池田信夫 blog

Part 2

January 2008

著者(中村伊知哉・慶応大学教授)は、私の長年の友人である。郵政省を10年前に「脱出」し、今は総務省のブレーンとして「情報通信法」についての研究会の中心になっている。ここでは、本書のコアである政策の部分について簡単にコメントしておく。

著者の専門である「コンテンツ政策」が大きな分量を占めているが、率直にいってよくわからない。そもそも「コンテンツ政策なんてあるの?」と経産省のコンテンツ課の官僚でさえいうぐらい、役所と一番なじまない分野だろう。もちろん著者はそれを踏まえた上で、政府に何ができるか、いろいろさぐっているのだが、私は文化庁みたいに民間のじゃまをしないことが最高の政策だと思う。その意味で重要なのは著作権なのだが、これは他省庁の縄張りに口を出さないという節度からか、7ページ半しかない。

情報通信法をめぐる議論でも、メディアからの批判は「ネットコンテンツ規制の強化」に集中した。これは中間報告に誤解をまねく表現があったためで、最終報告では「インターネットに行政は介入しない」と明記されている。しかしIP放送は「一般メディアサービス」に分類されて規制の対象になる。通信と放送の境界を撤廃するといいながら、実質的には通信か放送かでコンテンツ規制の有無を決めているわけだ。これが今度の改革案の最大の矛盾である。

私は、レイヤー別規制には基本的に賛成だが、コンテンツをレイヤーとしてくくり出したら、それは普通の新聞・出版と同じなのだから、総務省が規制するのはおかしい。新聞は、情報通信法の言葉でいえば「特別メディアサービス」だが、何も規制はないし、それで別に問題は起こっていない。それよりも放送局に過大に割り当てられている電波を通信に開放して、地上波放送を規制する根拠となっている「電波の稀少性」をなくすほうが合理的だ。

インターネットについては、たしかに有害コンテンツの問題はあるが、それは行政が対応できる問題ではないので、司法的に解決したほうがいい。情報通信法の規制対象からコンテンツを除外し、その代わり当事者間の紛争を解決するADRを整備してはどうだろうか。福田内閣の人気回復策として出てきた「消費者庁」の目玉にもなるだろう。

ややこしいのは「本丸」のインフラ・レイヤーだ。最大の難関は、いうまでもなく放送業界である。12月のICPFセミナーでも、TBS総合研究所の前川社長は、レイヤー別規制に民放連として反対する姿勢を強調し、「オールIP」も許さないという立場だった。彼らが反対するとき「それはわれわれの既得権を侵害する」とはいわないで「表現の自由」とか「文化を守れ」とかいうのが特徴だから、戦術的にもコンテンツを規制対象から外すのが得策ではないか。

情報通信法については、31日のICPFセミナーでも議論する予定だ。
きのうのMIAUシンポジウムは、「ダビング10」というマニアックなテーマにもかかわらず、会場はほぼ満員だった。まもなくYouTubeの公式チャンネルに映像がアップロードされると思うが、議論で気になったことをひとつ:

「ダビング10の是非論」とか「落としどころ」とかいう話にはまりこむと、この話はデッドロックになる。この泥沼は10年前のボタンの掛け違えから始まっており、それをいくら掛けなおしてみても、同じことの繰り返しになるからだ。そもそもなぜ無料放送にCASがついているのかという根本的な問題から問い直し、これまでの経緯をいったんリセットしたほうがいい。

CAS(conditional access system)は、有料放送のシステムとしてはどこにもあるが、無料放送にCASをつけている国は日本以外にない。FAQにも書いたことだが、事の起こりは、BSデジタルを有料放送にするか無料放送にするかで民放の意見が割れたことにある。当初はみんな強気で、有料放送でやる予定だったので、ITゼネコンに委託して100億円かけてB-CASセンターを作った。それを使ってTVショッピングをやるとか、いろんな夢を描く業者がいて、私に役員になってくれと頼んできた企業もあった。私が「BSデジタルは危ない」と止めても企画会社をつくったが、やはり失敗して企画会社を清算した。

そういう現実をみて、各局とも弱気になり、当初は無料放送でやって、視聴者が増えてから有料に切り替えようということになった。ところが、困ったのはB-CASセンターの100億円をどうやって回収するかである。WOWOWだけならもともとCASはあるので、B-CASは必要ない。そこで彼らが考えたのが、とりあえずB-CASを全受像機に入れておき、有料放送になったとき、切り替えるという方針だった。

しかしBSデジタルの出足は悪く、各社は数百億円の赤字で、とても有料化できる情勢ではなかった。おかげで受像機の出荷も少なく、B-CASは赤字を垂れ流していた。そこで彼らが考えたのが、無料放送である地デジにB-CASを導入するという方針だった。これによってBSよりはるかに多くの「審査料」が取れるからだ。しかし、無料放送にCASを入れる大義名分がない。そこで出てきたのが、コピーワンスによって「著作権を守る」という理由だった。

・・・というような調子で、間違いに間違いが重なって今日に至ったわけだ。だから問題は、これをEPNにするかどうかといったレベルの話ではなく、こういうおかしなしくみを作った意思決定システムを見直すことだ。最大の問題は、これが事実上は総務省の天下り先であるARIBによってつくられた公的な規格で、すべてのデジタルTVに義務づけられるのに、その審査をB-CAS社という民間企業が独占しており、この審査に法的根拠がないことだ。つまりB-CASは、独禁法第3条で禁止されている私的独占そのものなのだ。(*)

しかも、そのB-CAS社の社長は、初代はNHK社会部の記者OB、現在は経済部の記者OBである。非常勤取締役には、だれでも知っている元19時ニュースのアナウンサーも入っている。B-CAS社の役員は、NHKの天下りポストになっているのだ。彼らは技術開発も営業活動もしないで、すべてのデジタルTVから「眠り口銭」を取っている。ニュースでゼネコンの談合や公務員の天下りを批判していた彼らは、自分のやっていることをジャーナリストとしてどう考えているのだろうか。

