「別に…、どうってことなさそうじゃないか」
そろそろ日が傾き始めた中、目の前に広がる平和そうな村の佇まいを見てネブラは拍子抜けしたように溜息をついた。
この国の国教である『教会』のシスターであるネブラは、この村に出たと言われている悪魔の存在を確かめに遠く『神都』から派遣されてきた。
ところが、そこで見たものはのんびりと流れている時間。山奥だから数こそ少ないものの活気溢れる人々。村中に広がる葡萄畑。
一体、この村のどこに悪魔がいるというのだろうか。
ていうか、本当に悪魔が出たのだろうかと疑いたくなる。
とりあえず出先の教会はどこかとネブラがあたりを見回していると、小脇に籠を抱えた少女が一人ネブラの下へと寄って来た。
その籠の中にはたわわに実った葡萄が山のように入っている。
「ねえシスター様、ぶどう買ってくれませんか?この村の名産品の、とってもおいしいぶどうですよ」
なるほど、確かに少女の持っている葡萄は粒も大きく色艶も鮮やかで見るからに美味しそうだ。さっきからよく目に入る葡萄畑からしても、この村は葡萄の生産に力を入れていることが分かる。
きっと、この葡萄も相当においしいものなのだろう。
だが、今のネブラには余計なものを買う余裕が全くなかった。ここに来るだけですでにお金は渇々の状態なのだ。
「ごめんなさいねお嬢ちゃん。あたし、ちょっと持ち合わせがなくてさ…」
「えぇ〜〜、こんなにおいしいんですよ。ひと房だけでいいですから買っていただけませんでしょうか…」
ネブラが両手を合わせて少女に謝ると、少女はとても悲しそうな顔をして葡萄を一粒口にしながらネブラを見つめてきた。
その顔を見るとムリしてでも買ってあげようかと親切心が疼きだす。
ネブラは少々口は悪いが、これでも神に仕える教会のシスターだ。困っている者を見れば、助けてあげたいという気持ちに駆られてしまうのは自然のことだ。
「う〜〜ん。じゃあひと房の半分だけもらうわ。それならなんとかお金も持つし」
「わぁっ、ありがとうございます!じゃあ銅貨3枚ですね」
相当にケチった交渉だが少女は葡萄が売れたことで顔を輝かせ、ハサミで葡萄を半分に切ると紙に包んでネブラに渡した。
ネブラは苦笑しながら紙包を受け取ると、思い出したかのように指を弾いて少女に尋ねた。
「ああそうだお嬢ちゃん。この村の教会がどこにあるか、教えてくれねえ…もとい、ないかな…」
☆
人が織り成す王国の首都である『神都』、そこの国教である『教会』の大聖堂に『悪魔を見た』という報告が寄せられた。
それは、報告を寄越した村から少し山に入った寒村から夜中にやってきた青年が村に悪魔が現れたと言い残した後、突然喉を掻き毟って死んでしまったとのことだった。
その死に様に気味悪がった村人達は山の村に行って確かめるよりこちらに話を寄越してきたらしい。
ちなみに、その山の村へは普通に歩いて三時間ほど、神都には馬車を使って五日間の距離だ。どう考えてもその目で確かめに行った方が早い。
それなのにこっちに話を持ってきたと言うことは、それだけ事が不気味ということだろう。もし本当に悪魔がいたら自分たちではどうにもならない。
ならば、偉大な神の力を借りた方が得策と考えるのは至極当然だ。
ところが、『教会』の上層部ではこの話を誰も本気にはしなかった。
なぜなら、教会にとって悪魔などというのは信仰を広めるための方便のようなものであり、何も知らない愚民を脅え恐れさせ、信仰に目覚めるきっかけをつくるものでしかないのだ。
もっと言ってしまえば、自分たちが信仰する神すら本当にいるなどと思ってはいない。自分たちの中で実際に神を見た人間はいないし、見る方法も知らないのだ。
むしろ神が本当にいたら困る。神がでしゃばってきたら自分たちの都合のよいように信徒達が動かせなくなるではないか。
神も悪魔もあくまでも偶像であり、道具でしかないのだ。
もちろん、こういうことを知っているのは教会でも上のほうだけであり、末端の神父や尼僧などには教えてもいないし教える必要もない。
余計な知識をつけた人間は余計なことを考え出す。そして、余計な考えはしばしば危険な考えとなって組織を脅かすものになるからだ。
だから、いくら悪魔を見たといわれても鼻で笑うしかない。なにしろそんなものはこの世にいはしないのだから。
とはいえ、信徒からの報告をまったく無視するのもまずい。いくら何もない僻地の寒村のこととはいえ、大事な金づるを邪険に扱ったらあとでどんなしっぺ返しがくるか分からない。
そこで教会は、丁度数日前に教会内で信徒を殴り飛ばして謹慎を受けていたネブラに噂の真実を確かめさせるために山村に派遣する事を命じた。
「ざけんな」
閉じ込められた一室で教会からの命令書を受け取ったネブラは、そう言うなりベッドにぼすんと寝転がった。
なにしろ歩きで二週間、馬車を使っても五日はかかる果ての地に行けというのだ。しかも、与えられたお金ではそこに行くまでの運賃すら賄えないときている。
つまりは歩いていけ、と言われているようなものだ。
まあわかってはいる。これは一種の厄介払いなのだ。神聖な教会の中で、よりにもよって信者の顔に拳骨をめり込ませたのだから。
「だからってさぁ、元々はむこうがあたしの尻触ってきたのが原因だろうが…。すこしはこっちの言い分も聞いてくれっての」
ネブラは長身痩躯でスタイルがよく顔の造詣の抜群で、修道服を着込んでも体のラインが微妙に浮き出てくるので、お参りにくる一見の信者からはしばしばセクハラまがいのことをされることがあった。
これが普通のシスターだったら、信徒の前では表向きは平静を装ったであろう。
ところが、ネブラは相当に気が短く男っぽい性格をしていた。
元々家の中より外で遊ぶのが大好きで、小さい頃は女同士よりむしろ男とつるんで外で転げまわっていたのだ。
そんな娘の将来を危惧した両親が、ネブラが12歳の誕生日を過ぎた後に教会に放り込んだのだが、その男勝りな性格は矯正するどころかますます度を増していっていた。
そんなネブラなので、そういった輩には容赦せずに拳や膝を見舞ってきた。
それでもいつもなら大目玉ぐらいですむのだが、今回は間の悪いことに教会のパトロンの一人だったのだ。
哀れそのパトロンは前歯8本を根こそぎ折られ、完全に白目を向いた状態で病院へと直行されてしまった。
これはさすがに教会も怒るだけでは済まず、ネブラを謹慎処分にして教会の個室に閉じ込めてしまった。
その中で3日間、苛立ちながら過ごして来た中での今回の命令。
調査とは書かれているが期間も何も設定されておらず、要するに勝手に行って来いと言われているのと同じだ。
「ちぇっ、つまらない仕事押し付けられちゃったな…」
せめて本当に悪魔でもいてくれればいいと思う。そうすれば悪魔をぶっ飛ばしてこの溜まりに溜まった憂さを晴らすことも出来るのではないだろうか。
「仕方がねぇ。いまさらグダグダいっても始まらないし」
ネブラはぶすっと頬を膨らませながらも、そこいらにある自分の下着や日用品をトランクに詰めとっとと教会を後にしていた。
