【原 文】
無三四八人の壮士と爭競を起す事(承前)
元來〔もとより〕周圍〔めぐり〕十町あまりの大池〔ためいけ〕、むかしより何〔いか〕なる大旱〔おほひでり〕にも水渇する事なく、底深ふして藍を流したるが如く、大小の鯉鮒其外の小魚夥しく聚り居るといへども、人さらに釣するものなし。
其所以〔ゆへ〕は、深淵のうちに水魔〔ばけもの〕あつて、たまたま釣するもの有る時は、人を劫〔おびやか〕して水中に引入、その腸〔はらわた〕を探り食ふが故に、敢て魚をとるものなし。
たまたま大膽の者ありて、或は五人或は七人、同伴〔つれ〕を催し來て釣する時は、人氣〔じんき〕に恐れて害をなさず。これによつて、侠勇〔けうゆう〕を好む武士等〔ぶしども〕、もとめて來り、釣するも多かりける。
然るに今日、小倉城中の士〔し〕八人、おのおの早天〔さうてん〕より來り、面々携たる食簟〔べんたう〕を、木の枝又は草の茂ミなど、日の照ざる地〔ところ〕に隠し置、百念〔ひやくねん〕を忘れ釣する所に、すでに農夫がために食簟を損〔そこなハ〕れ、人の足音に一驚〔おどろき〕を喫ひ、聚りたる小魚四方へ溌〔ぱつ〕と離散しけるを見て、忽ち怒り心頭より發〔おこ〕り、如此〔かく〕喧しく叫びたり。
此時農夫は地に匍匐〔はらばひ〕し、戦々〔わなわな〕と兢〔ふる〕ひ出し、私は當地不案内〕の旅人〔りよじん〕、ひとへに暑氣の苦しさに前後をうち忘れ、此地の木陰を見つけ、疾〔はや〕く休息仕らんと存じ、興〔きよう〕を妨げ申のミならず、尊簟〔をべんたう〕を損ひ申せし事、幾重にも寛宥〔おゆるし〕下されなバ、廣大の御慈悲ならんと、両手を合せて詫けれども、彼士〔かのし〕少しも聴納〔きゝいれ〕ず、たちまち携〔もつた〕る釣竿にて、農夫が頭面〔づめん〕を續うちに撃居〔うちすへ〕たり。
農夫が妻此躰を見て、彼士〔かのさむらひ〕の袂にとりすがり、誠に御憤り御道理千万、ひとへにわが夫の麁忽〔そこつ〕。則ち我々どもハ、筑前名島の土民〔どミん〕、夫が名は七助と申て、生れのまゝ乃農民〔のうミん〕ゆへ、すこしも世間を見ざる山猿、御詫の申やうをも存ぜず。御憤のうへに御怒りを加〔そへ〕る事あるべし。此度宿願の事ありて、讃州金毘羅へ参詣仕り、その序〔ついで〕に京都へ上り、帰りに男山八幡宮へも参詣仕るもの也。弓矢神〔ゆミやがミ〕さまへ参詣の者と憐ミ玉ひ、八幡宮に免じて寛免〔おゆるし〕あらバ、生々世々の御厚恩と、涙を流して申すにぞ、彼士〔かのし〕は女が一言に八幡宮へ参籠といふに、すこし思慮やありけん、猶豫して見えたる處に、池の渚〔ミぎハ〕より一人の同僚一跳〔ひとおど〕りに馳來り、手ぬるき仕方かな。渠が輩〔ともがら〕にハ是を喫すべしと、尻敷〔しりしき〕の小床几を携へ來り、七助が額を照〔てら〕して撃んとするを、無三四最前より側〔かたハら〕にあつて、此競〔あらそ〕ひを見たりしかども、敢て手を動さず居たりしが、既に同僚の壮士〔さうし〕が手を下さんとするを見るに忍びず、直に中間〔なか〕に押隔〔おしへたゞ〕り、七助を助け、壮士が手を徐〔しづ〕かに捕停〔とりとゞ〕めて申けるハ、まづ暫く待玉へ、説話あり。
渠も無三四が人物〔じんぶつ〕よのつねならざるを見て、敢て手を下さずといへども、大きに怒り、我ともがら此旅人が狼藉を働く故、撃んとするに、何人〔なにびと〕なれバ此中間〔なか〕に遮り來りて、我々を戯弄〔なぶりもの〕にするや。