さらに問題なのは、番組をすべてネット配信する方針を打ち出したBBCとは逆に、有料放送ではなく公共放送であるNHKがCASを使っていることだ。NHKが今の曖昧な受信料制度を正当化するには、BBCのように「受信料制度だからこそ個別の番組から料金をとらないでオープンに配信できる」というならまだしも、私的な有料放送システムであるCASを使うのは矛盾している。地上波では受信料を払っていてもいなくても見えるが、BSでは受信料を払っていないと「金を払え」という横断幕が出る。災害報道は公共性が高いのでB-CASなしで放送するというが、それ以外の番組は公共性がないのか。まったく論理が一貫していないのだ。

NHKが本当に公共放送なら、B-CASはやめてBBCのように番組をすべてネット配信すべきだ。権利者がうるさいようなら、特例法をつくってもいい。今のままB-CASを続けるのは、有料放送にする意思表示だとみられてもしょうがない。つまり民営化だ。私は、こっちの選択肢もあると思うが、どっちでもない今の状態は最悪である。

いちばん簡単なのは、公取委がB-CAS社に排除勧告を出すことだ。かつて公取委の経済調査委員だった者として、特殊指定問題でメディアの横暴に怒る竹島委員長には、ぜひテレビ局に鉄槌を下していただきたい。

(*)これについては、同じ第3条の「不当な取引制限」にあたるという意見もある。B-CAS社は「特許の管理事業だから独禁法の適用除外だ」と称しているが、無料放送にCASをつけるのは、特許とも著作権とも無関係な違法行為である。
今から9年前、私がW3Cのメンバーだったとき、日本の会議に松下電器のエンジニアをまねいて話を聞いたことがある。テーマは「通信と放送の融合」。20年近く前からいわれ続けていたテーマだ。ウェブとは無縁の家電メーカーをまねいたのは、彼らが初めてXMLでデータ放送の規格をつくったと聞いたからだった。

ところが話を聞いて、私は疑問をもった。その「BML」というマークアップ言語は、どうみてもHTMLとはまったく異質な規格だったからだ。私が「その言語はHTMLとの互換性はどうなってるんですか?」と質問したら、彼は「ありません。これは放送の規格だから、通信との互換性は必要ないのです」と答えた。今度は会場の人々が驚いた。質疑応答はこんな感じだった:
Q: 物理層からアプリケーションまでごちゃごちゃに規定されてるけど、バージョンを変更するときはどうするんですか?
A: これはLSIでテレビに内蔵して供給するので、基本的にバージョンアップは考えてません。
Q. 上りは2400bpsとなってるけど、これはどうやってデータを送るんですか?
A. 別に電話回線を引くんですよ。送るのはYES、NOのデータだけだから、2400bpsで十分。
当初は、データ放送の言語としてNHKと電機メーカーはMHEG-5というアナログのデータ放送と同じ規格を使う計画で、そのLSIまでできていたが、土壇場で郵政省の放送行政局長が「インターネット時代なんだからインターネット技術を使え」と命じた。業界は抵抗したが、お上には逆らえない。苦肉の策として出てきたのが、XMLを使ってHTMLと互換性のない言語を新たにつくることだった(たしかにインターネット技術は使っている)。その最大の理由は、HTMLにするとマイクロソフトのWebTVの規格(ATVEF)に市場を乗っ取られることを電機メーカーが恐れたためだった。

この方針転換が決まったのは、1999年の初め。翌年から始まるBSデジタル放送の受像機に内蔵するため、その年の秋にはLSIをサンプル出荷しなければならないという信じられないスケジュールだったが、松下電器は人海戦術と残業の嵐で、MHEG-5をそのままXMLに移植した新しい言語、BMLを半年たらずでつくった。しかし当然のことながらバグだらけで、オーサリングツールがオフコン(!)に内蔵されて2台1組で300万円もした。しかもマニュアルもないため、1000ページ近い仕様書を読まないとコーディングできなかった。

そのころ郵政省の研究会で、こうした動きに対して一人で闘っていたのが、マイクロソフトの古川享会長(当時)だった。だが四面楚歌で、ある委員からは「古川君、インターネットのような邪悪なものを放送の世界に持ち込まないでくれたまえ」といわれたそうだ。

しかし時代は変わった。マイクロソフトは、ウィンドウズVistaにB-CASを搭載するという。B-CAS社という私企業が、何の法的根拠もなくすべてのテレビを「審査」して料金を徴収するシステムには、「非関税障壁だ」としてマイクロソフトもインテルも反対したが、もう「外圧」の時代は去った。アメリカ政府は日本との通商問題には関心をもたなくなり、ARIB(=郵政省)と電機メーカーとテレビ局は、密室でこの「日の丸規格」を決めてしまった。

マイクロソフトは、もう闘うのをあきらめたのだろう。彼らは、テレビ局の幹部を引き抜いたりして、「日本の会社」になろうとしている。公共部門には、ITゼネコンから「官公需営業20年」のプロがやってきて、その孫請けで稼いでいる。それは彼らにとっては、賢明な戦術なのだろう。おかげで「変われない日本」が衰退しても、マイクロソフトには知ったことじゃない。長いものには巻かれろ、と英語でもいうじゃないか:

If you can't beat them, join them!
2008年01月15日 15:47

〈海賊版〉の思想

小倉秀夫さんのブログで教えてもらった。内容は、専門家にはよく知られている著作権法上もっとも重要な事件のひとつ、「ドナルドソン対ベケット訴訟」の解説だが、ここまでくわしいものは海外にもない。概要は白田秀彰『コピーライトの史的展開』にもあるが、これは品切れなので、本書は(入手可能な本としては)著作権の初期の歴史についての日本語で読める最良の文献だろう。

