January 2008
NHKの経営委員、菅原明子氏が1億5000万円の脱税を国税当局から指摘され、辞任した。
彼女の経営する菅原研究所は、科学的根拠の疑わしい「マイナスイオン」でもうけている会社だ。彼女の「マハリシ国際大学社会心理学科客員教授」なる肩書きについても、大学の存在そのものが疑問視されている。今回の会長選びでは、彼女は「古森経営委員長の運営が独断的だ」として記者会見を開き、元日銀副総裁の藤原作弥氏を本人の承諾もないまま推薦したが、あとになって彼がNHKの内規で副会長になれない(過去1年以内に新聞社の役員を歴任)ことが判明して撤回した。また歌手である夫を紅白歌合戦に出場させようとした事件も報道された。
問題は、こんないかがわしい人物が、なぜ5年以上(最古参の)経営委員をつとめてきたのかということだ。NHKの経営委員は地域代表になっており、各地区の管内担当放送局(近畿なら大阪)が推薦して決まるが、女性委員の比率は「おおむね2割以上」というのが不文律で、今は経営委員12人中、4人が女性だ。これは役所の審議会などでも同じで、このため能力とは無関係に、特定の(役所のいうことをよくきく)女性が多くの審議会をかけもちしている。
要するに、NHKの経営委員なんて何もしない名誉職だったから、こういう地域代表とaffirmative actionで無能な委員を集めても、何の支障もなかったわけだ。特に地方の利害が強く反映されるため、NHK合理化の決め手である地方局の整理・統合が進まない。理事は全員が辞表を出したが、何もしてこなかった経営委員こそ経営責任をとって、古森委員長以外はやめるのが当然だ。そして地域代表もやめ、男女比も関係なく、経営感覚のある民間の経営者を入れるべきである。
彼女の経営する菅原研究所は、科学的根拠の疑わしい「マイナスイオン」でもうけている会社だ。彼女の「マハリシ国際大学社会心理学科客員教授」なる肩書きについても、大学の存在そのものが疑問視されている。今回の会長選びでは、彼女は「古森経営委員長の運営が独断的だ」として記者会見を開き、元日銀副総裁の藤原作弥氏を本人の承諾もないまま推薦したが、あとになって彼がNHKの内規で副会長になれない(過去1年以内に新聞社の役員を歴任)ことが判明して撤回した。また歌手である夫を紅白歌合戦に出場させようとした事件も報道された。
問題は、こんないかがわしい人物が、なぜ5年以上(最古参の)経営委員をつとめてきたのかということだ。NHKの経営委員は地域代表になっており、各地区の管内担当放送局(近畿なら大阪)が推薦して決まるが、女性委員の比率は「おおむね2割以上」というのが不文律で、今は経営委員12人中、4人が女性だ。これは役所の審議会などでも同じで、このため能力とは無関係に、特定の(役所のいうことをよくきく)女性が多くの審議会をかけもちしている。
要するに、NHKの経営委員なんて何もしない名誉職だったから、こういう地域代表とaffirmative actionで無能な委員を集めても、何の支障もなかったわけだ。特に地方の利害が強く反映されるため、NHK合理化の決め手である地方局の整理・統合が進まない。理事は全員が辞表を出したが、何もしてこなかった経営委員こそ経営責任をとって、古森委員長以外はやめるのが当然だ。そして地域代表もやめ、男女比も関係なく、経営感覚のある民間の経営者を入れるべきである。
ノリントン指揮、シュトゥットガルト放送響(SWR)のコンサート(サントリーホール)を聞いた。メインは、メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲とベートーヴェンの交響曲第3番。メンデルスゾーンは・・・だったが、ベートーヴェンは相変わらず元気で、安心した。20年前、古楽器で小編成のLondon Classical Playersを率いて、超スピードのベートーヴェンで世界に衝撃を与えた彼も、今年は74歳。さすがに往年の切れ味はないが、楽団員までリラックスして楽しそうに演奏していたのはよかった。
彼がLCPでデビューしたときは、国内盤さえ出なかった。もちろん『レコード芸術』なども無視。小林秀雄以来の「泰西名曲」をあがめて「楽聖」を絶賛する御用批評家たちにとっては、ベートーヴェンの指定したメトロノームを逆用して従来の重々しい演奏をぶち壊すノリントンのアプローチは、我慢できなかったのだろう。国内に情報がないので、ファンがKanzaki.comというノリントン専門サイトまで作った。
その後、SWRで常識的な編成にしてからは国内盤も出るようになり、2003年にはレコード・アカデミー賞を受賞。「『演奏新時代!』とかいう評者のコメントが今更で笑いを誘います」と神崎氏は書いている。しかし演奏としては、LCPの全集のほうが今でもフレッシュだ。5枚組で4000円強というバーゲン価格で出ているので、こっちをおすすめする。ただ癖が強いので、万人向けではない。ベルリオーズの「幻想交響曲」やメンデルスゾーンの「イタリア」はよかったが、モーツァルトはぱっとしない。特に「魔笛」は最悪だった(いずれもLCP)。
SWRになっても、ノリントンのアプローチは基本的に変わらない。それは、ベートーヴェンを「楽しむ」という姿勢だ。モーツァルトまでの音楽は貴族のための「大衆芸術」だったが、ベートーヴェン以降は近代的な「純粋芸術」として、ありがたく鑑賞するものだ――と誰もが思い込んでいたが、彼はその通念を破壊したのだ。Authenticという建て前だが、もしベートーヴェンが聞いたら怒るだろう。これは、あくまでも20世紀の演奏である。

そういう当事者が語るのだから、新左翼のおかした誤りについてちゃんと総括するのかと思えば、まるで他人事のように60年ブント以降の歴史を解説するだけ。あげくの果てには「共産主義各国の崩壊は、ハイエク流にいえば設計主義の破産であり、自生的秩序に反したからだ」。30年も党派を率いてきた委員長が、こんな(半世紀以上前からわかりきっていた)総括をするのでは、彼の言葉を信じて人生を棒に振った数百人の党員が泣くだろう。
あとの解説は、著者と同世代の人々には無価値だが、今の若い世代には「サヨクのおじいさんたちって、こんなバカなこと大真面目にやってたんだ」という悲喜劇としては、けっこう笑えるだろう。中でも致命的な誤りは、著者も指摘するように、内ゲバだった。私は党派とは無関係だったが、私のいた駒場のサークルでは、部員10人中4人が(革マルまたはそれと誤認されて)内ゲバで殺された。当時「この報復は絶対する」と言っていた革マルの活動家が、今は東大教授になっている。彼は、自分の過去の行動をどう総括しているのだろうか。
インターネットを生み出した「サイバーリバタリアン」は、実はハイエクやフリードマンとは対極にある、60年代の対抗文化から出てきたものだ。John Perry BarlowやJohn Gilmoreなどは、学生運動でドロップアウトしたヒッピーである。それは政治運動としてはナンセンスだったが、彼らがインターネットという「トロイの木馬」に忍び込ませたラディカルな自由主義のウイルスは、今や世界中に広がり、資本主義を食い尽くそうとしている。
それに比べて、日本の左翼は何も生み出さず、またぞろ「環境保護」という名のパターナリズムに活路を求めている。就職氷河期世代も「希望は戦争」というだけで、現実的な力にはならない。民主党にいたっては、支離滅裂なポピュリズム政党に化けてしまった。日本が変われない理由は、ここにもあるのだろう。
Ascii.jpに毎週連載するコラム「サイバーリバタリアン」の第1回が公開された・・・とだけ書くのも芸がないので、脚注を書いておこう。
この話のネタ元は、レッシグの『CODE2.0』の訳本が9年ぶりに出たことだが、内容はほとんど変わっていない(訳文もあいかわらず下品だ)。初版の出たとき、多くの人々が(私も含めて)批判した介入主義も変わっていない。特に「電話回線を規制して新規参入させろ」という彼の主張に鼓舞されて多くのCLECがブロードバンドに参入したが、ITバブル崩壊とともに全滅した。
最近の彼らの「ネット中立性」を求める主張(オバマも政策に掲げている)も、「問題をさがしている答」だ。レッシグのように「正しい政府」をナイーブに信じることのできるアメリカは幸福な国だと思ったが、最近は彼も考えを変えて、政府の意思決定がいかに歪んでいるかを研究しているようだ。
この話のネタ元は、レッシグの『CODE2.0』の訳本が9年ぶりに出たことだが、内容はほとんど変わっていない(訳文もあいかわらず下品だ)。初版の出たとき、多くの人々が(私も含めて)批判した介入主義も変わっていない。特に「電話回線を規制して新規参入させろ」という彼の主張に鼓舞されて多くのCLECがブロードバンドに参入したが、ITバブル崩壊とともに全滅した。
最近の彼らの「ネット中立性」を求める主張(オバマも政策に掲げている)も、「問題をさがしている答」だ。レッシグのように「正しい政府」をナイーブに信じることのできるアメリカは幸福な国だと思ったが、最近は彼も考えを変えて、政府の意思決定がいかに歪んでいるかを研究しているようだ。
山形大学学長 結城章夫様
私は、上武大学大学院で教員をしている池田信夫というものです。きょう山形大学の教員、天羽優子氏の記事に対して電子メールで、私を中傷する記事を削除するよう要求したところ、彼女はそれに回答せず、私信を山形大学のウェブサイトで公開しました。
http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=7608
これは記事を削除する意思がないものとみなし、学長に質問します:
1.山形大学のサイトで、他人を根拠なく「名誉毀損」と中傷することを、学長としてどうお考えになりますか。法務担当者なり顧問弁護士にお聞きになればわかりますが、「間抜け」という表現で名誉毀損が成立することはありえません。この天羽氏の記事こそ、私が名誉毀損という犯罪を行なったかのような印象を与える、名誉毀損行為だと考えますが、いかがでしょうか。
2.また山形大学のサイトで、他人の私信を無断で公開することについて、どうお考えになりますか。こういうことを許すと、一般の研究者も山形大学の教員に電子メールを出すことができなくなり、研究活動に支障をきたすと私は考えますが、いかがでしょうか。