無三四、否〔いや〕おのおのを戯弄にするにあらず。此もの夫婦は、某が同伴〔ミちづれ〕の人なり。我全く渠が輩〔ともがら〕と同郷の人にもあらず。計らず播州の海邊〔かいへん〕より同舩に乗合、舩中において渠夫婦の輩、はなハだ心を用ひ、朝暮〔てうぼ〕某を憐ミ、羈旅〔たび〕の寂寞〔ものうき〕を慰め、猶〔なを〕名島辺〔へん〕まで導きくれんと云。其芳志〔はうし〕にひかれて、今日〔こんにち〕この所まで同往〔どうわう〕仕り、はからず這様〔かやう〕の爭ひを引出すといへども、原來〔ぐわんらい〕求めたる罪にあらず。畢竟〔ひつきやう〕農民の質朴、ひたすら前後を伺ひ見る事なく、尊器〔そんき〕を損じ、又釣魚〔てうぎよ〕の尊遊〔おなぐさミ〕を驚し奉ること、全く不案内の科〔とが〕なり。何事も田夫野人〔でんぶやじん〕の失礼、愚直の妻が詫言に免ぜられ、御了簡に預りたしと、腰を折て申候處へ、同僚ことごとく塘の上に聚まり、無三四が前後をとり圍む。
中にも無三四に手を捕停〔とりとゞめ〕られたる男、眼〔まなこ〕に角〔かど〕をたて、足下〔そつか〕、田夫野人は失礼をいたしても、苦しからぬと思ひ玉ふか。
無三四答へて、全く然様〔さやう〕にハ存ぜず。たゞ田夫野人をとらへて、對手〔あひて〕とし玉ふとも、取〔とる〕に足らざる者にて、杖をもつて打給へバ杖を蒙り、棒をもつて打給へハ棒を蒙り、ひたわびに身を匍匐〔ほふく〕して撃〔うた〕るゝのみ。然らバ犬鶏を撃るゝに等しく、譬ハゞ、手を下〔くだ〕し給ふとも、何某〔なにがし〕は豪傑英勇を打とりしなどゝ云〔いハ〕るゝ時は、子孫に傳へても其名芳〔かうば〕しく、土民〔どミん〕を打殺したりなどゝ申時は、不仁〔ふじん〕の悪名を蒙るのミ歟、子孫に至るまで、臭〔なまぐさ〕きを傳ふるといふものなり。
この時彼士〔かのさむらひ〕いよいよ怒り、床几を放下〔ほか〕し、無三四が前に詰寄、今足下の一言は、事を招るゝに近し。田夫野人は畢竟犬鶏同然にして、對手〔あひて〕とならざる者を對手とせんより、己〔おのれ〕が如き武士を對手にせよと、我輩〔わがともがら〕を辱めらるゝといふもの也。若〔もし〕足下野人に代て對手と成り玉ハゞ、速に勝負を遂〔とげ〕んと云けれバ、無三四答て、こは思ひ寄ざる憤りに預るものかな。われひとへに言語不辨〔くちぶてうはふ〕にして、人々の厳威〔おぼしめし〕を犯せり。申所〔ところ〕さらに各〔おのおの〕を輕んずるにあらず。農夫が身にかハり、膝を屈し腰を折て、實情〔じつじやう〕を以て罪を謝するといへども、假初〔かりそめ〕の失言〔いひぞこなひ〕を質〔しち〕とし、土民に更〔かへ〕て某を弄〔もてあそば〕んとぞならバ、千万言語〔げんぎよ〕を尽くして罪を謝するも、畢竟言〔ことば〕を弊〔ついや〕すに似たり。此上ハ一言雙辞〔いちげんさうじ〕さらにわびことハ申まじ。渠等もと土民といへ共、同伴〔どうはん〕の人、我双眼あきらかなる間〔うち〕にハ、唯すこしの皮をも傷〔やぶ〕らすべからず。いざ豪傑たち、一同にかゝりて勝負を一挙にする歟、又は一人宛〔づつ〕尋常〔じんじやう〕乃化粧〔けしやう〕勝負に果し合ふ歟。余〔われ〕に於てハ天命にまかすなりと、少しも驚く氣色なく、七助夫婦を大樹の後に押遣〔おしやり〕、その身は大樹を小楯〔こだて〕とし、眼〔まなこ〕を配りて立たる形状〔ありさま〕、威風凛々としてあたりを拂ひ、なかなか手強く見〔ミへ〕にける。
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【現代語訳】
無三四、八人の壮士と諍いを起す事(承前)
