南京防衛軍戦力推計
1937年当時、南京城防衛に動員された戦力にはいくつかの説があります。もっとも少ない 説で「3万5000人程度」。議論になるレベルで最も多く見積もった説は「15万」まさに数倍の開 きがあります。南京が陥落したのは1937年12月13日のことで、当時の中国軍の戦史なども 100%完璧ではないのですが、かなり多く残っています。それにも拘らず未だに議論が終結 し ない理由の一つとして「戦力を推計した時期が明確になってない」 という事情があるでしょ う。
南京防衛に動員された部隊の多くが上海戦線からの撤退組であり、日本軍の追撃 を受け ながら南京にたどり着いています。つまり11月中の戦力と、12月13日の戦力には当然 かなり の「差」が発生すると見なければなりません。補充がない限りは戦力は減少するのです。『南 京防衛軍』という表現が、研究者により「11月中旬頃」の戦力だったり 「12月10日前後」 南京城攻防戦の推計だったりするので、複数の見解が混在すると考えられます。
つまり、南京防衛軍の 戦力を推計する為には「日時を指定して」議論することが必要であ るということです。逆に言えば、日時の指定なき推計は無意味であるとも言えます。冒頭で あげた数字「3万5000人」は、12月10日頃の「南京城内」に限定した数字とすれば ありえない 数字ではないし、「15万人」という数字は11月下旬、南京防衛戦に動員された 部隊の定員数 にかなり近いといえます。
ここでは「中国側の研究」を三つ紹介します。 譚道平推計(約8万) 孫宅魏推計(約15万) 両説の比較
(日本側の研究では「南京戦史 偕行社」の推計「約7万説」が有名ですが、 大筋において譚 道平推計と重なる部分が多いので省略しました))
譚道平推計(当時南京衛戌司令長官部参謀処第一科長) この戦力推計は12月10日頃と推測される。
部隊名 | 戦闘兵 | 雑兵 | 総計 | 略注 | 第2軍団(41師,48師) | 12000 | 6000 | 18000 | 内新兵4/5 | 第66軍(159師,160師) | 4500 | 2500 | 7000 | | 第83軍(154師,156師) | 4000 | 1500 | 5500 | | 第36師 | 4000 | 3000 | 7000 | 内新兵2000 | 第74軍(51師) | 4000 | 2000 | 6000 | 内新兵2000 | 第74軍(58師) | 4000 | 3000 | 7000 | 内新兵2000 | 第87師 | 3500 | 3000 | 6500 | 内新兵2000 | 第88師 | 4000 | 3000 | 7000 | 内新兵3000 | 教導総体 | 7000 | 4000 | 11000 | 内新兵5000 | 103師,112師,憲兵隊他 | 2000 | 4000 | 6000 | | 合 計 | 49000 | 32000 | 81000 | |
南京防衛軍合計「約8万1000人」
譚道平参謀は「当時の南京防衛軍」に在籍していました。「参謀処第一科」とは「作戦」を担 当する部署で、譚道平参謀は「作戦科の責任者」 ですから、当然南京防衛軍の戦力を知る立 場にあります。そういう意味では一番信頼性が高い推計であると言えるでしょう。上記推計の 発表は『南京衛戌戦史話』(東南文化出版社 1946年)です。表の中にある雑兵というのは、 直接の戦闘には参加しない支援部隊のことです。
争点となる部分 (1)112師,103師(江防軍)の戦力を2000程度と推測。 「103師,112師,憲兵隊他」の内訳はこの表では不明です。筆者(グース)の見解では、大まか に 103師,112師合計で2000人、憲兵隊他4000人という推計をしたものと考えます。憲兵隊は 通常、戦闘兵力に分類されないという理由からです。
(2)教導総隊は「約1万1000人」 笠原教授の著作によれば、教導総隊だけで3万数千という見積もりということです。この点が 最大の論点となるでしょうが、当時36師、師長だった「宋希廉」の記述から判断しても、1万10 00人程度と考えるほうが妥当なようです。(詳細は下記の戦史研究で説明)
以上が南京防衛軍8万説(南京城攻防 戦の前、12月10日頃)の概要です。この 場合、南京陥落時(12月13日)の戦力は 戦死をマイナスすると陥落時5〜6万とい うことになりそうです。
南京防衛軍15万説
