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不滅のCM グリコ「アーモンドチョコレート&セシルチョコレート」(1980)



松田聖子(聖子ちゃん)と田原俊彦(トシちゃん)のペア映像


思えばそのペア映像を最初に世間に印象づけたのは、1980年、NHK「レッツゴーヤング」での

サンデーズ・メンバーとして、司会の平尾昌晃や石野真子のサポートを2人が一緒に務めていた頃。

田原俊彦は79年には早くも、あの「3年B組金八先生」で「たのきんトリオ」がブレイクしていたところへ、

何故か自然と松田聖子とお似合いのペアにセッティングされていたのは、運命だったと言うほかないが、

2人は1歳違い(聖子1962年生まれ、田原1961年生まれ)で1980年歌手デビュー同士。

また、そのデビュー曲がそれぞれいきなりヒットしたのも、相性としては互いに「明」と「陽」の

キャラ戦略だったのも、すべてが必然的に合致していた。

そんな1980年、過熱する「たのきん」人気の火に油を注ぐような1本のCM映像が、

トシちゃんファンの神経を思い切り逆なでしたが、それがこの、グリコのTVCF

「アーモンドチョコレート&セシルチョコレート」であった。



グリコの看板商品にして、1977年には、あの山口百恵と三浦友和をペアでCMに起用したが、

その直後の79年には百恵・友和は婚約発表、80年にはトップアイドルながら百恵は21歳で電撃引退・結婚へ

というニュースが全国民の話題となっていた、その1980年である。



こうした伏線がトシちゃんファンの深層心理にあったればこその、松田聖子への猛反発が巻き起こった。

女子達からはデビュー直後は「ぶりっこ聖子」と、その可愛い子ブリッコが嫌悪・嘲笑されていた松田聖子である。

そんな聖子であったが、一方では「聖子ちゃん可愛い!」との、年下女子の支持派の声も多く、聖子ちゃんカット

ブローで真似る女子高校生が全国規模で発生。

さらにパーマ禁止にとらわれない専門学校生や女子大生達の間では、急速にそのコピー・ヘアスタイルが、

キャンパスに定着すらしつつある状況もあった。(↓)

