2009-11-27
■こうのとりのゆりかご(最終報告書) 
熊本市の慈恵病院で行われている「こうのとりのゆりかご」について検証する有識者会議が蒲島熊本県知事に対して最終報告書を出したというニュースがありました。
今までこの会議は二度ほど運用状況に関する中間報告を出していて、それは熊本市のサイトの「トップ>くらし・環境>子育て> 」の階層に、「平成20年度「こうのとりのゆりかご」の利用状況について 」「平成19年度「こうのとりのゆりかご」の利用状況について 」というように公開されています。(過去記事1、過去記事2)
現時点で熊本市、熊本県のサイトにこの最終報告書はアップされていませんが、いずれ近いうちにpdfファイルなどの形で公開されることが期待されます。詳しくはそれを見てからなのですが、今回の最終報告書についての報道では「倫理的劣化懸念」などといった表現が強調され、その存在自体を倫理問題として懸念する側面の報告であったような記述が…。
最終報告書で正確にどう表現されていたかは確かめなければなりませんが、少なくともここの部分だけを強調して「こうのとりのゆりかご」を評価するのは的外れであると言わざるを得ません。
倫理的に劣化する云々というのはゆりかごに子供などをつれてくる保護者に対して言われること。しかしこのゆりかごの存在意義は、つれてこられ置き去りにされる幼児・子供たちのためにあります。ゆりかごがあっても無くても遺棄され、もしかしたら生死の危機に陥るかもしれない子供たちがいると考えられて、そういう子供たちを救うための「こうのとりのゆりかご」なのですから保護者がどうのというのはあくまでも二義的な話でしかないのです。
すべての人が善人になれば極端に犯罪行為は無くなるでしょう。でもその理想の状態に社会を変えることができないので、犯罪予防や法的処罰、補償や救済がシステムとして考えられているのです。精神棒で根性を注入しようが、軍隊的組織で鍛えあげようが、そんなものでオール善人の理想の社会なんてやって来ないというのは当たり前の話。「こうのとりのゆりかご」が無ければ子を捨てたり殺したりする保護者がいなくなるというなら別ですが、発想としては「子供救済」が主眼のこのゆりかごに対して親の倫理がどうこうという話は基本的に「ずれた」ものでしょう。
親などの保護者が、一人残らず困難に耐えて子供を育てるという倫理的成長を遂げるのが(社会的コストの点からも)最も望ましいことは言うまでもありませんが、それを直接行うすべが無い時、どうしても犠牲になりがちな子供たちを一人でも多く助けようという試みは有意義なものだと私には思えます。
さて、民主党は「子ども手当て」という形で子供を持っておくインセンティブを与えようとしていますが、それが施行された後、どれだけ「こうのとりのゆりかご」の使用人数が減るものか興味深く見続けようと思っています。
赤ちゃんポストで倫理観劣化懸念 検証報告書が指摘(共同通信)
親が育てられない子どもを受け入れる慈恵病院(熊本市)の「赤ちゃんポスト(こうのとりのゆりかご)」に関し、運用実態を検証する熊本県などの有識者会議は26日、幼児や障害児の預け入れがあったことなどを受けて「社会的に『倫理観の劣化』を懸念せざるを得ない」と指摘する最終報告書を公表し、蒲島郁夫知事に提出した。
報告書によると、4〜9月に9人の預け入れがあり、2007年5月のポスト設置後の合計は51人となった。幼児が2人、障害児は複数いた。身元が判明したのは39人で、うち7人は親元に戻った。
預けた理由は「戸籍に入れたくない」8人、「生活困窮」7人、「不倫」5人、「未婚」3人。ほかに「養育拒否」や「親の反対」などがあり、不明は14人だった。(後略)
「倫理観劣化」を懸念 赤ちゃんポストで有識者会議が検証報告書(MSN産経ニュース)
(前略)
報告書は、障害児らの預け入れを踏まえ「ポストの存在が、顔の見える相談を忌避させている」と批判。ただ、慈恵病院が妊娠・出産にまつわる相談を多く受けてきた実績も含め「トータルでは、多くの生命がつながった」と評価した。
赤ちゃんポスト、2年半で51人 「国の母子支援必要」(asahi.com)
(前略)
最終報告によると、約2年5カ月間で、生後1カ月未満の新生児43人、生後1カ月以上〜1年未満の乳児6人、生後1年以上〜小学校入学前の幼児2人が預けられ、病院側が想定した「年に1人あるかないか」を大きく上回った。
