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気仙坂

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「痕跡本」に魅せられて
☆★☆★2009年11月28日付

 本へ直に書き込みをするかしないか。
 筆者自身は基本的に「書かない派」。教科書など勉強のみに使う本には書き込むが、ビジネス書や新書になると躊躇して悩んだ末に記入せず、小説などには絶対に書き込まない。
 後日改めてその本を開いた時に線引きなどがあると、書いた当時の記憶を呼び起こすきっかけになる。頭も心も白紙≠フ状態になりにくい。学習目的なら有効的だが、文芸では常に新鮮な気持ちで読みたい思いが強く、書き込みなんて論外とも思っている。
 とりわけ自分が所有する本はミステリー小説が多いから、常に真っさらな気持ちで犯人に迫る描写などを味わいたい。だから犯人の名前の部分全部に赤丸を付けるなんてもってのほか!友人にそんなイタズラをされ、成敗したくなったことがあります。
 こんな書き込み否定派、半ば恨みを持ちつつある筆者が、古本屋で本を物色していた時のこと。「これ面白そう」と一冊の新書を手にして中身を見てみると、赤、青、緑色のボールペンでカラフルに書き込みがされていた。記入は破線、波線、二重線、囲みにとどまらず、英語や単語の意味を記したメモ、それに図解まであった。
 表紙から順にページをめくっていくと、そんな書き込みがぎっしり。この本の元持ち主はかなり勉強熱心で、知識をどん欲に吸収したのだろうと思いきや、ページが進むにつれその量は激減、総ページ数の五分の一にも満たないうちに、まったく記入がなくなっていた。このことが意外と面白かった。
 初めは意気揚々と真剣に取り組んだものの、途中で挫折、「知りたいことは得られたし、もう必要ない」と自身に言い訳し、古本屋に持ち込んだ―そんな想像ができた。それにしても、これだけにぎやかに記入がある本は誰も買わないのでは…自分自身も買う気になれず、その場を後にした。
 しかし、幾分日が経ったのにあの本が忘れられない。そういえば学生時代、友達から借りた教科書などの書き込みを見て「何でここに線を引いているんだろう」「こういう部分に気を留めてるんだ」という発見があった。同じ授業、同じ教科書を読んでも各々感じること、興味を持つ部分が違うんだと実感できる面白さがあった。
 あの書き込みされた新書…誰かの考え方や感性を垣間見ることができる、その面白さを楽しむチャンスをみすみす逃してしまった! まだ店頭にないものかと、古本店へ行くと…あった!しめたものとレジへ持っていった時、ふと店員さんに聞いてみた。
 「このお店では、本に書き込みがされていても買い取って販売しているんですか?」
 「いいえ、そういう本は買い取りしておりません」
 なんですって!?じゃあこの本は?と思い、事情を話して聞いてみると、どうやらチェックミスで店頭に出てしまったとのこと。しかしこんな風に、世の中に物好きというのはいる。愛知県には書き込みのある本を「痕跡本」と称して収集、販売している古書店もある。書き込みは、大切に本を読み込んだ持ち主自身の物語の痕跡≠セという考え方が魅力的だ。
 また、出版物のあとがきや解説を芸能人が担当することがある。これを応用して、教科書に出てくるような近代学文学の活字の上に、有名人直筆の「痕跡」が印刷された本があってもいいかもしれない。その人の心の機微が読み取れたり、一味違った面白い読書ができるかも。
 しかし、逆の立場のことを考える。書き込みされた作者はご立腹する?いや、それよりも自分の痕跡本を知人に貸したときに、自分の頭の中や心の一部が垣間見られてしまう。こりゃ少し恥ずかしい……まだまだ「書かない派」でいきそうだ。(夏)

