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泥濘(ぬかるみ)に足とられないように―日韓併合100年に寄せて(2)

李喜鳳2009/12/01
前回記事:泥濘(ぬかるみ)に足とられないように―日韓併合100年に寄せて(1)

絢爛たる江戸の町民文化と、朝鮮通信使

 通信使の来聘は、全国の大名を動員して、国民に御触れを出し、国家あげての行事というものでしたが、これは徳川政権の「ご威光」を天下にあますところなく示すという国内政策でもありました。

 また、何よりも、この外交は、200年間におよぶ「日・中・朝」の平和・不戦の回廊であったといえます。

 その歓迎ぶりを、平戸のイギリス商館長、リチャード・コックスは「至るところ王者のごとく待遇」と驚嘆の言葉を記録していますが、朝鮮側としても「一芸を以って国に名のある者悉(ことごと)く従いて行く」400名余りの外交使節を整え、かつ、徳川将軍、親藩・御三家などには莫大な珍宝を土産に持っていくのですから、互いに無理を押しての決行でした。

 江戸往復の6ヶ月間は、次のようであったといいます。「朝鮮使節団の入団があると、日本の文化人たちは沿道の旅館に馳せ集まり、饗応の席上はもちろん、滞在の間に競って同文の異邦人に面会を求め、漢詩の唱酬に歓をつくし、書画の揮毫(きごう)を請い、また筆談によって中国や朝鮮の政情をさぐり、歴史や風俗を尋ね、経・史・諸学の問答をかわした」(『朝鮮』吉川弘文館)というものです。

 また一方、朝鮮からの製術官は次のように書いています。「日本人がわが国の詩文を求めること貴賎賢愚を問わず、神仙のごとくに仰がないものはなく、珠玉の如く珍重しないものはない。略。一夜の間に費やされる紙、あるいは数百幅に及ぶ…」

 ところで、朝鮮通信使を歓待したのは儒者ばかりではありません。1609年、朝鮮通信史のはじめての江戸入府、その江戸城登城を徳川幕府は将軍一代の盛儀として礼を尽くして歓待したのですが、幕府はその江戸入り行列の日、江戸市中を休日にしました。

 警備上の規制を厳しくかけつつも、市民に見物をすすめたのです。普通の人々にとって朝鮮通信使一行の行列は、公然と、じかに外国人を見るという、またとないチャンスでしたから、江戸っ子たちは、整然と並びつつも好奇の目を輝かせました。

 もう、品川から日本橋の馬喰町、浅草の東本願寺前まで、沿道には見物人がびっしりと並び、また街道沿いの海にも、見物する船が列をなして並んだといいます。

 その行列は、きらびやかに威厳を正しつつも、管弦楽器、吹打楽器、太鼓、小金、シンバルを用いて、伝統の楽曲を奏でながら堂々の行進するのです。人々は、生まれてはじめて見る異国情緒たっぷりの見ものに歓喜し、堪能したのでした。

 ここで、時代の変容を凝視しなくてはなりません。すでに世の中は、「町人の天下」という様相をみせはじめていたのです。江戸は、旗本8万騎といわれる武士たちの居住地であり、三百諸侯の大名の屋敷が集中していた日本最大の消費地でした。繁栄の象徴のように、芝居小屋があり、その店頭には胆をうばうほどに商品が美しく並べられました(参考:広重『東都大伝馬街繁栄の図』)。長く、権力に寄生してきていた、お膝元の町人が、自分たちの力を誇示するようになっていたのです。

 江戸の商人ばかりではありません。大阪商人、京都の町人、近江商人、伊勢商人、城下町商人、さらには海の豪商…などなどです。町民文化は絢爛と花開き、町民もまた「文化」を作り享受するようになっていったのです。

 どんなに江戸市民を魅了したのか!それは、その後の、「辻踊り」の流行にみることができます。町奉行所では、前々より辻踊りは厳しく禁止されていたのですが、間もなく、夜になると、大路広路に歌え、踊れとばかりに辻踊りがくりひろげられるようになったといいます。

 朝鮮の衣装をまねて装い、鳴り物をまじえ、それは、祭りのごとしであったといいます。庶民の目と耳で吸収した朝鮮文化はそれほどに強烈な印象をあたえたのでしょう。この流れは、現在でも各地に「唐人踊り」「唐人行列」として伝えられています。