この書簡は、下記の私のブログで公開します。回答をお待ちしております。
池田信夫
上武大学大学院経営管理研究科
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo
追記:多くの批判を受けて、天羽氏は「私信の公開はマナーとしてすべきではないことは私も同意する」と認めた。マナーとしてすべきでないことをしたのなら謝罪するのが常識だが、それもしない。こういう異常な人物を相手にするつもりはないので、その後の記事は読んでいない。
私は、上武大学大学院で教員をしている池田信夫というものです。きょう山形大学の教員、天羽優子氏の記事に対して電子メールで、私を中傷する記事を削除するよう要求したところ、彼女はそれに回答せず、私信を山形大学のウェブサイトで公開しました。
http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=7608
これは記事を削除する意思がないものとみなし、学長に質問します:
1.山形大学のサイトで、他人を根拠なく「名誉毀損」と中傷することを、学長としてどうお考えになりますか。法務担当者なり顧問弁護士にお聞きになればわかりますが、「間抜け」という表現で名誉毀損が成立することはありえません。この天羽氏の記事こそ、私が名誉毀損という犯罪を行なったかのような印象を与える、名誉毀損行為だと考えますが、いかがでしょうか。
2.また山形大学のサイトで、他人の私信を無断で公開することについて、どうお考えになりますか。こういうことを許すと、一般の研究者も山形大学の教員に電子メールを出すことができなくなり、研究活動に支障をきたすと私は考えますが、いかがでしょうか。
この書簡は、下記の私のブログで公開します。回答をお待ちしております。
池田信夫
上武大学大学院経営管理研究科
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo
追記:多くの批判を受けて、天羽氏は「私信の公開はマナーとしてすべきではないことは私も同意する」と認めた。マナーとしてすべきでないことをしたのなら謝罪するのが常識だが、それもしない。こういう異常な人物を相手にするつもりはないので、その後の記事は読んでいない。
原著は2004年に出て大反響を読んだが、同じ著者のこれを上回る傑作、Black Swanが出たあと訳本が出たのは残念だ。本書の議論はBlack Swanで深められているので、1冊読むなら、そっちを読んだ方がいい。実は、本書は別の版元で最後まで訳したのだが、あまりにも訳がひどくて廃棄され、ダイヤモンド社でやりなおしたという経緯がある。
ここでは、1点だけコメントしておく。それは著者の議論のコアになっている素朴ポパー主義だ。ポパーについては、当ブログで私が批判すると、アマチュアから粘着的なコメントが来るが、もはや見捨てられた過去の哲学者であることは世界の常識だ。著者もそれを前提にしているのだが、彼はあえてポパーの反証主義を文字どおり実行する。つまり1度でも反証された理論はすべて棄却するのである。
そうすると当然のことながら、すべての経済理論も統計的推計も棄却される。そこから先、どうやって相場を読むかというのが本論なのだが、ここでは省く(本を読んでください)。興味あるのは、著者が科学哲学における通約不可能性理論と同じ結論に達していることだ。彼の議論を論理的につきつめると、ファイヤアーベントのいうように、すべての科学理論は宗教の一種であり、客観的知識なんて存在しない、という知的アナーキズムになる。
これは英米の分析哲学業界ではひんしゅくを買ったが、フランスでは受けた。それはデリダやドゥルーズなどの不可知論と、実質的に同じだからである。おもしろいことに、最先端の物理学のリーダー、サスキンドも同じ意見だ。彼は反証主義を否定して「科学的真理というのは科学者集団の主観的コンセンサスにすぎない」と主張し、この意味で神学と物理学に本質的な差はないと認めている。
この問題の根源には、有名なヒュームの問題がある。あなたがこれまでに見たすべての白鳥が白かったとしても、そこから「すべての白鳥は白い」という結論を出すことはできない。明日あなたが黒い白鳥に出会う可能性を排除できないからだ。したがって帰納の論理は、存在しえない。あなたが未来を正しく予測するためにもっとも重要なのは、それが不可能であるという事実を知ることなのだ。
業務連絡:大学は来週から休みに入るので、献本はICPFか自宅にお願いします。自宅の住所は、大手メディアのデータベースには登録されていると思いますが、右記の連絡先にメールをいただけばお知らせします。
追記:Black Swanの版権も、ダイヤモンド社が取ったそうだ。いまだに完璧に反証された神学理論を護持している経済学者には、両方とも必読書だ。著者の結論は「ハイエクを読め」。
グーグルのアルゴリズムが最近、少し変わったようだ。昔は妙に古いサイトが上位にランクされたが、最近は新しいものを優先するようになったらしい。それでも、たとえば「コアCPI」と入力すると、2005年の指数がトップに表示されたりする。
昔グーグルが登場したころ、それまでの検索エンジンにあった「日付順」「国別」などの検索オプションが一切なく、「これが無条件にベストの検索結果だ」というのがさわやかな感じもあったのだが、特に経済ニュースは、これでは不便だ。さらに困ったことに、他の検索エンジンも右にならえになってしまった。ブログ検索では、どこのサイトも日付順が既定値になっているのに、これは奇妙な習慣だ。Baiduが日付順オプションをつければ、差別化できるだろう。
昔グーグルが登場したころ、それまでの検索エンジンにあった「日付順」「国別」などの検索オプションが一切なく、「これが無条件にベストの検索結果だ」というのがさわやかな感じもあったのだが、特に経済ニュースは、これでは不便だ。さらに困ったことに、他の検索エンジンも右にならえになってしまった。ブログ検索では、どこのサイトも日付順が既定値になっているのに、これは奇妙な習慣だ。Baiduが日付順オプションをつければ、差別化できるだろう。
日銀総裁をめぐる政界工作が活発になっている。焦点は、財務省出身の武藤副総裁の昇格を民主党が認めるかどうかだ。私は、かつて彼が主計局にいたとき、取材で会ったこともあるが、個人的には頭脳明晰な人格者で、人望もある。しかし残念ながら、彼が総裁に就任することは望ましくないと思う。
1990年代の金融政策の失敗の原因は、大蔵省と日銀の意思決定の齟齬だった。特に大きな岐路は、1993年に金融検査で経営破綻が判明した兵庫銀行をめぐって、日銀が「平成銀行」という受け皿金融機関をつくり、公的資金を注入して破綻処理しようとした案を、大蔵省の寺村信行銀行局長が「今はタイミングが悪い」といってつぶしたことだ。
この結果、兵銀の処理を先送りしているうちに、1995年に東京協和・安全の二信組問題が表面化してしまい、受け皿銀行(東京共同銀行)のスキームを二信組に適用せざるをえなくなった。ところが、この二信組はイ・アイ・イーの高橋治則の「貯金箱」といわれ、2人の大蔵官僚が過剰接待を受けていた事実が発覚したため、公的資金による破綻処理に対する批判が強まった。
1995年の1月には阪神大震災が起き、これが兵銀の命取りになったので、せめてこのとき「震災緊急措置」として兵銀の破綻処理を先にしておけばよかったのだが、受け皿銀行方式が最初に「つぶして当然」(武村蔵相)の二信組に適用されたため、公的資金注入に対する世論や野党の反発が強まり、危機が長期化して損害が拡大する結果になった。
このように日本の不良債権処理が混乱した最大の原因は、破綻処理を行なおうとする日銀を大蔵省が妨害し続けたことだ。だから財政と金融の分離が行なわれたのである。それを今度また「たすきがけ人事」に戻すと、次に危機が起きたとき(それは遠くないかもしれない)、また同じような失敗の原因になる。日銀の独立性を守り、金融危機に迅速に対応するため、武藤氏の昇格は避け、グリーンスパンやバーナンキのような民間人を起用することが望ましい。
追記:「インフレ目標さえ設ければ日銀総裁人事は重要じゃない」と主張するリフレ教条主義者もいるようだが、上にのべたように金融政策の目標も政策手段も多次元であり、物価上昇率だけでは判断できない。総裁人事は、きわめて重要である。
1990年代の金融政策の失敗の原因は、大蔵省と日銀の意思決定の齟齬だった。特に大きな岐路は、1993年に金融検査で経営破綻が判明した兵庫銀行をめぐって、日銀が「平成銀行」という受け皿金融機関をつくり、公的資金を注入して破綻処理しようとした案を、大蔵省の寺村信行銀行局長が「今はタイミングが悪い」といってつぶしたことだ。
この結果、兵銀の処理を先送りしているうちに、1995年に東京協和・安全の二信組問題が表面化してしまい、受け皿銀行(東京共同銀行)のスキームを二信組に適用せざるをえなくなった。ところが、この二信組はイ・アイ・イーの高橋治則の「貯金箱」といわれ、2人の大蔵官僚が過剰接待を受けていた事実が発覚したため、公的資金による破綻処理に対する批判が強まった。
1995年の1月には阪神大震災が起き、これが兵銀の命取りになったので、せめてこのとき「震災緊急措置」として兵銀の破綻処理を先にしておけばよかったのだが、受け皿銀行方式が最初に「つぶして当然」(武村蔵相)の二信組に適用されたため、公的資金注入に対する世論や野党の反発が強まり、危機が長期化して損害が拡大する結果になった。
このように日本の不良債権処理が混乱した最大の原因は、破綻処理を行なおうとする日銀を大蔵省が妨害し続けたことだ。だから財政と金融の分離が行なわれたのである。それを今度また「たすきがけ人事」に戻すと、次に危機が起きたとき(それは遠くないかもしれない)、また同じような失敗の原因になる。日銀の独立性を守り、金融危機に迅速に対応するため、武藤氏の昇格は避け、グリーンスパンやバーナンキのような民間人を起用することが望ましい。
追記:「インフレ目標さえ設ければ日銀総裁人事は重要じゃない」と主張するリフレ教条主義者もいるようだが、上にのべたように金融政策の目標も政策手段も多次元であり、物価上昇率だけでは判断できない。総裁人事は、きわめて重要である。