カラスにも及ばぬくせして
☆★☆★2009年11月27日付

 人間は「万物の霊長」などと自惚れているが、このところ連続して起こる奇っ怪な事件をこれでもか、これでもかと見せつけられると、それはまったくの思い上がりで、本当は最劣等種ではないかと思われてきてならない。少なくとも他の動物たちは「理由なき殺人」いや殺害などしないからだ。
 それでも近年まではそんな自惚れも許されてきた。確かに人間に近い能力を備えた類人猿はいるが、知能指数では人間にはるかに及ばない。霊長とは「不思議な能力を持つ、もっともすぐれたもの」と辞書にあるが、その言葉にふさわしいのは人間以外にないのも事実である。
 だが、それは過去の話であって、現在進行形で他の動物たちの知能が人間の比肩にならないほど急速に進化、発展しているとしたら未来は逆転もあり得るだろう。人間が霊長の称号を他に譲るには気の遠くなるような時間が必要とされるにしても、着々とその準備が進んでいるのではないかという仮定まで否定することはできまい。しかし思い上がるとそれを一笑に付してしまうのが世の常で、それは人間世界の業というものであろう。
 いささか大上段にふりかぶり過ぎた。本当は素直に他の動物たちの持てる不思議な力にただ驚嘆したかっただけである。
 その一つ。最近話題をさらったチンパンジーの「利他行動」は、人間世界に少なからぬ衝撃を与えた。自分さえよければいい、自分さえ儲かればいいといった利己主義への警鐘が、他ならぬ人間以外からの痛棒によってなされたからである。
 京都大学の田中正之准教授らによって行われたこの実験は、隣り合わせた部屋に入れられたチンパンジーの母子、女性同士三組で四回ずつ行われた。部屋の外に置かれた食べ物や飲み物を取り寄せるためには道具が必要だが、自分は手元に持ってない。しかし隣の住人は持っている。そこで「悪いけどその道具貸してけらいや」と頼むと「ああ、いいもかかった。ほれ使わっせん」と気軽に「延べて」くれる。
 この利他行動はほぼ六割で見られたから単なる偶然ではなく、隣の求めに応じて自らの意思に従ったものと見てよかろう。その結果を知って人間どもが反省させられたのである。
 チンパンジー、ゴリラ、オランウータンなどはヒト科の仲間で、サルとは峻別しなければならず、数える時も一人、二人、性別も男、女と呼ぶということをこの件で初めて知ったが、なに人間と「入れ替え戦」をする準備は予想以上に進んでいるのではないか。
 もう一つ考えさせられたのは、NHKテレビの「ダーウィンが来た」という動物番組。先日はニューカレドニアに生息する「カレドニアカラス」の生態を紹介していたが、このカラスが見事に道具を自作し、使うことにビックリさせられた。
 このカラスは、木の枝をつかって穴の中にいる虫をほじくりだす技に長けているが、驚いたことに枝の先をくちばしで加工し鈎を作り出す方法を知っていることだった。まさに道具を考案する才能を持っているのである。
 そしてまた、アロエのような厚い葉の、端にあるノコギリ状のトゲを生かして金ノコ状の道具を作り、これを差し込んでくちばしの届かぬ深部にいるナメクジのようなエサを取り出すのだった。そのアイデアと道具を作る加工技術におもわず舌を巻かされた。
 以上、この二件の例によって人間の不遜というものを知らされた当方は、なにが万物の霊長だ、カラスの知恵にも及ばぬくせしてと思い、人間をしていることがいやになったという次第。(英)

命がけの漁に感謝
☆★☆★2009年11月26日付

  釜石海保が配信している携帯電話メールサービス「海の情報・釜石海上保安部」の登録者が千人を超えたという。メールに海上模様の悪化予報や海難事故情報などを掲載して登録者に配信するサービスで、開始から約一年を経ての大台突破。爆弾低気圧やゲリラ豪雨など、急激に発達して激しい風雨をもたらす異常気象も頻発している昨今、海での事故を未然に防ぐため、リアルタイムな情報を得られるツールとして一層定着していくことが期待される。
 海の事故で悲しい主役を演じてしまうのは、どうしてもそこを生業の場としている漁業者たちだ。幸いにも今年はこれまで気仙管内での船舶海難による漁業者の死亡、行方不明事故を記事にする機会はなかったが、昨年は残念なニュースに多く接し、そのたびにやるせない気持ちでいっぱいになった。
 筆者自身、これまでの取材で何度か海に出てみる機会があった。外洋は湖のように静かな湾内の海とは違い、絶えず大小様々な波が寄せてくる。船上では上下左右に揺れてバランスを取るのが難しく、空模様が不安定な日には風まで吹き付ける。船のへりから下をのぞき込めばもちろん底などまったく見えない青黒い水が広がり、落水を想像すると生きて帰れる気配はまったくない。
 「板子一枚下は地獄」。昨年二月の護衛艦『あたご』と漁船『清徳丸』の衝突事故で、漁船が所属していた漁協の組合長が訴えているのを聞き、恥ずかしながら初めてこの言葉を知った。無線やソナーがどれだけ発達しても、船乗りの下には底なしの海という地獄が広がっている状況に今も昔も変わりはない。
 海の事故を未然に防ぐには、気象・海象情報の入手と操業可否の適切な判断、見張りの徹底、積み荷のバランス維持などが大前提となるが、万が一の落水を想定した場合、現状では命を守るためには救命胴衣着用が唯一効果的な方法といえる。だからこそ海難防止講習会などでは口を酸っぱくして着用が呼びかけられ、法整備もされてきたのだが、着用率100%を目指すには、頭ごなしに漁業者へ訴えるだけでは達成は難しいように思われる。
 取材で漁業者に接してみると、荒い気性や言葉遣いなど、一般的にイメージされているような浜人たちも確かに多い。命の危険と隣り合わせの中、気まぐれな自然にも左右されながら漁をしてくる生業ならばそれも当然かと思うが、海の恵みを陸で享受するだけの我々は、その危険を想像することしかできない。いや、果たして普段そのありがたみまで思いを巡らせて、海の恵みを味わっているだろうか。
 顔なじみになれば気さくに接してくれる漁業者たちが、陸の住人である我々に対し、時に近寄りがたい雰囲気さえもまとっているのは、彼らが心の片隅に「あんたたちが毎日食べている魚や貝は、俺たちが命がけで獲ってきたんだ。そのことを少しでも分かってほしい」というもどかしさを抱えているからではないだろうか。
 そうした漁師の心の機微を知り尽くした浜の母ちゃん≠スち、各漁協の女性部員を救命胴衣着用推進員として委嘱した「ライフガードレディース」は今秋で県内全漁協への委嘱が完了した。母ちゃんたちだからこそできる声かけが着用率向上へ大いに寄与してくれるものと期待している。
 気仙沿岸はいま、養殖カキやアワビ漁が最盛期を迎えようとしている。定置網の秋サケも漁模様に回復の兆しが見え始め、大量水揚げに沸いたサンマ漁も最終盤にさしかかった。
 海の幸を豊富に味わえる今の時期だからこそ、命がけの漁獲に感謝を込め、大漁、そして何よりも出港した船乗りたち全員がいつも無事に帰港してくれることを願ってやまない。(織)

