手元に1冊の単行本がある。カバーはなく、薄茶色に変色した背は染みが多い。それでも古本屋で目にしたとき、宝物を見つけた気分だった。著者に、インタビューしたいと思っていたからだ。
森繁久弥著「こじき袋」(読売新聞社)。1957(昭和32)年3月の刊行で、このとき森繁さんは43歳だった。今月10日に96歳で亡くなられたのだから、半世紀以上も前のエッセー集である。
戦前、NHKのアナウンサーとして旧満州(現中国東北部)の放送局に勤務したときの回想は、何度読んでも胸が痛む。森繁さんはシベリア国境の雪の下に、兵隊の名前を小石に刻んだ日本人墓地を見つけた。それは連隊長の墓碑を円形に取り囲んでいた。さらに<一段小さな石くれの碑>に女性の名前があった。
森繁さんは書いている。<からゆきさん--こんな、北辺の果ての果てまでも兵隊たちについて行軍し、ついに雄々しくも部隊と運命をともにした、うら若い娘たちなのであろう。涙を誘わずにはいられない末路の姿であった>
森繁さんが雪の上に涙を落とす様が目に浮かんでくる。私は活字が涙でかすんだ。
ところで森繁さんの実兄は、この国境で行方知れずになったままである。<どんなに飢えに飢えてのことだったろう>。亡き兄と、帰国を待ち続けた兄嫁に、この本を捧(ささ)げたいと結んでいる。
森繁さんから戦争と平和について、じっくり聞きたかった。残念だが、もはや望めない。私は今、「あとがき」の言葉をかみしめている。
<ただこうして書き綴(つづ)って、ひとしお身にしみて感じられることは、平和に手をつないで暮らしてゆきたいと思うことのみである>
毎日新聞 2009年11月29日 0時07分
| 11月28日 | 物語と仕分け=大井浩一 |
| 11月27日 | 安心・安全=福本容子 |
| 11月26日 | ああブーメラン=与良正男 |
| 11月25日 | 家族会の一日=磯崎由美 |
| 11月24日 | 東京物語から=玉木研二 |