『朝日』社説「外国人選挙権―まちづくりを共に担う」の問題 [2009-11-24 20:33 by kscykscy]
「我が国と外交関係のある国の国籍を有する者」について [2009-11-13 22:38 by kscykscy] 派兵する「東アジア不戦共同体」 [2009-11-10 05:14 by kscykscy]
11月23日付の『朝日新聞』の社説は「外国人選挙権―まちづくりを共に担う」と題して、永住外国人の地方参政権問題を取り上げている。
この社説は永住外国人に対する地方参政権付与を擁護しつつ、「外国人が大挙して選挙権を使い、日本の安全を脅かすような事態にならないか」という議論については、「人々の不安をあおり、排外的な空気を助長する主張には首をかしげる。外国籍住民を「害を与えうる存在」とみなして孤立させ、疎外する方が危うい。むしろ、地域に迎え入れることで社会の安定を図るべきだ」と批判している。 ここでの「外国人が大挙して選挙権を使い、日本の安全を脅かすような事態にならないか」という議論は『産経』的な極右的参政権反対論を指しており、その限りでは対立軸は明確なように見える。ネット上でも「『朝日』=売国奴」的な枠組みでこの社説を叩いている記事が多い。だが、この社説はそんなにいいものなのだろうか。社説は朝鮮籍排除の問題に言及しつつ、次のように記している。 「民主党は選挙権を日本と国交のある国籍の人に限る法案を検討しているという。反北朝鮮感情に配慮し、外国人登録上の「朝鮮」籍者排除のためだ。 しかし、朝鮮籍の人が必ずしも北朝鮮を支持しているわけではない。良き隣人として共に地域社会に参画する制度を作るときに、別の政治的理由で一部の人を除外していいか。議論が必要だろう。」 一見、朝鮮籍排除を批判しているように思ってしまうのだが、結局のところこの社説の結論は「議論が必要だろう」というもので、すこぶる歯切れが悪い。『朝日』は朝鮮籍を排除することに賛成なのかはたまた反対なのか、とりあえず「議論が必要だろう」といっているだけなので皆目見当がつかない。 加えて問題なのは「朝鮮籍の人が必ずしも北朝鮮を支持しているわけではない」という箇所である。社説は、民主党の「反北朝鮮感情に配慮し」た「外国人登録上の「朝鮮」籍者排除」に対し、「朝鮮籍の人が必ずしも北朝鮮を支持しているわけではない」というかたちで留保しているのだが、そもそもこうした留保自体に問題がありはしまいか。単純な話ではあるが、それでは朝鮮籍者が「北朝鮮を支持している」場合、参政権から排除することは肯定されるのか。参政権の有無は、当該外国人の思想・心情によって左右されるものなのか。それは果して参政「権」といえるのか。 こうした問題を踏まえれば、この社説は結局のところ、民主党が「反北朝鮮感情に配慮し」て外国人の参政権をいじくることを批判しているのではなく、「朝鮮籍者=北朝鮮支持者」ではないから、それを排除することは「反北朝鮮感情に配慮し」たことにはなりませんよ、と言っているに過ぎないことがわかる。もちろん、前述のようにこの社説はそもそも朝鮮籍排除に反対なのかどうかについてさえ態度を留保しているので、そこにすら踏み込んでいるか怪しい。 そもそも朝鮮籍者が「北朝鮮支持者」かどうかを問題にする必要などあるのだろうか。百歩譲って朝鮮籍者は「北朝鮮国籍者」を当然には意味しない、というのならば話はわかる。もちろんそうであってもじゃあ「北朝鮮国籍者」だけ選択的に参政権を与えないことは肯定されるのか、という問題は残るが、ここで社説が言っているのは国籍の帰属ですらなく、「北朝鮮」に対する「支持」の問題、つまり思想・心情の問題である。繰り返しになるが、この論法ならばは朝鮮籍者の大多数が「北朝鮮を支持している」なら「反北朝鮮感情に配慮し」た民主党の政策は肯定されることになろう。 屁理屈をこねているように思われるかもしれないが、ここは非常に重要なポイントである。