15万説は最近になって浮上してきた説で、オリジナルは孫宅魏説なのですが、笠原教授 は若干のアレンジを加えてこれを支持しているようです。概略を説明すると、当初15万、陥落 時8〜10万という数字になり、8万人が日本軍に捕らえられ殺害されたという主張になるよう です。
15万説は、前提条件として「南京防衛軍の定員を1万0923人」と考えます。 南京戦に参加したのは13ヶ師、17ヶ団。 『10,923人×13ヶ師=約14万2000人』 『2200人×17ヶ団=3万7400人』 合計で17万7400人=「南京防衛軍が定員を満たしていれば約18万」 しかし兵員は絶対に不足していたと考えられる。そこで「資料の残っている部隊」の定員補充 率を計算し、資料の少ない部隊(4ヶ師)については 、その比率をあてはめて推計するという 手法でです。
ちょっとわかり難いので、例をあげて説明します。 (1)一ケ師団1万人が定員とします。 (2)動員10個師団だと総員10万人ですが、補充が無い為定員割れが確実である。 (3)資料は6ケ師団分しか残っていない。 (4)資料が残っている部隊の定員補充率は80%だった。 (5)という事は、資料のない部隊も80%程度の人員がいたと考える。 (6)定員10万人×80%=8万人と推計 という理論です。詳細は下記を参照して下さい。
南京防衛軍15万説(江蘇省史学会編集 孫宅魏説)
部隊名(青文字は比率推計) | 総合計 | 注記 | 第2軍(41師,48師) | 16929人 | | 第66軍(159師,160師) | 160師は9000人 | 159師は比率推計 | 第83軍(154師,156師) | 別計算 | 154師,156師は比率推計 | 第36師 | 11968人 | | 第74軍(51師) | 74軍合計17000人 | | 第74軍(58師) | | 第87師 | 10000人 | | 第88師 | 6000人 | | 教導総体 | 35000人 | | 103師,112師 | 103師は2000人 | 112師は比率推計 | 憲兵隊 | 5490人 | | 中間合計 | 113387人(9ヶ師,15ヶ団) | 比率推計4ヶ師計3.7万人 |
上記で起算した11万3387人は、9ヶ師,15ヶ団に相当し定員の86.4%にあたる。 すると表で計算されなかった「159師,154師,156師,112師」合計4ヶ師も定員の約86%と推測し 「約3万7000人」
表で計算した「11万3387人」と別推計の「約3万7000人」を合計すると
南京防衛軍合計「約15万0000人」
以上が15万説の概要です。
両説の詳細比較
部隊名 | 譚道平推計 | 15万説(孫宅魏)説 | 戦史分析による筆者推計 | 41師(第2軍) | 9000 | 8500 | ほぼ同じなので9000採用 | 48師(第2軍) | 9000 | 8500 | 同上 | 159師(第66軍) | 3500 | 9300(比率計算) | 2ケ師合計で『10000人』 詳細 | 160師(第66軍) | 3500 | 9000 | 154師(第83軍) | 2750 | 9300(比率計算) | 2ケ師合計で『13200人』 詳細 | 156師(第83軍 | 2750 | 9300(比率計算) | 36師(第78軍) | 7000 | 11968 | 『7000人』 詳細 | 51師(第74軍) | 6000 | 8500 | 2ケ師合計で『13000人』 詳細 | 58師(第74軍) | 7000 | 8500 | 87師(第71軍) | 6500 | 10000 | 『7000人』 詳細 | 88師(第72軍) | 7000 | 6000 | ほぼ同じなので7000採用 | 教導総隊 | 11000 | 35000 | 『11000人』 詳細 | 103師(江防軍) | 1000(筆者推測) | 2000 | 江防軍2ケ師合計『2000』 詳細 | 112師(江防軍) | 1000(筆者推測) | 9300(比率計算) | 憲兵隊.他直属部隊 | 4000(筆者推測) | 5490 | 孫宅魏説『5490人』 詳細 | 合 計 | 8万1000人 | 約15万人 | 筆者推計約94000人 |
孫宅魏説(1ケ師=約1万1000人説)を土台に、南京城攻防戦12月10日 前後の南京防衛軍の兵力を 推計すると「約9万4000人」になります。準 拠資料は下記、戦史分析に提示してあります。資料を見る限り、孫宅魏 15万説は「11月中」の戦力推計をあらわしたものであり、12月上旬の南 京外郭陣地での損害を考慮に いれていないように思われます。