 三重県鈴鹿市東玉垣町の唐人踊り、岡山県牛窓町の唐子踊り、そして三重県津市の唐人行列は、まさに朝鮮の衣装で、朝鮮に似た楽曲で行われているものです。

 朝鮮では古くから、「梢をわたる微風の音に、からだがひとりでに動き、音は遥を奏で、奏でれば歌い、歌えば踊る。小川のせせらぎで日々に砧を打つ女の口元からは、自然に遥が流れる」といいますが、日本人も、歌舞好きの民族のようです。

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[55390] 朝鮮に関する事柄は、知識人やマスコミの言うことも信用ならない
名前:明石晶
日時:2009/12/03 06:23
>Wikiを信奉されておられるのですか?学術的には、問題視される記述が多い
>ですから懐疑的にお読みになられるとよいと思います。ことに、「朝鮮問題」
>に関しては、誤謬はなはだしいと慨嘆しております。


私はwikiが絶対的に正しいとは思いませんが、朝鮮問題はマスメディアや学者、
ジャーナリスト、知識人及び朝鮮人本人が主張することの方が大きな問題を抱
えています。
具体例を挙げればキリがないですが、典型的なのはいわゆる在日朝鮮人強制連
行説。よくもまあ長年の間日本人をだましてくれたなと。李喜鳳さんは、この
在日強制連行説の嘘を正面から批判した経験はありますか?JANJANでも
「日本人はハングルを奪った」という嘘を元に記事を書く人がいます。ウトロ
という朝鮮人同士の不法占有地をめぐる争いを、「日本の戦争責任だ」と責任
転嫁する人がいます。
とにかく朝鮮に関する事柄は、やっかいなことに信頼できる情報ソースがとに
かく少なすぎるのです。もちろんあなたも含みます。
したがって、複数のソースを比較して矛盾が無いか、情報ソースがイデオロギ
ーや偏狭な民族主義によって歪んでいないか等を検証しなければなりません。





>そうして天武・持統朝にわたって日本は進んだ政治体制や文化を新羅から導
>入したために、あらゆる面で新羅化が進行していきました。


新羅化なんかしてないでしょ。
倭国は新羅から人質をとってたくらいですよ。
あなたはまだ小中華主義から脱却できないようですね。
それがダメなんですよ。





>またまた、「南京大虐殺なんて嘘っぱちのでっち上げです。」と一所懸命に
>叫ぶ人のブログ紹介ですか?


私は「嘘だ」と自信を持って主張はできないですが、少なくとも「事実だな」
と認められる肯定派の主張を知りません。立証責任は肯定派にある以上、肯定
派の分が悪いのは間違いありません。





>中華意識では到来するものすべてを「朝貢」と呼びます。


日本は中華意識など無いし、朝鮮と違って中華秩序からは早々と脱却していま
す。事大主義をとり、中国の属国という立場に甘んじてきた朝鮮と同じにしな
いでください。
ちなみに、あなたがた朝鮮人が独立できたのは、日清戦争で日本が勝利したか
らです。時代錯誤な小中華からはこの事実を認められないかもしれませんが、
事実は事実です。
[返信する]
[55385] どこにでも顔を出しては、唾吐く人。
名前:李喜鳳
日時:2009/12/03 00:36
藤田千秋さん。あなたは察するに子どもさんですね。
ほうぼうで暴れまわっていて、顰蹙かっていますが相手の言葉が呑みこめていないようです。
その思考回路、その論の展開…幼稚すぎますから兼ねてより懸念していました。
いわゆる、「中二病」と呼ばれる人でしょう。
大人を相手に遊んではいませんよ。
もっと、基礎知識を学んでから、やってきてください。ですから、「学問」として答弁はいたしません。

ただ、うっかり、藤田さんの言を鵜呑みにする人がいるといけませんから、最低限の訂正はさせていただきます。
Wikiを信奉されておられるのですか?学術的には、問題視される記述が多いですから
懐疑的にお読みになられるとよいと思います。ことに、「朝鮮問題」に関しては、誤謬はなはだしいと慨嘆しております。