51人のうち、39人は親の居住地が判明しており、九州・沖縄13人、関東11人、中部6人、近畿4人など。熊本県内はゼロだった。母親の年齢は20代が21人、30代が10人、10代が5人、40代が3人。
(中略)
預けられた子どもの多くは乳児院や里親の家庭で暮らすが、7人は実の親らが思い直して引き取った。親が不明なままの13人は、熊本市が戸籍を作り名前をつけたという。
検証会議は、「都道府県を超えた広域的な問題。国の関与が望まれる」とし、母子を保護するシェルターを各都道府県に1カ所程度整備し、出産や子育てに関する相談体制を充実させることが必要と提言している。
(中略)
26日に記者会見した柏女座長は「『ゆりかご』がなければもっと悲惨になっていただろうという事例から、(妊娠・出産を)なかったことにしたいという倫理観の崩壊した事例まであった。国民全体の問題として検討する必要がある」と述べた。(岡田将平)
何と言いましょうか、あまりに認識が古くて甘すぎると思いました。
こういう当事者や現場の人の思いや苦労について、深く理解できず考えが及ばない…
というのは、『ご本人がたのため限定』では悪いことではないと思えますが。
『保護者たる人たちのモラルハザード』なんて、今更なお話です。
私が過去、働いていた場所にいた児童のほとんどが「親の養育拒否や虐待」
による入所でした。暴力に至らずとも、お風呂に入れない、食事を摂らさない…
なんていう放置行為も十分に虐待です。なのに児童相談所がすぐ入っていけない。
今もそう簡単じゃないと思います。
「そのポストのある県外から捨てに来るだけの経済力があれば…」
なんてTVで言っている方の発言を訊きましたが、そんな問題じゃない。
「旅費を使ってでも、『他の誰かに養育を頼むくらいの』良心がある」
くらいに思ってあげたほうがいいようにすら思います。
残念だけど、お金なんて使う人次第でどうにでもなってしまうでしょうから。
そういうケースを見てこられてはご心痛さぞかしと思います
実際、理想を言うべきときとそうじゃないときがあろうかと考えます。この「ゆりかご」を「評価」する方々はもっと冷徹であって欲しいと思うんですね。
おっしゃるように「ゆりかご」を使おうとする保護者はまだましな方だと思わざるを得ないような状況があるのでしょう。
慈恵病院はカトリックの病院とはいえ民間のものです。こうのとりのゆりかごについても公的資金をもらっているわけでもありません。この試みに妙な方向から揚げ足を取るべきものではないと、本当にそう思います。
子供手当は生なばらまき政策と思えていますが、もしそれで少しでも助けになる子供がいるなら、それは評価できるかもと思うところがあります。
少し疑問があるので、また書かせてもらいます。
今回の検証会議は「熊本県」の検証会議です。
過去には「中間とりまとめ」の1回しか報告をしていないのではないですか?
熊本市のサイトに載っているのは、熊本市が設けている別の検証機関の報告ではないですか?
報告書の内容も、県の検証機関と市の検証機関では
非常にレベルに差がありますよね。
それにしても、子捨てがひどい虐待だと理解できない方が多いようで驚きました。
私も今の基準で言うと虐待児で、施設にいましたが、親の分からない子の苦しみを知っているので、
「ゆりかご」に対しては「こんなことは許されない」という怒りで一杯です。
ですから、子捨てを何とも思わない施設職員もいることに驚きました。
子どもの心の奥の痛みを見通せない、単純な世話しかできない職員が多いのでしょうね。
今はこんな風に子どもの痛みに鈍感な人が多いから、「ゆりかご」利用者に教育者や福祉関係者がいたのでしょうね。
あきれるばかりです。
赤ちゃんポストに51人 熊本県の会議が2年半を検証 相談併設の意義 評価 最終報告書を公表(西日本新聞)
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/136985
「ゆりかごの訴え 考えて」 赤ちゃんポスト 検証会議の柏女座長が会見(西日本新聞)
http://news.goo.ne.jp/article/nishinippon/region/20091127_local_KU_002-nnp.html
これはお知らせいただいてありがとうございました。(あとご要望どおり最初にいただいたコメントは削除しましたので…)
さてご教示は有難くいただきますが、そのあとのコメントです。怒りの鉾先をどちらに向けられているのでしょう。
子捨ては確かに虐待と言い得るにしろ、その虐待の主体はどう考えても保護者ではありませんか?