まつりコンプリート!
☆★☆★2009年11月25日付

 陸前高田市内を取材して三年目。特に意識もしないまま、その日は訪れた。
 十五日に米崎町で行われた「ふれあいりんごまつり」を取材中、ふと気付いた。「これで各地域の“○○まつり”を制覇した」と。
 毎年秋、同市内では各地域主催のイベントがめじろ押しとなる。今年は九月二十七日の「玉山金山まつり」(竹駒町)を皮切りに、十月二十五日に「生出木炭まつり」(矢作町)と「広田半島大漁まつり」(広田町)が開催。さらに今月三日には「あゆの里まつり」(横由町)があり、トリが「ふれあいりんごまつり」だった。
 どのまつりも、各町の特産品や観光地を主役にし、地域を挙げた手づくりイベント。それぞれの町に根付いてきた暮らしや文化、味覚を知り、山、川、海と自然環境が豊かな陸前高田の魅力を再確認できる機会だ。
 取材を通じて、「ここではこんなものも生産して(とれて)いるんだ」「こういう郷土芸能があったんだ」二つの作物にこんなに種類があるのか」と、さまざまなことを学ばせてもらっている。どの会場でも地域の方々の気前がよく、「これ食べでって」「持っていがい」と特産品を手渡されることも多い。
 遠慮せずに「いただきます」と食べてみる。そのおいしいことといったら。川魚の炭火焼きが骨まで食べられること、お母さんたち手づくりのおにぎりや汁物が体も心も温めてくれると知ったのも、地域のまつりを通じてだ。
 生出木炭と広田半島は同日開催のため、取材は分担して一方にせざるを得ない。そのため、昨年までは玉山金山、広田半島、あゆの里を訪れるにとどまっていた。しかし、今年は縁あって、初めての生出木炭とふれあいりんごを含む四つのまつりに足を運べた。
 りんごまつりの会場を取材しつつ、心の中では「おおー、秋の○○まつり全部行っちゃった。コンプリート(そろう)したー」と大喜び。妙な高揚感を抱いていた。
 どのまつりも回数を重ねているとあって、会場には多くの観光客や市民が集う。その客人らを、世代を超えた地域住民が温かくもてなす。運営する側にはさまざまな苦労や問題もあるだろうが、地域をPRし、楽しんでもらう貴重な機会。人の温かさを忘れず、今後も継続してもらいたい。
 しかし、もったいないと感じる点もある。市内全体で見ると休日開催のイベントが多すぎるのだ。九月から十一月は毎週、大小いくつもの催しがある。中には面白い内容であっても、ほかのイベントに人が流れてしまう例も少なくない。
 スポーツや芸術、食欲の秋だから、会場や日程の都合で…と企画する側の気持ちは分かる。でも、多すぎれば来場者が分散して減少し、盛り上がりに欠けてしまう。
 地域イベントのにぎわいは、市民が参加することから始まるように思う。各催しの広い浸透や来場者数アップを踏まえても、各機関が情報を取り合い、多くの市民が足を運びやすいスケジュールを調整すべきではないだろうか。
 最後に、各まつりについて一つ提案がある。互いに連携をとれないかということだ。
 開催ノウハウを学び合えば、よりよい中身づくりに役立てられる。何カ所以上のまつりを訪れたら各地域の特産品セットが当たるといったスタンプラリーの実施、まつり同士でのPRや販売コーナー設置もできるだろう。
 今後は、各地域が独立してだけではなく、それぞれの特色を生かしながら手を携えることも視野に入れるべきではないだろうか。マンネリ化を防ぎ、互いに盛り上げていく一つの方法になると思う。
 それぞれの盛り上がりを地域内で終わらせず、ほかの地域に広げていく。それが、市全体の活性化につながるように感じている。(佳)