比較した譚道平推計は12月9日「南京城攻防戦」の戦力であり、当時の 戦史との矛盾は ないようです。上記表で考察し切れなかった「第83軍」に ついても譚道平推計「5500人」 が妥当だと思いますが 絶対に正しいと言 い切れる資料が手元にないにで、大きい方の数字(孫宅魏説)を採用しま した。
争 点 の 解 釈
15万説の最大の問題は、比率計算にあります。具体的に言うと、資料 から判明している部隊については戦力が補充されたことが確認されてい ますが、資料がない部隊については、戦力の補充が無かったようです。こ の点はトリックともいえるのですが、補充を受けた部隊が定員の86%ま で回復していたとしても、補充を受けていない部隊はそれ以下の人員 と見なければなりません。
具体的な部分でいうと、15万説では「4ヶ師(159師,154師,156師,112 師)」=3万7000人としていますが、譚道平推計ではこの4ヶ師の戦力推 計は「9000人」となっています。当時の参謀課長の見積もりと、二万人以 上も差が開くという事は、比率での推計という手法に問題があるといえま す。
そもそも戦時ですから編制された段階でも、各部隊が定員を充たしてい るとは限らず、最初から定員補充率は一定ではないわけです。さらに戦闘 が続き人員の補充が無ければ戦力は減少します。つまり戦歴によっても 定員の増減は激しいので、サンプル数が少ない状態では定員補充率から 南京防衛軍の戦力を推計するというのは本質的に無理なのです。
戦史分析
戦史検討 | 159師、160師(第66軍) 12月8日の段階で160師は「約1000名」。12/10日159師と160師 を再編成し各2団編成に縮小する。この時「全軍で一師に足らず」 とある。これを額面通り受け取れば 「1万1千人に満たない」と解釈できるが、4ヶ団の編成だと「8800人」が定員になる。 とりあえず孫宅魏説を尊重し「一師に足らずを、約1万人と解釈しよう」
結論 第66軍(159師160師)合計18300人は過大であり10000人程度。 15万から【8300人マイナス】比較表に戻る (南京大虐殺の研究P271 他) | 154師、156師(第83軍) 南京保衛戦戦闘詳報より 『また蒋介石から新たに第74,66,83、の各軍(いずれも長期戦闘の為、補充、整理は不十分)の増加命令 を受けた』(南京戦史資料集P715)
第74軍は「何度か補充を受けて定員の77%」程度。 第66軍は「補充なしで50%」程度。 第83軍は戦力に関する詳細な資料は残っていないので推計するしかないが、11月13日漢口を出発。 武進、蘇州、江陰、無錫と転戦。7日頃から上記第66軍と連携して行動した。 補充は受けていない。 12月7日頃から第66軍と連携して鎮江・句容付近で戦闘。 すると83軍は戦歴から考えて、定員の50%〜60%程度と推測するのが妥当であろう。 譚道平参謀推計では66軍よりも戦力を少なく評価しているが、その根拠となる資料が 不明であり手元に無いので、多めに見積もり60%と考えた。
結論 第83軍合計18600は過大であり、154師=6600人、156師=6600 第83軍合計で1万3200人。 【15万から5000人マイナス】比較表に戻る | 36師(第78軍) 師長である宋希廉の手記によると11月22日頃、兵力3000、補充4000、合計7000人とある。 また、南京撤退時の手記には 『13日の朝8時までに本師団で渡河し浦口に着けたのは約3000人で、まだ渡れないものが半数以上を 占めていた』(中国関係資料編P248) と記されている。 36師は揚子江(長江)で船舶の管理と、邑江門の警備(無断撤退を防ぐ督戦隊)にあたっており 日本軍との戦闘は無い(中国軍との同士討ちはあった)。 すると、師団戦力は概ね保存されていると思われ、渡河撤退した3000人の 半分以上という表記から合計7000人程度。
結論 36師(78軍)11968人は過大であり、36師=7000人程度。 【15万から5000人マイナス】比較表に戻る | 51師、58師(第74軍) 「両師とも2旅4団、全軍1万7000」という51師長の記録があるが、これは11/28日前後(補充後) の記述である。 12/4-12/12までの戦闘では、51師だけで5700名を消耗している。(南京大虐殺の研究P274〜276) すると12月10日頃の南京城攻防戦時の戦力は1万3000人程度という譚道平参謀推計が妥当。