感情的になられるとしても、怒りをそれ以外の方向に向けるのはやや正当性を欠くと思います(冷静に考えられればおわかりになると思いますが)
身勝手な保護者の振る舞いを助長するから「ゆりかご」は許されないとお考えなのですか?
私は「こうのとりのゆりかご」が無くても身勝手な虐待を行う大人はいなくなりはしないだろうと残念ながら考えています。
そして子捨てという虐待を憎むことと、だれかれ構わず怒りをぶつけるということはやはり違うとも思います。身につまされて感情的になられるとしても、ちょっと冷静になってお考えいただければ…
つまり何をどうしたいとお考えなのか、それが私などにもよくわかりませんし、ご自分ではっきりつかまれているとも思えないんですね。
「ゆりかご」を止めることで何が果たされるとお考えなのか、もし明確にこうだという言葉があればお聞かせいただきたいです。
むしろ当事者ではないので、どこかに置き去りにされたり殺されたりする乳幼児が一人でも少なくなることに価値があるだろうと、私はそう単純に考えているのですが。
(一人一人の保護者の考えを変えさせるという難事にはどう対処していいのか、そちらの方が全く思い浮かびません…)
>ですから、子捨てを何とも思わない施設職員もいることに驚きました。
>子どもの心の奥の痛みを見通せない、単純な世話しかできない職員が多いのでしょうね。
>今はこんな風に子どもの痛みに鈍感な人が多いから、「ゆりかご」利用者に教育者や福祉関係者がいたのでしょうね。
ご投稿を拝見いたしました。
まず、「子を捨てること自体」がいいなどと当方が書いたのでしょうか?具体的にご指摘くださいませ。
当たり前のことですが、そんなこと「無いに越したことがない」と思っておりますが。それを大前提にしても、それをする親というのが次々現れるのが現代なんだということなんです。
悲しく思っております。
ご存知ない方にはショックかと思われますが、少なくとも、私が勤めていた当時に於いてですら、大変な実態があったことは間違いありません。このこと、こちらの記事にTBさせていただいている記事に詳述させて頂いているので御一読いただけますとさいわいです。
現在のところ、乳児院や児童養護施設などに入所している児童のうち、親権者がいないという児童は大変少ないのです。
福祉が「貧民救済」であった時代、また現在の日本にある児童養護施設の多くが出来た第二次大戦後…それもはるか昔になってしまいました。親側に「捨てたくて捨てるのではない」事情があったり、死んでしまったりなどの理由で子どもが預けられる時代では無いのです。
現代には現代の問題があり、それに対応するべきという趣旨で書いたことです。モラルハザードは嘆くべきことですが、それだけで子どもたちをどう助けられるのか、ということなのです。
たとえば、秋田連続児童殺害事件を起こした女児の母親のような人は昨日今日出現したわけではありません。ああいった親に捨てられ、虐待された末で保護される児童のほうが今は多いことをご存知でしょうか?
そういった子どもたちを育てる仕事をしている者について、一般の方が熟知されていないのは仕方ないことです。もちろん問題を起こす者が全く無いわけではありませんが、いま一生懸命やっている現場の者までも侮辱されるおつもりでないことを願っております。
誤投稿の削除ありがとうございます。
熊本県の検証機関の「中間とりまとめ」を読まれましたか?