一年の計は「師走」にあり
☆★☆★2009年11月24日付

月日の経つのは早いもので、今年もあと一週間で気ぜわしい師走を迎える。
「一年の計は元旦にあり」という言葉がある。一年の計画、目標はその年の始まりに立てるべきということだが、それでは間に合わないのではないかと、考えている。
 およそ、年頭に立てる目標が年内に達成されたためしがない。達成するどころか、計画に着手しないまま年を越すのが常だったりする。
 思うに、何事も尻に火がつかないと動き出さない腰の重さを自負する自分にとって、年頭の一月に目標を立てるのは、時間的に余裕がありすぎるというものだ。
 いっそのこと、「一年の計は師走にあり」として、このタイミングで今年の達成目標を思い起こし、残る一カ月のラストスパートで取り組む、というのが案外「成果」を残せるかもしれない。
 つまり、この時期に来年の計画、目標をじっくり考えることが必要ではないかということだ。
 「来年のことを云うと鬼が笑う」と言われそうだが、皆さんもよく考えてみてほしい。新年は元旦から始まる。初仕事はおおかた四日から、もうすでに臨戦態勢に入っている。とくに営業マンは、月末や年度末を目前にして、正月気分もあったものじゃない。
 しかも、二月は逃げる′獅ニも言われる。だから、一月のスタートダッシュは欠かせない。そうみると、一カ月前倒し≠オて、師走のうちに早めに目標を設定すれば、すぐに成果に向けて走り出せることになる。
 「今から来年のことを考えてなんかいられない」と思っている人は多いかもしれない。しかし、年が明けて「さて今年は何をしようか」と考えているようでは、すでに出遅れているということだ。
 だから、毎年、師走が近づくと、自分はいつも「一年の計は元旦にあらず、師走にあり」を口ずさむことにしている。言い換えるなら、「年始より年末の方が大事」ということだ。
 いずれにしても、文字どおり皆が慌ただしく走り回るような時期が、もうそこまでやってきた。
 師走の語源をインターネットで調べてみると、一説に農作業の「為果(しは)つ」が訛ったものであるとしている。
 稲の収穫作業や、もみすり作業の後始末も終わり、農事すべてを「為果つ」する。つまり、「事好く為し経て、冬支度をする月」だそうだ。
 四季のある農耕民族の生きてきた知恵に倣えば、各自の生活を顧みて、総決算をして終えることは、自然の理に叶っている。
 今も昔も変わらないのは、師走になると決まって「一年は早いよね〜、あっという間だね〜」という言葉が挨拶代わりに飛び交う。しかも、「あっという間」と感じるのは、年を重ねるにつれて早くなっているような気がする。
 秋の高温傾向で紅葉も遅れ気味と思っていたら、ようやく冬らしい寒さ、景色になったと思ったころには、もう師走が目前。そんな気候の変化も、「あっという間」のイメージを強めているのかもしれない。
 「師走油」という諺があるという。これは、皆が忙しい中、油を売ってのんびりしているという意味ではない。
「師走に油をこぼすと、火にたたられる」として、こぼした人に水を浴びせかけた風習を言うそうだ。実際のところは、年の瀬の慌ただしい時期に、ミスをしないように心がけようという呼びかけの意味がある。
 とは言っても、この時期は空気が乾燥するうえに、寒くなって暖房など火を使う機会が多くなる。テレビでは東京で雑居ビルの火災現場を映し出している。火の用心、くれぐれもご油断なく。一年の計を、師走でご破算にしては、何もならない。      (孝)