アメリカの経済がうまくいかなくなってきた1970年代から、ハイエクやフリードマンといった人々がケインズを批判し、再び古典派経済学を持ち出しました。[・・・]時代錯誤とも言えるこの理論は、新古典派経済学などと言われ、今もアメリカかぶれのエコノミストなどにもてはやされているのです。(藤原正彦『国家の品格』p.183)これは徹頭徹尾でたらめである。ハイエクやフリードマンは、当時の主流だった新古典派に挑戦したのであって、「古典派経済学を持ち出した」のではない。おまけに藤原氏は、シカゴ学派と新古典派を混同している――と私が編集者(『電波利権』と同じ担当者)に指摘したら、新しい版では「新自由主義経済学」と訂正されたが、そんな経済学も存在しない。
こういう素人だけならまだしも、宇沢弘文氏は、私の学生のころから「フリードマンがポンドの空売りをしようとして銀行に断られ、これを聞いた師匠のフランク・ナイトが激怒して、彼を破門した」という話をしていた(飲み屋で10回ぐらい聞いた)。しかしこれも、田中秀臣氏が検証しているように、宇沢氏の作り話だ。このようにフリードマンを「保守反動」と指弾し、ケインズのような「計画主義」を賞賛するのが、80年代まで日本の「進歩的知識人」のお約束だった。
理論面でも、フリードマンは初期にはほとんど受け入れられなかった。名著『資本主義と自由』も、出版された当時は酷評されたし、彼の提唱した通貨供給の「*%ルール」を採用する中央銀行もなかった。このルールの有効性は理論的にも実証的にも疑わしく、この意味で彼は「マネタリスト」としては成功しなかった。彼の最大の功績は、1968年に発表した「自然失業率」の理論である(*)。これは大論争を呼んだが、「財政政策は長期的には無効だ」という彼の理論は、その後の歴史によって証明され、ケインズ理論は葬られた。
・・・と思っていたら、FRBのバーナンキ議長は、先週の議会証言で財政政策が必要だとのべ、ブッシュ政権は1500億ドルの景気対策を発表した。これは選挙向けの人気取りに、バーナンキが迎合したという印象が強い。一昨日の記事でもふれたように、ケインズの『一般理論』も、失業対策を求める政治家のための理論武装だった。しかしクルーグマンとマンキューの意見が珍しく一致するように、財政政策というのは、他の政策がきかないときの「やけくそ戦略」でしかない。日本でも、これをまねする政治家が出てこないことを祈りたい。
追記:Reinhart-Rogoffは、今回のサブプライム危機が90年代の日本の金融危機と似ていると指摘している。かつて「インフレ目標を設定しない日銀はバカだ」と言い放ったバーナンキはどうするのだろうか。彼の尻馬に乗って日銀総裁を罵倒していたリフレ派も、自分の言論に責任をとってほしいものだ。
(*)この理論のわかりやすい説明が、1976年のノーベル賞受賞講演にある。
NHKの福地新会長がきょう就任し、職員に「NHKはがけっぷちに立っている」と訓示したそうだ。たしかに今度の事件は深刻だが、彼はNHKがどんながけっぷちに立っているかご存じだろうか。
これまでにもNHKは、何度もがけっぷちに立ってきた。最初は1990年ごろ、島会長が赤字財政を立て直そうとしたときだ。彼は報道をグローバルな24時間ニュースにする一方、番組制作局をプロダクションとして切り離し、ラジオ第2放送や教育テレビや衛星第2を廃止して「ビデオ販売に切り替える」と言っていた。今でいえば、ネット配信だ。
動きの激しい多メディア時代には、経営に国会承認が必要な公共放送では競争に勝てないので、NHK本体にはニュースと送出機能だけを残し、実質的な制作部門はMICO(国際メディア・コーポレーション)が中枢となり、世界の番組を輸入するとともに世界にNHKの番組を売る、というのが島の構想だった。いま思えば大風呂敷にすぎた面もあるが、福地氏には当時の経営戦略(NHKにまだ残っているだろう)を読んでみることをおすすめしたい。
しかし島に左遷された海老沢氏が、1991年にクーデターを起し、島とともに改革派を一掃してしまった。海老沢氏とその子分は、メディア戦略どころかテレビも知らない派閥記者で、ここからNHKの「失われた13年」が始まった。デジタル放送も、海老沢氏が技術陣のいいなりで始め、最初は「デジタルの伝道師」などと気取っていたが、やってみて失敗に気づいた。
今回の事件の示しているNHKの最大の問題は、情報システムまで含めて、技術がNHKのテレビ技術者に丸投げになっていることだ。彼らは個人的には優秀だが、その発想は20年前のIBMのメインフレーム技術者や10年前のNTTの「交換屋」の人々と同じで、レガシーシステムをいかに延命するか、という角度からしかものを考えない。それがISDB-Tからコピーワンスに至る混乱した戦略の原因だ。
私が9年前にNHKの技研に職員研修にまねかれたとき、「これからはすべてIPになるから、地上デジタル放送なんかやめるべきだ」といったら、質疑で出てきたのは「論理的には同感だが、どうすれば軌道修正できると思うか」「プラットフォームはむしろXMLになるのではないか」といった的確なものが多かった。当時の技研の所長も次長も「IPに対応しないと、われわれの食い扶持もなくなる」と言っていた。
ところが技術陣の本流は研究所ではなく、技術本部で調達や運用を行なっている人々だ。彼らは「放送ゼネコン」と癒着し、I通信機を初めとする調達先に大量に天下り、そこに開発させた機材を民生用の10倍ぐらいの価格で随意契約することで利権を温存している。まず、この利権構造にメスを入れる必要がある。技研も、民間に売却すべきだ。研究所をもっている放送局なんか、他の国にはない。
今度のお粗末なセキュリティも、そこから派生した問題である。私のいたころは局内に5社・6系統のコンピュータ・ネットワークがあり、たびたび「システム統合委員会」が開かれた。私も呼ばれたが、必ずITゼネコンの講師が出てきて「統合するなら当社のシステムで」とやり、それぞれに技術陣の応援団がついていたため、2年間に20回ぐらい会議をやっただけで何も結論は出なかった。
NCシステムで、いまだに20年前と同じメインフレームを使っているのには驚いたが、おそらく他のシステムもそう変わっていないだろう。「ネット配信」のセンターになるはずの川口のアーカイブのサーバに入っているのは、ベータマックス(!)の試写用映像だけで、それを東京からオンラインで見て資料請求すると、テープをトラックで運ぶ。60万本の資料テープの90%以上は、データ化もされていない。こんな石器時代みたいなシステムで、ネット配信なんかできっこない。
福地会長は、まず現在の理事を総辞職させ、外部からインターネットのわかる理事をまねくとともにCIOを設け、局内のシステムを報道・編成・資料・経理まですべてイントラネットに統合すべきだ。ついでに送出もIPに統合すれば、地デジもいらなくなる。だいたい地デジのストリームもIP over WDMで局間伝送しているのだから、それを電波に変換しないで、そのままDSLやFTTHに流せばいいのだ。
2011年にアナログを停波して地デジに移行できると思っている職員は、私の知るかぎり1人もいない。むしろ彼らが恐れているのは、もう1080iが最新技術ではないということだ。「フルハイビジョン」の液晶モニターで見ると、MPEG特有のツブレがはっきり見えて、アナログより汚ない。ハリウッドが(マスター画質である)1080pでネット配信を始めたら、地デジの唯一のセールスポイントである「高画質」も売り物にならない。
今からでも遅くない。UHF帯はすべて政府に返納し、コーデックをH.264に変更してVHF帯のガードバンドで地デジをやれば、中継局も視聴者のアンテナも今のままでデジタル化できる。今までに売れた受信機にはH.264のチューナーを配布すればよい。UHFの中継局を全国に建てるコストよりはるかに安い。
・・・という文章が理解できる理事も、おそらく1~2人しかいないだろう。賛成であれ反対であれ、この記事がわからないような職員は、たとえ「文科系」だろうと理事にしてはいけない。今回は、これまでのボタンの掛け違えをリセットし、古い約束を破る最後のチャンスである。
これまでにもNHKは、何度もがけっぷちに立ってきた。最初は1990年ごろ、島会長が赤字財政を立て直そうとしたときだ。彼は報道をグローバルな24時間ニュースにする一方、番組制作局をプロダクションとして切り離し、ラジオ第2放送や教育テレビや衛星第2を廃止して「ビデオ販売に切り替える」と言っていた。今でいえば、ネット配信だ。
動きの激しい多メディア時代には、経営に国会承認が必要な公共放送では競争に勝てないので、NHK本体にはニュースと送出機能だけを残し、実質的な制作部門はMICO(国際メディア・コーポレーション)が中枢となり、世界の番組を輸入するとともに世界にNHKの番組を売る、というのが島の構想だった。いま思えば大風呂敷にすぎた面もあるが、福地氏には当時の経営戦略(NHKにまだ残っているだろう)を読んでみることをおすすめしたい。
しかし島に左遷された海老沢氏が、1991年にクーデターを起し、島とともに改革派を一掃してしまった。海老沢氏とその子分は、メディア戦略どころかテレビも知らない派閥記者で、ここからNHKの「失われた13年」が始まった。デジタル放送も、海老沢氏が技術陣のいいなりで始め、最初は「デジタルの伝道師」などと気取っていたが、やってみて失敗に気づいた。
今回の事件の示しているNHKの最大の問題は、情報システムまで含めて、技術がNHKのテレビ技術者に丸投げになっていることだ。彼らは個人的には優秀だが、その発想は20年前のIBMのメインフレーム技術者や10年前のNTTの「交換屋」の人々と同じで、レガシーシステムをいかに延命するか、という角度からしかものを考えない。それがISDB-Tからコピーワンスに至る混乱した戦略の原因だ。
私が9年前にNHKの技研に職員研修にまねかれたとき、「これからはすべてIPになるから、地上デジタル放送なんかやめるべきだ」といったら、質疑で出てきたのは「論理的には同感だが、どうすれば軌道修正できると思うか」「プラットフォームはむしろXMLになるのではないか」といった的確なものが多かった。当時の技研の所長も次長も「IPに対応しないと、われわれの食い扶持もなくなる」と言っていた。