あの報告書にはゆりかごのできる前年の平成18年の棄児が全国で33人、
ゆりかごのできた平成19年が66人と大幅に増えていることが記されていました。
もちろん66人には、ゆりかごの分が含まれています。
つまり、ゆりかごの分だけ棄児が増えただけなのが明白なのです。
ちなみに平成13年 45人、14年 40人、15年 28人、16年 30人、17年 27人とされていて、
減少傾向だったことが読み取れます。
昨年の中間報告の時点でゆりかごが棄児を助長していることは明らかでした。
この時点でゆりかごを止めていれば、何人の子が親を失わずに済んだか。
怒りは、棄児を助長しているだけなのに設置され続けていることに対してです。
状況が改善しない事実を受けての怒りは妥当なものであって、正当性を欠くとは思いません。
むしろ、状況が悪化したのに賛成し続けるほうが、感情に傾きすぎて正当性を欠いた判断だと思っています。
棄児を認めるということは、「子どもにどんな扱いをしても良い」と認めることでしょう。
幼児が赤ちゃんポストごっこをしているのを見つけて、びっくりして止めさせた親の話を読んだことがあります。
中絶も自由、子捨ても自由。そんな社会で子どもを大切にしようという意識が強化されるとは思えません。
子どもを捨てることを認めたり、美化することがどれだけモラルを破壊するかをゆりかごは教えていると思います。
生まれてすぐ殺される子もおそらく減っていないでしょう。
少なくとも最初の年は、警察庁の発表では減っていませんでした。
私は感情でものを言っているのではなく、運用してみた実際の結果の悪さから反対しています。
最終報告が出ているこの段階ですら、どの新聞にも嬰児殺がどれだけ減ったかは報道していません。
「命を救う」そこに多くの人が期待をして賛成しているし、その結果次第で賛否も分かれてくるのにです。
非常に不思議な現象です。
この問題を感情で判断しようとしているのは本当は誰か、考えてみられてはいかがでしょうか。
この問題では調べていない人たちが、世間に広く流れている「こんな時代だから」という根拠のないイメージや
ゆりかごに置かれなければ虐待されていたはずという勝手な思い込みで支持しています。
ある新聞に載っていたのですが、ゆりかごの前で子どもを預けようか悩んでいた未婚のカップルがいたそうです。
慈恵病院の職員が声をかけると、とたんに母親が泣き出したそうです。
その後、親に報告すると孫の誕生を喜んだそうです。
こんな親が虐待をする親でしょうか?
子どもを育てるのに不適切な家族環境でしょうか?
ゆりかごがなければ、死なせていましたか?
ゆりかごがなければ、最後は思い切って親に打ち明けるタイプの人だと思います。
ゆりかごがなければ、手放そうという発想すら浮かばなかったのではないでしょうか?
精神的なサポートがあれば、立派に親として子どもを育てていくのではないでしょうか?
このケースを知ると、相談する勇気がないことと、虐待すること、子どもを死なすことの間には
かなりの心・性格のへだたりがあることを教えてくれるように思います。
もちろん、相談する勇気がなくて死なせてしまう親もいるかもしれないけれど、それはごく一部だと想像がついてきます。
それを安易に一直線につなげて「殺したにちがいない。虐待したに違いない。」と決め付けることが、
どれだけ子どもの幸せの可能性をつぶすか考えるべきだと思います。
私は1人の子が救命されるからといって、残り50人が重い障害を負うような予防注射には反対です。
ゆりかごを治療法の一種として考えると、「亡くなる子が1人でも減れば」というのは、
危険な発想だとお感じになりませんか?
私は本物の施設出身者です。たまに目の前に刃物があることも幼児の頃からありました。
もちろん、物で叩かれることもありましたし、罵声を浴びることも多かった。
実家では毎日毎日、嵐でした。
けれど単純に親を憎みきることはできませんでした。
親には親の苦しみがあることが見えていたからです。親の涙も見ているからです。
子ども時代の私が望んでいたのは、親自身が自分の親としてのあり方を見直して
普通の親らしくなってくれることでした。
捨てられたいなどと願ったことは一度もありません。
施設にはひどい虐待を受けた子もいましたが、
親の分からない子の苦しみが一番激しかったという確かな記憶があります。
私の経験からすると、子が親に捨てられることは重い虐待です。
心にナイフを刺す行為、右手を引きちぎる行為です。
anbai_madrigall様は子捨てを「右手を引きちぎる行為」と思っていらっしゃいますか?
もしも、そういう認識をお持ちならば、
>私が過去、働いていた場所にいた児童のほとんどが「親の養育拒否や虐待」
>による入所でした。暴力に至らずとも、お風呂に入れない、食事を摂らさない…
子捨てを話題にしているときに、この程度のことは持ち出さないと思います。
この程度のことがポストの賛成理由になると思っているその軽さを「あきれる」と言っているのです。
子捨ては「右手を引きちぎる行為」という認識があれば、
「左手を引きちぎられる(虐待される)可能性があるから、
ゆりかごにあずけられたが(右手をひきちぎられたが)まし、などというバカげたな発想はないでしょう。
anbai_madrigall様の接してきた子どもたちは親に捨てられることを望んでいましたか?