面倒くさいが、狭い部屋の中で悶々としているよりはよっぽどましだろう。
葡萄売りの少女に教えてもらった教会の場所は、村の中心地から少しだけ外れたところだった。
行けばすぐにわかるといわれたので、ネブラは辺りを様子見しながらぷらぷらと進んでいった。
「…気持ちのいい村だな」
ネブラがすれ違う人々の全てが活気に満ち、朗らかな顔をしている。
神都などでは最近は治安の悪化や浮浪者の増加など暗い話題が増えてきて気が重くなることがままあるのだが、この村ではそういった負の部分がまるで感じられない。
村全体が希望に満ち溢れ眩しいくらいだ。
しかしこうして歩いていると、この村の葡萄畑の多さが実に目に付く。まるで、葡萄畑の中に村が出来ているみたいだ。
ちょうど葡萄の収穫期ではあるのだが、広い葡萄畑に濃い紫色をした大粒の葡萄が重そうに垂れ、それを畑主がせっせと摘んでいっている。
そしてこの規模の大きさから考えて、これはぶどう酒を作るための畑なのだろう。これだけ豊作ならばきっと出来のいいぶどう酒がたくさん作れる。
村の人間の顔が晴れ晴れとしているのも納得がいく。
これだけの収穫があれば村の経済にどれだけ貢献するか計り知れない。豊かに実った葡萄はこの村の繁栄の証なのだ。
「…っと、忘れてた忘れてた」
この豊かな葡萄畑を見て、ネブラはさっき買った葡萄のことを思い出した。
どうせ教会までにはもうすこし歩かなければならない。つく頃までには全部食べきれるだろう。
ネブラは紙包みを取り出し、中に入っている葡萄を一粒つまみ出すと、皮もむかずにそのままポイと口に入れた。
少し弾力のある皮をぷちりと噛み千切ると、少し酸味の利いた甘い果汁が口いっぱいに溢れてくる。
「…なるほど、こりゃうまい」
少女がしきりに進めたのもわかる。これほどおいしい葡萄は今まで食べたことがない。
これなら少し無理をして一房買えばよかったかなとネブラは少し後悔しながら、葡萄の実を房からどんどん千切って頬張っていった。
「たまらねぇな。こいつは…もぐもぐ」
結局、教会が目に入ってきた頃にはネブラの持っている紙袋の中には葡萄の房しか残っていなかった。
「これはこれは、神都の教会のお方ですね」
ネブラが教会のドアをゴンゴンと叩いて出てきたのは、牧歌的な村によくお似合いののほほんとした佇まいを見せるシスターだった。
「私、クルと申します。申し訳ありませんが、神父様は御病気になられて臥せっておられるので用事は私が取り付くことになっております。
まあ、とりあえずは上がって旅のお疲れをお取りになってください。こちらにどうぞ…」
クルと名乗ったシスターはネブラを部屋の奥へと案内すると、熱いお茶とお茶請けのお菓子を出してきた。
「さあどうぞ。こんな小さな教会ですのでこんなものしか出せませんが」
「ああ全然かまいやしね…もとい、お構いなく…」
つい気が緩むと出てしまう『地』をどうにか堪えながら、ネブラは出されたお茶を腰に手を当てながらグイッと一気に飲み干した。
これでは猫を被っている意味はない。
目の前の女性がどういう性格か大体読めてしまったクルは、噴き出すのを必死で押さえながら空になったコップにお茶を継ぎ足していった。
「それで、ネブラ様はどういったご用件で…?」
「ん?ええ、実は…」
片手でお茶請けを頬張りながら、ネブラはここに来ることになった事情をつらつらと語った。
もちろん、自分が選ばれた理由は伏せている。
「まあ…、この村に悪魔が?そんなこと私、初耳です!」
クルは心底驚いたという顔をしてネブラを見つめてきた。その顔にはたちまち脅えの色が浮かび、かたかたと小刻みに震えながら手元の十字架をギュッ握り締めている。
「どどど、どうしましょう。もし悪魔がその邪悪な牙をむいてきたら、もうこの村はおしまいです!
ああ神様、この村をお救いくださいませ……!」
「ち、ちょい待ち!ちょっと待った!!
なんでいきなりそんなにびびるんだっての!少しは落ち着けって!」
クルのあまりの脅えようにネブラは一瞬あっけにとられ、慌てて震える手を握り締め大声でクルに呼びかけた。
「あんたはこの村に出た悪魔ってのを見たことがないんだろ?だったら、悪魔を見たっていう話のほうがデタラメなんだよ!
悪魔が本当に出ていたら、今頃この村は大騒ぎだ!」
「……言われてみれば、そうですね」
自分が早とちりをしていたと気づいたのか、脅えて真っ青になっていたクルの顔色は見る見るうちに血の気が戻り、今度は自分の取り乱しようを見られたことで真っ赤になっていった。
「あ、あら……申し訳ありません……。私、お恥ずかしい姿を見せてしまって……」
よほど恥ずかしかったのか、クルは両手で真っ赤になった顔を隠し軽く俯いてしまった。もしかしたら頭のてっぺんからは茹った湯気が出ていたかもしれない。
「私、お化けとか悪魔とか怖いものが全然ダメで…。昔から話を聞くだけで気が動転してしまいまして…」
「わかった。わかったからもう顔を上げな。人間誰だって苦手なものの一つや二つあるっての。
むしろ女らしくていいじゃねぇか。あたしなんかそんなもんなんかひとつたりとも……」
恥ずかしさから今にも消えそうな細い声でぽそぽそと喋るクルを励ますつもりで、ネブラはパンパンとクルの肩を叩きながら軽口を叩いたが、そのため知らず知らずのうちにあまりにも神に仕えるシスターには相応しくない自身の『地』が思いっきり出てしまっていた。
「ゲ!」
自身の性格を知っているものならいざ知らず、ネブラは外見は一応シスターである。無用な混乱、トラブルを避けるためにネブラは外では『一応』貞淑なシスターを装うことにしていた。まさかシスター姿で大立ち回りをする訳にはいかない。
そのため出来る限り『地』を出さない努力をしてはきたのだが、つい気が動転してしまいそれを怠ってしまった。
「い、いやその……、わ、私が言いたいのは女の子らしくて可愛いじゃねえか……あわわ!!」
「………〜〜〜〜!」
ネブラは慌ててその場を取り繕うとするが、気が動転しているからか全然うまくいかない。
しどろもどろしているネブラに対し、クルのほうは先ほどからずっと顔を抱えて蹲っているが、よく見るとその肩が小刻みに震えている。
それは決して先ほどからの恐れから来るものではない。笑いを何とか堪えている震えだ。
「だ、だからあた、いや私はあのその……ああ〜〜なに言えばいいんだちくしょぉ…じゃなくて!」
「〜〜も、もういいです!そんなに慌てなくても結構です!
これ以上されたら私、もう辛抱できませ……!」
顔を抑えていた手を口に当てて噴出しかけているクルを見て、今度はネブラが顔を真っ赤にしてしまった。自分の酷く不様な姿を目の前で見られた恥ずかしさ。先ほどクルが味わったものを今度はネブラが味わう番だった。
「う、うふ!あはは!!す、すみません……!で、でもありがとうございます……!
ネ、ネブラさんが私をなんとか励まそうとしている気持ち、確かに受け取りました…!
