競争について、考えている。

 資本主義批判を書くとき、読者の方と意見の相違を感じることがある。もちろん意見は違っていいのだが、どこか話がかみ合わない形での意見の食い違いにも思える。それはなかなか解消されないだろうが、根気強く書いていくしかあるまい。

 競争する、ということがこんなにも意識されること自体近代の産物であろう。独立した個人がいる、という発想がなければそもそも競争すること自体ありえないからである。つまり競争の発生は自我の発生と時をともにしている、ということだ。

 ところが、競争には勝者と敗者が存在する。そのとき競争は勝者に過度の栄光をを与え、敗者に過度の卑屈を求めるのである。

 現代社会においてかなりの度合いで競争が成り立っているものとしては学業と恋愛と仕事がある。

 たとえば仕事ができようができまいが、給料に数万円の差がつくくらいであればむしろどんどんやるべき事柄であろう。しかし実態はそれにより生きられないほどの格差を与えられ、仕事の競争での敗者は結婚もできず、生きる価値のない人間としての烙印を押される。必要のない人間として社から追われ、もしくは入ることすら拒まれる。そして社会的信用も喪失するのである。

 恋愛の敗者はやはり人生において一人の女性からも受け入れられなかった、生物学的に淘汰されるべき劣等人である。たかが休日一人で過ごすか二人で過ごすか、といった差ではなく、その人の人間的価値の一つの物差しとなってしまう。

 学業においても同じだ。たかが微分積分ができなくとも生きていけるのだが、それでもやはりバカは劣った人間として嘲笑され続ける運命にあるのである。

 どの競争の結果も不当である。もちろんたかが数回あった面接官や上司に自分の本当の価値などわかるわけがないし、おなじく人生のいくらも共にしていない異性に何がわかるのか疑問であろう。テストの点が悪くてもそれがなんだというのか。

 こちらの意見のほうが第三者の目線に立てば明らかに正しい。ただし競争が恐ろしいのはこうした劣等感はなかなか消えないのである。なぜなら競争に敗れることにより誰よりも自分を嘲笑うのはほかならぬ自分自身だからだ。だからこそ劣等感はその競争において一定の勝利を得なければ何によっても消えることがない。

 さらに言えばこれら三つの競争において大事なことは自信を持つことである。だが劣等感にさいなまれた自分に自信などあろうはずがない。競争の敗北者は次の競争でも、別の競争でも次々に敗れ行くのである。あなたが劣等なのではない。負けたから負けるのである。だが負け続けの人生を与えられて劣等でないなどと誰が信じられようか。

 競争の前提には自我が必要であるが、実は競争はそのやわらかな自我を粉々に打ち砕く力を持っている。そして負けたことのない人間などいないことを併せて考えれば実は競争に勝者などいなく、全員が敗者になり、全員の自我が粉々になるということであろう。

 競争など安易に信じえない所以である。