結論 第74軍合計1万7000は過大で、「51師6000人、58師7000人」第74軍合計1万3000人程度。 【15万から4000人マイナス】比較表に戻る | 87師(第71軍) 87師は、259旅・260旅(補充旅)・261旅の3ヶ旅で編成されている。『南京大虐殺の研究』晩聲社で 笠原教授は87師の兵力を「戦闘兵力、約1万6000人、後勤部隊の雑兵も含めると2万2000余の部隊であった」 と記述しているが、中国側の資料に基づく記述ではなく、笠原教授独自の推計である。
12月7日早朝、261旅は下蜀より汽車で南京に向かった。 この時の人数は「全旅3000」と旅長の手記にある(第87師在南京保衛戦中)。夕方まで3往復かかった。 この資料から汽車(この路線)の輸送力は一往復およそ「1000人」であり、南京まで往復3〜4時間の道程 であることがわかる。 すると12月6日早朝、南京に向かった「259旅」と「260旅」が、同じ路線で輸送されており 輸送力から考えると、「259旅・260旅」合計で3000人程度ということになる。 仮に4往復したとしても「2旅合計で4000人」 87師(第71軍)の戦力を1万と見るのは無理で、多めに見積もっても「7000人」程度。
また参考までに、260旅長(補充旅)「劉啓雄」は、光華門前面の拠点である「工兵学校」 を失墜した責任を問われたとき以下のように弁明している。 『上海撤退以来、人員は半分以下に、加えてここ数日の苦戦に多くの官兵が死傷し、工兵学校 を守ったのは一連余りにすぎない。』 (1連=中隊に相当し人員150人程度) 工兵学校が日本軍に占領されたのは12月11日である。
結論 87師(第71軍)の戦力10000は過大で、87師=多めに推計しても「7000人」 【15万から3000人マイナス】比較表に戻る | 教導総隊 南京防衛軍の兵力推計中「最も見解が分かれる」部分である。 その理由は「1937年当時の記録によると11000人程度」であるが 戦後書かれた教導総隊の幹部の回想記によると「3万〜3.5万」と記されているようだ。
この謎を解決する為に、まず教導総隊の戦歴を簡単に紹介しよう。
教導総隊は上海戦当時「3ヶ団編成(他、直属部隊)」だった。 (孫宅魏説によると1ヶ団=2200人) ただし通常の中国軍とは違いドイツ式編成だった為、その定員は1万1000人程度だったと思われる。 11月5日、教導総隊3ヶ団の内、2ヶ団と直属部隊が上海戦に派遣されている。その時の兵力は 「約7500人」であった。(南京大虐殺の研究P289)(ここから逆算すると教導総隊の定員は11250人) この時の派遣された2ケ団の損害は「半数以上の4000余人」である。 11月23日に南京保衛軍に編入され、『団は旅に昇格』し『営は団に昇格』した。 問題なのは、この時、教導総隊の組織も変更され「人員も3倍に増加したのか」それとも「呼称のみ変更」したのかという部分である。
私(グース)はいくつかの理由で「呼称のみが変更 」されたと考える。
1 まず最初の理由 「教導総隊の一ケ団は約3750人(11月23日以前)」 「中国軍の一ケ旅は約4400人(孫宅魏説)」 以上のように 実質は同程度の規模であり、団から旅に名称が変更されたとしても 不都合はない。仮に教導団の人員を3倍に増やしたなら「11250人」。この場合「一ケ旅」ではなく「一ケ師」と呼称したほうが実態に近い。
2 物理的に考えて、わずか2週間で軍隊の編成を変更し人員を3倍に増やすのは(増加2万人以上) かなり難しい。2万人も人員に余裕があるなら「他の部隊の補充に回したほうが効率的」だろう。
3 教導総隊の一ケ団は上海戦に参加せず南京に逗留している。 上海戦から帰還した二ケ団も11月23日には南京に到着し補充を受けている。 その陣容(人員)は作戦科の責任者である「譚道平参謀」も知っているはずだが 譚道平参謀の推計では『教導総隊=1万1000人』にすぎない。 何らかの目的で、 極秘に補充が進められたという史料でもない限り、作戦参謀の責任者が 教導総隊の全容を見誤ることはないだろう。
一応、その他資料とも比較し考察してみよう。 まず、当時36師長だった宋希廉の記述 『(当初の7万人前後に加え)3個軍の実戦兵力計4万人前後を新たに増加し、南京防衛の 総兵力は約11万余人になった』(宋希廉 南京守城戦)