お優しい方ですのねネブラさんは……あははは…」
「あ、あぁ……。どうも……」
とうとう我慢しきれなくなって笑い転げるクルを見て、ネブラは恥ずかしさを感じると共にクルが元気になったことへの安堵の気持ちも感じていた。
ただ、その中でクルが発した『優しい方』という自分への賛辞に軽い戸惑いも覚えていた。
ネブラの周りの評価は『乱暴者』の一言で片がつけられていた。確かに平気で信徒に手を出し、淑女には程遠い男言葉で日常を過ごす自分は協会のほかの人間から見れば乱暴者と称されても仕方がないし、自分はそういうものだと自らレッテルを貼っていた。
そんな自分に彼女は『優しい』という評価を送ってくれた。
「ま、まぁ…あんたが元気になってくれてよかったよ……」
ネブラの真っ赤になった顔は相変わらずなのだが、先ほどの逃げ出したくなるような恥ずかしさは影を潜め、まんざらでもない様子でネブラは照れくさそうに頬をこりこりと掻いていた。
「どうやら悪魔が出たというのもガセだったみたいだし、ちょっと物足りないけれどこれでお役御免か」
はっきり言って、これ以上この村のどこを探そうとも悪魔が出てくるとは思えない。むしろ平和すぎて悪魔のほうが避けてしまうのではないかとすら感じてしまう。
こんな報告をして上のほうがどんな顔をするのかはわからないが、向こうだって悪魔がいたというよりはいない報告のほうがいいにきまっているだろう。
ただ問題は、このまま帰ったらまた謹慎生活に逆戻りする羽目になるかもしれないことだ。それだけはなんとしても避けたい。
「あら、もっとゆっくりなさっていってもいいではないですか。ここはのんびりしていいところですよ」
クルは少し残念そうな顔をしてネブラに逗留を進めてきている。確かにここにいればいい骨休めになるだろうし、謹慎の手から逃れることも出来る。
それにもともと期限を設定されていない任務だ。ここに暫くいたからといって咎められることもない。
だが、ネブラは乱暴者ではあったが怠け者ではなかった。むしろ、怠け者でないからこそ周りの不真面目な態度が許せなかったのだろう。
「いや、やっぱ帰るわ。一応仕事だし、悪魔もぶっ飛ばせないんじゃここにいる意味もないしな」
「そうですか…。じゃあせめて今夜一晩はごゆっくりなさってください。
なにもありませんが、精一杯のおもてなしをさせていただきます」
もう空は夜の帳が降りて来ており、今からここを出るわけにも行かない。
「そうかい。でもあまり気を回しすぎないでくれよ。慣れていないからなんかくすぐったくなっちまうわ」
「うふふっ、ご遠慮なさらずに。では少々お待ちください。夕ご飯の用意をしてまいりますので」
パンと手を叩いてからパタパタと部屋を出て行くクルを、ネブラは微笑みながら見送っていった。
こう言った雰囲気も悪くない。そんな気分だった。
暫くして食道に案内されたネブラの前に出されたのは、チーズを乗せた黒パンに豆のスープという慎ましやかなものだった。
おかわりはあるようで、パン籠と蓋が閉まった小鍋がテーブルの端に置かれている。
まあ、教会という場所である以上過度な贅沢が許されるはずもないし、大抵の教会は財政的に潤っていないので食費に回るお金は多くないからこんなものであろう。
ちなみに食堂にいるのはネブラとクルの二人だけだ。神父はやはり起き上がっては来られないらしく、先にクルが食事を用意して神父が臥せっている部屋においてきたとの事だ。
まあネブラとしてもこの献立は予想の範囲内だし、別に食べられればなんでもいいという人間なので出された料理に不満はない。
むしろネブラの歓心を引いていたのは、テーブルの真ん中にちょんと置かれた水差しに並々と注がれているぶどう酒だった。
「これって…、ここの村のぶどうのぶどう酒…だよな?」
ここに来るまでに一つまみした美味しいぶどう。あれで作られたぶどう酒ならどれほどの美味しさになるのか想像もつかない。
「はいもちろん。ここの出来立てのぶどう酒ですよ。黒パンとも抜群に合いますからどうぞ一杯」
クルが丁寧な手つきでネブラのカップにぶどう酒をとぽとぽと注いでいった。発酵したぶどうが発するつんとしたいい香りがネブラの鼻をくすぐってくる。
「じ、じゃあ遠慮なく…!」
もはや香りを楽しむ、深く味わうといった余裕など持てず、ネブラはカップの中のぶどう酒を一気に喉に通した。
少しきつめのアルコールが喉を焼き、渋みのある味が舌をピリピリと刺激してくる。
その味は思ったとおり、ネブラが今まで飲んだどのぶどう酒よりも上回るものだった。
「………こりゃうまいわ!」
ネブラは空になったカップをかたんとテーブルに置き、まだ口の中にぶどう酒の味が残ったままで黒パンをひと齧りした。
すると、クルが言ったとおりぶどう酒の渋みが黒パンの甘さをさらに引き出し、チーズの味にはしっかりとした輪郭を描いてきた。
「あははっ!たまらねえ!!うめえうめえ!」
ただの黒パンと豆スープが極上の御馳走の味わいに感じられ、堪らなく幸せな気分になってくる。食事で幸福な気分になれたことなど、かつて一度もない経験だった。
「うふふっ、いい食べっぷりですねネブラさん。さ、もう一杯どうぞ」
「あ、済まないな!」
クルは自分の料理には手もつけずにネブラのカップにどんどんぶどう酒を注ぎ、ネブラも注がれるたびにグイグイとあおっていった。
ぶどう酒の効果で食が進み、既にネブラのお皿は何もなくなっていたが、水差しのぶどう酒は一向になくなる気配を見せず次から次にネブラの胃の中へと消えていった。
すでにネブラがカップで飲み干した量は水差しの容積を大幅に上回っている。どう考えてもこれはおかしい。
が、アルコールが頭に回ってしまっているネブラはそんなことに思いは行かない。
もっとも、変に思ったとしてももう手遅れだった。
ネブラはぶどう酒の味にすっかりと魅せられ、出されたぶどう酒を拒むことなどすでに考えられなくなっていた。
「あぁ…本当にうまいなこのぶどう酒は……。いくら飲んでも飲み足りない気分だぁ……」
すっかりほろ酔い気分のネブラは焦点の合わない目をカップを満たしたぶどう酒に向け、喜色に目を細めてからグーッと飲み干し、ほぅっと桃色の溜息をついた。
「ふわぁ……しあわせぇ……」
こしてぶどう酒を飲み続けていると、なんだか今まで自分のしていたことが全てバカバカしく思えてくる。
悩み、苦しみ、怒り、妬み、喜び
そんなもの全てが億劫に感じ、ただただずっとこのぶどう酒を飲み続けていたい気分にすらなってきている。
「うふふ、ネブラさんったらよっぽどこのぶどう酒がお気に召したのですね」
「ああ……。気にいったぁ……。気に入ったともぉ……こりゃやめられねぇよぉぉ……
だからぁ……くれよぉ……。もっと、それくれよぉ………」
とうとうカップに注ぐのすら面倒くさくなったのか、ネブラは水差しの取っ手を掴むと、そのままゴボゴボと口に流し込み始めた。
ネブラはとうとうと流れ落ちてくるぶどう酒を浴びるように飲み干していくが、とても収まりきらず口元からだらだらと流れ落ち、修道服は見る見るうちにぶどう酒で濡れ床にパタリ、パタリと紫の染みを落としていった。
「あはっ、あはっ!おいひい!もっほ、ガボッ!ほひい!のみはい!ゲフゥ!もっほ、もっほぉぉ!!」
いくら飲んでも尽きることのないぶどう酒に、ネブラはむせ返りながらも飲み続けるのを辞めず、下腹は収まったぶどう酒で妊婦のようにぼっこりと膨らみ、全身からぶどう酒のいい香りが漂い始めてきていた。
「のむ、のむぅ……へひ、ひぃぃ……」
そして、遂に限界に達したのかネブラの手から水差しがガチャリと音を立てて落ちたかと思うと、ネブラはそのまま上半身がガクンと崩れテーブルの上に突っ伏してしまった。
倒れた水差しからは、相変わらず尽きることのないぶどう酒がドボドボと溢れ出して突っ伏したネブラの顔を冷たく濡らしており、
ネブラは虚ろな笑みを浮かべたまま舌をぺチャリ、ぺチャリと動かしてこぼれたぶどう酒を舐め取っていた。
「あぁ、勿体無いですよネブラさん。せっかくのぶどう酒をこんなにこぼして……
せっかく『搾りたて』の新鮮なぶどう酒を用意して差し上げたのですから、もっと大事に飲んでくださらないと……」
「ふぁ……?搾りたてぇ……?」
ぶどう酒のアルコールで麻痺しかけているネブラの頭に、よく意味のわからない単語が飛び込んできた。
今クルはこのぶどう酒を『搾りたて』と言った。
ぶどう酒を搾りたてというのは間違っていないか?それを言うならぶどうジュースだろう。
「くるぅ……、お前何言ってるんだぁ?ぶどうを搾ってぶどう酒ができるわけないだろぉ………?!」
少しクルを馬鹿にしたような互換を込めながらネブラは焦点の合わない目クルに向け、大きく見開いた。
「うふふふ……。別に私、間違ったことを申してはおりませんのよ……」
そこに立っているクルは、さっきまでの穏やかな雰囲気を漂わせていたクルではなかった。
口元には嘲笑を浮かべ、目は悪意に光り、体中から寒々しい空気が溢れ出してきている。
そのあまりの変化ぶりに、泥酔しかけていたネブラの意識は少しだけだが正気を取り戻しつつあった。
「ク、クルぅ……?おまえぇ……」
「私、ネブラさんのために近くにあったぶどうをギュ〜〜ッと搾って、たくさんのぶどう酒を造りましたのよ……ほら…」
クルが手元にあった小鍋の蓋を外し、中に手を突っ込んで取り出したものは……
病気で臥せっていた神父と言われていた神父と思しき人物の、首だった。
「ヒィッ!!そ、それって……」
「こうして首をチョンッて切って、どぼどぼ溢れてくるぶどう酒をぜぇんぶそれに入れたんですのよ!