問題は『朝日』がよいか『産経』がよいかなどではなく、こうした議論の枠組みが作られるなかで、当事者たる在日朝鮮人にいかなる負荷が加わっていくのかである。『朝日』がこうした社説を出せば、すぐにでも『産経』『読売』ら反対派は朝鮮籍者が「北朝鮮支持者」であることを論証しようとするだろう。そうすれば、自ずから参政権からの朝鮮籍排除をめぐる論点は「北朝鮮支持者」かどうかへと絞られていくことになる。だが、それこそが、最も戦慄すべき事態なのではないか。あらかじめ「北朝鮮」への「支持」云々を表明しなければ表明しなければ与えられない地方参政権など、権利の名に値するのだろうか。
「永住」外国人の地方参政権法案の提出は次期国会以降に見送られることになった。右派との調整がつかなかったとか、他の重要法案を優先したとか色々言われているが、そんなことはどうでもよい。この数日の動きのなかで唯一記憶に留めるに値することは、今国会で提出される予定だった法案(以下、民主党案)が「永住」外国人のうち「我が国と外交関係のある国の国籍を有する者やこれに準ずる地域を出身地とするもの」に限って地方参政権を付与する、という留保を付けていたということである。『朝日新聞』はこれについて「特別永住者については当面、国交のある韓国籍を持つ人か、「準ずる地域」として国交はないが交流の活発な台湾の関係者に限る立場をとる」(『朝日新聞』11月9日web)と解説している。すなわち、民主党は「外交関係のある国の国籍を有する者」という論法で朝鮮籍者を排除しつつ、「これに準ずる地域を出身地とするもの」との規定を入れて「台湾の関係者」を包含しようとした、というのが民主党案についての『朝日』の解釈である。
『産経』はこれについて「当面は国交のない北朝鮮の出身者には与えない」とあからさまに誤った解説をしているが(『産経新聞』11月10日web)、私はこれは確信犯だと思う。朝鮮籍者が「北朝鮮の出身者」ではないことくらい、『産経』の記者でもわかっているはずだ。わかっていて印象操作のためにデマを流しているとしか思えない。こうした悪質極まりない『産経』の姿勢に比べれば、『朝日』は比較的丁寧に説明しているように見える。だが『朝日』の解釈は果たして妥当なのだろうか。実は『産経』の確信犯的事実誤認の記事により、こっちのほうが重要なポイントなのであるが、その検討に入る前に、さしあたり『朝日』の解釈に従い、今回の民主党案をこれまでの参政権法案のなかに位置づけるかたちで整理しておこう。 以前書いたように、これまで公明党が提出してきた地方参政権法案は、対象となる範囲について①「永住」外国人一般→②「外国人登録原票の国籍の記載が国名によりされている者」→③地方「選挙権を日本国民に付与している国」の国民へと、自民党に配慮して順次その幅を狭めてきた(「多民族社会」日本の構想)。今回の民主党案をこのなかに位置づけるならば、ほぼ②に近いものといえよう。 「ほぼ」という留保をつけたのは以下の理由からである。②の「外国人登録原票の国籍の記載が国名によりされている者」という規定であれば、同記載が「中国」となっている「台湾の関係者」は参政権付与対象に包含される。一方、「朝鮮」というのは政府見解によれば「国名」ではないから対象には含まれない。ここまでは②と全く同じである。ただ、「台湾の関係者」の中には少数ながら外国人登録原票の国籍表示が「無国籍」となっている者がおり、この人々は②では対象とならないが民主党案では対象に含まれることになる。よって「ほぼ」②と同じである。(ただし、要綱あるいは法案が公表されたわけではないので、あくまで報道が正しければの話である)。 新聞はおおむね③と比較して民主党案が対象を拡大したというニュアンスでこれを伝えている。『朝日』と『産経』がいずれも「『相互主義』はとらず」というタイトルをつけたのは象徴的である。