(この池は)もともと周囲10町[約1km]あまりの溜池で、むかしからどんな大旱魃にも渇水することがなく、底は深く(池水は)藍を流したように青く、大小の鯉や鮒その他の小魚が夥しく集まっているのだが、決して釣をする者はない。
そのわけは、(この池の)深淵に怪物(水魔)がいて、たまたま釣する者があると、人を攫って水中に引きずり込み、その内臓を探って食うので、あえて魚をとる者がいないのである。
(しかし)たまたま大胆な者がいて、5人あるいは7人と連れを集めて、やって来て釣する場合は、人の気に恐れて害をなさない。このため、侠勇を好む[勇ましいところを誇示したがる]武士どもが、わざわざやって来て釣することも多かった。
それで、今日は、小倉城中の侍8人が、おのおの早朝から来て、各人携帯した弁当箱を、木の枝や草の茂みなど、日の当たらないところに隠し置いて、何も忘れて(夢中で)釣をしていると、さきほど農夫に弁当箱を壊され、集まっていた小魚も、人の足音にびっくりして、四方へパッと離散したの見て、たちまち怒り心頭より発し、このように喧ましく怒鳴っているのであった。
このとき農夫は、地に腹ばい、わなわなと震え出し、「私は当地不案内の旅の者です。暑気の苦しさにまったく前後を忘れ、このところの木陰を見つけ、はやく休息しようと思って、(釣りの)興を妨げましたのみならず、お弁当を壊しましたことは、幾重にも(お詫び申し上げます。もし)おゆるし下されば、広大な御慈悲と存じます」と、両手を合せて詫びたけれども、かの侍は少しも聴き入れず、たちまち、持った釣竿で農夫の頭や顔を続けさまに打ちすえた。
農夫の妻は、このありさまを見て、かの侍の袂にとりすがり、「まことにお憤りは当然でございます。ひとえにわが夫の麁忽。と申しますのも、わたくしどもは、筑前名島の土民[農民卑称というより土着の民]で、夫の名は七助と申して、生れのままの農民、すこしも世間を知らない山猿で、御詫びの申しようも存じません。お憤りのうえにお怒りを重ねることもございましょう。このたびは宿願のことがあって、讃州の金毘羅宮へ参詣し、そのついでに京都へ上り、帰りに男山八幡宮[石清水八幡宮。とくに弓矢の神として武家が信仰。現・京都府八幡市]へも参詣いたしました。弓矢神さまへ参詣した者と憐れみ下さり、八幡宮に免じておゆるしあらば、永遠に御厚恩(を忘れません)」と、涙を流して申したので、かの侍は、女の一言に八幡宮へ参籠というのに、すこし思うところがあったのか、ためらいが見えたところに、池の水際から一人の同僚が、一跳りに馳せ来たり、「手ぬるい仕方だな。そいつの連れには、これをくらわしてやる」と、尻に敷く小床几を持って来て、七助[かの農夫]の額をめがけて撲ろうとするのを、無三四は、先ほどから側にいて、この争いを見ていたけれど、あえて手を出さずにいたのだが、いまや同僚の壮士が(七助に)手を下そうとするのを見るに忍びず、ただちに間に(入って)押し隔て、七助を助け、壮士の手をしずかにとり押えて、言った。「まず、しばらくお待ち下さい。話があります」。
彼[七助を撲ろうとした同僚の壮士]も、無三四の人物[人品骨柄、外見]が尋常でないのを見て、(七助に)あえて手を下さなかったけれども、大いに腹を立て、「我々は、この旅の者が狼藉を働いたので撲ろうとするのに、おまえは何様のつもりなのだ、この間に入って来て邪魔をして、我々を弄りものにする[愚弄する]のか」。