1980年の女子大生ファッション

聖子ちゃんカット+ハマトラファッション+初代ウォークマンの3点セットこそが、1980年の女子大生の典型スタイルであったが、
松田聖子自身は最終学歴は高卒である。


こうして、トシちゃんファンからの憎悪の声が挙がるも、2人の少女マンガチックなCM映像展開に好感を持つ視聴者も

他方では多数存在し、世間に愛憎入り乱れた波紋を呼んだ。



さて、私の当時の所感であるが、たのきん人気は全国男子にも充分認知されており、特に「3年B組金八先生」という

人気ドラマ出身の経緯もあってか、女性アイドルと絡む男性アイドルタレントに対してありがちな、彼らへのジェラシーやら反感やらは、

世間一般の男子にはおおむね無かったように記憶している。

特に田原は、まだあの脱力系の馬鹿笑いもなく、どちらかと言えば美形の優男というキャラクターで、

彼の髪型やファッションを真似る輩も大勢いた程である。

つまりは聖子ちゃんタイプの女子と対をなす、男子のスタンダードとして見られていなくもなかった。



だがそれよりも、この1本のCMが世間に与えた印象は、先の百恵&友和ペアの前例を知るほとんどの若者からは、

80年代の到来を告げる象徴としてのトップアイドル・ペアが、聖子ちゃん&トシちゃんであることを再認識させられる※と同時に、

百恵&友和ペアが静謐と大人らしさを漂わせていたのに比べ、聖子とトシちゃんの、あまりにも幼い軽さのようなものを、

微笑ましく、また、80年代という時代の空気として受けとめたことにあろう。


かくしてトシちゃんのフルバンク・パーマは大学生男子の定番となり(田原は19歳)、

トシちゃんのシンボル・カラーである真っ赤なスイング・トップも流行。

インナーはもちろんトレーナーであり、ジーンズはあくまでもスリムであった。

そして聖子のファッションと言えば、当時、原宿あたりや清里高原でも大量発生したスタイルであり、

トップの丸首に襟を出し、膝丈スカートにポシェットを前掛けという、メルヘンチックなパステルカラーに統一され、

クラブ活動、いや同好会は、ヘタでもとりあえずテニスというのが時代の作法であった。

ややトラッドで、ややスノッブ、ややファンシーで.........というのが、80年代初頭のハイティーンにとっては

時代の気分だったのだ。ツッパリ達はとりあえずおくとして。



そして、このCMで、これまた当時はファンシー・アイテムとして欠かせなかった、真っ赤な公衆電話ボックス

(当時は携帯電話を持っている若者など100%皆無)が、なぜか唐突に高原に配置されていたのは、CMソングとして使われた、

田原の「ハッとして! Good」の歌詞(♪パステルに染まった、高原のTelephone Box♪)を文字通り再現したもの
であり、

聖子とバッタリ出会うのも、聖子がテニスラケットを握るのも、すべては歌詞に基づくストーリーである。

聖子公衆電話黄色

学生にとって携帯電話機などはその存在を想像すらできなかった80年代初頭。 恋人達は
自宅で同居する親と1台しかない家庭用電話機の使用を避け、公衆電話で愛を語り合うのが
定番の行動だった。(テレカ公衆電話機登場前夜の1981年、黄色のダイヤル式が時代です)



こんなメルヘンチックで乙女チックな世界観を歌う田原(♪僕は今、爽やかな君だけのプリンスになると決めたのさ♪)と

ブリッコ聖子のペアだからこそ成し得た、ほとんど「サンリオ」か!「りぼん」か!(←タカ&トシ調で突っ込む)という、

70年代の大学生からは想像もつかないお子様ぶりも、70年代学生闘争からシラケを経た反動の退行現象だったのかもしれない。


そして田原は翌81年には、なんとパッチワークのツナギに、可愛いアップリケのポシェットを提げたコスチュームに変身。

おまけに頭を振り振り「ナハハハハハハ!」
という、ほとんど白痴的な、同じ20歳の成人男性にはさすがに真似のできない

パフォーマンスながらも、聖子と共に80年代初頭のアイドル歌謡界ではトップ争いを続けた。


また、NHK「レッツゴーヤング」では、この年に早速、聖子と田原の2人を司会に大抜擢。

毎週2人のペア映像がお茶の間に流れることとなった。


さらに翌82年デビューのアイドル達(アイドル大豊作と言われた「花の82年組」) は、

女性アイドルはほとんど全員が聖子ちゃんカットという、絶大なる影響力を誇った。


そうした幼稚で軽い時代の幕開けと流行現象を、わずか60秒のCMに凝縮して見せたのは、

グリコの偉業と呼んで差し支えないのではないかと思う今日この頃、CMラストシーンで

2人が並走する自転車の後姿は、田原が聖子の手を取って高原の1本道を共に走り去ってゆくが、

それはあたかも1本の道のように続いてゆく未来へ向かって疾走する2人が、

80年代という時代の先導車のように見えたものだ。



あれから27年、トシちゃんは優男から一転、「俺はビッグ」発言で顰蹙を買う人物となり、

聖子ちゃんは華奢な女の子から一転、奔放な男性遍歴で、やはり世の顰蹙を買ったが、

80年代に一時代を築いた2人の活躍は、今も燦然と輝いている。


また、当時の2人の間に果たして恋愛感情があったのかどうかは定かではないが、

躍起になって2人を結びつけようとしたベストテンレッツゴーヤングや芸能マスコミのからかいをよそに、

そうしたゴシップが浮上することもなく、聖子の結婚後はまったく並んで語られることはなくなったが、

例え恋愛関係がなかったとしても、「聖子とトシちゃん」のツーショットは今も視聴者のイメージの中で

固定化している80年代初頭の風景であり、共にディナーショーでは根強い人気を保つ2人だが、

終身アイドルとして30年、40年の節目を迎えても80年代作品を歌い続けることだけは貫いて欲しいと、

切に願う次第である。

テレホンカードが日本で発売開始されたのは
1982年の年末のことであった。当時はまだ
民営化される前の「電電公社」時代である。

 