だが、前述した経過を見れば少なくとも90年代の法案と比較しても、民主党案には大いに問題があることは言うまでも無い。そもそも、各案の違いはどこで外国人を分割するか、つまり「どう差別するか」の違いに過ぎず、「朝鮮籍=北朝鮮籍」という規定を前提にこれを排除し、かつ台湾を包含するのはあくまで外国人を「国益」を実現するためにいじくれる外交の道具だと思っているからである。そこには人権という視点は皆無である。 むしろ今回の民主党案から確認できるのは、この線引きにあたって民主党が採用した論法が、2002年9月17日以降の自公政権のそれと強い連続性を有していることである。「国交のある国+台湾」という枠組みで「朝鮮」を排除するというやり方は、2003年に「9.17」以降の反朝鮮の排外主義の高まりを受けて文科省が作り出した論法であり、民主党はこうした排除の枠組みをまるごと自公政権から継承しているといってよいだろう。 だが、より重要な問題は先にも述べたように、そもそも「我が国と外交関係のある国の国籍を有する者やこれに準ずる地域を出身地とするもの」にのみ地方参政権を与える、という規定を挟み込むことが、当然に朝鮮籍者を排除することにつながるのか、という問題である。『朝日』は当たり前のように「特別永住者については当面、国交のある韓国籍を持つ人か、「準ずる地域」として国交はないが交流の活発な台湾の関係者に限る立場をとる」と解説し、おそらく民主党がそういったのを鵜呑みにしたのだろうが、実は問題はそう単純ではない。 なぜかというと、そもそも外国人登録原票上の国籍が「朝鮮」である者の帰属を決める権利は、日本政府には無い。外国人登録法は日本法なのであるから、そこに「朝鮮」と書いていようがみな潜在的には韓国国民なのである、と韓国側が言うことは可能である。今回の参政権法案からの朝鮮籍排除についても、「あなたの作った法律上の表記がどうであろうが、みな韓国国民なのであるから外国人登録上の表記が「韓国」の者と同様に、地方参政権を与えなさい。韓国国民を差別するのはやめなさい」と日本政府に注文をつけることは可能なのである。これは別に荒唐無稽な話ではない。少なくとも実体法のレベルでは韓国政府は朝鮮籍者について潜在的な韓国国籍者とみなしており、だからこそ朝鮮籍者の韓国国籍取得手続は外国人の帰化手続よりもはるかに容易なのである。 以前私は橋下大阪府知事の発言に寄せて、日本政府の見解によれば外国人登録原票の「国籍」表記上の「朝鮮」は地域名であった国名ではないにもかかわらず、橋下が日本にいる「北朝鮮籍の人」に「北朝鮮の今の体制について厳しく批判しないといけない」と述べたことを批判した(橋下発言と世界「提言」、そして在日朝鮮人の「責任」)。だがそれはあくまで日本政府の見解の整合性を問題にしたものである。韓国政府やメディアが日本政府見解を採用する必要は無い。 つまり、「我が国と外交関係のある国の国籍を有する者やこれに準ずる地域を出身地とするもの」という規定は、もし韓国政府が「朝鮮籍者は韓国国民である」といってしまうと朝鮮籍排除の規定として機能しなくなるのである。だが、韓国政府はそうは言わない。韓国政府の見解は表には出ていないので、現政権に近い韓国の保守系メディアの報道を見てみよう。民主党案を受けて韓国の保守系メディアは「在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)など日本国内の北朝鮮出身者は外国人地方参政権が得られない見込み」(『中央日報』11月11日web)、「日本と国交を結んでいない朝鮮籍の総連系の在日同胞には、地方参政権が与えられない」)『東亜日報』11月11日web)と、一様に「朝鮮籍=朝鮮総連=北朝鮮(出身者)」が地方参政権の付与対象から排除された、と報じた。これはあるいは無知から来るものかもしれないが、もし日本政府の解釈を知っていたとしても、現政権と近い保守系メディアは同様に報道しただろう。