【松井秀喜世界一までの2486日】(7)
いつ見ても、松井秀喜の目が赤かった時期がある。
おそらく、何度となく眠れない夜を過ごしていたのだろう。メジャー1年目の2003年、5月下旬から6月にかけてのことだった。
そのころ、ニューヨークの新聞には、盛んに「ゴロキング」の見出しが躍っていた。私を含めた日本の報道陣も、巨人時代には見たこともない「どん底の松井秀喜」を目の前にして戸惑っていた。
「バーベキューでもやって落ち込んでいる松井を励まそう」
そんな声が上がったのは6月2日のデトロイトからシンシナティへの移動日だった。松井だけではなく、多くの報道陣も初めて訪れた都市だったが、バーベキューのできる丘の上の公園を見つけて、材料も買いそろえた。
今、振り返れば、記者としては想像できないほどの不調に苦しむゴジラを取材するのも貴重な経験だった。だが、読者は“ヒーロー原稿”をもっと欲しているはずだと感じていた。こんなことをきっかけに急に打ち出すわけもないだろうが、何かが変わってくれたら…。大の大人がみんなで落ち込む松井をもり立てようとした。
翌日はナイターという安心感もあってアルコールも進み、宴は一発芸大会に突入した。
芸のない私が、シンシナティの警察官の姿におびえながら披露した踊りには「粗末で汚いモノを見せられた」と気を悪くしたようだが、バーベキュー終了後は「あすからまた頑張ってみます」と全員の前であいさつした。公園に来たときよりは、軽い足取りでホテルに戻っていった。
気分転換の効果は3日後、6月5日のレッズ戦で表れた。打席でベースに半歩分ほど近づいた工夫と相まって、26試合、119打席ぶりの4号を含む4安打3打点と爆発した。この後もスランプを経験したが、あそこまでの暗さを表に出すことはなかった。
『リメンバー、シンシナティ』
不調に陥ったとき、これがゴジラの復活の呪文(じゅもん)になった。