私と同じように、親が改心して自分を迎えに来てくれることを心の奥で望んでいませんでしたか?
子どもの本当の心を見ていらっしゃいますか?
ごく稀にしかいない極端な事件の親を取り上げて赤ちゃんポストに賛成されるところも、
人々の恐怖心をあおってポストに賛意を迫っているように感じて、疑問を感じました。
ご事情含め、拝見しました。思わぬ心痛を味あわせてしまったことは申し訳なく存じます。
> 子捨てを「右手を引きちぎる行為」と思っていらっしゃいますか?
> anbai_madrigall様の接してきた子どもたちは親に捨てられることを望んでいましたか?
> 私と同じように、親が改心して自分を迎えに来てくれることを心の奥で望んでいませんでしたか?
当方ブログで書かせて頂きましたが、どんな親でも親は親と子どもは待っていると思います。そういう子どもたちの姿を見ているから、報われぬことがあればそれを見てかなり切なく思っておりました。
しかし、重要なのは「問題解決」なのです。今ある制度は多々改めるべき点がありましょうが、その改正に向けての話し合い・世論を作っていく時間が必要です。そのなかで通りすがりさまが貴重なご経験を意見として仰るチャンスがあれば、その中でのご発言は非常に社会に望まれることと思われます。
ただ、その間は今あるもので間に合わせるか、急ぎ着手するべきことが分かっていることを何とかせねばならない。ここはご理解いただけますか?
まず、現状で児童相談所や児童養護施設で「親としての教育」に関わることは難しいのです。「親御さんのケアを出来る」専門家というのが多くない。その方法論の確立もされてはいません。
通りすがりさまの仰る子どもたちの望みをかなえるには、「親御さんのケア」に専業で携われる知識と経験を持つ専門家が育つ必要があると思います。児童相談所や自治体の担当課の機能だけではなかなか追いつかない、と思います。
また、どうやったら「子捨て」自体を思い留まってもらえるのか?通りすがりさまの話はここに尽きると思います。
このことについてですが慈恵病院がこういうことを始めたもう一つの背景について、ご一考を頂けたらと思います。
カトリックでは、例えば妊娠中絶はそれを望んだ母親、ほう助した医師・看護師がカトリック信者だった場合は「破門」になります(母子ともに命が危ない場合、母親を助けなくてはいけないときは別です)。ゆえに医師・看護師がカトリック信者なら、産科で中絶手術を望まれても受けられません。そこで母親になる人を説得するのです。
「その『命』を産んでください。もし育てられないなら、心配のないように計らいますから…」
しかし残念なことに、こういう説得に応じてくれる人は多くありません。別の産科で中絶をされたかも知れない。中絶を思いとどまらせてくれる産科もあるけど、それが全てでも無い。もしかして助けられたかも知れない『命』もあるのではないか?そういう『命』を助けられないか?その模索と見られるのです。当然、諸論ありましょう。
「余計なお世話だ、こんなやつらのお陰で『子捨て』が『イケナイコト』じゃ無くなってしまう!」
と思われましょうか?
対面で説得に応じてくれなかった人、児童相談所や自治体担当課などに行って相談することに踏み切れなかった人、そういった人たちが産んだ『命』を預かることが出来るとしたらその可能性を残すことは悪いことではないと<私個人は>思います。
残念なことに、何かの救済手段を悪い形で使ってしまう人間は、どうしてもいてしまいます。それは決して許されていいこととは思いませんが、助かる可能性のある『命』を助けられたことがあるなら、その手段は悪いことばかりでは無いのではないでしょうか?