まずは、お断りしますが、優劣は所詮問題の外です。
日本も朝鮮も組み込まれた「冊封体制」のために…中国、朝鮮、日本、ベトナムは、
漢字・儒教・仏教・律令制という共通項を持ちました(お陰さまで…)。中国が祖となります。
朝鮮は、日本よりも近いのですから、よくも悪くも、直に影響を受けましたから、
まだ日本に文字が無い6世紀、朝鮮では律令制国家ができて、国家間で戦争をやっていたのです。
中国・朝鮮では「倭」と呼んでいましたが、その時の日本には、豪族はいても、まだ国家を形成してはいませんでした。
     *とはいえ、405年、407年には「百済」の和通をうけた「倭」が、新羅の王城を攻め追い込んだとの記録がありますから、なかなかに勇猛でした。

しかし、「白村江の戦い」に敗れてからは、日本は降参を決めたのです。
そうして天武・持統朝にわたって日本は進んだ政治体制や文化を新羅から導入したために、
あらゆる面で新羅化が進行していきました。
ところで、ここから、つまり6世紀以来、朝廷内部には「新羅打倒」の願望が激しくくすぶりつづけることになります。つまり、危機意識から、神話的誇張の多い物語がつくられていくことになります。

「日本」の普通の人々が関与したことではありません。
たとえば、中国の隣が日本であったならば、ちょうど逆になったと思われます。
ですから、与えた、与えられたという問題ではないと思います。
行ったり来たりしましたし、与えられ、また与え、互恵の関係であったと思います。

〈稲作の伝来について〉
またまた、「南京大虐殺なんて嘘っぱちのでっち上げです。」と一所懸命に叫ぶ人のブログ紹介ですか?
Wikiが好きでしたら「稲作」にて検索してみてください。

「農学者の池橋宏は、従来の「縄文稲作農耕」説は農学的に見ても疑わしく、日本の稲作は江南を起源とし、
朝鮮半島南部を経由して最初から完成された形で北九州に持ち込まれた可能性が高いと主張している」
とあります。私は、池橋宏『稲作の起源』講談社を読みましたが、科学的根拠があり、説得力があると
思います。藤田さんの説は、噴飯ものといえるでしょう。

また、「Wiki」でも朝鮮通信使は朝貢と書かれている」と指摘されていますが、これは誤解が多いのです。
中華意識では到来するものすべてを「朝貢」と呼びます。日本では「日本通信使」を送りましたが、
これを[朝鮮へ朝貢した]といいます。中国にとっては、日本も朝鮮も臣下ですが、
日本国の「国王」(将軍)を朝鮮の国王の臣下が訪問することは朝貢といいますし、
また、朝鮮の「国王」を日本国の臣下が訪問したならば、朝貢というのです。
現在では常識です。やがて、「Wiki」も書き換えられることと思います。  

[返信する]
[55358] 調べたらいろいろ出てくる
名前:藤田千秋
日時:2009/12/02 20:42
朝鮮通信使に関して、新谷さんと明石さんの紹介情報が正反対なので、私もネットで調べてみました。
どうやら明石さんの紹介が実態のようですね。

Wikiでも朝鮮通信使は朝貢と書かれている。
幕府と対等に付き合ったわけでなかった。
日本の水車などの技術の勉強に来ている。
室町時代から、日本の技術の勉強に来ていて、既に文化技術レベルで圧倒的な差ができていた。など等。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%9A%E4%BF%A1%E4%BD%BF

>そもそも、外交使節団の一員が、他国に来て盗みを働くなど、自国に泥を塗る行為であり、言語道断といわねばないところだが。
http://kokis.client.jp/noby/n45_tushinshi.html

関係ないけど、稲作(水稲)が朝鮮半島から伝来というのも否定されて、逆に日本から朝鮮半島に伝わったそうです。遺伝子調査で判明。
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/12585608.html

日本は朝鮮半島から何か得たものあるんですかね。あんまりないよね。古代を含めて。与えたもの、失ったものは多いけど。
あったとしていまさら感謝しろと言われる筋合いのものではないし。
日本人は稲作教えてやったんだから感謝しろなんて言いません。
[返信する]
[55338] 藤重さま。お言葉、嬉しく存じます。
名前:李喜鳳
日時:2009/12/02 14:36
藤重さま。ご活躍、まぶしく拝見しておりました。
実は、第2回目、草稿のおりには藤重さまのお顔を思い浮かべてみたのですよ。
あの方なら、朝鮮通信使行列を天地悠遊と楽しまれに違いない、「笑ってはいけない、喋ってはいけない」との厳しいお触れがありましたが、
きっと、こらえられずに美しい絵模様の手ぬぐいを口に当てて笑って喋ったに違いないとか…。
ですから、このような感想をお寄せいただき嬉しく思いっています。
高麗美術館に行かれたのですね。そこに美しい老嬢がおられたでしょう。
私の親友のお母様です。辛酸をくぐられたのに、あのように美しく、お優しいのですよ。