この訴訟は、スコットランドの詩人トムソンの詩集『四季』を出版した書店主ドナルドソンに対して、その原著を出版したロンドンの書店主ベケットが「コピーライトの侵害だ」として、1774年に起したものだ。トムソンは1748年に死去し、当時の法律(アン法)で保護された「死後14年」を過ぎていたので、被告は「出版は合法だ」と主張したが、原告は「コピーライトは永遠だ」と主張した。

・・・などと厳密に解説すると膨大になるので、ディテールに興味のある人は裁判記録を読んでほしいが、要は原告が三田誠広、被告側代理人が小倉秀夫、と思えばよい。本書のおもしろいところは、この訴訟がとても200年以上前の事件は思えないことだ。いくつか引用してみよう:
原告:書店主たちの自由は、彼らの所有物に与えられている追加的な保証から生じるものです――これを支持する以外にないのです。もしこれが文学の振興にならないというなら、みなさん、何が振興になるのかおうかがいしたい。

被告:書店主のひとたちはね、みなさん、ごく最近まで著者などというものに関心はなかったのですよ。立法府に請願するために、著者を使ったのです。自分たちの所有権を確かなものにするためにね。[・・・]文学の所有権などというものは、無知な書店主らによるスキャンダラスな独占を招きますよ。ほかのひとの才能のおかげで書店主は肥え、抑圧することで書店主は豊かになっています。

裁判官A:法律書にこんな判例があります――首に鈴をつけた鷹が逃げて、その鷹をつかまえたひとが、慣習法[コモンロー]にもとづいて訴えられました。著者の名前がついた本は、首に鈴をつけた鷹のようなものです。それを海賊したひとは誰であろうと、訴えられるでしょう。

裁判官B:機械の発明者は、著者のように彼のアイデアを公衆のものにしたのです。発明者が彼の機械を売ったのに、買ったひとにはそのモデルにつづくものを作る権利がないとは、聞いたことがありません。機械発明品を作る排他的な権利は、独占禁止法で奪われています

裁判官C:かつて国王が印刷の権利は自分にあると主張したとき、彼はその権利を特許という形にしました。彼の独占をより強めるために印刷業者を結びつけ、組合を作りました。その決まりでは、組合員でない者は本を印刷してはならなかったのです。[・・・]考えるひとはすべて生きているかぎり自分のアイデアに権利をもつのでしょうか? 彼はいつその権利を手放すのでしょうか? それはいつ公共のものになるのでしょうか?[・・・]もしこの世界に人類に共有さるべきものがあるとすれば、科学と学問こそが公共のものです。それらは空気や水のように自由で普遍的であるべきです。
そして判決は被告の勝訴に終わり、コピーライト(著作者の権利ではなく版元の複製権)は死後14年で消滅するという判例が確立した。これがその後の有限期間のコピーライトという概念につながったのである。もし、この訴訟で被告が敗訴していたら(この訴訟の前にそういう判決が出ていた)、コピーライトは財産権と同じ永久の権利になっていただろう。

本書に紹介されている議論を読んでも、原告側(及びそれに賛成する裁判官)の主張にはまったく説得力がない。鷹の首の鈴というしゃれた話があるだけ、三田氏よりましなぐらいだ。他方、被告側が「業者は既得権を守るために著者をダシに使っている」と指摘する点も、小倉さんとそっくりだ。彼もいうように、法律家は200年以上も同じ論争を繰り返してきたのかと思うと、彼らの怠慢に文句もいいたくなる。

私が興味をもったのは、イギリスの裁判で「それは慣習法にない」という言葉が、ほとんど「それは憲法違反だ」という意味で使われていることだ。慣習法=常識はどこにも書かれていないから、こういう論争は堂々めぐりになるおそれも強いが、世の中の常識が変わればルールを柔軟に変えることができる。18世紀のイギリス人の常識に、われわれは感謝しなければならない。

もうひとつは、訴訟によって当事者が公衆の見ている法廷で論争することが、説明責任の源泉になっているということだ。アメリカのように「過ぎたるは及ばざるがごとし」という面もあるが、日本では訴訟が起きないため、業者も行政も密室で談合を続けてきた。かつてはそれを壊すのは外圧だったが、これからは消費者の集団訴訟だ。あす議論するB-CASも独禁法違反の疑いが強いので、公取委に告発するのも一つの手段だろう。
2008年01月14日 10:32
科学/文化

音楽のレッスン

Seth's Blogより:

あなたが音楽業界(の崩壊)から学べること
  1. 新しいものは古いものより決してよくない、少なくとも今は
  2. 過去の業績は、将来の成功の保証にはならない
  3. コピープロテクションは、デジタル時代の空しい夢(pipe dream)だ
  4. インタラクティビティはコピーできない
  5. パーミッションは将来の資産である
  6. 消費者に恐怖を与えても幸福にはできない
  7. これは重要:ビジネスモデルを変えるのは、過去の勢いがあるうちだ
  8. ボブ・ディランのルールを思い出せ:これはただのレコードではなく、運動なのだ
  9. 新しいビジネスモデルが古いものほど「クリーン」でなくても、パニックになるな
  10. 壁に書かれた言葉を読め(*)
  11. ロングテールを捨てるな
  12. デジタルの力を理解しろ
  13. 有名人は過小評価されている
  14. 価値は、多数から少数に行くとき、あるいはその逆のとき生まれる
  15. 可能なときは、つねにサブスクリプションを売れ
コメント:これは音楽業界に対する教訓ではなく、他のビジネスが音楽産業の失敗を繰り返さないための教訓である。企業に生存権はない。消費者に見離されたビジネスは、消滅するのが資本主義のルールだ。かつてレコードが出てきたとき演奏家の組合が反対したのと同じ失敗を、レコード業界が繰り返しているのは、悲しい笑い話だ。