そう報道せざるを得ないのである。『産経』がわかっていて「朝鮮籍者=北朝鮮の出身者」というデマを流しているのとは若干事情が異なる。 なぜならば、「朝鮮籍=北朝鮮籍」という規定を捨てると困るのは他ならぬ韓国政府自身だからである。日本国内メディアではあまり報道されていないが、李明博政権発足以降、韓国政府は朝鮮籍者に対する旅行証明書の発給をほぼ全面的に停止している。つまり、朝鮮籍者はいま韓国に入国することがほぼ不可能である。韓国政府がこうした措置をとっているのは、いうまでもなく「朝鮮籍=北朝鮮籍」と判断し、これへの旅行証明書発給停止が「北朝鮮制裁」になると考えているからである。 よって韓国政府が参政権問題について「朝鮮籍=北朝鮮籍」という規定を放棄して、日本に注文を付けることになれば、こうした旅行証明書発給停止の根拠自体が揺らいでしまうことになる。このため、韓国政府が地方参政権付与対象から朝鮮籍を排除することを、「朝鮮籍=韓国国民」という立場から批判することは絶対に無い。現政権に近い保守系メディアはそれを知っているからこそ、参政権付与対象から「朝鮮籍=朝鮮総連=北朝鮮籍(出身者)」の在日朝鮮人が排除された、と報じるのである。そして韓国側がそれを言わないという前提があってこそ、「我が国と外交関係のある国の国籍を有する者やこれに準ずる地域を出身地とするもの」に対象を限定するという民主党案ははじめて朝鮮籍排除として機能することになる。ここには「北朝鮮制裁」を軸にした日韓の陰湿な共犯関係がある。 日本政府としては、韓国が「朝鮮籍=北朝鮮籍」という判断を維持してくれることによって、朝鮮籍者の参政権排除に「北朝鮮制裁」としての意味を持たせることができる。ここからは、民主党案に対する『朝日』の解釈は、実は韓国側が『産経』的な解釈を捨てないことによってはじめて成立することがわかる。今般の地方参政権法案騒動に見て取るべきものは、この陰湿な共犯関係以外には無いのである。
「東アジア共同体」をめぐっては、日米安保論者=右派vs東アジア共同体論者=左派、という怪しげなリングが作られ、そこでめいめいプロレスごっこをしているようにみえる。国際政治学者の進藤榮一が2006年に書いた『東アジア共同体をどうつくるか』(ちくま新書)という本でも、東アジア共同体評議会(会長:中曽根康弘)の有識者議員も務める共同体推進論者たる進藤が、上述の図式に則って日米同盟堅持・中国脅威論への批判と東アジア共同体の必然性をとくとくと説いている。
進藤は東アジアでは経済的な域内相互依存が増大し、域内国家間の格差は縮小しているという。未だに諸国間の貧富の巨大な格差は確かにあるが、域内の相互補完性が高まったことにより逆に諸国間の格差は域内協力の形成要因に転化する。つまり経済的相互依存が深まっていることが、東アジア内での貧困国への援助を促す要因となり、ひいては格差縮小につながる。どんどん東アジア共同体は実現に近づいている、というのである。 特に進藤が重視するのはアセアンである。進藤は和田春樹のいうような日中韓(+ロシア、モンゴル)による「東北アジア共同の家」論には否定的である。むしろすでに地域統合が進んでいるアセアン+日中韓を軸にした開発共同体たる「東アジア共同体」が、自由貿易協定から通貨融通・債券市場を経て「開かれた地域主義」へ向う、というのが現実的だというのが進藤のシナリオである。鳩山政権の方向性もこちらに近いのだろう。 さて、わざわざ進藤に言及したのはこうした議論を紹介するためではない。むしろ重視したいのは上のような東アジア共同体推進論を議論するにあたって進藤がこの本で披瀝している歴史認識と、そこで構想されている安全保障の枠組みたる「不戦共同体」なるものである。 まず歴史認識から見てみよう。前述の通り、進藤の議論の中心は東南アジア、そして中国である。当然過去の日本軍による東南アジア・中国侵略に対する見解が求められるわけであるが、それについて進藤は次のように言う。 