「きらめき苗字」の出版
☆★☆★2009年11月22日付

 それにしても気仙は不思議の国だ。現在は岩手県沿岸部の南端に位置するだけに、アイヌ語地名が色濃く残る北東北三県では、太平洋岸の最南端に当たる。一方では、中世四百年間は葛西氏、江戸時代には伊達藩の直轄地として太平洋岸の最北端、いわば国境≠ノ位置した地域柄だ。
 日本列島がアジア大陸の東端にあって、大陸渡来の吹きだまり文化≠ェ醸成されていったように、気仙もまた伝来の文化を陸と海から受け入れ、熟成させることで独自の文化を育んできた。
 ケセンという呼称自体、どういう字を当てるのが本来なのか。気仙という表記なら、キセンという呼び方とはどういう関係になるのか。そもそもケセンとはどういう意味なのか。その不思議の国・気仙に、一体どれだけの苗字があるのかと調べたことがある。平成十二年が、ミレニアム(千年紀)に当たっただけに、その年の電話帳から苗字を拾ったところ、千三百八十五種類あった。
 世界で一番多いと言われる日本人の苗字は、約三十万種あるという。それに比べれば、気仙の苗字はごく限られたものとなるものの、韓国の約二百七十、中国の約四千百と比べると、かなりの多様性があることが分かる。
 日本人の苗字を分類すると、八割が地名由来だという。つまり、自分の苗字のルーツを探る場合には地名研究が大切となる。ところが、その地名がまたやっかいだ。時代によってどんどん変化するからで、たとえば県庁所在地の盛岡は、古代には「不来方」(こずかた)と呼ばれていた。それが南部の殿様が城を構えるようになると、「森ヶ岡城」や「森岡城」となり、最終的に盛る岡山≠フ縁起の意味を取り込んで盛岡となった。
 気候温暖な気仙。寒九の雨にツバキ花咲く椿の里≠セが、もう一面では古代から黄金の郷≠ニしても知られる。それを念頭に置くと、一つの解釈が成り立つ地名がある。大船渡市立根町の「舞良」という地名で、これを屋号にしたり苗字にしている場合もある。
 モウリョウと呼ばれるこの地名の意味は何だろう。舞を良くする踊りの名手がいたのだろうか。仮に魍魎(もうりょう)を元の字とすれば、その意味は「水の精」となる。では、なぜ水を大事にしたのか。飲料水か、水田耕作か。気仙の場合は、金を採取する場合に欠かせない水だと考えると、舞良という地名や苗字は産金由来ではないかという解釈につながっていく。
 ただ漠然と眺めていると分かったつもりになっている苗字や地名には、背後に隠された意味や伝承、歴史が潜んでいる場合がある。その疑問に端を発し、「ケセンの苗字」のタイトルで紙上連載していたものを本にまとめることができた。
 本社に事務局を置くまちおこし団体のケセンきらめき大学は、五つの学部に分かれて活動している。筆者の所属する地元学部は今年度事業として、「気仙まるごとものしり検定」と苗字の本出版を予定していたが、検定は先週実施させて頂いただけに、それぞれ実現に漕ぎ着けたことになる。
 しかし、出版される『ケセンの苗字』は名ばかり。その多くは全国的な苗字や地名、家紋の解説が主で、気仙の苗字に関する個別、具体的な言及はごくごく限られている。
 裏を返せば、この本は隠し名を探る≠フ副題にある通り、苗字や地名の由来を探る入門書と考えて頂きたい。自分の苗字や、自分が住む地域の地名の本来の意味に辿り着くための参考例であり、その具体編には各自で取り組んで頂きたい。そして調べて分かった範囲については、メモ書きでもいいのでぜひ子孫や後世に残してほしいと思う。
 出版される苗字の本は、置いて頂ける書店が決まり次第、近日中に紹介したいと思います。改めて取材訪問や編集作業などでお世話になった関係者の皆様には、紙上を借りて厚く御礼を申し上げます。(谷)