(*)コメントで指摘された:これは旧約聖書で「悪い前兆」の意味だが、ブログなどの「落書き」とかけている。
2007年の8月に情報通信審議会 情報通信政策部会 デジタル・コンテンツ流通の促進等に関する検討委員会より、「デジタル・コンテンツの流通の促進に向けて」という中間答申案が公開されました。この中では地上波デジタルテレビ放送におけるコンテンツ保護の方式について検討が行われておりますが、委員会の結論として、現在利用されているコピーワンス方式(ムーブを1回)をやめて、新たに、ダビング10という方式(1世代コピーを9回とムーブを1回)を採用することが提案されています。しかし、この議論については、大きく一般の人々が影響を受ける割には、突然決まったという印象を持つ方も少なくありません。

MIAUでは、この件を利用者の立場としてどう判断すべきかについて、検討の経緯の確認から、この結論による影響等を含めて議論を行うシンポジウムを開催いたします。皆様におかれましては、年始の忙しい時期のイベントで誠に恐縮ではございますが、是非ご参加いただきたく存じますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。

日時:2008年1月16日(水)18:30-20:00

場所:世田谷文化生活センター(キャロットタワー内)5F セミナールーム
  〒154-0004 東京都世田谷区太子堂4-1-1 キャロットタワー 5F(地図)

次第
1. ダビング10に関する基本的な情報
  a. 基幹放送の特質とその背景 池田信夫氏(上武大学大学院教授)
  b. デジコン委員会-ダビング10への経緯概要説明 河村真紀子氏(主婦連)
2. 論点整理
  a. ダビング10運用ルールの解説 増田和夫氏(評論家)
  b. 米国におけるEPN運用の現状 小寺信良氏(AV機器評論家)
3. パネルディスカッション「消費者ルールの落としどころを探る」
  モデレーター:小寺信良氏
  パネリスト :上記講師の方々、他数名調整中

参加を希望される場合は、お手数ですが下記メールアドレスまでお名前・ご所属・ご連絡先メールアドレスをご連絡くださいますよう、お願い申し上げます。なお、途中参加や途中退場も可能です。

締切は2008年1月14日24時です。

E-mail: info◎miau.jp (◎を@に変えてください)

追記:前回のシンポジウムのもようがYouTubeですべて見られる。
日経新聞によれば、政府は今年の洞爺湖サミットの目玉として、発展途上国の地球温暖化対策に、5年間で総額100億ドルを無償資金協力や円借款などで援助する方針だという。このニュースを見て思い出したのは、2000年の九州・沖縄サミットで採択された「IT憲章」だ。

当時は「IT革命」が騒がれた最中で、「ITを目玉にしたい」と外務省が主導して、途上国に5年間で150億ドルの「IT支援」を行なうことを決めた。しかし途上国から「電力もない地域にPCを配ってもらっても困る」と批判されたため、土壇場で感染症対策に30億ドルの追加を決めた。このとき森首相(当時)が「電力がなくても携帯電話は使える」と発言したのは有名な笑い話だ。

今度の100億ドルも、これと同類の話題づくりだ。途上国が求めているのは、温暖化対策なんかではなく、医療と食料である。このように政府や国際機関が、費用と便益のバランスを考えず、優先順位もつけないで政策資源をばらまく現状を、編者ロンボルグは批判している。本書は、途上国にどんな問題があり、それを解決するにはどれだけコストがかかるかを、23項目にわけて各分野の専門家が定量的に分析している。その内容は、たとえば
  • 麻薬は合法化して政府が管理し、高率の課税を行ったほうがよい。現在の麻薬による被害のほとんどは、その摂取よりも取引にからむ犯罪で起きているからだ。この政策費用はゼロだが、税収は世界で年間1300億ドルにのぼるので、これは最優先で行なうべき政策である。
  • 次に優先順位が高いのは、感染症対策だ。このコストは90億ドル程度だが、便益はその7倍から30倍にのぼる。特に多くの人命がかかっていることからも、これは緊急の課題である。
  • 地球温暖化については、その対策の便益が費用を上回るかどうかも疑わしいが、やるなら「国際的枠組」も排出権取引も必要なく、トンあたり50ドルの炭素税をかければよい。温暖化の被害が出てくるのは50年後なので、緊急度はもっとも低い。
だから温暖化対策を、開発援助のバラマキで行なうという発想そのものがナンセンスだ。必要なら、途上国も炭素税をかければいいだけの話である。それ以前に、1兆円以上の税金の使い道を、費用対効果も途上国の必要も考えないで、「温暖化対策のリーダーシップをとる」という国際的な体面のために使うという発想が、いかにも外務省らしい。しかも「温暖化翼賛体制」のメディアは、どこも批判しない。被害者は、納税者である。

追記:本書に関連するCopenhagen Consensusプロジェクトの内容は、公式サイトにある。
アメリカの大統領予備選は、ヒラリー・クリントンが土俵際で踏みとどまり、おもしろくなったが、特に民主党の演説でうんざりするのは"change"という言葉がやたらに出てくることだ。「変革」と訳しているメディアもあるが、これは小規模な改良も含む幅広い概念なので、「変化」と訳したほうがいい。

内田樹氏は、これを変革と訳して「私は変革には反対」で、必要なのは社会システムの断片(ピースミール)をとりあえず「ちゃんと機能している」状態に保持する「ピースミール工学」だといっているが、これはポパーの(誤った)受け売りだろう(*)。ポパーは『歴史主義の貧困』や『開かれた社会とその敵』で、社会主義のようなユートピア社会工学を批判し、ピースミール社会工学を提唱したが、彼はchangeを否定したわけではない。また社会工学という概念については、ハイエクが「設計主義の一種だ」と批判し、自生的秩序を提唱した。