ところが技術陣の本流は研究所ではなく、技術本部で調達や運用を行なっている人々だ。彼らは「放送ゼネコン」と癒着し、I通信機を初めとする調達先に大量に天下り、そこに開発させた機材を民生用の10倍ぐらいの価格で随意契約することで利権を温存している。まず、この利権構造にメスを入れる必要がある。技研も、民間に売却すべきだ。研究所をもっている放送局なんか、他の国にはない。
今度のお粗末なセキュリティも、そこから派生した問題である。私のいたころは局内に5社・6系統のコンピュータ・ネットワークがあり、たびたび「システム統合委員会」が開かれた。私も呼ばれたが、必ずITゼネコンの講師が出てきて「統合するなら当社のシステムで」とやり、それぞれに技術陣の応援団がついていたため、2年間に20回ぐらい会議をやっただけで何も結論は出なかった。
NCシステムで、いまだに20年前と同じメインフレームを使っているのには驚いたが、おそらく他のシステムもそう変わっていないだろう。「ネット配信」のセンターになるはずの川口のアーカイブのサーバに入っているのは、ベータマックス(!)の試写用映像だけで、それを東京からオンラインで見て資料請求すると、テープをトラックで運ぶ。60万本の資料テープの90%以上は、データ化もされていない。こんな石器時代みたいなシステムで、ネット配信なんかできっこない。
福地会長は、まず現在の理事を総辞職させ、外部からインターネットのわかる理事をまねくとともにCIOを設け、局内のシステムを報道・編成・資料・経理まですべてイントラネットに統合すべきだ。ついでに送出もIPに統合すれば、地デジもいらなくなる。だいたい地デジのストリームもIP over WDMで局間伝送しているのだから、それを電波に変換しないで、そのままDSLやFTTHに流せばいいのだ。
2011年にアナログを停波して地デジに移行できると思っている職員は、私の知るかぎり1人もいない。むしろ彼らが恐れているのは、もう1080iが最新技術ではないということだ。「フルハイビジョン」の液晶モニターで見ると、MPEG特有のツブレがはっきり見えて、アナログより汚ない。ハリウッドが(マスター画質である)1080pでネット配信を始めたら、地デジの唯一のセールスポイントである「高画質」も売り物にならない。
今からでも遅くない。UHF帯はすべて政府に返納し、コーデックをH.264に変更してVHF帯のガードバンドで地デジをやれば、中継局も視聴者のアンテナも今のままでデジタル化できる。今までに売れた受信機にはH.264のチューナーを配布すればよい。UHFの中継局を全国に建てるコストよりはるかに安い。
・・・という文章が理解できる理事も、おそらく1~2人しかいないだろう。賛成であれ反対であれ、この記事がわからないような職員は、たとえ「文科系」だろうと理事にしてはいけない。今回は、これまでのボタンの掛け違えをリセットし、古い約束を破る最後のチャンスである。
東洋経済新報社は、ケインズの死後50年にわたって独占利潤を得たが、そのおかげでこの重要な本が読まれずに語られた弊害は大きい。著作権がいかに「反文化的」な制度かを示す好例だ。今度やっとパブリックドメインになって岩波文庫に入ったのはめでたいが、訳が最悪なので、ちゃんと勉強する人は原著を読んだほうがいいだろう。
しかし原著で読んでも、非常にわかりにくい。教科書に書いてあるIS-LMみたいな明快な分析はどこにもなく、哲学的な話が延々と書かれていて面食らう。大恐慌のさなかに政策提言としてバタバタと書かれたので、議論が未整理で曖昧なのだ。「古典派」が間違っている例として、いろいろアドホックな不完全性が挙げられるが、なぜそういう不均衡がずっと続くのか、という理論的説明はない。それなのに、有効需要が完全雇用をもたらす水準と一致するのは「特殊な場合」で、一般にはその必然性はない、という結論が何度も繰り返される。
要するに『一般理論』は、そのタイトルに反して、30年代の特殊な状況に対応して「失業対策に政府が金を出せ」という処方箋を書いた政治的パンフレットなのである。ケインズ自身が、師マーシャルの追悼文で、経済学者の本業はパンフレットを書くことだとのべている:
経済学者たちは、四つ折り版の栄誉をひとりアダム・スミスだけに任せなければならない。その日の出来事をつかみとり、パンフレットを風に吹き飛ばし、つねに時間の相の下にものを書いて、たとえ不朽の名声に達することがあるにしても、それは偶然によるものでなければならない。経済学は、自然科学のように真理を探究する学問ではない。それは応用科学にすぎず、政策として役に立たなければ何の価値もないのだ。国際ジャーナルに載せるためには、定理と証明という形で論文を書かなければならないが、これは茶道の作法みたいなものだ。その作法を守らないと家元に認めてもらえないので、ポスドクのころは一生懸命に論文を書くが、終身雇用ポストを得るとやめてしまう。そんな作法が生活の役に立たないことをみんな知っているからだ。
しかしインターネットは、そういう状況を変えつつある。2年も3年もかけて国際ジャーナルに載せるより、本当に大事な論文はディスカッションペーパーでウェブに出して、いろいろな人に引用してもらったほうが有利だ。そして、いくら数学的に優美でも、政策的に意味のない論文はウェブでは相手にされない。これは健全な傾向だ。ケインズも言ったように、経済学はジャーナリズムだからである。手前味噌をいわせてもらえば、当ブログのような「パンフレット」こそ経済学者の本業かもしれない。
きょう世界第3位の検索エンジン、Baidu(百度)の日本語サイトの運用が始まり、それに合わせて中国本社のCEO、Robin Li氏が来日した。そのミーティングにまねかれたので行ってみたら、記者会見ではなく、佐々木俊尚氏やDan氏など、おなじみのブロガーばかり10人ほど。ブログから1次情報の出る日が来たのかもしれない。
気の毒な大手メディアのために、とりあえず第一報を提供しておくと、Li氏は39歳。NY州立大学で修士号をとった、絵に描いたようにハンサムな中国の新世代エリートだ。Baiduの中国内シェアは70%、世界市場シェアは5%で、Google、Yahoo!に次ぐ。日本での戦略は、Yahoo!などに対抗するのではなく、「セカンド・サーチエンジン」をねらうという。特徴は「遊ぶ」検索サービスで、動画検索や画像検索に力を入れる。漢字文化圏どうしの強みを生かして、検索精度も上げる。
ただし「キラー・アプリ」のMP3検索は、日本語版にはない。質問も当然そこに集中したが、「日本では日本の著作権法に従う」とのこと。「日本では検索エンジンそのものが違法なんですけど。Yahoo!Japanもgooもサーバをアメリカに置いてるけど、著作権法は属地主義だから、事業所が日本にあると違法ですよ」と私がまぜかえすと、答に困っていた。「日本でうまく行く知恵はないか」というので、私が提案した思いつきは2つ:
(*)もちろん著作権法を厳密に適用すると、検索エンジン自体が違法だが、いくら愚かな日本の警察でも検挙できないだろう。日本の会社はおとがめなしでBaiduだけやったら、国際問題になる。
気の毒な大手メディアのために、とりあえず第一報を提供しておくと、Li氏は39歳。NY州立大学で修士号をとった、絵に描いたようにハンサムな中国の新世代エリートだ。Baiduの中国内シェアは70%、世界市場シェアは5%で、Google、Yahoo!に次ぐ。日本での戦略は、Yahoo!などに対抗するのではなく、「セカンド・サーチエンジン」をねらうという。特徴は「遊ぶ」検索サービスで、動画検索や画像検索に力を入れる。漢字文化圏どうしの強みを生かして、検索精度も上げる。
ただし「キラー・アプリ」のMP3検索は、日本語版にはない。質問も当然そこに集中したが、「日本では日本の著作権法に従う」とのこと。「日本では検索エンジンそのものが違法なんですけど。Yahoo!Japanもgooもサーバをアメリカに置いてるけど、著作権法は属地主義だから、事業所が日本にあると違法ですよ」と私がまぜかえすと、答に困っていた。「日本でうまく行く知恵はないか」というので、私が提案した思いつきは2つ:
- 日本語版でMP3検索サービスを始める:プロバイダ責任制限法で、著作権法違反を指摘されたら削除しなければならないが、ファイルを検索可能にすること自体は合法である(*)。MP3.comも、初期にはDMCAで合法だった。こういうサービスを始めれば、世界中のメディアが注目し、Napsterのように何も広告を出さなくても3000万ユーザーぐらい行くだろう。
- サーバだけでなく、日本向けサービス部門も中国に置いて日本語でMP3検索サービスを始める:これは、今のところ中国では合法だ。最高人民法院まで行ってどうなるかは、中国共産党の意向しだいだが、彼らがこれを合法化すれば、Baiduは愚かな著作権法のもとで営業せざるをえない欧米の検索エンジンに比べて、圧倒的な優位をもつ。権利者は許諾権を放棄する代わり、収益をシェアすればいいのだ(Baiduは現に中国でやっている)。
(*)もちろん著作権法を厳密に適用すると、検索エンジン自体が違法だが、いくら愚かな日本の警察でも検挙できないだろう。日本の会社はおとがめなしでBaiduだけやったら、国際問題になる。
知的財産権の権威として知られる、東大の中山信弘教授の最終講義が、きのう行なわれた。
その中で「従来は権利者側だけだったが、情報を扱う機器のメーカーも、すべてのユーザーもプレーヤーとして登場した。そのことを印象づけたのが、2004年に起こった海外向け邦楽CDの還流(逆輸入)禁止の動きだった」というのが印象に残った。あの騒ぎのきっかけになったのは、私がCNETに書いたコラムだったからだ。今のMIAUのメンバーも、あのころそろっていた。
「権利者の利益だけでなく、社会全体の利益との調和点を探ることが必要だ」というのも当たり前のことだが、文化庁の職員の端末の壁紙にでも大書してほしいものだ。「所有権のドグマ」を批判した中山氏の教科書も、異例の売れ行きを見せた。「現行の知財法体系を全面的に改めるような新体系」の研究も始まっているようだ。確実に流れは変わっている。
「コンドルは飛んでゆく」で巨額の印税を得たポール・サイモンは、それをペルーに還元したわけではない。もし五線譜の記譜法がなかったら、民謡を採譜してヒット曲にすることもできない。作者が100%オリジナルにつくった作品などというものは存在しないのだ。「私が遠くまで見ることができるのは、先人の肩の上に乗っているからだ」というニュートンの有名な言葉のように、知識はすべて先人の蓄積の上に成り立っているのである。