美味しかったですよねネブラさん!搾りたての神父様のぶどう酒は!!最高の味でしたでしょ!キャハハハハ!!」
つまり、さっきまで浴びるように飲み、今も自分の体を濡らしているぶどう酒は、すべてここの神父の血だったということなのか。
自分は血を、あんなに美味しそうに飲み干し、いい気分で酔っ払っていたのか!
「ぐ、ぐえぇ〜〜っ!!」
あまりの恐ろしさとおぞましさで猛烈な嘔吐感が込み上げてきたネブラは、その場で蹲って派手に吐き出した。
毒々しい赤紫のぶどう酒が床一杯に広がっていくが、とてもではないが全てを吐ききるには程遠く、ネブラの腹は相変わらず臨月の妊婦のように大きく膨らんだままだった。
「御免なさいね、ネブラさん。私、一つ嘘ついていたんです」
夢中で吐き続けるネブラの真上でクルの冷たい声が聞こえてくる。
「私、ネブラさんが悪魔のことを話したときに初耳だといいましたよね?
実は違うんです。私、知っていたんです。この村に悪魔が出たということを。なぜなら…」
クルの修道服が風になびいたかのようにふわりと動いたかと思うと突如青い炎をあげて燃え出し、クルの全身を覆い隠した。
「ひっ……」
近くにいても全然熱さを感じない炎が燃え尽きた後に出てきたクルの姿に、ネブラの表情は凍り付いてしまった。
まるで歓楽街の情婦のような激しい露出と鋭角なデザインの衣装。聖職者にあるまじき扇情的なものだ。
だがネブラが驚いたのはそんなところではない。
自分の前に立っているクルの頭からは真っ黒な光沢を帯びた角が、背中には両手を広げたよりもまだ大きい烏のような黒い羽が。
そして腰からは、蜥蜴のような滑り光る鱗に覆われた尻尾が伸びていたのだ。
「私自身が悪魔だったんですから!
うふふ、確かネブラさん、悪魔がいなくて物足りないって言ってましたよね?
嬉しいでしょう?いないと思っていた悪魔が、今目の前にいるんですよ!アハハハハ!」
悪魔と化したクルは、口元から長く伸びた牙を剥き出しにしてネブラを見下ろしていた。そこには先ほどまでのおっとりとしていたクルのイメージは全く感じられない。
「ゲホッ……!
ま、まさかてめぇが悪魔だったなんてな……。すっかりだまされちまったぜ……」
口から戻したぶどう酒を垂らしながら、ネブラは自分の迂闊さを悔やんでいた。
まさか教会に悪魔がいるなんて思いもしなかった。知らずに自分から虎口に飛び込んでいたとは考えもしなかった。
でも、納得がいかない。
「で、でもよぉ…、この村がお前に侵されているとは到底思えねぇ……
一体お前はこの村で何がしたいんだ…?何をしようとしていたんだ……?」
ネブラの疑問は最もだ。この村で悪魔…つまりクルが目撃されたのはもう1週間以上前のことである。
その間、クルが何もしていなかったとは到底考えられない。
だがネブラが見た限り、この村が悪魔にどうかされたとはどう見ても思えない。何事もなかった平和そのものの……
(…………!)
待て
少なくともこの村からは死人が一人出ている。最初にこの村から逃げてきて『悪魔が出た』と言った後突然死んだ青年だ。
その死に方は明らかに尋常なものではなく、異常な事態といわざるを得ない。
自分の村に原因不明の変死者がでた以上、自分にその災厄が降りかからないか危惧するのはごくごく当たり前のことだ。
だが昼に見た村の様子では、そんなことは誰も気にはかけていないとしか思えなかった。
まるで、最初からそんなことはなかったと言わんばかり……
「うふふ、そうなのよ。この村はとっくに私のものになっていたの。
でも勘違いしないでね?これは私が望んだことじゃないわ。これはすべて、この村の人間が望んだことよ。
この村は死にかけていたわ。何も採れるものもなく、なにも得られるものなく、人間は外へ出て行き入ってくる者は誰もいない…
そんな村の様子を、ここの村長さんは嘆いていたわ。
そして藁をもすがる思いの村長さんは、へたくそな魔法陣と古びた魔導書を使ってこの私を呼び出したのよ」
つまり、村に悪魔がやってきたのではなく、村に悪魔を呼び出したと言うのが正しい見解ということになる。
が、ネブラはクルの説明に納得がいかなかった。
「おい……、お前何言ってやがるんだ……。この村が死にかけていただと……
これだけたくさんいいぶどうがなる畑がたくさんある所だぞ……。どこにだっていい値段で売りさばけるじゃねえか……
大ボラこいてんじゃねぇ……」
さっきまで自分を騙していたクルのことだ。またぞろ虚言を使って自分を騙そうとしているに違いない。
そうネブラは判断しクルを敵意丸出しで睨みつけたが、クルはそんなネブラを面白そうに眺めていた。
「ん〜〜〜?ぶどう畑ですかぁ?そうですね、確かにこの村にはたっくさんぶどう畑がありましたねぇ〜〜〜
でもネブラさん。さっき飲んだぶどう酒って、一体なんだったんでしたっけ〜〜〜?」
クルはテーブルに放置していた神父の生首を掴んで、わざとらしくぷらぷらと揺らした。
それを見てネブラは再び猛烈な吐き気を催したが、同時にあることに気が付いた。
確かにクルは神父を殺したようだが、その血が先ほど飲んだぶどう酒だという証拠はなにもない。
もしかすると、それすら自分を騙すための方便なのかも……
「あっ、ま〜た疑ってますねネブラさん。ダメですよ、人の言うことは信用しないと」
自分の言うことをなかなか信用しようとしないネブラに、クルはネブラの顎を掴んで強引に口を開けさせると、神父の首から滴る血を無理矢理に口に含ませた。
「や、やめっ……!あっ………」
ネブラの舌が、喉が感じたものは、紛れもなくさっきまで散々飲み続けていたぶどう酒の味だった。
神父の血だということがわかっていても、その脳味噌まで蕩かしそうな味わいにネブラの顔にうっすら陶酔の表情が浮かんでくる。
「これで信じたでしょ?この素晴らしいぶどう酒を作るために、村長さんは私に頼んだのよ。
『この村を救うために、なにか目玉になるものを作ってくれ』って。
だから私は作ったんですよ。この村いっぱいに広がる、悪魔の葡萄畑をね…!」
ということは、ここのぶどう全てがクルの手によって作られたということになる。ネブラがみたこの村は葡萄畑に囲まれていたイメージがあるから、クルが呼び出される前は本当に何もなかったのだろう。
「私が召喚した悪魔の葡萄は人間の世界で取れる葡萄からは比べ物にならないほど美味しいぶどう酒を造ることが出来るわ。これなら死にかけているこの村の名物になることは疑いないわ。ただ…」
そこまで言ってクルの目がスッと細く閉じられた。
「ただ、悪魔の葡萄からぶどう酒を造るには普通のぶどう酒の造り方では出来ない。
悪魔の葡萄を食べ続けた人間の血が、ぶどう酒に変化するのよ……!