内田氏は「『社会を一気によくしようとする』試みは必ず失敗する」と断定しているが、これも根拠がない。ハイエクは、議会制度の改革を提唱した。市場では限界原理のような漸進的な改良の積み重ねで最適化が可能だが、政治には制度変化が必要な場合があるからだ。そしてポパーやハイエクの影響を受けたサッチャーの「保守党」政権が、戦後のイギリスではもっとも「革命的」な変化を起こしたのは皮肉である。その結果、かつて「英国病」に苦しみ欧州の最貧国だったイギリスは、一人あたりGDPがG8諸国でアメリカに次いで第2位になった。

だから改良ですむ場合もあれば、変革が必要な場合もある。日本の政治は戦後60年以上、事実上の一党独裁が続き、変革も改良もしていないから、Dankogai氏もいうように、今は変革が必要なのだ。しかし民主党を見ていると、まともな変革ができそうにもない。それは彼らの能力の問題以前に、日本の選挙制度が欠陥だらけだからである。よく知られているのは1票の格差が最大5倍も開いていることだが、もっと重要な問題は、現在の選挙区が本質的な利害対立を反映していないことだ。

小選挙区はもちろん、比例代表もブロックという形で地域代表になっているが、これは利害が特定の地域で完結し、その中では均一だということを前提にしている。しかし交通機関やメディアの発達によって首都圏全域が一つのエリアになっているとき、小選挙区のような県議会より狭い単位の利害を代表することは「地元利益」への強いバイアスを生み、バラマキ政策をもたらす。これから政権を取ろうとする民主党に、そのバイアスが強いのは当然だ。

さらに深刻な問題は、一つの地域の中でも利害が均一ではないことだ。現在の日本経済で最大の対立は、払った以上の年金をもらい、天下りなどによって戦後の高度成長の果実を「食い逃げ」しようとする団塊以上の世代と、その逆に年金収支はマイナスになり、中高年の終身雇用を守る犠牲でフリーターになっている若い世代の世代間対立である。これは世論調査では明白だが、選挙結果には反映されない。おかげで若い世代が政治に絶望し、投票率が低くなるため、よけいに老年・農村の利益が選挙結果に反映される・・・という悪循環になる。

これを打開する方法として、井堀利宏氏が提唱しているのが、年齢別選挙区だ。たとえば30代までの有権者を青年区、40~50代を中年区、60代以上を老年区とし、地域と年齢の2次元の指標で選挙区を構成するのだ。これだと多くの青年層が棄権しても、青年区の定数が青年有権者の人口に対応しているので、青年世代の利害を代表する政治家が選出される。今は変革のときである。

(*)重箱モードでいっておくと、piecemealは「断片的な」という意味の形容詞。「断片」はpieceである。
総務省では「通信・放送の総合的な法体系に関する研究会」を組織し、通信法制と放送法制の統合について研究を深めてきました。この新しい法体系によって通信と放送の融合が促進されるかどうかについては、世の中には賛否両方の意見が存在します。

情報通信政策フォーラム(ICPF)では月次セミナーでこの新しい法体系について議論を深めていくことにし、07年10月には「研究会」事務局を担当された総務省の鈴木茂樹課長を、11月にはTBSメディア総合研究所の前川英樹社長をお招きし、それぞれのお考えを伺いました。今回は連続セミナーの第3回目として、ソフトバンクBBの筒井多圭志取締役にお話をしていただくことになりました。

スピーカー:筒井多圭志氏(ソフトバンクBB取締役CTO)

モデレーター:山田肇(ICPF事務局長・東洋大学教授)

日時:1月31日(木)18:30~20:30

場所:東洋大学・白山校舎・5号館5201教室
    東京都文京区白山5-28-20(キャンパスマップ) 

入場料:2000円 ※ICPF会員は無料(会場で入会できます)

申し込みはinfo@icpf.jpまで、氏名・所属を明記してe-mailをお送り下さい。
2008年01月08日 15:33
IT

東芝のチャンス

ワーナーがHD DVD(東芝)による映画の販売を打ち切り、ブルーレイ(ソニー・松下など)だけに絞ったことで、次世代DVDをめぐる標準化競争は勝負がついた。すでに日本では市場の9割以上、アメリカでも7割はブルーレイだ。勝者は誰かって? もちろん東芝だ。

もともと次世代DVDなんて、筋の悪い技術だ。私の6万円のPCでも160GBのハードディスクがついているのに、なんでたかだか50GBぐらいのDVDドライブに10万円も出さなきゃいけないのか。ディスクを買いに行かなくても、インターネットで映画もダウンロードできる。音楽と違って、映像は何回も見ることがあまりないので、ストリーミングでも十分だ。もうDVDというものが過去の技術なのだ。

WSJも、今回のブルーレイの「勝利」がソニーの経営にとってプラスになるかどうかは、まだわからないと書いている。次世代DVDは「過渡的な技術」であり、そのうちUSBフラッシュメモリに、そして最終的にはインターネットに取って代わられるだろう。CDの寿命は25年だが、DVDは10年、そして次世代DVDは、たかだかあと5年ぐらいの寿命だろう。こういう先の見えた市場に、コンテンツが出てくるかどうかもわからない。

それでも、ソニーはブルーレイを出し続けるだろう。かつてベータマックスのテープが世の中から消えても、再生機を製造し続けたように。不幸なことに、彼らは映画部門をもっているので、ディスクからも撤退できない。他方、松下はグーグルと組んでネットTVを開発する。戦いは、もう「次世代の次」に移っているのだ。

東芝は、今回の「敗北」を機に次世代DVDから撤退し、IPTVに経営資源を集中したほうがいい。松下がグーグルなら、東芝はヤフーと提携してはどうか。1980年代のアメリカでは、無意味に多角化したコングロマリットが、LBOによって解体・売却された。洗濯機からDVDまでつくる日本の「総合電機メーカー」も、時代遅れのコングロマリットである。これは「選択と集中」のチャンスなのだ。

