2009年12月03日

「生きテク」サイトと自殺防止

 

今朝の東京新聞より引用

自殺防止市民サイト開設2年 生きる技術 伝えたい

 長引く不況や厳しい社会情勢を背景に、自殺の情報であふれるメディアの姿勢に疑問を抱き、「死ぬ技術ではなく、生きる技術」を伝えるインターネットサイト「生きテク(生きるテクニック)」が開設されて、間もなく2年−。同サイトを見て「死ぬのをやめた」と反応した人は2日現在、1万人近くに上るという。政府も先月、自殺防止の緊急戦略チームを立ち上げたが、民間の取り組みが先行しているようだ。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2009120302000065.html

 

生きテク

http://ikiteku.net/ikiteku8class.html

 


生きテクのテクが、単なるテクニックのテクであるとすれば、私は「それは違う、テクニックではなく心だ」と言いたいと思いますが、生きテクの意味が、生きていくために、心を変化させるテクニックであるとするならば、大いに生きテクという言葉は用いられていくべきだと考えます。

 


サイト運営者の意志と活動は、讃えられるものであり、自殺願望を持った経験のある私も、今後できるだけの支援をさせていただきたいと思います。

 


長文の記事ですが、見逃すことができないことが一つあります。それは、厚生労働省担当者の発言です。

 


「自殺を図る理由は百人百様なので、自殺防止のために多様な接し方の必要性を示している」

 


「自殺を図る理由は百人百様」とは、ずいぶんと役人に都合が良い言葉です。「自殺を図る理由は百人百様」だから、防止策は講じられない、と開き直っているとしか受け取れません。

 


「百人百様」とは、百人いれば人間の心は百種類に分かれるということです。今年も年間の自殺者は3万人を超えそうですが、厚生労働省は、自殺を図る理由は「3万人3万人様」、つまり、すべての自殺者の心は異なるというのでしょうか。

 


こんな思想ですから、菅直人副総理に役人は無能と言われるのです。

 


「百人百様」は間違いです。正しい考え方は「百人一様」です。

人類という生物は一種類です。民族が違っても、肌の色が違っても、人類というたった一つの「種」を残すために誰もが生きているのです。(人類はサルやブタと同じ哺乳類であり、特別な存在ではないと考える方には理解しづらいでしょうが)

 


人類、つまり人間は、同じ「様」にできているのです。ブタが、両親が死んで悲しむという話は聞いたことがありませんが、人間は誰でも悲しみます。自国の選手がオリンピックで金メダルを取れば、人間は誰でも喜びます。

 


自分が愛されていると感じれば、人は前向きに生きることができます。反対に、自分は愛されていないと感じれば、人は愛されない理由を探して後ろを見ます。つまり、後ろ向きの人生を送ることになるのです。

 


そして、です。ここが重要です。人から愛されていないと感じ後ろ向きの人生を送っている人から「仲間からの注目」や「生きるための衣食住」が奪われたら・・・人は「絶望」を感じ、自殺や無差別殺人など自暴自棄の行為をこれからの「選択メニュー」に加えてしまうのです。

 


簡単に言えば、人に愛されず、人から無視され、人として生きていく「衣食住」が足りなければ、人は誰でも絶望感を感じるのです。人はそのようにできているのです。

 


自殺の理由をさらに単純化します。それは、自殺の理由は「後ろを振り返った結果」であるということです。

 


前向きではない人が、後ろを振り返る旅にでたとき、たどり着く先は「過去の忘れたい記憶」と「自分が嫌いな自分」です。

 


そして、たどり着く選択肢は3つです。

一つは、気持ちを爆発させることです。鬱積している「忘れたいのに忘れられない記憶」は爆発し、無差別殺人などの自暴自棄の行動になって表れます。

 

一つは、それでも気持ちを「押し殺す」ことです。つまり我慢するということです。人間誰にでも我慢の限界があります。その限界を超えて、さらに気持ちを「押し殺す」と、人にはうつ病や潰瘍などの病気が待ち受けています。

 

最後の一つは、自殺するということです。「過去の忘れたい記憶」と「自分が嫌いな自分」に耐えきれず、「楽」を求めて死を選択するのです。

 

このように人は、過去を振り返り、絶望感を感じると自殺を選択してしまうことがあるのです。人として元々組み込まれている「必然」といっても過言ではないのです。

 

自殺の理由は「百人百様」では決してありません。絶望感を感じ、絶望感から救われたことがある私が言っているのです。

 


それでは、どうしたら自殺を防ぐことができるでしょうか。理論的には簡単なことであると私は考えています。

 