「屏風絵」は豊かな家に必ずありましたが、実は、貧しい奴婢という人々の家にも、たいていは絵がありました。
これを稀にみる美として、柳宗悦は「民畫」(みんが)と名づけました。朝鮮の民畫は、宗悦によって20世紀新しく息吹を与えられたといっても言過ではないと思います。
彼によって散逸せずにすみました。いつか、「朝鮮の美術」について書いてみたいと思います。
[返信する]
[55319] 国挙げての歓迎ですね
名前:藤重典子
日時:2009/12/02 00:13
長崎の平戸から山陽道、東海道ルートでの江戸行きですね。
鎖国時代の庶民の目を楽しませてくれたことでしょう。
共通語は「漢詩」「筆談」から漢字であることがわかります。


高麗美術館にあった豊かな家に必ずあったという屏風の絵は
花鳥風月ではなく、のどかな農村風景でした。
瓦葺の豊かな農家も、藁ぶきのふつうの農家もありました。
食物を生産する人々への感謝の念を忘れないためだそうです。

本当に泥濘に足をとられないように、そう思います。
[返信する]
[55304] 無理に鶏泥棒を否定する理由が分からない
名前:明石晶
日時:2009/12/01 23:19

>日韓関係史は、自己本位の視野から、上か下か、優か劣か、あるいは文化に
>おいては先か後か、軍事的な強弱は?と、競うような著述が多く見られ残念
>なことです。


上下にこだわっているのは、小中華・朝鮮朱子学を信奉する朝鮮人だけのお話
です。





>明石様は、金仁謙の「日東壮遊歌」から紹介されていますが、これは朝鮮人を
>「チョン」とよぶ、 ある陣営のWebサイトから、そのままコピペしておられ
>るのですね。


単にgoogleの一番上にヒットしたからURLを提示しただけのことです。
なお、「日東壮遊歌」は、現物の内容を読破済みです。





>いつも、極部分を抜粋されて、独自の解釈を織り交ぜて記述されては困ります。


「倭人が憎らしい」「恨めしい」などの記述は解釈の余地はありませんよ。
こういう記述を見て、「今も昔も変わらんね」と感想を述べただけのお話です。





>ところで、「鶏を盗んで、町人と喧嘩をする朝鮮通信使」の図もご紹介され
>ていますが、これは「昔絵」といって、往年の伝承を画材に取り入れて描か
>れたものです。あいにく、これを説明できる文字資料はなく、証明されてい
>ませんし、事件として記録も残っていません。ただ、朝鮮では食肉しました
>から、それは庶民にとって驚きであったようです。


素直に「出来事を描写した」と解釈すればいいでしょ。
なんで、わざわざ「朝鮮通信使が鶏泥棒をした」なんて絵を描くのか意味が分
かりません。
それから、朝鮮では両班が庶民の持ち物を略奪するのは当然の行為だったんで
すよ。これはご存知ですよね。で、小中華という序列の下では、日本人は野蛮
人ということになる。野蛮人に対しては何をやってもいいのです。だから、当
然の行為として鶏を奪う。


実際、イギリスの女性探検家イザベラバードもこのように述べています↓


>彼らは、たいがい内気で、わたしたちの姿が目に入るとあわてて鶏をひっつ
>かんで隠してしまう
>イザベラ・バード 朝鮮紀行(p133)


>伝統上、両班に求められるのは究極の無能さ加減である。従者たちは近くの
>住民たちを脅して飼っている鶏や卵を奪い、金を払わない。
>イザベラ・バード 朝鮮紀行(p137)
http://kokis.client.jp/noby/n45_tushinshi.html


朝鮮通信使が、日本で鶏泥棒をしても何の不思議もありません。





>江戸、中期より、「日本型華夷(はなえぶす)意識」「小中華意識」のせめぎ
>あいが露になってきました。
>実は、この「小中華意識」は、朝鮮にも、日本にも古くからあったものです。
>朝鮮は地理的事情から、常に「冊封体制」(さくほうたいせい)
>に組み込まれてきましたが、日本もしばしば冊封しており、中国に朝貢してい
>たのです。朝鮮では「事大主義」といい、やがては数々の弊害を生んでいくも
>とにもなりました。