【おまけ】

1994年5月9日に放映された、NHK「ふたりのビッグショー」では、自称「ビッグ」なトシちゃん&巨大な存在となった聖子が、

ふたり揃って「サンデーズ」時代のNHK「レッツゴー・ヤング」出演当時と同じステージに立った。

そして、出会いのきっかけとなったレッツヤンを語るトシちゃんと聖子は、ふたりだけが共有する、1980年代から続く

目に見えない「同志」的感覚を互いに再確認したのである。

※傍証※

日本の歌手・俳優の人気度を示すバロメーターとして戦前からプロマイド(肖像写真)を一手に売り続けてきた老舗の「マルベル堂」は、
オリコンヒットチャートがレコード売上げのランキング指標とすれば、テレビ露出の総合人気も反映した「ザ・ベストテン」と並んで、
ビジュアル人気のランク付けには、80年代までは一定の権威を誇っていた。



そのマルベル堂が集計した1980年の歌手部門プロマイド売上げの男性1位は田原俊彦、女性1位は松田聖子であった。


また、聖子のシングル「風は秋色」(1980年)は、オリコンシングルチャート初登場第1位を記録する。
(その後、1988年の「旅立ちはフリージア」まで、24作品連続オリコン1位という大記録を打ち建てる)



一方の田原は、「ザ・ベストテン」での1位争いを聖子と演じながら、ランクインの常連となる。
(後に、デビュー曲初ランクインの1980年から番組終了の1989年まで、番組史上最多出場記録を樹立



80年代アイドルは黄金期ゆえに数の多さは圧倒的。そんな中、持ち歌でもビジュアルでも人気を維持し続ける事は並大抵ではないが、
聖子とトシちゃんの2人は揃って80年代のアイドル歌謡界トップランクに輝き続けたのである。

 

【系譜】

今から50年前に生まれたグリコのアーモンドチョコレートだが、1960年代にはスライドケース型の「フライド」が生まれ、
70年代からは、いよいよ今も続く「グリコ=アイドルCM」がスタートする。

永遠の青年にして、当時のトップアイドル森田健作のCM起用から、グリコ アーモンドチョコレートは「青春&アイドル」が
キーワードとなり、70年代には森田健作がパーソナリティを務めたFM番組「森田健作 ひと粒の青春」も提供開始。

1982年には3代目パーソナリティとして聖子が起用され、「松田聖子 ひと粒の青春」となるが、聖子はアーモンドチョコと同時に、
同じくグリコの定番商品「ポッキー」のCMにも起用されており、それは1981年から1987年まで続いたことで、80年代グリコはまさに聖子の時代でもあった。

聖子ポッキー(加賀編)

ファッションはアイビー・リバイバルなトラッドスタイルが主流。そして国内プチ旅行が女子大生の
定番レジャーであったが、温泉&グルメではなく、まだお花畑などのメルヘン志向が健在だった。

そして、1983年、80年代アイドルの新星にして82年デビュー組では中森明菜に次ぐ存在としてブレイクした小泉今日子が、
田原俊彦と同い年(1961年生まれ)のアイドルで、本業は舞台俳優ながら人気TVドラマ「太陽にほえろ!」のラガー刑事役で
お茶の間でも人気急上昇、さらには歌でも「約束」で「ザ・ベストテン」ランクイン(1982年11月18日から4週連続第1位の快挙!)
も成し遂げていた渡辺徹との共演で、グリコアーモンドチョコレートのCMに起用される

小泉今日子は白いフリルのハイネックがのぞく真っ赤なモヘアのセーターに、ポシェットを提げて彼氏を待つ姿が80年代初頭
まさに渋谷で見られた時代の光景である。

今や単なるデブタレとして、さらにはメタボ芸人とも呼ぶべき自虐ギャグを披露する渡辺だが、当時は長身のアイドルとして、
このCMでも主役はコイズミではなく渡辺である。(小泉今日子はあくまで添え物的扱いである)

CMソングとして流れるのは渡辺の「愛の中へ」(「ザ・ベストテン」1983年最高位5位)であり、渋谷の公園通りロケで小泉今日子の
肩に手を回すのは「愛の中へ」の歌詞♪PARK AVENUE、小さな肩を抱けば♪を再現したものである。このあたりは聖子・トシちゃん
ヴァージョンを踏襲している。

さらにはエンディングで突如、新宿高層ビル街の遠景に切り替わるのは、渡辺がラガー刑事として出演中だった、「太陽にほえろ!」の
あまりにも有名なオープニングタイトルバックを想起させるものに他ならない。

こうしたお遊びが随所に見られるのも、アイドルおたくなグリコの為せる技であった。



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