ポズナーも指摘するように、かつて書物は、著者と印刷工と版元の共同作業であり、シェイクスピアの作品は過去の作品の改良版だった。著者やオリジナリティという概念は、個人がすべてを創造するという18世紀のロマン主義が作り出した神話にすぎない。そしてオープンソースによって、21世紀の社会はシェイクスピアの時代に帰ろうとしている。
「はじめに文化ありき」と称して、作品がゼロからできたかのように語っているのは、自分で文化を創造したことのない、既得権にぶら下がる人々だ。市川団十郎氏は、自分で歌舞伎を書いたのか。「初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。すべてのものは、これによってできた」というヨハネ伝の最初の言葉は、最初に神の言葉があり、人々はそれを継承することによって世界を築いた、という彼らの意図とは逆のことを語っているのである。
その中で「従来は権利者側だけだったが、情報を扱う機器のメーカーも、すべてのユーザーもプレーヤーとして登場した。そのことを印象づけたのが、2004年に起こった海外向け邦楽CDの還流(逆輸入)禁止の動きだった」というのが印象に残った。あの騒ぎのきっかけになったのは、私がCNETに書いたコラムだったからだ。今のMIAUのメンバーも、あのころそろっていた。
「権利者の利益だけでなく、社会全体の利益との調和点を探ることが必要だ」というのも当たり前のことだが、文化庁の職員の端末の壁紙にでも大書してほしいものだ。「所有権のドグマ」を批判した中山氏の教科書も、異例の売れ行きを見せた。「現行の知財法体系を全面的に改めるような新体系」の研究も始まっているようだ。確実に流れは変わっている。
「コンドルは飛んでゆく」で巨額の印税を得たポール・サイモンは、それをペルーに還元したわけではない。もし五線譜の記譜法がなかったら、民謡を採譜してヒット曲にすることもできない。作者が100%オリジナルにつくった作品などというものは存在しないのだ。「私が遠くまで見ることができるのは、先人の肩の上に乗っているからだ」というニュートンの有名な言葉のように、知識はすべて先人の蓄積の上に成り立っているのである。
ポズナーも指摘するように、かつて書物は、著者と印刷工と版元の共同作業であり、シェイクスピアの作品は過去の作品の改良版だった。著者やオリジナリティという概念は、個人がすべてを創造するという18世紀のロマン主義が作り出した神話にすぎない。そしてオープンソースによって、21世紀の社会はシェイクスピアの時代に帰ろうとしている。
「はじめに文化ありき」と称して、作品がゼロからできたかのように語っているのは、自分で文化を創造したことのない、既得権にぶら下がる人々だ。市川団十郎氏は、自分で歌舞伎を書いたのか。「初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。すべてのものは、これによってできた」というヨハネ伝の最初の言葉は、最初に神の言葉があり、人々はそれを継承することによって世界を築いた、という彼らの意図とは逆のことを語っているのである。
本書はそれを枕に使いながら、まさに小説より奇怪な偽ドル事件の実態を描いている。私も奇異に思ったのは、2005年にバンコ・デルタ・アジア(BDA)が北朝鮮の資金洗浄を行なっていると主張するアメリカ政府の要求で資産凍結され、それに対して北朝鮮が抗議したとき、翌年ベルリンで2ヶ国協議を行ない、そのあと2007年の6ヶ国協議でアメリカが急に弱腰になったことだ。「テロリストとは交渉しない」はずのブッシュ政権が、テロ国家と名指した国と協議し、「核査察は金融制裁を解除しないと認めない」という筋違いの要求をのんだのは奇妙である。何かアメリカ側に弱みがあったとしか考えられない。
アメリカ政府がBDAを封鎖したのは、北朝鮮の印刷している精巧な偽札「スーパーノート」を流通させているという容疑だったが、そういう証拠は強制捜査でも出てこなかった。むしろスーパーノートほど精巧な偽物を北朝鮮の技術と資金力でつくることは不可能だ、というのが専門家の一致した意見だ。特にドイツの『フランクフルター・アルゲマイネ』のベンダー記者の分析によれば、
- 2006年、国際刑事警察機構に各国の専門家60人が集まってスーパーノート問題を協議した場で、アメリカ政府はそれが北朝鮮製であると主張したが、説得力のある証拠を何も示すことができなかった。
- スーパーノートは、最新の検知器で紫外線か赤外線を透過して検査しないと判別できない。100ドル札の用紙は特殊なもので、偽造防止用に微細な糸が混入され、1/42000インチの文字が印刷されているが、スーパーノートはこれらをすべて忠実に再現している。北朝鮮の紙幣にみられる貧弱な印刷技術では不可能だ。
- 印刷技術もきわめて特殊で、印刷機は厳重な監視下に置かれているので、部外者が入手することはできない。インクも見る角度で色の変わる特殊なもので、その製造法も秘密である。
- スーパーノートが北朝鮮からの送金に使われたことは事実だが、それは欧州に配備された最新の検知器ですぐ発覚し、今のところ5000万ドルしか見つかっていない。彼らがこれを資金源にしようとしたのなら、なぜアジアで使わないで、わざわざ最新の検知器のある欧州で、しかも足のつく形で使ったのか。
ここから先は、著者の大きな構図の話が展開されるので、あとは本書を読んでいただくしかないが、私の印象では、このCIA説はおもしろいが、決定的な証拠に欠ける。たしかにCIAは、これまで海外で数多く違法な工作を行なってきたが、スーパーノートはかえってアメリカ政府を窮地に追い込んでしまった。もっともCIAの謀略が失敗続きだったことも事実だが・・・
いずれにせよ、北朝鮮担当の外交官だった著者の分析は、『ウルトラ・ダラー』や、それを受け売りしている佐藤優氏(彼はロシアの専門家にすぎない)の話よりはるかに説得力があり、おもしろい。最近の、佐藤氏を初めとするいい加減な「インテリジェンス・ブーム」に警鐘を鳴らす意味でも重要だ。
当ブログは、きのうも4万2000アクセスと、最高記録を更新した。何が起きたのか、職員にろくに説明しない(わかってもいない)経営陣に不満をもつ職員が、情報を求めてアクセスしているのだろう。けさの朝日新聞にも、当ブログの記事をベースにしてくわしい解説が出ているが、これを読んで私もやっと原因に気がついた。
前にも書いたように、NHKでは「汎用原稿」という各チャンネルで共通に使える原稿をオンラインで送り、各部でニュース原稿にする。私のころは、汎用原稿を編集してニュース原稿にしていたが、最近はテレビニュースでは汎用原稿をそのまま放送しているようだ。資料用には、別の原稿を用意しているのかもしれない(20年間にそれぐらいの変化はあるだろう)。
最大の違いは、実は20年前は100%電子化できず、スタジオには紙が残ったことだ。当時、CNNなどはオンラインでプロンプター(カメラの上のモニター)に出しており、NHKもそうするつもりだったのだが、横書きの原稿は読みにくいというので縦書きにしたところ、画面で見るとアナウンサーの目が上下に動いて「ニワトリが餌を食ってるみたいだ」といわれ、ここだけは紙を残さざるをえなかった。だから編集ずみのニュース原稿は紙で読み、スーパーなどの作成も紙でやっていた。
しかしこの記事によれば、今は「スーパーの作成やアナウンサーの下読み」も汎用原稿でやっているという。たしかに最近はアナウンサーも下を見ないから、プロンプターも横書きにして性能を上げたのだろう。普通はスーパーを22分でつくるのはむずかしいと思うが、3時のニュースぐらいなら、タイトルだけだから可能だ。
つまり、かつては特ダネ原稿はオンラインに出さないで紙ベースで作業をしていたのが、システムの「進歩」によって本当に100%電子化したため、22分も前に汎用原稿を出さざるをえなかったわけだ。ただ、スーパーについては普通はもっと時間がかかるから、本当の特ダネは紙でやるだろう。スーパーも汎用原稿でつくったのは「手抜きモード」でやった可能性がある。
しかし、これはアカウント管理がまずい。こういう作業が必要なら、テレビニュースとタイトルとアナウンサー席だけに見える「ニュース原稿」というファイル属性を区分し、直接担当する職員だけが見えるようにすべきだ。担当者は忙しいから、インサイダー取引なんかする暇もない。
パスワード管理も、やはりいい加減だったようだ。岐阜の記者は出稿した記者の内線番号を入力して解禁前の原稿を見たらしい。また、見出しは「外食問題」として中身がわからないように配慮されていたが、関連のスチール写真がキャプションつきでオンライン化されていたというから、やはり「頭隠して尻隠さず」だったわけだ。
全体として、20年前の設計をそのまま継承し、おまけに100%電子化したため、汎用化を早めたことが今回の事件につながったと思われる。原稿の分類をもっと細かくし、汎用原稿は放送までは見せないで、作業は担当者だけのニュース原稿でやったほうがいい。アカウント管理も、出稿部とテレビニュースの数十人が見える「秘」モードと、8000人以上(職員5400人+契約社員2700人)が見えるモードしかないというのもアバウトすぎる。直接の担当者だけが見えるような、もっと細かい権限設定が必要だ。
この記事をみても、20年前と同じセキュリティ管理でやっているのが根本的な問題だ。かつては「新NCプロジェクト」に各部から出向し、1年以上かかってシステム設計をした。プロジェクトのチーフだった川上CPは、コンピュータのエクスパートだったので、当時としては世界的にも先進的なシステムができたが、彼は名古屋放送局長を最後に退職したので、彼ほどシステムを理解している人がいないのだろう。
今度はレガシーシステムを捨て、NHK全体をイントラネットでシステム統合する、全局をあげたプロジェクトをつくるべきだ。職員を査問したり説教したりするより、セキュリティ管理を徹底することが根本的な対策である。
前にも書いたように、NHKでは「汎用原稿」という各チャンネルで共通に使える原稿をオンラインで送り、各部でニュース原稿にする。私のころは、汎用原稿を編集してニュース原稿にしていたが、最近はテレビニュースでは汎用原稿をそのまま放送しているようだ。資料用には、別の原稿を用意しているのかもしれない(20年間にそれぐらいの変化はあるだろう)。
