瀬島龍三氏 逝去 [2007年09月07日(金)]
(著:瀬島龍三 フジテレビ出版) 「瀬島龍三氏 逝去」 瀬島龍三氏が逝去された。享年95歳。 以下はウィキペディアからの引用である。 『陸軍大学校を首席で卒業。昭和天皇より恩賜の軍刀をたまわる。関東軍参謀。東京裁判でソ連側証人として出廷。シベリア抑留から帰還後、伊藤忠商事に入社。最終職歴は伊藤忠特別顧問。 勲一等瑞宝章・受章。中曽根元首相のブレーンとして、土光臨調(第二次臨時行政調査会)委員などを務め、政治の世界でも活躍した。』 更に『ソ連との停戦交渉時、瀬島が同行した日本側とソ連側との間で、捕虜抑留についての密約が結ばれたとの疑惑については、保阪正康氏の主張に対して、本人も半藤一利氏も否定している。』とある。 ウィキペディアで興味を引くのは、 『1979年、昭和天皇の孫・優子(東久邇宮盛厚の娘)の結婚の媒酌の役を務めており、ご臨席された昭和天皇より「瀬島は戦前戦後と大変御苦労であった。これからも体に気をつけて国家社会のために尽くすように。 それから、今度お世話になる東久邇の優子は私の孫である。小さい時に母と別れ、大変かわいそうな孫である。自分はこういう立場にいるので十分面倒をみられず、長く心にかかっていた。 このたび立派に結婚することができ、自分も皇后も大変喜んでいる」と、天皇のお言葉が引用されている。誠に恐縮だが、一瞬、まさかとの思いがわいた。 私は確認したわけではないが、瀬島氏は、東京裁判にソ連側検事証人として出廷し『天皇有罪論』を述べたともいわれている。その後瀬島氏は、その天皇から勲一等瑞宝章を親授された。 日本の勲章制度は与えられるものではない。自分が受章に値すると思えば、自らの履歴書と功績調書を作成し、しかるべき役所を通じ提出する。 賞勲局の審査を経て、最終的には官邸の了解を得て決定されるものである。 瀬島氏は、自ら功績調書を作成して、有罪をとなえた天皇より名誉を受けたのだろうか。 かつて、東京ヒルトンホテルの事務所で、旧ソ連での遺骨収集について話し合ったとき、問わず語りに「叙勲は女房のためだった。苦労をかけたからね」と話すのを聞いたことがある。 私には、彼の行動に、日本帝国陸軍参謀としての矜恃は感じられないのだが・・・。 かつて、モスクワ(ロシア)で日本人捕虜の責任者を務めたイワン・コワレンコ氏に会ったことがある。来日した折面会したこともあり、二、三度の面識である。 (著:イワン・コワレンコ 文藝春秋) イワン・コワレンコ氏については、知る人も多い。 『旧ソ連共産党で、戦後長年にわたり対日責任者を務め、ジベリアに抑留された旧日本兵の親ソ化工作など、日ソ裏面史の生き証人といわれた。 第二次大戦後、旧日本軍将兵がソ連各地で強制労働などに従事したシベリヤ抑留で、抑留者を共産主義に変え、ソ連への協力者に仕立てる思想教育「民主化運動」を主導した。 日本帰国後の情報提供者の育成を任務とし、抑留者が読む日本語新聞「日本新聞」の編集長を務めた。』(日経テレコンから引用)人物である。 自宅に電話を入れると、ホテルまで来てくれた。 「心臓が悪いので、娘から外出を厳しく制限されている。今日は他でもない、笹川さんだから」と言って、日頃はもの暗い感じの男が、上機嫌で2時間近くも話してくれた。 「瀬島はラーゲリ(収容所)では静かで目立たない男であった。ただある時、ラーゲリの集会で演説を始めた。 何を話したかは記憶にないが、演説の終わりに、突然、ソビエト共産党万歳、日本共産党万歳と、両手を挙げて大声を発したのには正直いって驚いた。ひょっとしてこの男は対日工作に使えるかもと考えた。」 コワレンコ氏は、身振り手振りで話した後 「ラーゲリで瀬島が3年間近く行方不明になったことが、今も日本では謎とされているようだが、話は簡単。ウラジオストック郊外の一軒家に、女中もつけて、ソ連側検事証人として準備をさせていたのだ」と語った。 関係されていた亜細亜大学で、先年、大量の書類、資料などが焼却されたという。研究資料として、是非、残しておいてほしかったと、残念がる歴史家が多い。 昭和史のいくつかの重要な疑問点について、瀬島氏は沈黙を守られた。 そして、その沈黙は永遠のものとなってしまった。 ご冥福をお祈りする。 |