日本は聖徳太子の時代に、中華秩序からの決別を宣言しています。
ずーっと属国に地位に甘んじていた朝鮮と同じにしないでください。
失礼な話です。




【参考URL】
http://blog.goo.ne.jp/55yasuji/e/9dbd8f8ded728be79ccedef3c2192cc2

[返信する]
[55277] 特有のもつれは、折込済みですが…。
名前:李喜鳳
日時:2009/12/01 21:52
日韓関係史は、自己本位の視野から、上か下か、優か劣か、あるいは文化においては先か後か、軍事的な強弱は?と、
競うような著述が多く見られ残念なことです。歴史認識について、いまだに深刻な歴史論争もありますが、
今日では、実証史学によって、「広開土王碑文」まで、つまびらかに検証されています。

つまり、「神功皇后の三韓征伐」譚に誘引された皇国史観は、大きく読み直されています。

ところで、「朝鮮通信使」については、普通の人々には縁の薄いものでした。これは、1982年6月22日、全国紙をはじめとして各紙が
「朝鮮通信使の行列絵巻『200年の眠り覚める』・交流風景ほのぼの」と、写真入で報道しましたから、以後、知られるようになりました。
*「朝鮮通信使道中絵巻」が名古屋・興正寺で発見されました。文字資料添付。

なぜ、かくも隠れていたのでしょうか?
それは、江戸時代後期のできごとを振りかえるならばわかります。「安政の開国」決定時の方針には、
天皇を戴く立憲君主制は想定されていなかったのです。これが開国を余儀なくされ、ついで尊皇攘夷か公武合体かを争うことになり、
そのうちに、「大政奉還」か「王政復古」かとなだれこみ…結局は、尊皇攘夷派が倒幕して、
1869年、明治政府が成立したのです。
明治政府は、「征韓論」から侵略を開始したのですから、朝鮮との交隣外交が互恵平等の関係
で200年間も続いた事実を隠さねばなりませんでした。


明石様は、金仁謙の「日東壮遊歌」から紹介されていますが、これは朝鮮人を「チョン」とよぶ、
ある陣営のWebサイトから、そのままコピペしておられるのですね。

因みに、紀伊国屋書店のBookWebでは、次のように紹介しています。
『突如出来した殺人事件に驚愕し、内部の軋轢に頑固を貫き、同僚の好色を嗤い、風景と珍肴を愛で、倭の蛮人の振舞いに憤る。
硬骨の老儒者が歌辞(カサ)形式で著した、真情溢るる通信使の記録。』と。東洋文庫662とまでご存知なのですから、
どうぞ著書を手にとって自らお読みになってください。
いつも、極部分を抜粋されて、独自の解釈を織り交ぜて記述されては困ります。

日本の豪華絢爛に度肝をぬかれた、とありますが、その豪奢とは徳川幕府の城であり、藩士の屋敷ですね。驚いたことでしょう。
とはいえ、見栄も大変なものでした。通信使が到着する少し前には、藩や町の奉行所からお触れが出されていて、その内容は、
「前日から、形の如く掃除などして、幕打ち廻し、毛氈を敷き連ね、金屏風にて囲い、通筋は浜先、或いは町家軒下にても、
青竹を以って、人除けを拵らえ、其内には白砂をまき、箒木目掃除、思ひ思ひに美を尽くし…略」などなど、申しつけていましたから。

ところで、「鶏を盗んで、町人と喧嘩をする朝鮮通信使」の図もご紹介されていますが、これは「昔絵」といって、
往年の伝承を画材に取り入れて描かれたものです。あいにく、これを説明できる文字資料はなく、証明されていませんし、
事件として記録も残っていません。ただ、朝鮮では食肉しましたから、それは庶民にとって驚きであったようです。

また、背景には複雑な感情があったと推測されます。伝承は必ずしも絶賛ばかりではありません。

たとえば、相国寺です。秀吉の時代、京都・相国寺の住持は政治顧問でした。
家康の場合も顧問的役割を担ったのですが、幕府は儒学者を側近のように扱うようになりました。
ところで、1936年朝鮮通信使江戸滞在中、ちょど相国寺住持、鳳林承章(ほうりん・じょうしょう)は、江戸にいたのですが、
徳川家康は、朝鮮国礼曹参判宛ての返書の清書を、南禅寺の金地院玄良に命じたのです。