勿論村長さんにはいの一番に葡萄を食べさせてぶどう酒にしてあげたわ。村を救おうとしているんだから自分が率先しないといけないわよね!
私が頼まれたのは村を救うこと!村人を救ってくれなんて一言も言われてないわ!
村を救うためだったら村人はどうなってもいいってことよね!!悪魔なら勿論そう解釈するわ!キャーッハッハッハ!!」
村長の浅薄さを馬鹿にしているのかのようにクルはゲラゲラと大声で笑い転げた。悪魔に力を借りるということがどれほど危険なことかを犠牲になった村長はどれほど理解していたのか、今となっては分からない。
ただ、村長の気持ちもネブラには痛いほど理解できた。
尼僧をやっていて言うのもなんだが、どれほど神に願いをかけようが神は決して救いの手は差し伸べてくれない。
上司に言わせれば苦しみは神の試練であり、それを乗り越えてこそ神の意思に応えることが出来るというのだ。
しかし、村長は将来のことより今この村をどうにかして欲しいと考えていたのだろう。
だからこそ、決して救いの手を差し伸べてくれない神より、万が一を頼みに悪魔を呼び出そうとしたに違いない。
もっとも、本当に悪魔が出てきてしまうとは村長も予想外だったとは思うが。
「うふふっ、今収穫されている葡萄をこの村の人間がどんどん食べ、その人間たちの血は極上のぶどう酒になる。それを売ったらこの村はにはたくさんのお金が入る。
もうすぐぶどう酒になった人間が、他のぶどう酒になった人間を殺し始めるわ。そして生き残ったほうが相手のぶどう酒を搾り出し、樽に詰める。
親が子を、夫が妻を、兄が弟を殺すのよ。凄い見世物だと思わない?キャハハ!!」
「ふ、ふざけるな!いくらなんでも、知っている間柄で殺し合いなんてするはずがないだろ!!」
冷静に考えれば、悪魔の術で操られているからという見方もできなくはない。が、あまりにも残酷な所業にネブラの頭はそこまで回ることが出来なかった。
ところが、クルのやっていたことはそれよりさらに恐ろしいものだった。
「…ところが、殺すのよ。これがね…」
クスリと笑ったクルは再び鍋の中に手を突っ込み、あるものを取り出した。
「じゃん♪」
クルが鍋から出したもの。それはこの村を覆い尽くした悪魔の葡萄だった。
たわわに実り丸々と熟した果実。ちょんと触れるだけではちきれそうなほどに詰った実は見るからに美味しそうだ。
もっとも、それが悪魔がもたらしたものだと知ってしまった今は、それすら人を惑わすためのおぞましさしか感じられない。
ところが
「っ!!」
悪魔の葡萄を見た途端、ネブラの目はとろんと虚ろになり、半開きになった口からはどろりと涎が流れ落ちてきた。
ネブラの視線は悪魔の葡萄に釘付けになり、猛烈な飢餓感が体の奥から湧き上がってくる。
(な、なんでだよ?!あれは、あれは悪魔が出した邪悪な物なんだぞ?!
なのに、なんで?何であたしはあれをこんなにも食べたいんだ!!)
自分でも意識しないうちにふらりと立ち上がったネブラは、ゆるゆると手を伸ばしてクルが持つ悪魔の葡萄をもぎ取ろうとした。
が、クルは手をひょいと上に伸ばしネブラに渡すことを拒んだ。
「あ、あぁぁ………」
「うふふ、だぁ〜めですよ」
もう葡萄しか目に入っていないネブラが葡萄を求めてブルブル震える手を、クルが残った方の手でガッチリと掴んだ。
届きそうで届かない葡萄のもどかしさに、ネブラの目に尋常でない光が宿っている。
「なぁ…なぁんで……欲しい……ほしいぃ!葡萄が欲しい!!
くれ!くれぇ!!あたしにそのぶどうをくれよぉぉぉ!!」
目の前のクルが悪魔だとか、葡萄が悪魔のものだとか
そんなことを一切考えられなくなっているネブラは半狂乱になって悪魔の葡萄を求めた。
「ふふふ……、どうですか?この葡萄が食べたくて食べたくてしょうがないでしょう?
例えば家族みんなで葡萄をがっついて、その葡萄が一房だけになったらどうします?他の誰かに譲ります?
譲りませんよねぇ?独り占めしたいですよねぇ?そうするには、どうすればいいと思いますかぁ?」
「知るかぁ!そんなことはどうだっていいんだぁ!!
とにかくそのぶどうよこせ!あたしはそれが食べたいんだ!!邪魔するならお前を殺してでも………っ?!」
そこまで言って、ネブラの心は急に冷静さを取り戻した。
つい口から出てしまった『殺す』という言葉だが、これが今クルが語った家族間で起こったらどうなるであろう。
葡萄を求めて、凄惨な殺し合いが起こるのは確実ではないだろうか。
それほど、この悪魔の葡萄には堪え難い魅力がある。
「そういうこと。この悪魔の葡萄を一口でも食べた人間は葡萄の虜になって、葡萄を貪らずにはいられなくなるのよ。それこそ1日たりとも。
もし葡萄が食べられなくなったら、苦しみのあまり死んでしまうわ。あの僅かばかりに正気を残してここから逃げた男の子みたいに」
きっとクルが言っているのは、この村に悪魔が出たと言って死んだ青年のことだ。
「だから、葡萄を食べた人間はどんなことがあっても葡萄を求めずにはいられなくなる。
ネブラさんがさっきあんなにもぶどう酒を飲んだのもそのせい。普通の人間が飲んだらあれはただの美味しいぶどう酒だけれど、悪魔の葡萄を食べてしまったネブラさんにはいくら飲んでも飲み足りない魔酒になってしまったの。
悪魔の葡萄は取り尽くしても一晩待てばまた実をつけるわ。でも、言い換えれば一晩経たないと新しい葡萄は生らない。
今頃村ではまた、残った人間同士で殺し…いいえ、ぶどう酒を造りあっているはずよ。
残り少ない葡萄を奪い合い、殺した相手のぶどう酒を啜りながらね!
ああ、勿論樽っていうのは人間のお腹のことよ!こうして朝まで生き残った人間は全身ぶどう酒の塊になるわ。その腹を割けば最高のぶどう酒が搾り出せるってものよ!」
確かに、耳を澄ましてみると外では何か狂ったような笑い声や喧騒の音が聞こえる。
表向き平和そのものに見えたこの村が、こんな恐ろしいことになっていようとは思いも出来なかった。
愕然としたネブラだったが、その時さらに恐ろしいことに気が付いた。
「ちょっと待て!
お、お前なんであたしが葡萄を食べたことを知っているんだ…?!」
確かに、ネブラは教会についたときはすでに葡萄を食べ付くしていた。クルはネブラが葡萄を食べていたところは目撃していないはずだ。
なのにクルは、ネブラが葡萄を食べたことを前提として話をすすめている。
「ごめんなさいねネブラさん。実は村に入る前からネブラさんのことは監視していたんですよ。教会の人間に悪魔がいるって事を知られたら少し面倒なことになるでしょうし。
ですからネブラさんが村に来た時に、この子を寄越したんですよ。ほら、入ってきなさい」
「はい……」
その声に対し、廊下へ続くドアがギィと軋んだ音を立てて開いてフラフラと入ってきたのは、ネブラに葡萄を買ってくれとせがんだ少女だった。
ただ、昼にあったときの闊達さは垣間見えず、表情を無くした顔にぶどう酒のように赤く染まった瞳が暗く輝いている。
「な……!」
「見覚えがあるでしょう?この子の血はもう完全に悪魔のぶどう酒に変わっているんで簡単に言いなりになるんです。
それでネブラさんに葡萄を買わせて、食べるように仕向けたんです。
もし無視したらどうしようかと思ってたんですけど、ネブラさんは人が良くてよかったですよぉ」
つまり、ネブラはこの教会に入った時どころか、この村に入った時からクルの掌の中で踊らされていたということになる。
まさか、これほどまでに狡猾な罠を仕掛けれられていたとは!
