を模索する声もあるが不透明だ。