追記:FTによれば、パラマウントもHD DVDをやめるようだ。これで完全にゲームは終わりだろう。
2008年01月07日 22:31
法/政治

オバマの謎

アメリカの大統領予備選は、いつのまにかオバマがトップランナーになったようだ。ネット賭博のオッズも、ヒラリーの34に対して、オバマが63と大差がついている(22時現在)。しかし彼のどこがいいのか、正直いってよくわからない。あのブッシュを選んだ国民が、黒人を大統領に選ぶだろうか。

そこで、アイオワでの勝利演説を聞いてみた。「変化」「希望」「国を一つに」というキャッチフレーズを繰り返すばかりで中身はほとんどないが、演説の呼吸みたいなものは心得ている感じだ。ニューハンプシャーの討論会でもオバマが優勢で、ヒラリーは司会者に「世論調査では、あなたは経験豊かだが好感度で劣る」といわれて「傷つくわ」と答えている。

まぁ選挙ってそんなもんだろう。政策の中身よりイメージで決まるのは、どこの国でも同じだ。レッシグも、とにかく変化が大事だという立場らしい。他方、経済学者のコメントは醒めていて、マンキューの感想は「地球温暖化対策については全候補者が排出権取引を支持している(経済学がわかってない)が、一番ましなのがオバマで最悪がヒラリー」。

そこで私は、彼の公式サイトでテクノロジー政策をみてみたが、中身は「ネット中立性」とか「メディア集中排除」とか介入主義的なにおいが強く、「知的財産権の強化」も訴えており、変化はあまり感じられない。経済政策をみても、「フェア・トレード」とか最低賃金を上げろとか、伝統的な民主党の路線だ。

意外に大きいのは、今度ヒラリーが選ばれると、ブッシュ家とクリントン家が交代で最大28年間も大統領をやる、という「ブッシュ=クリントン王朝」批判ではないか。これは変化のイメージとはほど遠い。もしかすると、オバマは消去法で選ばれたのかもしれない。
社民党のコメントなんて、ふだんは誰も読まないだろうが、昨年末に出された独立行政法人の整理合理化についての書記長談話は、いいポイントをついている。「これだけ消費者問題や偽装が騒がれている中、国民生活センターについては、行革の観点だけがクローズアップされ、廃止・統合が議論されるのはおかしい」として、逆に各省庁に分散している消費者行政機能を統合した「消費者庁」の創設を求めたのだ。

今年の年頭に出された首相談話では、さっそく首相がこれに乗った。自民党内には「行革に逆行する」との声もあるようだが、これは逆である。今の「経済産業省」「農林水産省」などと産業別にわかれている官庁を解体・再編し、消費者省に統合すればいいのだ。市場経済の原則は消費者主権だから、これはもっとも重要な官庁である。

日本の官庁は、産業を振興することを目的とし、供給側の立場で政策を立案してきた。これは生産を増やして先進国に追いつくことが目標だった時代にはそれなりに意味があったが、そういう時代は終わった。いまだに官庁が業界ごとに縦割りになり、政策が「業法」として立案されるため、文化庁のように供給側の都合だけを考えて政策を出す傾向が強い。いま必要なのは、規制改革によって競争を促進し、消費者の利益を最大化する政策である。

1997年の橋本行革の初期にも、これに似た発想はあり、当時の行政改革会議の議事録には「発展途上国型の産業振興を、市場原理を中心に据えた経済運営に転換した行政を行う省として、経済省を設置する」と書かれている。ところが、この「経済省」構想は挫折して、通産省の看板をかけ替えただけに終わり、経産省はあいかわらず「発展途上国型の産業振興政策」を続けている。

民主党は、農業補助金や児童手当などの下らないバラマキ政策を掲げるより、産業中心の行政から消費者中心の行政への転換を掲げて総選挙を闘ってはどうだろうか。具体的には、現在の産業別に所管がわかれた各省の設置法を消費者を主語にして書き換えるとともに、たとえば経産省と農水省を公取委に吸収して消費者省を創設するのだ。ついでに総務省の情報通信部門と文化庁の著作権課もこれに吸収すれば、情報通信行政の一元化もはかれる。社民党とも共闘できるし、自民党も反対しにくいだろう。
2008年01月05日 20:55
IT

中国は「自由の国」になるか

今年は、中国がいろいろな意味で注目されるだろう。もちろん最大のトピックはオリンピックだが、ITでもアジアのトップランナーになる可能性がある。その行方を占うのが、昨年末に出た検索エンジンについての二つの著作権訴訟の判決だ。12月21日に出た ヤフーチャイナについての判決ではヤフーが負けたが、31日に出た百度(Baidu)についての判決ではBaiduが勝訴した。

どっちの事件も音楽業界が訴えた理由は同じで、.mp3という拡張子のファイルを検索するサービスを提供していることが著作権法違反だというのだ。しかし、たとえばグーグルでも"imagine.mp3"で検索すれば4万以上のMP3ファイルが出てくる。他方、Baiduは.docや.pdfなどの拡張子で検索するサービスも提供しているが、こっちは著作権侵害にはならないのだろうか?

・・・と考えればわかるように、著作権法を厳密に適用すれば、すべての検索エンジンばかりか、インターネットの利用を全面的に禁止しなければならない。これは日本でも同じで、現在の著作権法(無方式主義)では、すべての文書に著作権が自動的に付与されるので、他人のファイルを複製(ダウンロード)することはすべて違法行為になる。これでは不便なので、著作権法の第30条では「私的使用」に限って複製が認められている。しかし、これさえ制限しようというのが、今度の文化庁の改正案だ。

他方、Baiduが中国でグーグルをしのぐ人気を集めている最大のセールスポイントは、このMP3検索機能だ。BaiduはNASDAQに上場し、その株価上位100企業に入っている。時価総額は126億ドル。NECを上回り、富士通とほとんど同じだ。これによってCDの売り上げが減ったと音楽業界は主張しているが、中国に行ってみればわかるように、正規のCDは売っているのを見つけるのに困るほどだ。アジア全域で売られている海賊盤の半分以上が、中国で製造されているともいわれる。マルクスは未来社会を、私有財産が廃止されて人々が資本主義の法則から解放される「自由の国」として描いたが、著作権に関するかぎり、中国は世界でもっとも自由な国なのだ。