「私としては、せっかくいいぶどう畑を作っているというのに変な邪魔はされたくないんですよ。
ですからネブラさんにも悪魔の葡萄をたくさん食べて貰って、そのままぶどう酒になってもらおうと思ったんです。
でも、気が変わりました」
クルの、ネブラを見る目が先ほどとは変化している。
今までの簡単に騙された馬鹿な人間と言う雰囲気は消え、愛しいものを愛でるような感じになっていた。
「私、ネブラさんが気に入りましたの。貴方の性格は、とても神の側にいるべき人間じゃありません。
退屈を嫌い、平穏を嫌い、口より先に手が出るネブラさんは見ていてとっても面白いです!
なんといっても、人間なのに私をぶっ飛ばそうなんて言いきるところなんかもう最高!!
ぶどう酒にしてしまうなんてもったいない。むしろ、悪魔になって私と一緒にぶどう酒を作る側になりましょう!!」
クルの言葉にネブラはギョッとなった。
この悪魔は、自分を魔の側に堕落させようと誘惑してきている。
「バ、バカ言え……
まがりなりにもあたしは神に仕えるシスターだぞ……。誰が好き好んで悪魔に魂を売ったりするものか……」
とは言うものの、クルが持っている悪魔の葡萄。そして部屋中に漂う悪魔のぶどう酒の香りは確実にネブラの理性を蝕んでいた。
何しろ、口では拒んでいるもののネブラの視線はさっきから悪魔の葡萄に釘付けなのだから。
「あらら、そんなこと言うんですか?でもこのままですとネブラさん、葡萄を食べ続けて体中の血がぶどう酒になるか、葡萄を食べないまま死ぬしかないんですよ?
こんなことで死んでも何の意味もありませんよ?ね、ね?悪魔になりましょうよネブラさん。
きっと今までより、ずっと面白おかしい人生が切り開かれますよ?」
「…それでも構いはしない。死んだほうが悪魔になるよりよっぽどマシだ……!」
辛うじて残った自制心をフルに回転させ、ネブラはクルの誘惑に必死に堪えた。
今にも折れそうな心をなんとか支えているのは、自分が神に仕える身であるということ。そして、村の人間全てをぶどう酒の樽へと変えてしまったクルへの反発心からだった。
意外なしぶとさを魅せるネブラにクルは驚きつつも、それでこそ堕としがいもあると内心は心躍らせていた。
「ふ〜〜ん。そんなに悪魔になるのは嫌ですか……。それは残念です。
でも、ネブラさんはもうこの悪魔の葡萄からは逃れられることは出来ないんですよ。美味しい、美味しい葡萄からは…
さあ今一度、この美味しい葡萄を味わってみてください……」
ネブラ目掛けてニィッと笑ったクルは手に持った葡萄を一粒噛み千切ると、歯で咥えたままゆっくりとネブラの顔に近づけていった。
「あ、あぁ……」
自分目掛けて近づいてくる葡萄に、ネブラは喜び半分恐怖半分の表情を浮かべていた。
あの魂まで蕩かす悪魔の葡萄を今食べてしまったら、クルの誘惑に打ち勝てる自信は全くない。
しかし、あの美味しい葡萄をまた食べることができるという破滅的な悦びもまた、心の中で感じている。
食べたいけど食べたくない。相反する欲求がネブラの心の中でぐんぐん膨らんできていた。
「や、やめろぉぉ!!あたしに、あたしにそれを食べさせるなぁぁ!!
それを食べたらあたしおかしくなる!おかしくなっちゃうよぉぉぉ!!!」
自分が自分を保てなくなる恐怖に、ネブラは駄々を捏ねている子供のように泣き叫んで拒み続けた。が、クルは勿論その手を止めようとはしない。
「ほぉ〜〜ら、ネブラさんが食べたがっていた悪魔の葡萄ですよぉ〜〜〜。たぁっぷりと、味わってくださいねぇ〜〜〜!」
クルは歯に軽く力を入れて葡萄の皮に傷をつけ、じんわりと果汁が滴りだした葡萄をそのまま口移しでネブラの口へと押し込んだ。
「や、やめっ!んぐうぅ〜〜〜〜っ!!…………」
ネブラは慌てて葡萄を吐き出そうとした。が、それよりも早く口の中に広がった葡萄の痺れるような甘さにあっという間に心を奪われてしまった。
恐怖に見開かれていた瞳はたちまちどんよりと濁り、悲鳴を上げていた口からは悦びの溜息が漏れてきている。
「ん……んふぅぅ………くちゅ、くちゅ……」
満面に幸せの笑みを浮かべたネブラはゆっくりと葡萄を咀嚼すると、ごくりと音を立てて葡萄を飲み込んだ。
「んぱぁっ……。あぁ……おいひぃぃ……
やっぱりこのぶどう、とぉってもおいひいよぉ………」
「ふふっ、そうでしょうネブラさん。まるで天にも昇る心地よさでしょう?
いえ、地獄に堕ちる心地よさですかね?アハハハッ!!」
さっきまであれほど自分に抵抗していたネブラが、たった一粒の葡萄でたちまち虜になる。
悪魔の葡萄の呪縛の強さに、クルは笑いを隠し切れなかった。
「あはぁぁ…もっと、もっとぶどうちょうだいよぉ……
一粒だけなんていじわるしないでさぁ……、もっろぉ……」
「ふふ……
ネブラさんにはぶどうより、もぉ〜〜っといいものを差し上げますわ」
甘えた声で葡萄をせがむネブラの手に、クルは1本のナイフを差し渡した。
「なに……これぇ……」
ナイフを渡された意図がわからず首を傾げるネブラに、クルはあるものを指差した。
「ほら、あそこに美味しい美味しいぶどう酒がい〜〜〜っぱい詰った皮袋があるじゃないですか。
もしネブラさんが悪魔になるってその口で言ったら、あそこのぶどう酒を全部差し上げます」
クルの指先にあるもの。
それは先ほど入ってきた、ネブラに葡萄を売った少女だった。
「え……?」
甘い葡萄で蕩けたネブラの理性が、ほんの僅かだが正気に引き戻される。
クルが言う皮袋は間違いなく少女のことだ。そして、ナイフを渡されたということはこのナイフで少女を刺し、溢れる血潮を飲めということだ。
そんなおぞましいことをできるか……とネブラの僅かに残った理性が警告を発するが、ネブラの足は意思とは逆にゆっくりと少女に向って進んでいた。
「いやぁ……やめろぉあたし……。あたしは、あたしはぁぁ……」
力なく首をふるふると横に振るネブラだが、その顔にはぶどう酒を飲めるという悦びの笑みが張り付いていた。
「あらあら、待ちきれないんですかぁネブラさん。
でも、皮袋に穴をあけるのはちゃんと言った後じゃないとダメですよぉ?
さあどうします?悪魔になる?なりません?なりたくないんでしたらそのナイフは投げ捨ててください。
そうすれば、このままネブラさんには葡萄を与えずに人間として死なせてあげます。
でも、悪魔になるって一言言えば、目の前のぶどう酒は全部ネブラさんのものになります。さあ、どうしますぅ?」
「あ……ああぁ……!」
少女の目の前まで来たネブラのナイフを持つ手が、ぶるぶると大きく震えている。
葡萄を食べたいという猛烈な飢餓感。人を殺して欲望を満たすことへの強烈な嫌悪感。
どちらもがネブラの心の中でどんどん膨らみ、何かのきっかけがあればどちらかに大きくぶれてしまうくらいの危ないバランスの上で平衡を保っていた。
「…………」
その時、夢うつつでふらふらとしていた少女がバランスを失ってぽすりとネブラの胸元に倒れてきた。
「わっ……っ?!」
急にもたれかかってきた少女に驚くネブラだったが、その時ふわりと鼻腔を刺激した少女の体臭にネブラの体はビクン!と跳ねた。
すでに血液の蘇生がぶどう酒に変わっているからなのか、少女の体臭は極上の悪魔のぶどう酒の香りと変わり果てていた。
部屋中に漂うぶどう酒の香り、それに加わった少女の体臭。
それがきっかけだった。
「あ、あ、あああああああああああああ!!!!!