最大の違いは、実は20年前は100%電子化できず、スタジオには紙が残ったことだ。当時、CNNなどはオンラインでプロンプター(カメラの上のモニター)に出しており、NHKもそうするつもりだったのだが、横書きの原稿は読みにくいというので縦書きにしたところ、画面で見るとアナウンサーの目が上下に動いて「ニワトリが餌を食ってるみたいだ」といわれ、ここだけは紙を残さざるをえなかった。だから編集ずみのニュース原稿は紙で読み、スーパーなどの作成も紙でやっていた。
しかしこの記事によれば、今は「スーパーの作成やアナウンサーの下読み」も汎用原稿でやっているという。たしかに最近はアナウンサーも下を見ないから、プロンプターも横書きにして性能を上げたのだろう。普通はスーパーを22分でつくるのはむずかしいと思うが、3時のニュースぐらいなら、タイトルだけだから可能だ。
つまり、かつては特ダネ原稿はオンラインに出さないで紙ベースで作業をしていたのが、システムの「進歩」によって本当に100%電子化したため、22分も前に汎用原稿を出さざるをえなかったわけだ。ただ、スーパーについては普通はもっと時間がかかるから、本当の特ダネは紙でやるだろう。スーパーも汎用原稿でつくったのは「手抜きモード」でやった可能性がある。
しかし、これはアカウント管理がまずい。こういう作業が必要なら、テレビニュースとタイトルとアナウンサー席だけに見える「ニュース原稿」というファイル属性を区分し、直接担当する職員だけが見えるようにすべきだ。担当者は忙しいから、インサイダー取引なんかする暇もない。
パスワード管理も、やはりいい加減だったようだ。岐阜の記者は出稿した記者の内線番号を入力して解禁前の原稿を見たらしい。また、見出しは「外食問題」として中身がわからないように配慮されていたが、関連のスチール写真がキャプションつきでオンライン化されていたというから、やはり「頭隠して尻隠さず」だったわけだ。
全体として、20年前の設計をそのまま継承し、おまけに100%電子化したため、汎用化を早めたことが今回の事件につながったと思われる。原稿の分類をもっと細かくし、汎用原稿は放送までは見せないで、作業は担当者だけのニュース原稿でやったほうがいい。アカウント管理も、出稿部とテレビニュースの数十人が見える「秘」モードと、8000人以上(職員5400人+契約社員2700人)が見えるモードしかないというのもアバウトすぎる。直接の担当者だけが見えるような、もっと細かい権限設定が必要だ。
この記事をみても、20年前と同じセキュリティ管理でやっているのが根本的な問題だ。かつては「新NCプロジェクト」に各部から出向し、1年以上かかってシステム設計をした。プロジェクトのチーフだった川上CPは、コンピュータのエクスパートだったので、当時としては世界的にも先進的なシステムができたが、彼は名古屋放送局長を最後に退職したので、彼ほどシステムを理解している人がいないのだろう。
今度はレガシーシステムを捨て、NHK全体をイントラネットでシステム統合する、全局をあげたプロジェクトをつくるべきだ。職員を査問したり説教したりするより、セキュリティ管理を徹底することが根本的な対策である。
きのうのインサイダー取引についての短い記事には、予想以上に多くのアクセスが来て、当ブログはgooのアクセスランキングで第1位になってしまった。しかしコメントなどを見ても、「お上が悪いと決めたことは悪い」と繰り返す人が多い。そういう人には前の記事のリンク先を読んでもらうとして、深刻なのはこうした過剰コンプライアンスが、政府が「もはや一流ではない」と宣告した日本経済を三流、四流に転落させることだ。
インサイダー取引を規制すべきではないという議論は、昔からある。50年前にそういう本を書いたHenry Manneが最近、その後の議論を総括しているが、それによれば、彼に寄せられた批判のうち唯一、理論的に意味があるのは、短期で売買するデイトレーダーのような人々は、インサイダー取引で損をする可能性があるということだ。
逆にいうと、長期保有する普通の投資家にとっては、インサイダー取引のメリットのほうが大きい。Manneも引用している有名なハイエクの論文にも書かれているように、株式の値上がりは「その企業によい材料がある」というシグナルになり、その株式の買いを増やして、市場を効率的にするからである。
また起業家への報酬としても、インサイダー取引は有用だ。たとえば有望な製品を開発したベンチャー企業は、他社が追随するには1年以上かかるぐらい完成させてから、IPOして製品を発表すれば、株式の売却益でもうけることができる。公開後でもインサイダー取引を使えば、特許や著作権で情報を守らなくても、株式市場でもうけるビジネスモデルが可能だ。
これに対して、規制の根拠となっている「インサイダー取引によって市場への信頼が失われると、出来高が細って資金調達が困難になる」という議論は、実証的に裏づけられていない。たとえば1980年代にアメリカで摘発された大規模なインサイダー取引事件によって、市場への信頼は失われたというが、株式の出来高はずっと堅調だった。インサイダー規制を実施した国で、それによって出来高が増えたという事実もない(くわしい実証研究のリストはBainbridge参照)。
「岡っ引き根性」の議論を繰り返す人々は、企業家精神というものを理解していないのだろう。資本主義の本質は「額に汗して働く」ことではなく、カーズナーのいうように、「だれも知らない情報を見つけて鞘をとる」ことなのである。この意味で、利潤の出る取引はすべてインサイダー取引だといってもよい。
他方、特許や著作権では、こうしたインサイダー情報が公知の事実になってからも、過剰に保護している。こっちのほうがはるかに有害だ。ハイエクも「知的財産権」には反対していた。政府も大衆も、企業家精神とかベンチャーとかいいながら、こうした資本主義の本質を理解していないことが、日本の衰退の根っこにあるような気がする。
インサイダー取引を規制すべきではないという議論は、昔からある。50年前にそういう本を書いたHenry Manneが最近、その後の議論を総括しているが、それによれば、彼に寄せられた批判のうち唯一、理論的に意味があるのは、短期で売買するデイトレーダーのような人々は、インサイダー取引で損をする可能性があるということだ。
逆にいうと、長期保有する普通の投資家にとっては、インサイダー取引のメリットのほうが大きい。Manneも引用している有名なハイエクの論文にも書かれているように、株式の値上がりは「その企業によい材料がある」というシグナルになり、その株式の買いを増やして、市場を効率的にするからである。
また起業家への報酬としても、インサイダー取引は有用だ。たとえば有望な製品を開発したベンチャー企業は、他社が追随するには1年以上かかるぐらい完成させてから、IPOして製品を発表すれば、株式の売却益でもうけることができる。公開後でもインサイダー取引を使えば、特許や著作権で情報を守らなくても、株式市場でもうけるビジネスモデルが可能だ。
これに対して、規制の根拠となっている「インサイダー取引によって市場への信頼が失われると、出来高が細って資金調達が困難になる」という議論は、実証的に裏づけられていない。たとえば1980年代にアメリカで摘発された大規模なインサイダー取引事件によって、市場への信頼は失われたというが、株式の出来高はずっと堅調だった。インサイダー規制を実施した国で、それによって出来高が増えたという事実もない(くわしい実証研究のリストはBainbridge参照)。
「岡っ引き根性」の議論を繰り返す人々は、企業家精神というものを理解していないのだろう。資本主義の本質は「額に汗して働く」ことではなく、カーズナーのいうように、「だれも知らない情報を見つけて鞘をとる」ことなのである。この意味で、利潤の出る取引はすべてインサイダー取引だといってもよい。
他方、特許や著作権では、こうしたインサイダー情報が公知の事実になってからも、過剰に保護している。こっちのほうがはるかに有害だ。ハイエクも「知的財産権」には反対していた。政府も大衆も、企業家精神とかベンチャーとかいいながら、こうした資本主義の本質を理解していないことが、日本の衰退の根っこにあるような気がする。

これに対して日本では、裁判は犯罪者をこらしめる「お裁き」であり、有罪になった者は一生、その十字架を背負わければならない。この違いが、東京裁判をめぐって延々と続く感情的な論争をもたらしているのだろう。しかし私の世代には「東京裁判史観」を憎む感情もなければ、大江健三郎氏のように子供のころ刷り込まれた絶対平和主義もない。そろそろ戦争について、感情を抜きにして事実にもとづいた議論ができるようになってもいいだろう。
著者も私より1世代下で、どちらの立場でもない。東京裁判が事後的な「勝者の裁き」だというのは明白だが、だからといって全面否定はしない。東京裁判が「正義」かどうかを論じても意味がない。それは第一義的には占領統治の一部であり、裁判という形式をとった連合国の国際政治における安全保障政策だったからである。当時は、国際法上は日本と連合国はまだ交戦状態にあり、日本を無力化してふたたび連合国に宣戦しないようにすることが、東京裁判の目的だった。
だから最大の焦点だった天皇の戦争責任についても、オーストラリア以外は(ソ連でさえ)天皇を起訴する気はなかった。イギリスは「占領コストの削減にとって、天皇を戦犯として起訴することは、重大な政治的誤りであろう」とオーストラリアに反対した。「天皇は占領統治の道具であり、それを破壊したら、第一次大戦でドイツの皇帝を追放したためにドイツ人がヒトラーを求めた失敗を繰り返すことになろう」。天皇を占領コスト削減の道具ととらえるプラグマティックな発想に、この裁判の本質があらわれている。
だから著者の、インドのパル判事についての評価も低い。彼は、そういう東京裁判の本質を理解できなかったため、手続き論によって勝者の裁きを否定し、反植民地主義によって日本の戦争を「自存自衛」のためのものとしたが、判事団の主流にはまったく影響を与えることができなかった。