無三四、「いや。おのおの方を愚弄するのではない。この者夫婦は、それがしの(旅の)道連れです。私は全く彼らと同郷の者でもない。偶然、播州の海辺[前出、室の泊]から同じ船に乗合わせ(ただけだが)、船中で彼ら夫婦は(私に)大変親切にしてくれ、朝に夕にそれがしを気づかい、旅の寂寞を慰め、さらには、名島あたりまで道案内をしてくれるという。その好意にひかれて、今日ここまで同道したところ、はからずも(農夫が)こんな争いを引起しましたが、もともと意図してなした罪ではない。畢竟は農民の質朴、よくよく前後を注意して見ることなく、ご器具を壊し、また魚釣りのお楽しみを妨げましたことは、全く不案内[無知]の科(咎)です。何ごとも田夫野人[田舎者]の失礼(のことゆえ)、愚直な妻の詫言に免じて、おゆるし願いたい」と、腰を折って詫びているところへ、同僚たちが全て堤の上に集まり、無三四の前後を取り囲む。
なかでも、無三四に手をとり押えられた男は、眼に角を立て、「貴殿は、田夫野人は失礼をいたしても、かまわないと、お思いか」。
無三四は答えて、「全くそうは思いません。ただ、田夫野人をつかまえて相手になさっても、取るに足らぬ者ですから、杖でお打ちになればその杖に打たれ、棒でお打ちになればその棒に打たれ、ひたすら詫びて、身を腹ばいにして打たれるのみ。であれば、犬や鶏を打たれるに等しく、たとえば、手をお下しになっても、何某は豪傑英勇を打ち取ったなどと云われる場合は、子孫に伝わっても、その名は芳しく、(逆に)土民を打殺したなどという場合は、不仁[仁という徳のないこと]の悪名を蒙るのみか、子孫に至るまで、生臭い[芳名の反対物](名を)を伝えるというものです」。
このとき、かの侍はいよいよ怒り、床几を放り投げ[ホカすは関西方言等に現存]、無三四の前に詰め寄り、「今の貴殿の一言は、事を招くに近い[喧嘩を売るに等しい]。田夫野人は、畢竟、犬や鶏と同然だから、そんな相手にならない者を相手とするよりも、自分のような武士を相手にせよと、(貴殿が)我々を辱しめられた、ということだ。もし貴殿が、この田舎者に代って相手となられるのなら、速やかに勝負をしよう」と云ったので、無三四は答えて、「これは、案外なお憤りをいただいたなあ。私は、まったく、口が不調法[口下手。言語不辨は高踏表現]で、皆さんの誇りを傷つけた(ようです)。私が言うところは、決して皆さんを軽んじるのではありません。(私が)農夫の身代りになって、膝を屈し腰を折って、誠実の心情を以って謝罪したのに、一時的な失言を質にとって、土民の替わりにそれがしを弄ぶおつもりならば、どれほど言語を尽くして謝罪しても、畢竟、言葉を無駄にするも同じ。この上は、もう一言も詫言は申すまい。もとより彼ら(夫婦)は土民とはいえ、(私の旅の)道連れの者、私の両眼が明らかなうちは、ほんの少しでも(七助の)皮膚を傷つけさせない。いざ、豪傑たち、いっせいにかかって来て勝負を一挙にするか、それとも、一人ずつ尋常の化粧勝負[殺し合いではない、見せかけだけの戦闘。形式的な試合。むろんこれは恫喝]で果し合うか。おれは天命にまかせるぞ[どっちでも構わないよ]」と、少しも驚く気色なく、七助夫婦を大樹の後に押しやり、自身はその大樹を小楯[盾の代り]とし、眼を(周囲に)配って立った姿は、威風凛々として、あたりを威圧し、なかなか[荘士らの予想に反して]手ごわく見えたのであった。
(以下つづく)
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