な、なる!なります!!あたし、悪魔になりますうぅぅ!!
飲みたい、飲みたい!!ぶどう酒飲みたいぃぃ!!飲ませて、飲ませてぇぇ!
悪魔になるから、ぶどう酒たっぷり飲ませてくらさいいぃぃ!!」
もはや限界だった。これほどいい匂いを間近で嗅がされてはとても辛抱しきれない。
その結果自分がどうなろうが少女がどうなろうが知ったことではない。
とにかく今は、目の前にたっぷりあるぶどう酒を1滴残らず飲み尽くしたかった。
「アハハハッ!言いましたね、言いましたね!!悪魔になるって言いましたねぇ!!悪魔の前で約束しましたねぇ!!」
「うん、うん!約束するぅ!!約束するから早く飲ませてぇぇぇぇ!!」
「いいですよぉ!その人間殺して、欲望のままに悪魔のぶどう酒を味わいなさいよぉ!!」
やっと許しが出た!
その声を聞くが同時に、ネブラは目に欲望の光をぎらつかせてナイフを少女の首筋に振り下ろした。
「キャハハハハァ―――――――ッ!!!!」
ずぐり、と肉を押し切る感触と共にナイフを刺したところから真っ赤な血…ではなくぶどう酒が滝のように勢いよく噴き出しはじめてきた。
「ひゃははぁ!いっぱぁい!ぶどう酒がいっぱぁいぃ!!」
ばしゃばしゃと顔にかかるぶどう酒にうっとりとしたネブラは、すぐに勿体無いと思ったのか少女の傷口にがぽりと口を付けた。
頚動脈を断ち切った傷から噴き出るぶどう酒の勢いは物凄く、ネブラの口の間から収まりきらないぶどう酒がしゅうしゅうと音を立てて漏れ出してきていた。
「んぐっ、んぐっ!おいひい!おいひぃぃ!!」
が、そんなものが気にならないほどどんどん湧いてくるぶどう酒にネブラは夢中になってごくごくとぶどう酒を啜りこんでいた。
そのため、いつの間にか背後に回りこんだクルに気づくこともなかった。
「よかったですねぇネブラさん。自分の欲望を満たすことが出来て。
じゃあ、その幸せな気分のまま、悪魔になっていただきますよ……!」
クルの腰から生えた尻尾がにゅるにゅると動き、その先端がネブラの延髄にちょんと触れるとそのままずぐずぐと埋め込まれていった。
「ひぐっ?!」
痛みもなく、しかし自分の体の中に異物が染みこんでいくおぞましい感触に一瞬ネブラは正気を戻しかけたが、すぐにその眼の光は濁り欲望の命ずるままに首筋に口を埋めぶどう酒を貪る行為を再開した。
その間にもクルの尻尾はどんどんネブラの中へと入り込み、尻尾の真っ黒い色が血管のように糸を引いて周囲の細胞を侵食しながらネブラの全身に広がっていった。
「ふっ!ふぐっ!!ふぐぅぅぅ……!!」
一心不乱にぶどう酒を啜るネブラの体が、悪魔の力に侵されて次第に悪魔へと変わりつつある。
頭からはめきめきと角が伸び、背中からは修道服をビリビリに引き裂きながら鳥とも蝙蝠ともつかぬ羽が生え、千切れかけた修道服の間から滑った尻尾が顔を出していた。
「ふぅ〜〜っ!ふぅう〜〜〜っ!!ぶはぁぁっ!!」
息が続く限り吸引を続け、口の周りをぶどう酒で真っ赤に染めたネブラが大きく息をついたとき、縦に裂けた瞳孔はぶどう酒と同じ暗い赤に染まり、ぶどう酒に塗れた口からは顎まで伸びた舌がこぼれていた。
「ふはっ!あははは!!うめえよぉ!ぶどう酒うめえよぉ〜〜!!きゃはははは〜〜っ!!」
自分の体が悪魔に変わっているのを分かっているのか分かっていないのか、はたまたそんなことはどうでもいいのか、
ネブラはぶどう酒の吸いかすを片手に抱えたまま、教会の外まで聞こえそうな大声で笑い狂っていた。
☆
「はぁぁ……やっぱこのぶどう酒の味は最高だなぁ……」
口に付いたぶどう酒をペロリと舐め取りながら、ネブラは心地よさそうに溜息をついた。
ちなみにネブラの足元には、体中のぶどう酒を吸い尽くされた男が転がっている。
あの夜、身も心も完全に悪魔になってしまったネブラは教会に残り、昼間はクルと一緒に教会で勤めているふりをして、夜になると悪魔の姿に戻って、頃合のぶどう酒になった村の住人を連れ去って操った人間にぶどう酒を搾り取らせる毎日を送っていた。
そんな中でネブラは、隙を見ては余計に人間を攫ってきては隠れて飲み、悦に浸っていた。
ただでさえ多くない人間を必要以上に減らされてはたまらないのでクルはネブラにやめろといっているのだが、ネブラはそんなことはどこ吹く風といった感じで人間を漁るのを辞めなかった。
「もうネブラさんったら、ぶどう酒はちゃんと木樽に詰めたのを飲んでくださいってあれほど言っているのに、どうしていつも勝手に人間を取ってきて飲んじゃうんですか?
そもそも樽に詰ったぶどう酒だって、まだ売れるほどに数を揃えられていないんですよ」
クルは膨れっ面をして、言うことを聞いてくれないネブラをジーッと睨みつけている。
が、ネブラはそんな痛い視線など全く気にせずに酔っ払った赤い顔をクルへと向けていた。
「だってよぉ、木樽に詰った冷てえやつよりもよぉ、こう人肌に温まったやつをそのまま口でゴクゴクってのが最高なんだよ。
せっかく搾りたてを飲めるってんだから、そうしないと勿体ねえじゃねえか」
言わんとするところは分からなくもないが、人間の倫理など微塵も感じさせられない言動は以前のネブラを知っている人間が聞いたら耳を疑うところだろう。
人間だった頃のネブラはがさつで乱暴者ではあったが、決して理由なく人を傷つけることはなかったし、弱いものにはとことん優しい所があった。
だが今のネブラは、自分の欲望を満たすためなら他人のいうことはとことん無視しどんな外道なことでも躊躇することなく行うようになっている。
悪魔になって人の倫理、禁忌を捨てた結果だろうが、その変わりっぷりにはクルもあきれるしかなかった。
もっとも、そんなネブラの変化をクルは決して疎ましく思ってはいない。
元々、その直情的な性格が気に入ってネブラを悪魔に変えたのだ。欲望剥き出しとはいえ自分の気持ちを素直に出すネブラは見ていて気持ちいい。
とはいえ、叱るところは叱らないといけない。
「ですけど…、これ以上人間が減ってしまったらつまみ食いも出来なくなってしまいますよ?元々死にかけの村だったんですから。
もっと残った人間は大事にしないと」
「なるほど、そりゃそうだ」
今まで神都のような人間が密集しているところにいたので、ついネブラは人間なんかいくらでもいる、と勘違いをしてしまっていた。
ここは基本的に寂れた寒村なのだ。そもそも人間の絶対数が多くはないのだ。
だからといって、冷たいぶどう酒を飲むのも癪だ。人間の命の味が感じられるあったかいぶどう酒の味を知ってしまった以上、それよりまずいものを飲む気にはなれない。
「まいったなぁ…、じゃあどうすれば……、あ!」
人を減らさず、あったかいぶどう酒を啜る方法はないものかと思案していたネブラは、いい知恵を思いついたのかニンマリと顔を輝かせた。
「そうだ、すぐに吸い尽くしちまうからダメなんだ。だったら……」
教会の地下倉庫へ続く階段を、修道服姿のネブラが一人の少年を連れ立って下っていた。
もちろんこの少年はすでに悪魔の葡萄に侵されて全身の血がぶどう酒に変化しきっており、夢見ごこちのまま葡萄を頬張っている。