出でよ!異能派力士
☆★☆★2009年11月21日付

 「ご隠居さん、おられますかー。あぁ、いたいた。なんだかご機嫌が悪そうですねぇ。大好きな野球シーズンが終わってしまったからですかい?」
 「いやそうじゃない、大相撲のことなんじゃ。九州場所が中盤に入ったというのに、さっぱり盛り上がらん。出だし連勝はモンゴルの両横綱で、星勘定のいいものは外国人力士ばかり。観客席も土日を除けばガラガラ…。日本の国技の名が廃ってしまいそうじゃ」
 「へぇ?ご隠居さんは相撲も好きなんで。確かに日本人力士は不甲斐ないかも。よく調べてみると、今場所は横綱から前頭までの幕内四十二人のうち、十五人が外国人。モンゴルを筆頭にロシア、グルジア、ブルガリア、エストニア、韓国などと多彩。でも、活気がないのは何も外国人力士が多いせいとは限らないでしょうに。いい勝負が見られるなら国籍なんて関係ないんじゃありませんか」
 「そうかもしれんが、国技というからには幕内上位には日本人がいて、活躍してほしいのが人情というもの。小結以上の役力士を見てご覧よ。朝青龍、白鵬の両横綱、大関の琴欧洲、日馬富士、関脇の把瑠都、鶴竜と半数以上が外国人じゃあないか。中には礼に始まり、礼に終わる≠ニいう相撲道のなんたるかを知らんのもいる。外国人が増えてからというもの、ガッツポーズをしたり勝負がついてからのダメ押し、それに突っ張り合いはまるでケンカだ。見苦しいことこのうえない」
 「ははぁ、それで相撲場所があるときは不機嫌なんだな。外国人力士でも、その相撲道とやらにかなう振る舞いや勝負をしてくれるんならいいんでしょ」
 「それはそうだ。それにしても最近の勝負はさっぱり面白くない。今場所も引き落としとか肩透かし、はたき込み、突き落としといった引き技が多く、相撲の妙というのが味わえない。そうは思わんかね」
 「それはご隠居さんが、面白くないという先入観があるからでしょう。相手の力をうまく利用した決まり手としてそういうものがある以上、立派な技でさあ。もっとも、立ち上がってすぐ引き落としなんてのは、あっしでも腹が立ちますよ。でも、激しい攻防の末の引き技もありますんで、一概にどうこう言えませんよ。それに、昔だってそんな決まり手は少なからずありましたぜ」
 「それは下位の者が上位力士に挑戦するときじゃ。伸び盛りの若い力士が、楽をして勝とうなんて思っちゃいかん。それに、ここ何年と個性的な力士がすっかりいなくなったのも、土俵が面白くなくなった理由じゃな」
 「そんなことはないでしょ。人気の高見盛とか、上から読んでも下から読んでもの山本山とか、結構おりますよ」
 「それらは相撲の取り口とは関係ないじゃろ。ワシが言うのは土俵上でのことじゃ。いまから四、五十年前は、それこそ業師と呼ばれた個性派がいて、土俵をおおいに盛り上げた。一直線に突っ込む褐色の弾丸・房錦、相手の懐にもぐる潜航艇・岩風、吊り出しの起重機・明歩谷、十三敗したが柏鵬だけに勝った奥州市出身の突貫小僧・前田川、双差しの鶴ケ嶺、出羽錦、内掛けの名人・琴ケ浜と枚挙にいとまがない」
 「よーく覚えておいでで…。異能派力士、出でよ!ってところですね。そういえば、気仙出身の力士はいなかったんですかい?」
 「何人かいたが、十両以上のいわゆる関取はワシが知る範囲だと大船渡市三陸町出身の柏梁さんただ一人。昭和三十六年から五十二年まで角界にいて、四十年代後半に通算二十四場所にわたって十両を務めたものの、惜しくも入幕は逸した。気仙はかつて草相撲が盛んな地だったが、三十年代になって廃れてしまった。詳しい経緯を知る古老が存命のうちに記録にとどめておいてほしいね」(野)

眠るにも力が必要とか
☆★☆★2009年11月20日付

 私の眠りに異変が起きている。
 これまでは午前一時を過ぎようが平気で起きていられた。近頃は午後十一時が限界。十時前後に激しい眠気に襲われることもある。不眠症の私がである。
 それはいいのだが、問題なのは毎晩、なぜか午前三時か四時に目が覚めてしまうこと。専門用語では「中途覚醒」と言うらしい。
 仕切り直しの意味を込めてトイレに行き、再び布団に戻る。それからの時間は眠りが浅かったり、変な夢に襲われたり。その揚げ句、私の意志に反し、午前五時半過ぎにはまた目が覚めてしまうのだから始末が悪い。どうも最近は熟睡感に乏しい。
 これまでは不眠症の私でも処方された薬を半錠ほど飲めば眠りに落ち、朝まで目覚めることがなく熟睡できた。むしろ、朝はなかなか起きられなかった。取材先にも「私の苦手なことは早起きと山登り」と広言していたほどだ。
 その私が、中途覚醒付きの早寝早起き人間に変身してしまった。年のせいだろうな、と自分でも感じていた。やはり、そうらしい。
 「睡眠力」という言葉がある。読んで字の如く「眠れる力」のこと。最近の研究によると、眠るのにも「力」が必要なのだという。しかも、この睡眠力は若い人ほど強く、体力同様、年齢とともに低下するとか。
 脳には眠りをつかさどっている睡眠中枢がある。脳の他の部分の働きを強制的に止め、眠りにつかせる役割をしている。この睡眠中枢も体のほかの機能と同じで、年齢とともに老化するという。
 気持ち的には若いつもりでいても、眠りから確実に私の老化現象は進んできている。
 そんな私に家人が口にする。
「休みの日ぐらいはもっと寝てたらいいのに」
 寝飽きたというぐらい、私も朝寝をしてみたい。しかし、いつもはしない朝寝をすると、日頃から体にしみ込んだ睡眠のリズムが狂ってしまい、逆に翌日から朝起きるのが辛くなるという説もある。
 朝寝よりもむしろ、「昼寝」の方がいいらしい。
 「AllAbout健康・医療」の『五十代の男性におススメ!新・快適睡眠術』でも、夜の睡眠を補うものとして昼寝を挙げる。そのポイントは▽時間帯は正午から午後三時まで▽時間は三十分以内で▽椅子に座って眠る▽寝る前にカフェインをとる──の四つ。
 NHK総合の「ためしてガッテン」で今年五月、『熟睡4鉄則!睡眠力がよみがえる』が放送された。その中でも、年齢とともに衰える睡眠力を少しでも回復させるための四つのワザの一つとして、午後一時から午後三時までの間の短い昼寝を挙げていた。ちなみに、残りは▽夕方の運動▽夕方の光を浴びる▽就寝一〜二時間前のお風呂。
 ただ、私の場合、昼寝ができない。いくら横になってもなぜか、寝入ることができないのだ。どこであろうとすぐに眠れる人をみるとうらやましくて仕方がない。
 一日八時間眠るとすると一日の、いや人生の三分の一は寝ている計算になる。人生八十年と考えれば、そのうちの二十七年近くを寝ていることになる。
 それだけに睡眠に対する思いも人それそれだ。
「寝るのがもったいない!」
 と言う人がいるかと思えば、
「寝るのが一番!」
 そう語る人もいる。
 我が家人は後者。毎朝五時に起床することもあり、夜九時半頃には気持ちよさそうに寝入っている。私も最近は前者から後者に宗旨替えした。眠っている時は心配事も不安も感じず、苦のない世界にいる。一番の幸せ、極楽の極致と言えるかもしれない。
 年をとるのは自然の摂理。とりたくないと言っても、それは無理というもの。ならば、できるだけ睡眠力回復の努力をし、至福の時間を増やしたいと思う。(下)