Baiduのユーザーと株主が、そのサービスで大きな利益を得ていることは明白だが、それによって音楽業界のこうむっている損害はよくわからない。特に重要なのは、所得分配に及ぼす効果だ。中国の最貧層(1日の所得が1ドル以下)は、まだ3億人近くいると推定される。彼らにとっては、CD1枚の価格は1週間分の賃金を上回り、とても正規の市場で買える商品ではない。しかし彼らが海賊盤やMP3ファイルで音楽を知れば、音楽の市場は確実に広がり、さらにはその中からミュージシャンが出てくるかもしれない。

ただ中国がWTOに加入して以来、「知的財産権」を守れと主張する先進国の圧力も強い。今回、裁判所の判断(それは中国共産党の方針を反映している)がわかれたのも、こうした外圧にどう対応するか、判断がわかれているためだろう。この大規模な社会実験がどっちに向かうかは興味深い。従来の開発経済学の常識では、財産権を確立することが経済発展の必要条件だとされているが、中国や韓国でコンテンツが自由に流通することでブロードバンドが急速に普及している状況をみると、情報については違うかもしれない。

「反グローバリズム」の類の議論のほとんどはナンセンスだが、知的財産権に関しては、欧米型モデルはルールとしての整合性さえ破綻しており、中国の13億人に自然な規範として受け入れられるとは思えない。日本がアメリカよりも極端な「不自由の国」に退行しようとしているのをみると、Baiduを先頭とするアジア型モデルが、情報をオープンに共有して収益を上げる新しいシステムを開拓し、日本を追い抜くかもしれない。

追記:中国の音楽事情については、The Registerの記事がくわしい。
当ブログの記事には、多いときは100以上のコメントがつくので、ほとんど読んでないのだが、中には管理人が読んでないうちに本文から脱線して掲示板みたいになっているスレがある。12/29の記事のコメント欄では、ちょっとおもしろい論争が行なわれているので紹介しておく。たぶんきっかけは
制限ではなく許可が良い (就職氷河期っ子) 2007-12-31 16:40:32
セキュリティエンジニアリングでは、何を制限するのかではなく、何を許可するかを考えます。これは必要最低限の権限しか与えない事により、起こりうる災害を減らすのと同時に、犯罪経路を狭めるためです。
ですから、日本の経済を発展させるためには、何でも官僚にまかすのではなく、何を任せるのか明確に定義し、何かを制限するのではなく、何を許可するのかという点に着目すればよいと私は思います。
というコメントだと思うが、この「制限するのではなく許可する」という話を一般社会に適用すると困る。「~してよい」というポジティブ・リスト方式は、セキュリティ管理などの手間を省くのにはいいが、ユーザーの自由度は最低になる。私のマシンもVistaに替えてから、ちょっとしたプログラムを実行するたびに「許可するか?」という警告が出て面倒だ。これがまさに「コンプライアンス不況」で全国的に起こっていることである。

これに対してハイエクは、自由とは「強制されない」という消極的概念であり、法は本質的に自由を侵害するものだから、自由な社会のルールは最小限度の「~してはいけない」というネガティブ・リストでなければならないと論じた。これだと「法で禁止されていないことは何でもやっていい」ということになるので、管理者の手間は増えるが、民間の自由度は上がる。これがコモンローの標準的な考え方である。

そういう消極的自由だけでは不十分であり、「~できる」という積極的自由が必要だ、と考えるのが大陸系(特にドイツ)の発想だ。何かをするには、そのための手段(富)が必要であり、それを平等に分配しないかぎり、労働者には「飢える自由」があるだけだ、とマルクスは論じた。これは「自由とは必然の認識である」というヘーゲルの歴史観から来ており、カール・シュミットは「人々がドイツの運命に服従することで民族として最大の自由を得る」というレトリックでナチを擁護した。

だから積極的自由とか「許可する」というのは筋のよくない話だが、就職氷河期っ子さんのコメントは目的語を「官僚」にしているから、これはこれで成り立つ。というか、法律の建て前はそうなっているのだ。官庁の権限は、設置法で「~してよい」と定めるポジティブ・リスト方式なのだが、そこに列挙された権限が非常に包括的なので、ほとんど何でもできる結果になっている。『日本の統治構造』にも書かれているように、日本の政府は「天皇の官吏」がすべてを取り仕切る明治憲法以来の「官僚内閣制」なので、議会のコントロールもきかない。

こうした官僚独裁を改めるには、国民の考え方も変えなければならない。昔から日本人は「お上が許可しないことはやってはいけない」と考えがちだ。検索エンジンが日本に置けないというのも、著作権法にそう書いてあるわけではなく、30条の制限事由(ポジティブ・リスト)にないからだめだろう、と解釈しているだけだ。おかげで著作権法の制定当時になかった複製技術は、すべて自動的に違法になってしまう。これは逆で、本来は著作権法そのものが表現の自由を侵害する危険な法律なのだから、禁止行為を最小限の具体的なネガティブ・リストとして列挙し、そこに書いてないことは自由とすべきだ。

今年は、何をすべきかを役所が積極的に決める「ポジティブ・シンキング」を改め、役所が法律で禁じないかぎり何をやるのも自由だという「ネガティブ・シンキング」に転換してはどうだろうか。
2008年01月03日 20:46
法/政治

自由な社会のルール

今年の動きとして、企業の財務・IT担当者にとって頭が痛いのは、金融商品取引法(通称J-SOX法)が来年3月期決算から適用されることだろう。担当者の話を聞くと、その負担は相当なもので、コンプライアンス不況が深刻化するおそれが強い。