「あむぅ…、ああぁ……なくなっちゃったぁ…。シスター・ネブラぁ……、もっと葡萄をたくさん食べたいですぅ……」
手に持っていた葡萄を食べ尽くしてしまった少年は、もの欲しそうにネブラに懇願した。そんな少年をネブラはシスターにあるまじき妖艶な笑みを浮かべて眺めていた。
「ああ、いいぜ。これからお前が行くところは、たぁ〜〜っぷり葡萄が食べられるところだ。
1日中なにもせず、ただただ葡萄を食べていればいい素晴らしいところだぜぇ……」
「うわぁ……、そんなところがあるんですかぁ……?たのしみだなぁぁ……えへへぇ………」
悪魔の葡萄を食べられる悦びに少年の顔がだらしなく緩む。
その先に待ち受けている自らの運命など知る由もない。もっとも、知ろうともしないし知っても意味のないことなのだが。
「着いた、ここだぜ」
ネブラが木製の扉をがちゃりと開くと、中から葡萄の甘いムッとした香りが通路に溢れ出し、それと共に呻き声とも喘ぎ声とも取れない悲鳴が木霊してきた。
あぁ……
うぁぁ………
地下倉庫の中には悪魔の葡萄が壁一面にびっしりと生え、その蔓に多数の性別、年齢を問わない男女が絡みついていた。
それらには例外なく無数の葡萄の蔓が刺さり、蔓の先を切り落とした所からポタポタと血…ではなくぶどう酒が垂れて下に置かれた酒樽の中に貯められていた。
蔓んび突き刺されそこから際限なく血を抜かれているわけだから普通に考えればその苦痛は察して余りあるものだが、蔓に絡まっている人間たちは全員恍惚としており、抵抗どころか動こうとする意思さえ見せてない。
一体何が起こっているのかを察する思考力さえ失っている少年の頭をネブラは掴むと、そのまま悪魔の葡萄の蔓へと押し付けた。
すると周りの蔓がざわざわと蠢き、少年の素肌の露出しているところにぶすぶすと突き刺さってきた。
「あぁ――――――っ!!」
しかし少年の口から出てきたのは、苦痛ではなく歓喜の嬌声だった。悪魔の葡萄に身も心も侵されきっている少年にとって、悪魔の葡萄が体の中に入ってくることはそれだけで極上の幸せとなっているようだ。葡萄に取り付かれたときのネブラが悪魔のぶどう酒を浴びるほど飲んだのと理屈は同じだ。
少年に蔓が刺さったのを確認したネブラは、蔓が刺さっているところの一番近くの枝分かれした蔓をパチパチと剪定した。
すると、そこから他の人間に刺さっている蔓と同様、ぽたりぽたりと真っ赤なぶどう酒が垂れ始めた。
「ククッ、お前も極上のぶどう酒を作れるようになったからな。ここで完全に干からびるまで全身のぶどう酒を出し続けな。
最高の気分だろ?お前の大好きな悪魔の葡萄そのものになれたんだから。ク、ククククク!」
「うはぁぁ……っ?あぁ…ぶどぉぉ……!」
じわじわと蔓からぶどう酒を抜かれうっとりとしている少年の顔の近くにあった蔓の葉の間から、突如むくむくと青々とした悪魔の葡萄の実が出てきた。
少年は虚ろな目を輝かせながら葡萄に喰らいつき、口中を果汁で濡らしながらぶちゅぶちゅと葡萄を食べ散らかした。
すると、ぽたぽたと垂れていたぶどう酒の出が僅かながら勢いを増した。体内に吸収された悪魔の葡萄がぶどう酒の量を増したとしか考えられない。
すでに悪魔の葡萄で体の組成を変えられた人間たちは、悪魔の葡萄をぶどう酒に精製する機械でしかない。悪魔の葡萄さえ食べていればその機能は失われず、延々とぶどう酒を造り続ける体に作り変えられてしまっているのだ。
「しかし、よく考えましたね。ぶどう酒を安定して作るための人間プラントを作るなんて」
倉庫の中にやってきたクルがネブラに感心した目を向けた。彼女も人間を管理することは考えていたものの、ここまで機械的に管理することを思いつくことはなかった。
「今は大量生産による効率化ってやつが流行っているんだぜ。こうしてぶどう酒を取り出せるようになった人間を一箇所に集め、ぶどう酒を取り出しながら葡萄を食わせ続ければ、今までよりずっと長い期間効率よくぶどう酒を搾り取れるようになるってもんだ。
今までのやり方だとどうやっても人間を殺しちまう。こうすりゃすぐ殺すより長持ちするってもんだ。
今は目立たないようにここだけでだが、そのうちもっとプラントを増やしてたくさんのぶどう酒を作り出せるようにしてやるんだ。
そうすれば……」
ネブラはペロリと長い舌で自分の唇を嘗め回すと、葡萄を食べて恍惚としている少年の首にガブリと噛み付くと、プシュッと噴き出てくるぶどう酒をズズッと音を立てて啜り、口元を赤く濡らしながらクルの方を振り向いてニィッと微笑んだ。
「こうしてゆっくりたっぷり、人間の熱いぶどう酒が啜れる。誰にも邪魔されないでな」
その光景を想像して舌なめずりをしているネブラに、クルは苦笑を浮かべた。
「…本当にひどい方ですね。人間をここまで物扱いできるなんて、私の知り合いにもそうはいませんでしたよ。
つい数日前まで神に仕える人間だったとは、とても思えませんわ」
一見ネブラを非難しているように聞こえるが、クルの顔には満面の微笑みが浮かんでいる。
言い換えれば、よくも数日で立派な悪魔になれたという最大級の賛辞だ。
それはネブラも分かっており、特に気分を害することなくクルの顎をつぃっと撫でながら呟いた。
「バカヤロ。今のあたしは悪魔だぜ?お前があたしを悪魔にしたんだろうが。
今さら人間が何だってんだ。あいつらはあたしたちに利用されるために、この世にいるんだろうが」
「うふふっ、確かにそれは真理ですわね。やっぱり貴方を悪魔にして正解でした」
過去に人間を悪魔に堕としたことは幾度かあったが、ここまで短期間で才能を開花させた者はいなかった。
小さな寂れた村1個を魔に落とす、そんな単純な仕事だと思っていたがこれで一気に面白くなってきた。
悪魔の自分でも思いつかないことを平然とやってのける彼女がいたら、この先どんなことになるのだろう。
クルは何十年かぶりに心沸き立つのを感じていた。
数日後、麓の村に酒樽を積んだ馬車が訪れ、乗っていた二人のシスターが『村で作ったぶどう酒です。どうぞお納めください』と村長に3樽のぶどう酒を寄付してきた。
例の悪魔が出た村のものということで最初は気味悪がっていた村人達だったが、試しに飲んでみるとこれが驚くほど美味しくたちまちの内に3つの樽の中身は空っぽになってしまった。
もしかしたら、山の村にはまだぶどう酒があるかも知れない。そう思った村人たちは我先に山の村目掛けて押しかけていき、誰も帰ってこなかった。
これはおかしいと思った残った村人が教会に相談に押しかけると、そこには見たこともないような立派な葡萄が山盛りになっており、たまらず食べた村人達もまた、何かに取り付かれたかのように山の村へと向っていった。
翌朝、村を訪れた旅人は全くの無人になっている村をみて仰天した。
まったく痕跡を残さず消え去った村の住人はついに見つからず、近隣の人々は悪魔の仕業だと恐れおののいた。
その事件から暫く経った後、神都で極上の旨さを持つぶどう酒が売りに出され大ヒットを記録したが、これと一村の住人が悉く消えた事件を結びつける者は皆無だった。
終
もどる
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