その答えは、過去を振り返る旅を止めるということです。そして、前だけを向いて生きることです。

 


そうは言っても、人は「前を向け」と言っても、すぐに前向きになるようにはできていません。ある仕掛け(精神的治療)が必要です。

その仕掛けとは、自分の過去に別れを告げるための仕掛けです。つまり、現在の自分の記憶から「過去の忘れたい記憶」と「自分が嫌いな自分」を引き算して、新しい自分にする(新生)ということです。

 


このような公式が成り立ちます。

 

現在の自分 − 過去の自分 =ゼロの自分

 


つまり、ゼロの自分にするための仕掛けです。ゼロな自分とは「真っ白な自分」「素直な自分」「今からの自分」など、ゼロベースの自分です。

 


この仕掛けは決して難しいものではありません。私は人の心の記憶装置を「はーとディスク」と呼んでいますが、この記憶装置から「過去の忘れたい記憶」と「自分が嫌いな自分」を削除すればいいだけです。

 


人間の脳は「本能脳」「感情脳」「理性脳」に分かれますが、自殺に結びつく「過去の忘れたい記憶」と「自分が嫌いな自分」は、すべて感情脳に溜まっています。この溜まっている感情を脳全体から引き算することにより、理性を司る理性脳の働きが強まり、人はその名の通り理性的になれるのです。

 


このことも、この事実を体験した私が言っているのですから間違いありません。(体験談はこちらから)


 

 

言い方を変えれば、感情脳から悪い感情を引き算してはじめて、人はより人間的な理性脳の領域に進めるということです。

こうすることにより、例えば誰かにいじめられたり、苦しめられたりしている人が、これまでは「感情 対 感情」の戦いであったのが、「理性 対 感情」の戦いになります。

 


余談になりますが、皆さんに良い知らせをお教えします。

「なぜ、善良な人がいじめにあったり、攻撃されたりするのか?」への答えです。その答えはこの質問の中にあります。敵があなたをいじめたり攻撃したりするのかは、あなたが良い人であるからにほかならないからです。

 


つまり、悪い人は悪い人をいじめや攻撃の対象にしないのです。悪い人は善良な人をいじめたり、攻撃したりすることによってのみ「愉快」や「満足」を得られるのであって、悪い人が悪い人と戦っても、悪い人は何も得られないのです。

 


このように理性的にとらえると、自殺問題の核心にたどりつくことができます。

 


自殺願望を持つ人は、元々良い人なのです。自殺願望者が過去を清算し、ゼロの自分にして、前に進みたいと考えるのが自殺志願です。映画「おくりびと」における死の意味も同じです。死は前へ進む「門」なのですから。

 


ですから、自殺願望を持つ人に「あなたは元々良い人だ。過去のあなたに別れを告げればゼロの体になります。ゼロの体になれば、あなたは前向きに生きていくことができます。」という論法でアプローチすれば、自殺願望者はその心を必ず開いてくれるはずです。

 


長くなりましたので、まとめます。

 


心を開き、感情脳に蓄積された「過去の忘れたい記憶」と「自分が嫌いな自分」という感情を引き算すれば、ゼロの自分になることができます。



ゼロの自分になれれば、理性的になることができます。前だけを見て生きていくことができます。そうすれば、誰かが必ず手を差し伸べてくれます。



苦しめている相手との関係も「理性 対 感情」の対立関係になりますから、負けるわけがないのです。「正義は必ず勝つ」のですから。

 


苦しめている相手に分からせるには、友愛武具である「相手を分からせる論法」を用いましょう。

起こったことはこういうことです。あなた方が私たちにしたことはこういうことです。



私が感じたのはこういうことです。



私の生活に与えた影響はこういうことです。



私はこういう弱い人間です。



私が感情を「押し殺す」といつかこういうことにつながる恐れがあります。



そうならないように、私があなた方にして欲しいことはこういうことです。 


 

繰り返しますが、気持ちを「押し殺す」ことは良い結果につながりません。悪を増長させるだけですので、決して「押し殺す」ことなく、発散させましょう。

 


今日は、自殺の問題に触れました。友愛社会を築いていくためには、一人ひとりが前向きに生きることが必要です。そして、前向きに生きるには、人は常に「ゼロの体」になることが求められます。

映画「千と千尋の神隠し」も「ゼロの焦点」も「ゼロの体」になれたか、なれなかったのかが最大の共通点でした。

 


「ゼロの体」になれれば、今からを前向きに生きられます。なれなければ、悲惨な結末がまちうけています。二つの映画は、このことを私たちに教えているのです。