かねてより相国寺は、京洛の高級文芸サロンを誇っていましたから、落胆したことでしょう。
(とはいえ、承章は、次の来聘、1643年、1655年、従者を連れて見物に行っています)

羨望と妬みとは、コインの表と裏のようであるかもしれません。また、搾取されるばかりで享受できなかった人々もいます。

ところで、「天皇」については、足利政権末期には世俗的権力として無力であり、場合によって、中央政権としての正当性のために
天皇の権威を借用していると、間もなく気づきました。「関白とは何者か。偽王の大臣である…」(海槎録:かいさろく)に
書いています。ですから、皇室への礼儀も尽くしていました。天皇家が天神七代から始まり…その血族関係を把握していました。
それが外交というものでしょう。ところで、日本は知られているとは知らなかったのです。

江戸、中期より、「日本型華夷(はなえびす)意識」「小中華意識」のせめぎあいが露になってきました。
実は、この「小中華意識」は、朝鮮にも、日本にも古くからあったものです。朝鮮は地理的事情から、常に「冊封体制」(さくほうたいせい)
に組み込まれてきましたが、日本もしばしば冊封しており、中国に朝貢していたのです。朝鮮では「事大主義」といい、
やがては数々の弊害を生んでいくもとにもなりました。

記事を書いた当人が、長く書いて申し訳ありません。誤解を解きたく思いました。
[返信する]
[55273] 李喜鳳さんの記事の中身と明石晶さんの指摘では正反対ですね。
名前:藤田千秋
日時:2009/12/01 21:20
李喜鳳さんの記事の中身と明石晶さんの指摘では正反対ですね。

しかしながら李喜鳳さんの記事には具体的根拠資料らしきものがないか、提示が不十分です。一方明石晶さんは根拠資料直の情報。
だから明石晶さんの示したほうが真の歴史と考えざるを得ないですね。
[返信する]
[55272] なんだこれ!
名前:林太郎
日時:2009/12/01 21:15
文句は4回終わってからにしろ。「ああ言えばこう言う、
こう言えばああ言う」。これ嘆かわしい時の日本人の常套句。
そっくり貴殿に進呈。常任理事国が笑わせる。
[返信する]
[55217] 日本で町人の鶏を盗む朝鮮通信使
名前:明石晶
日時:2009/12/01 12:16
【参考情報】
金仁謙の著書『日東壮遊歌』
http://blog.goo.ne.jp/think_pod/e/ee10cebd4441efe900f466b8f41044f8


>●1764年1月22日 大阪
>100万軒はあると思われる家の全ては「瓦の屋根」だ。凄い。
>大阪の富豪の家は「朝鮮の最大の豪邸」の10倍以上の広さで、銅の屋根で、
>黄金の内装である。 この贅沢さは異常だ。
>都市の大きさは約40kmもあり、その全てが繁栄している。信じられない。
>中国の伝説に出てくる楽園とは、本当は大阪の事だった。
>世界に、このように素晴らしい都市が他にあるとは思えない。
>ソウルの繁華街の10000倍の発展だ。
>北京を見た通訳が通信使にいるが、「北京の繁栄も大阪には負ける」
>と言っている。
>穢れた愚かな血を持つ、獣のような人間が中国の周の時代に、この土地
>にやってきた。
>そして2000年の間、平和に繁栄し、一つの姓(つまり天皇家)を存続させている。
>嘆かわしく、恨めしい。



>●1764年1月28日 京都
>街の繁栄では大阪には及ばない。
>しかし倭王(天皇)が住む都であり、とても贅沢な都市だ。
>山の姿は勇壮、川は平野を巡って流れ、肥沃な農地が無限に広がっている。
>この豊かな楽園を倭人が所有しているのだ。
>悔しい。 「帝」や「天皇」を自称し、子や孫にまで伝えられるのだ。
>悔しい。 この犬のような倭人を全て掃討したい。
>この土地を朝鮮の領土にして、朝鮮王の徳で礼節の国にしたい。






【参考画像】
http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/79/0000342679/86/imgceae725ev4571o.jpeg
鶏を盗んで、町人と喧嘩をする朝鮮通信使
「朝鮮人来訪記」 京都大学所蔵


今も昔も、小中華主義に固執して変わりないようですね。

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