侵略や植民地支配がいけないというなら、弁護団も主張したように、100年以上にわたって世界中を植民地支配したイギリスの罪のほうがはるかに重い。19世紀の植民地化はいいが、1928年の不戦条約以後は侵略は国際法違反になった、という解釈もご都合主義だ。だから論理的には東京裁判の判決は破綻しているが、それは判決という形をとった日本の旧統治機構の破壊なのだから、戦争の終結(サンフランシスコ条約)とともに終わったのだ。
しかし裁判という形をとったことによる限界もあった、と私は思う。特定の軍人や政治家だけが「戦犯」で、無垢な国民は軍に「強制」されただけだという、東京裁判の(コスト削減のために便宜上つくった)図式が今日まで残り、慰安婦問題でも沖縄問題でも、軍にすべての罪をかぶせて勧善懲悪の芝居を演じる人がいまだに残っている。占領統治に使うため、官僚機構を温存したのも間違いだった。それこそが日本を誤った道に導いた主犯だったからだ。
憲法も占領統治のツールにすぎなかったので、いまだにそれを不磨の大典のように頂いているのは滑稽だ。安倍晋三氏のいうのとは違う意味で、占領統治の遺制をいまだに残す「戦後レジーム」を転換し、彼の祖父に代表される官僚社会主義を清算することが、われわれの世代以下の課題だろう。
私のRSSリーダーには、日本のブログは5つしか入っていないので、それ以外は読まないのだが、その1つであるdankogai氏からのTBで、また内田樹氏の変な記事を読まされたので、簡単に事実誤認を訂正しておく。
まず今回のNHKの事件が「モラルハザード」だというのは誤りである。これはウィキペディアに書かれている通り、「プリンシパル・エージェント関係において、エージェントの行動について、プリンシパルが知りえない情報があることから、エージェントの行動に歪みが生じ、効率的な資源配分が妨げられる現象」をさす。つまり契約の一方の当事者が、隠れて相手の利益に反する行動をとることであり、市場にプリンシパルはいないので、今回の事件はモラルハザードではない。
したがって以下の記事はすべてナンセンスなのだが、他にも間違いが多い。「インサイダーはアウトサイダーとの情報差を利用して金儲けをしてはいけないという常識」とあるが、磯崎さんも指摘するように、これも常識ではない。そもそも今回の事件がインサイダー取引にあたるかどうかも疑わしい。
インサイダー取引を取り締まる必要はないという説も、経済学では有力だ。内田氏も(皮肉のつもりで)書いているとおり「企業活動の変化を市場に先んじて察知した投資家が短期間に莫大な利益を得るというのは合法的な経済活動」だからである。これも当ブログで論じたとおり、インサイダー取引は自然法的には違法行為とはいえないし、株式以外の市場(商品先物など)では規制されていない。「モラルハザードというのはマルチ商法に似ている」というのも意味不明だ。モラルハザードは、他人を「騙す」行為ではない。
内田氏は現代思想の専門家らしいが、以前のマルクスの記事といい、ちょっと前のポパーの記事といい、文献をちゃんと読んでいない上に、今回のように他の学問分野の専門用語を誤って使うようでは、彼のたくさん書いている本も信頼性を問われよう。私は読んだことはないし、読む気もないが。
まず今回のNHKの事件が「モラルハザード」だというのは誤りである。これはウィキペディアに書かれている通り、「プリンシパル・エージェント関係において、エージェントの行動について、プリンシパルが知りえない情報があることから、エージェントの行動に歪みが生じ、効率的な資源配分が妨げられる現象」をさす。つまり契約の一方の当事者が、隠れて相手の利益に反する行動をとることであり、市場にプリンシパルはいないので、今回の事件はモラルハザードではない。
したがって以下の記事はすべてナンセンスなのだが、他にも間違いが多い。「インサイダーはアウトサイダーとの情報差を利用して金儲けをしてはいけないという常識」とあるが、磯崎さんも指摘するように、これも常識ではない。そもそも今回の事件がインサイダー取引にあたるかどうかも疑わしい。
インサイダー取引を取り締まる必要はないという説も、経済学では有力だ。内田氏も(皮肉のつもりで)書いているとおり「企業活動の変化を市場に先んじて察知した投資家が短期間に莫大な利益を得るというのは合法的な経済活動」だからである。これも当ブログで論じたとおり、インサイダー取引は自然法的には違法行為とはいえないし、株式以外の市場(商品先物など)では規制されていない。「モラルハザードというのはマルチ商法に似ている」というのも意味不明だ。モラルハザードは、他人を「騙す」行為ではない。
内田氏は現代思想の専門家らしいが、以前のマルクスの記事といい、ちょっと前のポパーの記事といい、文献をちゃんと読んでいない上に、今回のように他の学問分野の専門用語を誤って使うようでは、彼のたくさん書いている本も信頼性を問われよう。私は読んだことはないし、読む気もないが。
きのうは4万ページビューを越え、当ブログの最高を記録した。NHK職員が、多数アクセスしていると思われる。NCシステムは、驚いたことに私が20年前に参加してつくった基本設計ばかりか端末(NEC5300)まで同じらしいから、私の知識が使えるという前提で、問題を少し整理しておきたい。
NHKは来週末までに全職員11000人と契約社員を含む査問を行なうことを決めたが、これは役所向けのポーズにはなっても実質的な効果はない。ドタバタと自己申告の査問をやっても、証拠もなしに「私はインサイダー取引をしました」と名乗り出てくる職員がいるはずもない。それより監視委が調べた884件の不審な取引の情報を入手してシステムのログと照合し、疑わしいアクセスを絞り込んでから査問すべきだ。
そもそも基本的な事実関係がよくわからない。記者会見では、石村理事が「2時38分から5000人がアクセス可能だった」と答えているが、産経によれば、2時間前から「デスクなど一部の人間」には読めたという。したがって3人のうち、東京のテレビニュース(整理部)は、2時間前からアクセスできた可能性が高い。
テレビニュースにアクセス制限をかけると仕事にならないので、これは第一義的には本人のモラルの問題だ。ただテレビニュースの中でも、当の原稿に関係のない記者が見る必要はないので、今回のように「解禁」のある原稿は、放送までは出稿者と担当デスク以外はアクセス禁止にするなど、もう少しきめ細かいアカウント管理を行なうことで、かなり問題は防げるだろう。
もう一つは、アクセス制限しても、見出しに何と書かれていたかだ(*)。5300では見出しは一覧できるので、原稿が読めなくても、見出しに両社の固有名詞が入っていれば、インサイダー取引の材料になる。自宅へ帰って取引したというのは、22分間では考えにくいので、2時間前から知っていた可能性が高い。出稿された原稿のタイトルを変えないで、アクセス制限だけかけていたという「頭隠して尻隠さず」の状態だった可能性がある。
また読売によれば、水戸と岐阜のうちどちらかは、アクセス制限のかかっている時刻にパスワードを入力して原稿を見たという。常識的には、地方局に解禁前の原稿へのアクセス権を与えているとは考えられないが、与えていたとしたらシステム管理がおかしい。最悪の場合は、パスワードが盗まれたことも考えられる。
何より問題なのは、なぜ22分も前にアクセス制限を解除したのかということだ。石村理事も「5分前でもよかった」といっているが、3時のニュースは総合テレビとラジオ第一だけなので、汎用原稿を出すのは放送後でもいいはずだ。アクセス制限と解除についての手続きが整理されていないのではないか。
私のいたころは、まだ端末も100台ぐらいしかなく、報道しか読めなかったので、それほど問題はなかったが、今は端末は1000台、おまけにPCからも接続できるようになっているというから、5000人全員が端末をもっているに等しい。放送前のデリケートな情報が「中継や回線のコーディネートなどの放送技術の人も見られる」というのは、システム設計がおかしい。
根本的な問題は、20年前とほとんど変わらないセキュリティ管理のまま、アクセス範囲をどんどん広げたことだ。私のいたころはNHKが仕様を決めたので、システムの内容を把握していたが、それをそのまま20年も使っているうちに、ブラックボックスになっているのだろう。NECのメインフレームをまだ使っているというのも驚異的だ。システムをコテコテにカスタマイズして囲い込む「ITゼネコンの囚人」になっているのだ。
この調子では、局内に報道・編成・資料・経理など6系統も(互換性のない)コンピュータ・ネットワークがある混乱した状態も、大して直っていないと思われる。これを機会にITゼネコンと手を切り、システムをイントラネットに統合して汎用アプリケーションに切り替え、セキュリティ管理を見直すべきだ。「倫理」を説教するより、システムで防ぐことが第一である。
(*)朝日によれば、タイトルは「外食問題」で、3時のニュースのトップだったという。
NHKは来週末までに全職員11000人と契約社員を含む査問を行なうことを決めたが、これは役所向けのポーズにはなっても実質的な効果はない。ドタバタと自己申告の査問をやっても、証拠もなしに「私はインサイダー取引をしました」と名乗り出てくる職員がいるはずもない。それより監視委が調べた884件の不審な取引の情報を入手してシステムのログと照合し、疑わしいアクセスを絞り込んでから査問すべきだ。
そもそも基本的な事実関係がよくわからない。記者会見では、石村理事が「2時38分から5000人がアクセス可能だった」と答えているが、産経によれば、2時間前から「デスクなど一部の人間」には読めたという。したがって3人のうち、東京のテレビニュース(整理部)は、2時間前からアクセスできた可能性が高い。
テレビニュースにアクセス制限をかけると仕事にならないので、これは第一義的には本人のモラルの問題だ。ただテレビニュースの中でも、当の原稿に関係のない記者が見る必要はないので、今回のように「解禁」のある原稿は、放送までは出稿者と担当デスク以外はアクセス禁止にするなど、もう少しきめ細かいアカウント管理を行なうことで、かなり問題は防げるだろう。
もう一つは、アクセス制限しても、見出しに何と書かれていたかだ(*)。5300では見出しは一覧できるので、原稿が読めなくても、見出しに両社の固有名詞が入っていれば、インサイダー取引の材料になる。自宅へ帰って取引したというのは、22分間では考えにくいので、2時間前から知っていた可能性が高い。出稿された原稿のタイトルを変えないで、アクセス制限だけかけていたという「頭隠して尻隠さず」の状態だった可能性がある。