> ごく稀にしかいない極端な事件の親を取り上げて赤ちゃんポストに賛成されるところも、
> 人々の恐怖心をあおってポストに賛意を迫っているように感じて、疑問を感じました。
説明が足りず大変失礼を致しました。仰るような意図はございません。当方は殺人者としての事例としてだけで、この件を捉えていません。
「結果は極端だった」かも知れませんが、現・受刑者を特別な人とは考えきれないだけなのです。
現・受刑者の背景について、地方在住者として察するところもあります。地方都市の多くは多様性を認めない部分も残っています。そこで辛い思いをした子どもは進学なり就職で新天地を求める。まずそこで居場所が出来ていれば、と思いますね。しかし、それを作るにはある程度の「主体性」が必要になりましょう。しかしそれが出来ずに帰郷し、地元社会に適応できなかったのではと思います。
子どもをしっかり育てているなら理解者となり支えてくれただろうに、とも思います。なのに彼女はそういう大事なチャンスを逃してしまったばかりか、他のご家庭の大事なお子さんをあやめてしまうという最悪の結果になってしまった。
こんなことをしてしまった現・受刑者の責任は重く、当然のことながら『受刑者本人が』罪を償わなくてはなりません。
しかしながら、地域社会、また児童福祉関係者が何か対応出来ていればという課題も残した事件と受け止めています。類似の事件の再発を防ぐためにも、社会が考えなくてはならない余地があると思うだけなのです。
> 慈恵病院の職員が声をかけると、とたんに母親が泣き出したそうです。
> その後、親に報告すると孫の誕生を喜んだそうです。
上述しましたが、慈恵病院側の意図は「相談をして欲しい」というところにあります。そこだけ、誤解されないでいただけるといいのですが。
コメント読ませていただきました。まず思いましたのは、あまりに単因論でお考えなのではないかというところでした。つまり捨て子の増加のほとんどすべての元凶は「ゆりかご」であるというような思い込みが、その後のご意見のほとんどすべてに影響を与えてしまっているということです。
平成13年から17年にかけての棄児の減少傾向、そして19年の増加、19年は「こうのとりのゆりかご」が出来た年だ、だから「ゆりかご」が棄児を助長している…
これはあまりに乱暴すぎる結論の出し方です。
たとえば平成19年以降の実質GDPの前年比伸び率は今年前半まで減少の一途を辿っています。20年以降は確実に景気後退期に入り大幅な下げとなっています。私も全部をこうした景気動向で語ろうとは思いませんが、「ゆりかご」が出来たことだけをすべての棄児の増加につなげて語ることの危険性はお考えください。他のパラメーターが皆同じ条件であるときに唯一の原因というものは語りやすいのですが、残念ながら社会現象においてそうそう都合の良いことはまず起こらないのです。ですから大抵の場合、複数の要因を考えていかなければ(往々にして)間違ってしまうということなんです。
また少子化などと言っても、まだ日本の4歳未満の人口は533万人以上います(平成21年6月)。その中で数十人単位での上下が何か一つの要因に帰するものだと軽々しくも言えないでしょう。もちろん一人一人の生死・境遇は重要であるとしても、その責を安易にどこかにもっていくのは危うい話なのです。
そうお考えのことを一朝一夕に変えよと私が強いることもできません。でも因果関係の決定というものがどれだけ大変なことか、あるいはそのうち気付いていただけるかもという希望はあります。
今のお考えのままでしたら何を言っても感情を逆撫ですることになりはしないかと危惧しますが少しだけ。
「こうのとりのゆりかご」を設置した病院にしても、それを支持できると考えている私たちにしても、誰も捨て子が良いとか美化して考えようとかしてはおりません。ただ棄児は許せないにしてもそれを考えに入れた上での対策が必要と思っているのです。あることが間違いだとしても、それを声高に言っていれば間違いが消えてしまうとは思わないだけなのです。
前提が先のお考えのようであれば、なかなか話がかみ合うことはないかもしれませんが、今一度よくお考えいただければとそれだけ願っております。
>急ぎ着手するべきことが分かっていることを何とかせねばならない。ここはご理解いただけますか?