「1931年満州事変に始まるアジア太平洋戦争は、いうまでもなく、英・米や仏・蘭など欧米植民地列強との戦闘を軸にした。その戦闘過程で私たちは、下からの反乱――アジア民族主義の噴出――に力を貸し、彼らの民族自決闘争を、弾圧しながらも幇助した。日本のアジア侵攻は、アジア太平洋地域への遅ればせの進出を目指していたけれども、同時に侵略はまた、抗日闘争の形であれ親日運動の形であれ、アジアの土着民族主義運動を幇助し、民族解放運動の梃子として機能したのである。/アジアへの日本の侵攻が、アジアの「解放」を促した論理である。」(57頁) そして日本の「第一の敗戦」後の復興を支えたのは、こうしたアジアの解放であった、というのである。我慢してもう少し進藤の議論を聞いてみよう。進藤はまた90年代日本の「失われた十年」という「第二の敗戦」からの復興もまた、アジアが支える、として次のようにいう。 「かつてのそれ〔「第一の敗戦」:引用者注〕が、日本のアジア進攻に幇助されたアジア諸民族の独立と東南アジア市場とに支えられたように、今次の復興もまた、日本のアジア進出に幇助されたアジア諸国の台頭する市民社会と、成熟する東アジア市場に支えられている。/私たちの敗戦が、アジアの解放を促し、アジアの解放が、私たちの復興を支える共通の歴史構造である。」(62頁) 「日本の進攻が、アジアの独立と解放をもたらし敗戦過程を終息させたように、プラザ合意以後、日本の進出がアジアの成熟と「解放」を生んで敗戦過程を終息させる構造である」(63頁) 進藤は淡々と隠すことなくこうした歴史認識を披瀝する。一読して明らかにように、ここで進藤は「大東亜戦争」史観を薄めて戦後日本の経済成長礼賛論を接ぎ木し、かつそこから「東アジア共同体」を展望している。ここまであけすけに、あっけらかんと語ってよいのだろうかとこちらが心配になるほどである。端的に言ってこれは右派の歴史認識である。 これに続けて進藤は東アジアの「安全保障レジーム」の検討に移っていく。ここでもアセアンが「テロ」「海賊」などの「非伝統的安全保障領域」を軸に安全保障体制を構築したことに依拠して、これを東アジアの「不戦共同体」への可能性と見ている。そして進藤はアセアン+3による「域内非核化から兵器相互削減と共通安全保障プログラムを描き、東アジア平和維持部隊の創設」への希望を述べて次のように記す。 「「私たちの夢は、何年か先に、ともに途上国の戦場や現場で部隊を組んで一緒に、平和復興作業に当たることです」――毎年、笹川平和財団が、中国の佐官級軍人十数人を二週間招待し、日本人の家庭と文化に接する「日中軍人友好交換計画」七周年記念パーティーの席で、受け入れ側の自衛隊佐官級幹部がそう挨拶で語った。/その言葉が、いま東アジア安全保障共同体の近未来を示唆し、東アジア共同体の展望を私たちに描かせている」(196頁)。 進藤のいう「東アジア不戦共同体」とはアセアン+3による「域内平和」を約束し、「東アジア平和維持部隊」という名の軍が「途上国の戦場や現場で部隊を組んで一緒に、平和復興作業に当たる」というものだそうだ。別に私は分析したり裏を読んだりしているわけではなく、進藤の言っていることをつぎはぎしているだけである。歴史認識のときも書いたが、こんなに剥き出しに語ってしまってよいのだろうか。 このシナリオならば「東アジア不戦共同体」の「平和維持部隊」が、朝鮮民主主義人民共和国に駐留して「非核化」を遂行するといったことも考えられるし、何より「東アジア不戦共同体」は域外への派兵が前提になっている。アセアン+3間での「域内平和」などもともと破られるはずもないのだから「不戦」も何も無い。派兵する「東アジア不戦共同体」というのが、東アジア共同体論者の描く「安全保障」構想なのであろう。
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