また読売によれば、水戸と岐阜のうちどちらかは、アクセス制限のかかっている時刻にパスワードを入力して原稿を見たという。常識的には、地方局に解禁前の原稿へのアクセス権を与えているとは考えられないが、与えていたとしたらシステム管理がおかしい。最悪の場合は、パスワードが盗まれたことも考えられる。
何より問題なのは、なぜ22分も前にアクセス制限を解除したのかということだ。石村理事も「5分前でもよかった」といっているが、3時のニュースは総合テレビとラジオ第一だけなので、汎用原稿を出すのは放送後でもいいはずだ。アクセス制限と解除についての手続きが整理されていないのではないか。
私のいたころは、まだ端末も100台ぐらいしかなく、報道しか読めなかったので、それほど問題はなかったが、今は端末は1000台、おまけにPCからも接続できるようになっているというから、5000人全員が端末をもっているに等しい。放送前のデリケートな情報が「中継や回線のコーディネートなどの放送技術の人も見られる」というのは、システム設計がおかしい。
根本的な問題は、20年前とほとんど変わらないセキュリティ管理のまま、アクセス範囲をどんどん広げたことだ。私のいたころはNHKが仕様を決めたので、システムの内容を把握していたが、それをそのまま20年も使っているうちに、ブラックボックスになっているのだろう。NECのメインフレームをまだ使っているというのも驚異的だ。システムをコテコテにカスタマイズして囲い込む「ITゼネコンの囚人」になっているのだ。
この調子では、局内に報道・編成・資料・経理など6系統も(互換性のない)コンピュータ・ネットワークがある混乱した状態も、大して直っていないと思われる。これを機会にITゼネコンと手を切り、システムをイントラネットに統合して汎用アプリケーションに切り替え、セキュリティ管理を見直すべきだ。「倫理」を説教するより、システムで防ぐことが第一である。
(*)朝日によれば、タイトルは「外食問題」で、3時のニュースのトップだったという。
NHKの職員がインサイダー取引の容疑で、証券取引等監視委員会の事情聴取を受けたというニュースが、きのうの19時ニュースのトップを飾った。任期があと1週間の橋本会長は、この3年間、何をやっていたのだろうか。今回の問題は、3年半前の横領事件より、ある意味では深刻だ。横領はどの業界にもあるが、報道機関が情報を私的な利益のために使うという事件は、「公共放送」の根幹にかかわるからだ。
記者会見で、石村理事は「システム上の問題以上に、倫理観がなかったのが最大の原因」と語っているが、この認識は誤っている。今回は去年3月8日の場が引ける直前に異常な値動きがあったことから、監視委が証券会社に不審な取引記録の提出を求めたため、たまたま露見したものと思われるが、東京と岐阜と水戸で独立に起きたらしいことからもわかるように、犯罪につながるような情報を20分前に全国の職員が見ることのできるシステム管理が間違っている。同様の事態は、これまでにもあったのではないか。
実は、この「新NCシステム」が1988年にできたときの最初の設計には、私も加わった。当時、ニュース原稿を入稿の段階からスタジオまで100%電子化し、紙をなくすというシステムは、日本では初めてで、キーボードを使えない記者から激しい反発を受けたが、それを押し切って実施した。今回の報道で出てくる「汎用原稿」という概念も、そのとき作ったものだ。
NHKは8チャンネルもあるので、同じニュースを多くのメディアで使いまわさなければならない。それまでは、テレビニュースを見た関連番組の担当者が整理部に原稿をもらいに行ったりしていたのだが、これでは非効率なので、最初に記者が取材したことをすべて書いた汎用原稿を電子化してサーバに入稿し、これを各メディアの編集担当者がオンラインで読んで、それぞれの用途に合わせて編集するシステムにした。したがって複数メディアで使う汎用原稿は、放送のかなり前からオンラインで見えるようにしないと仕事ができない。
ただ、当時はアカウント管理が厳密にできなかったので、特ダネなどの特殊なニュースは、汎用原稿をオンラインには出さないでニュース原稿にした。今回の事件であきれたのは、相場にからむ(3時のニュースにしたのはそのため)汎用原稿を、5000人もの職員が見られる最低レベルのセキュリティで3時前にオンライン化したことだ。20年前でも、そんなことはしなかった。
これはシステム管理者(編集責任者)に、基本的なリテラシーが欠けているとしか考えられない。しかも、理事がそれを個人の倫理の問題に矮小化するとは何をかいわんやだ。J-SOX法はいうに及ばず、ごく当たり前の企業の内部統制でも、性悪説に立ってセキュリティを設計するのが基本だ。情報を裸で出しておいて、悪用した職員だけを責めるのは、本末転倒である。
NHKは「文科系」優位の会社で、しかも中枢はほとんど(ITとは無縁の)報道が握っているので、ITリテラシーが非常に低い。かつては私も総合企画室にレクチャーに行ったことがあるが、企業戦略の立案にかかわる幹部が、テレビとインターネットの違いを理解していないのには困った。デジタル放送からB-CASに至る混乱した方針も、企業の根幹にかかわるメディア戦略を(古いテレビ技術を守るインセンティブの強い)技術陣に「丸投げ」しているために起きた失敗だ。
今度、着任する福地新会長は、倫理やガバナンスなどとむずかしいことをいう前に、自分たちの商売道具であるITのしくみを職員(特に幹部)に徹底的に教育し、ネットワークとは何か、NHKはどういうメディア環境に置かれているのか、という認識を叩き込む必要があろう。
追記:増田総務相が関係者全員の査問を要求したが、証拠もなしに5000人もの職員を犯罪者扱いするのは有害無益である。コメントにも書いたが、まず不正な取引のログを取って合理的な調査を行なうべきだ。
追記2:記者会見の詳細が産経に出ているが、驚いたのは「素原稿から汎用化原稿にする段階で“秘”というのをデスクが外す。汎用化原稿は5000人程度は見られる」という答だ。これじゃ20年前と同じだ。アカウントの区分もしていない。昔は汎用原稿は報道(800人程度)が読めるだけで、放送後に「資料」になってから全部局に見えるようになっていたのだが、サーバをNHK全体で運用するようになって、かえってセキュリティが落ちたわけだ。これはシステム設計に問題がある。
記者会見で、石村理事は「システム上の問題以上に、倫理観がなかったのが最大の原因」と語っているが、この認識は誤っている。今回は去年3月8日の場が引ける直前に異常な値動きがあったことから、監視委が証券会社に不審な取引記録の提出を求めたため、たまたま露見したものと思われるが、東京と岐阜と水戸で独立に起きたらしいことからもわかるように、犯罪につながるような情報を20分前に全国の職員が見ることのできるシステム管理が間違っている。同様の事態は、これまでにもあったのではないか。
実は、この「新NCシステム」が1988年にできたときの最初の設計には、私も加わった。当時、ニュース原稿を入稿の段階からスタジオまで100%電子化し、紙をなくすというシステムは、日本では初めてで、キーボードを使えない記者から激しい反発を受けたが、それを押し切って実施した。今回の報道で出てくる「汎用原稿」という概念も、そのとき作ったものだ。
NHKは8チャンネルもあるので、同じニュースを多くのメディアで使いまわさなければならない。それまでは、テレビニュースを見た関連番組の担当者が整理部に原稿をもらいに行ったりしていたのだが、これでは非効率なので、最初に記者が取材したことをすべて書いた汎用原稿を電子化してサーバに入稿し、これを各メディアの編集担当者がオンラインで読んで、それぞれの用途に合わせて編集するシステムにした。したがって複数メディアで使う汎用原稿は、放送のかなり前からオンラインで見えるようにしないと仕事ができない。
ただ、当時はアカウント管理が厳密にできなかったので、特ダネなどの特殊なニュースは、汎用原稿をオンラインには出さないでニュース原稿にした。今回の事件であきれたのは、相場にからむ(3時のニュースにしたのはそのため)汎用原稿を、5000人もの職員が見られる最低レベルのセキュリティで3時前にオンライン化したことだ。20年前でも、そんなことはしなかった。
これはシステム管理者(編集責任者)に、基本的なリテラシーが欠けているとしか考えられない。しかも、理事がそれを個人の倫理の問題に矮小化するとは何をかいわんやだ。J-SOX法はいうに及ばず、ごく当たり前の企業の内部統制でも、性悪説に立ってセキュリティを設計するのが基本だ。情報を裸で出しておいて、悪用した職員だけを責めるのは、本末転倒である。
NHKは「文科系」優位の会社で、しかも中枢はほとんど(ITとは無縁の)報道が握っているので、ITリテラシーが非常に低い。かつては私も総合企画室にレクチャーに行ったことがあるが、企業戦略の立案にかかわる幹部が、テレビとインターネットの違いを理解していないのには困った。デジタル放送からB-CASに至る混乱した方針も、企業の根幹にかかわるメディア戦略を(古いテレビ技術を守るインセンティブの強い)技術陣に「丸投げ」しているために起きた失敗だ。
今度、着任する福地新会長は、倫理やガバナンスなどとむずかしいことをいう前に、自分たちの商売道具であるITのしくみを職員(特に幹部)に徹底的に教育し、ネットワークとは何か、NHKはどういうメディア環境に置かれているのか、という認識を叩き込む必要があろう。
追記:増田総務相が関係者全員の査問を要求したが、証拠もなしに5000人もの職員を犯罪者扱いするのは有害無益である。コメントにも書いたが、まず不正な取引のログを取って合理的な調査を行なうべきだ。
追記2:記者会見の詳細が産経に出ているが、驚いたのは「素原稿から汎用化原稿にする段階で“秘”というのをデスクが外す。汎用化原稿は5000人程度は見られる」という答だ。これじゃ20年前と同じだ。アカウントの区分もしていない。昔は汎用原稿は報道(800人程度)が読めるだけで、放送後に「資料」になってから全部局に見えるようになっていたのだが、サーバをNHK全体で運用するようになって、かえってセキュリティが落ちたわけだ。これはシステム設計に問題がある。