続・平氏の末裔「渋谷嘉助」E
☆★☆★2009年11月19日付

 昭和三年十一月二十五日、郷里の千葉県香取郡中村(現・多古町)の日本寺境内で行われた「渋谷嘉助翁」頌徳記念碑の除幕式は、盛大を極めたものだった。
 渋谷鉱業の創業者で、殖産興業や社会の救済事業に力を注いだ渋谷嘉助の徳をたたえ、その業績を後世に伝えようと頌徳記念碑が建立された。
 建碑式に集まった人々は義理とかを離れて、心から翁の人柄を敬慕し、その徳風を仰ぐ人々の拠出金によって碑石が建立されたものという。
 この頌徳記念碑の題額は、第一国立銀行、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテルなど数多くの企業の設立に携わった実業家の渋澤榮一(当時・正三位勲一等子爵)の手によるもので、同時代に功を成り遂げた両氏の親交をみるものである。
 渋谷鉱業の専務を務めた岡本作富郎が、創業者の渋谷嘉助の生涯を記した『渋谷嘉助翁』の本の巻頭に、この時の頌徳記念碑の除幕式の様子を撮した写真が載っており、碑の前に並んだお祝いの花輪の中には、後藤新平の名前が見える。
 後藤新平は、本県水沢市(現奥州市)の出身で、初代満鉄総裁や東京市長などを務めた。後藤新平は、大船渡湾の珊琥島に渋谷嘉助の徳行を顕彰して地元民が建立した珊琥島協同園由来碑の「協同」の題字を書いている。
 当時の財界の一翼を担っていた渋谷嘉助は、渋澤榮一や後藤新平など幅広い人脈があったものと思われる。
 しかし、実業家として成功するに至るまでの道のりは艱難辛苦の連続であった。
 渋谷嘉助の生涯を綴った本によると、八歳になった時、獅子が我が子を千尋の谷に突き落とす故事にならって父の理左衞門は、我が子嘉助を親戚の醤油醸造業や母方の姻戚の木内家に預ける。
 桓武天皇から四代目の高望王(平朝臣上総介)の五男で鎮守府将軍の平良文を先祖とする渋谷嘉助は、「祖先の家を再興する」という大志を抱き、その後、父に請い、十一歳で江戸へ出る。
 父の弟の渋谷忠兵衞は、江戸京橋で小泉屋という銃砲火薬商を営んでいた。渋谷嘉助はそこに草鞋を脱いで商いの見習いを始め、嗣子がなかった忠兵衞は、後継者となるようにと育てた。
 叔父の忠兵衞は、商機を察して家業に励み、人材の養成にも意を注いだ。大倉財閥の設立者の大倉喜八郎も、忠兵衞の指導を受け、銃砲店を開業し成功の基を成した一人であるという。
 その後の大倉喜八郎の大飛躍が「忠兵衞に負う所が多かった」とも書かれている。ちなみに大倉喜八郎は帝国ホテルを、その長男喜七郎はホテルオークラを設立した。
 家運再興の雄心に燃えていた渋谷嘉助は、すぐには叔父の銃砲店の跡を継がず、幕末の激動期、京都を目指す。小田原藩士の従僕となって京入りを果たすが、徳川幕府の大政奉還、明治維新という時代の変革を見、実業家となる決心をする。
 大阪に渡り、明治五年、阪神鉄道建設の現場監督としての能率的な仕事が認められ、自ら工事の一部を請け負うようになり、明治九年大阪で商業を営む。正直と誠実を金看板とした。
 帰郷し病床の老父の臨終に立ち会った際、叔父の忠兵衞に懇請されてその養嗣子となり、東京の銃砲火薬店を引き継ぐことになる。渋谷嘉助の実業家としての勇躍はそこから始まるのである。(ゆ)