まずは、ご自身で日本の状況が過去より悪化しているかどうか調べてみることをおすすめします。
現況は昔に比べ、はるかに赤ちゃんの死なない、殺されない時代です。
>何か対応出来ていればという
子捨てが、「右手を引きちぎる行為」が「対応」と言えるものかどうか、よくお考えになることですね。
つまるところ、anbai_madrigall 様は、
子捨てを「右手を引きちぎる行為」とは認識していない、
虐待だと認識していない、
子どもの心の傷のすごさを知らない、
大したことではないと思っている
から、一連の投稿内容になっているのですね。
「ゆりかご」利用者の子捨てに対する感覚もanbai_madrigall 様のような感じなのでしょうね。
だから、罪悪感なく利用できる。
倫理観も、子どもの苦しみを想像する力も欠けているようです。
最終報告では、「ゆりかご」がなかったら死んでいたと思われる事例は
なかったとしているそうです。
「ゆりかご」は命を救う場所ではなく、命をつなぐ場所(捨てられたけど、死んではいない場所)
だそうです。
あのカップルのような親たちも、職員が現れないと利用してしまうんでしょうね。
私は「中間とりまとめ」を読みましたが、その内容にはanbai_madrigall 様よりもずっと
子どもに向かい合う姿勢が感じられました。
子どもの未来を思って書いていました。一読をおすすめします。
信仰のあついキリスト教徒なら婚前交渉などしないでしょうし、
レイプされて妊娠する信仰のあついキリスト教徒も稀でしょう。
そんな場合がもしあったとしても、信仰のあつさから「ゆりかご」など利用せず、
養子制度の利用を考えるでしょう。
uumin3様
>これはあまりに乱暴すぎる結論の出し方です。
以前にも感じましたが、uumin3様はあまり論理的では…。
各県ごとの棄児数調査もされているので、熊本県の突出した棄児数が
全国の人数を上昇させていることが一目でわかります。
ここはuumin3様のお部屋なので、このあたりでやめておきます。
> つまるところ、anbai_madrigall 様は、
>
> 子捨てを「右手を引きちぎる行為」とは認識していない、
> 虐待だと認識していない、
> 子どもの心の傷のすごさを知らない、
> 大したことではないと思っている
>
> から、一連の投稿内容になっているのですね。
> 「ゆりかご」利用者の子捨てに対する感覚もanbai_madrigall 様のような感じなのでしょうね。
> だから、罪悪感なく利用できる。
> 倫理観も、子どもの苦しみを想像する力も欠けているようです。
「通りすがり」という捨てハンドルを使われることにはそれなり事情おありでしょう。
しかし、当方はあなたの書かれる内容の切実さを感じたからこそお話をしてまいりました。『被害者』であること『当事者』であることを重いことと考えたからです。
当方はお話するからには、中間とりまとめは読ませていただいています。
また当然ながらキリスト教系医療施設は、広く一般に開かれております。ゆえに、
> 信仰のあついキリスト教徒なら婚前交渉などしないでしょうし、
> レイプされて妊娠する信仰のあついキリスト教徒も稀でしょう。
> そんな場合がもしあったとしても、信仰のあつさから「ゆりかご」など利用せず、
> 養子制度の利用を考えるでしょう。
キリスト教徒でない方々の利用も考えた運営がなされております。また、養子制度について一部でもご理解を頂けたのなら良かったことと思います。
当方への評価は甘受いたします。一つのブログ記事で元職員だった一人にこれだけ仰って、感情が少しでも収まるなら。当方は通りすがりさまの「人間性」については、一切判断しておりませんが。テキストだけで分からないことについては、想像だけでは大変失礼かと存じますので。
そうしてなお、当方の疑問としてここは残るので書いておきます。これから通りすがりさまはどうなさっていかれるのか?
Web上で同意できない記事にこのようなことを続けられても良いかもしれない。ブログ記事や掲示板などで訴え続ける道もあるでしょう。しかしこれがリアルの社会に良い影響として波及していくかというと、言いきれましょうか?
当方は身体障害者や知的障害者の仕事も経験があり、難治性疾患の患者でもあるため、親の会や患者会という『当事者』の人々の会やそれが発展して出来た社会福祉法人・NPO法人なども存じております。そういった方々の活動も見ているため一応申し上げますが、本当に通りすがりさまのお望みを社会に反映させていくためには、同じ思いをされた方々と声を出していかれることもたとえば一つの道であるかと思っております。
また、そこまでに至らなくても例えばご家庭を持たれた場合、そしてお子さまに恵まれることがあった場合、しかるべき教育をなさることも道の一つでしょう。また青少年の育成や教育に間接的に携わる、など。
そんな必要のない社会だからやっていけないことではないと思います(当然のようにされていることであれば、失礼をお許しくださいませ)。
uumin03さま>
通りすがりさまがお話を打ち切るとのことなので、当方も撤退させていただきます。当方がコメントを書いてしまったことで、大変にご迷惑をかけまして申し訳ありません。
このこと、伏してお詫び申しあげます。