磯崎さんのブログでも、この話題にふれているが、彼のいう「一部の人が社会全体のことを考えて計画をする」か「各自が利己的に考えて行動する(『自由』が建前だが実態はルールでがんじがらめの)社会」かという二者択一はまちがっていると思う。前者がだめであることは明白だが、その補集合は後者ではないからだ。

本家のSOX法がもう改正される予定であることでも明らかなように、企業の行動を「がんじがらめのルール」でしばることは、コストがかかるばかりで効果はほとんどない。以前の記事でも書いたが、そもそもエンロン事件もワールドコム事件も、法の不備によって起こったわけではなく、違法行為をSECや監査法人が見逃しただけだ。日本のライブドアや村上ファンドの事件に至っては、法律の解釈問題にすぎない。

「各自が利己的に考えて行動」すると無政府状態になるから、法律でしばらなければだめだ、という発想をハイエクテシス(人工的秩序)と呼び、これに対して各自の意思によって進化的に形成される秩序をノモス(自生的秩序)と呼んだ。後者のうちもっとも重要なのは暗黙の社会的規範であり、それを裁判によって明文化したものが判例であり、それを立法化したものがコモンローである。

他方、日本のような大陸法型システムでは、立法によって細部まで規制し、その解釈は政省令で決め、処罰も行政処分で行なう。これは法技術的にも大変なので、コーディングの専門家である官僚がほとんどやり、政治家は事後的に(利権がらみの)注文をつけるだけということになりやすい。当ブログでも何度か書いたように、こうした実定法主義によって官僚に権力が集中し、行政が立法も司法も兼ねていることが、イノベーションを阻害し、日本経済を窒息させている最大の原因である。

そしてJ-SOX法の要求する内部統制の文書化は、こうした実定法主義の欠陥を企業に持ち込むものだ。企業内の手続きをすべて文書化するとなると、会計コストがふくらむだけでなく、機構改革やプロジェクトの変更にも余計な手間がかかり、改革はとどこおり、業務効率は確実に落ちる。アメリカのように、SOX法の適用を避けるためにIPOを見送ったり、本社を海外に移すといった行動が起こることも考えられる。自由な社会を守るためにはルールが必要だが、そのルールにも自由度が必要なのである。
2008年01月02日 15:49
科学/文化

科学者への質問

恒例のEdge誌の年頭の質問の今年のテーマは「何があなたの考えを変えた?」。たくさんの科学者から答が来ているが、おもしろいのをピックアップすると:

Freeman Dyson:日本に原爆を落としたことで戦争が終結したというのは嘘である。広島への原爆投下のニュースは、御前会議でほとんど議論されなかった。日本が降伏を決めたのは、8月9日にソ連が参戦した直後に召集された御前会議である。長崎への原爆投下のニュースが入ったのは、その決定後だった。

Nassim Taleb:確率と称するものを信用してはならない。社会生活で一意の確率が知られている事象は、カジノか宝くじぐらいしかない。高度な確率論でヘッジしたはずのサブプライムローンで、多くの銀行が莫大な損失を出した。地球温暖化の確率なるものは、もっとあやふやな占いみたいなものだが、地球は今のままにしておくべきだ。

Daniel Kahneman:幸福は金で測れない、というのは誤りである。「あなたは今の生活に満足か?」という問いに「はい」と答える人の比率は、所得水準にあまり依存しないといわれてきたが、126カ国の13万人を対象にした最近の調査では、GDPと満足度の相関は0.4以上あった。人々の生活でもっとも大事なのは、やはり物質的な富なのだ。
今年も年賀状は出さないので、ブログでごあいさつ。

1980年代、私がNHKにいたころ、「アメリカの衰退」とか「円が世界を買い漁る」といった類の番組をよく作ったものだ。日本の工業製品が世界を席捲し、アメリカでは「来年の暮らしは今年より悪くなる」という言葉が流行した。かつてシュペングラーが「西洋の没落」を論じたように、アメリカの没落も必然なのだと説くポール・ケネディの大著『大国の興亡』がベストセラーになった。

今の日本を見ていると、そのころのアメリカと似てきたような気がする。日経新聞の正月のトップ記事は「縮む日本」。円の実質為替レートはプラザ合意以来、最低になり、日本のGDPの世界経済に占めるシェアは9%と、ここ15年で半減した。このまま円安と低成長が続くと、2020年には一人当たりGDPがアメリカの半分になるという。かつて円高を国難のように騒いだことがあったが、本当に恐いのは通貨の価値が失われることなのだ。

しかしアメリカ経済はその後、立ち直った。古いコングロマリットはLBOによって解体され、最盛期に40万人を超えたIBMの社員は、90年代前半には20万人に半減したが、職を失ったエンジニアは西海岸へ行って起業した。かつて半導体産業が栄えて「シリコンバレー」と呼ばれた地域は、日本との競争に敗れて半導体産業が壊滅したが、インターネットの拠点として生まれ変わった。経済を立て直したのは政府の産業政策ではなく、「ハゲタカ」とののしられた投資銀行や「山師」とバカにされたベンチャー企業の、資本主義の精神だったのである。

だから日本の没落も、不可避の運命ではない。だが財界は「三角合併」に反対し、企業はこぞって「買収防衛策」を講じ、厚労省は「偽装請負」を摘発し、労組と組んで規制強化をはかっている。政治も、小泉政権のころには少し変化の兆しも見えたが、政権が代わると争点が「年金」や「格差」などの分配問題に移った。分配すべき母集団が縮小しているというのに・・・

日本経済の最大の問題は、このようにアジェンダ設定を誤っていることだ。まちがった問題をいくら考えても、正しい答は出てこない。今年は政権交代が起こるかもしれないが、民主党政権になったら、むしろ労組の影響力が強まってバラマキが悪化するおそれが強い。あまり明るい展望の見えない新年だが、個人的には経済学の勉強を(既存の学問体系にこだわらないで)やり直そうと思っている。


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