ありがとう七恵さん
☆★☆★2009年11月18日付

 六月に死去した昭和五十九年(一九八四)ロサンゼルス五輪女子マラソン代表で、大船渡市出身の永田(旧姓佐々木)七恵さん(享年五十三歳)を偲ぶ会が十四日夜、大船渡市内のホテルで開かれ、出席させていただいた。
 七恵さんとは、同い年だが、残念ながら小、中、高校、大学いずれも学籍を同じくしたことはない。ポートサイド女子マラソンの取材などでお会いする機会も一度もなかったのは、今となっては悔やまれてならない。
 偲ぶ会では、陸上関係者や同級生らが七恵さんの思い出を語っておられたが、その生きざま≠ヘ、当日、出席者に配られた追悼記念誌に紹介される数々のエピソードとともに深い感銘を受けた。
 恩師としてスピーチに立たれた岩渕仁さんは、記憶に間違いなければ私が大船渡一中時代の同級生のお兄さんである。長距離選手として活躍し、ヱスビー食品陸上部のコーチや日立製作所陸上部の監督を務められた。
 その中で、七恵さんを育てた名伯楽、ヱスビー陸上部の故・中村清監督が、七恵さんの素質を「泥をかぶったヒスイ」と言っていたという話が印象的だった。
 中村監督は、聖書を使って走法を教えていたという。「速い者が、知識のある者が成功するとは限らない。最後は知恵のあるものが勝つ。自分が体験して失敗したことを糧にしろ、人の失敗を学べ、そして神の知識を取り入れろ」と。
 競技者は「自制を働かせる」こと、マラソン選手にとって「欲に勝つ」ことがすべて。七恵さんの場合は食欲を自制し、そして人一倍の練習と努力を積み重ねることによって、あのスリムな身体をつくり上げた。
 「七恵ちゃんは、すごい素質のある子だった。彼女の知恵から学ぶものがたくさんある。その知恵をわれわれは継承していかなければならない」。岩渕さんは笑顔の遺影にそう語りかけた。
 現在、ヱスビー陸上部の中村孝生部長は、こう振り返った。
 「七恵さんのように四十二`を短く感じる選手は、今は少ない。七恵さんは練習で、四十二`走ったあとさらに二十`を走り抜いた。どんな過酷なメニューでも中村先生の指示を黙々とこなす姿に、われわれ男子選手が勉強させられました」と。
 追悼記念誌には、次のようなエピソードが紹介されている。
 当時のヱスビー陸上部は、瀬古利彦選手を筆頭に、新宅、金井といったランナーが所属。日本実業団トップの座にあったが、その中に、女性一人が入った。
 中村監督の言葉は厳しかった。遅咲きのランナーに向かって「ジョギングおばさん」、さらには「お前は牛だ」とまで言われた。一度火がつくと脇目も振らずに走り出すが、そうなるまでボーッとしている牛のようだと。
 しかし、一方では「年式は古いがエンジンは立派」と評し、鍛え甲斐があると観察していた。そして、意外にも「マラソンは女子の方が向いている」と言って、親身に指導してくれた。「天才は有限、努力は無限」という中村監督の言葉をひたすら信じ、努力を惜しまなかった。
 七恵さんは、生前、朝日新聞のインタビューに「中村先生との四年間は、それまでの二十数年より濃かった。今では夢のようですが、幸せでした」と答えている。オリンピックという大きな夢に向かって、青春時代を駆け抜けた、ヒスイの原石に磨きをかけていたころが、最も光り輝いていた時ではなかったか。
 郷土が生んだ偉大なオリンピック選手として、また、日本女子マラソン界の礎を築いた先駆者として私たちの大きな誇りだった七恵さん。その人生は、多くの人たちに感動をもたらし、夢と希望を与えてくれた。
 「マラソンはひたすらゴールを目指して走るしかないんです」。七恵さんはそう言って色紙に好んで『前進』の言葉を書いたという。
 あまりにも速いゴールだったが、努力の天才、七恵さんの功績と、あなたの名を刻んだポートサイド女子マラソンの歴史は永遠に続く。ありがとう七恵さん、安らかにお眠りください。(孝)


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