「宋希廉」の言う「当初7万人」の内訳は 「教導総体・第2軍(41師,48師)・36師・第74軍(51師,58師)・87師・ 88師・他憲兵隊など新規、補充済み部隊の合計であり、 この部分の譚道平参謀の推計は「約66500」とかなり近い。
宋希廉の言う「当初7万」の時期であるが、これは増援3ケ軍(第66軍,第83軍, 江防軍)が到着する前であることから 、11月下旬の数字であることがわかる。
(宋希廉は救援3ケ軍の陣容を知る立場に無かった。その点は作戦参謀の責任者である 譚道平とは見解が違って当然である。66軍と83軍は12月8日頃、南京城の外部の外郭陣地に 到着しすぐ戦闘に突入。江防軍は先発部隊が12月10日、後発部隊にいたっては12月12日南京到着であるから 作戦参謀である譚道平以外の将校は、その陣容を4万と過大に評価しているようだ)
この時期(11月下旬)南京防衛軍の中で人数が判明しているのは 「第2軍=1万8000前後」「74軍=1万7000」「宋師長の36師=7000人」 「憲兵隊及び直属部隊=4000〜6000」である。 この4ケ師3ケ団の合計を出すと「4万6000人」を超える。 教導総隊が3万5000とすれば、この時点で「8万」を越すが、さらに「87師」「88師」を 戦力を加えなければならない。その場合9万〜10万ということになり 宋希廉の記述と一致しない。
長々と説明したが「宋希廉」も教導総隊の戦力を「1万程度」と考えていたようである。 そして「当時南京防衛戦に参加した複数の将校」の記述によると 「南京防衛軍=10余万」という記述が多く、この内容は「11月下旬に南京に駐留していた 当初7万」に「救援3ケ軍(6ケ師)」を加えた数字であると思われ、その場合「教導総隊の人員は1万程度」 ということになる。
以上のように現時点では、 圧倒的多数の史料が11000人説を裏付けている。 結論 現状では教導総隊は1万1000人が妥当。 【15万から24000人マイナス】比較表に戻る | 112師(江防軍) 江防軍とは「長江防衛軍」のことである。南京戦に動員されたのは 「103師,112師」の2ケ師であり、 江陰、鎮江、と戦いつつ12月10日頃ようやく南京到着……と、いうことになっている。
ところが112師ついては中国側戦史にほとんど記述が無く、南京防衛時点の陣容や 戦いぶりは不明である。 譚道平参謀は「103師、112師、合計で2000〜3000」と推計したようである。 孫宅魏15万説においては「103師=2000名」「112師=比率推計により約9300人」合計で1万1000以上 と推計している。(つまり112師9300人については戦史に 基づく根拠はない。)
ならば、可能な限り戦史を追ってみよう。
江陰要塞から撤退した「103師,112師」の2ケ師は、鎮江要塞から南京へ派遣された。 これは間違いない事実である。 『在鎮江一〇三、一一二師向南京急進』(南京衛戌軍戦闘詳報12月8日)
問題はその「鎮江要塞での記述」である。戦史をみてみると、
『第一〇三師時有二千余人、連同要塞部隊・保安隊各一部、 即構成守衛鎮江之全部兵力』 (南京保衛戦史P132) 「鎮江防衛軍兵力は103師の2000余人と、要塞部隊の保安隊で構成されていた」(グース訳) と、あり、112師の名前は見当たらない。(12月6日頃)
鎮江要塞の戦闘記録では 12月7日、103師は日本軍と接触。 12月8日、103師の陣地に対して猛烈な射撃が加えられている。 (南京保衛戦史P133) この時の損害は不明だが、鎮江要塞戦において112師が戦闘に参加したという記述は無く 出てくるのは103師のみである。 (南京戦での活躍も記録にない)
すると、112師については「二つの解釈」しかない。 1 江陰撤退後、鎮江戦には参加せず、長江を渡って浦口へ向かった為「南京防衛戦」にも参加していない。 2 命令通り103師と共に行動し、鎮江、南京と戦ったが「戦力が僅少(数百人)だった為」、 103師の2000余人に含まれる。
いずれにしても「112師=9300人」と考えるのは不可能であり、江防軍合計で2000人がいい所だろう。
結論 103師,112師合計で2000人程度。 【15万から9300人マイナス】比較表に戻る | 憲兵隊他直属部隊 首都警衛軍(憲兵隊他)は譚道平推計よると4000ぐらい。孫宅魏説では「5490人」 南京戦に動員された憲兵隊は「4ケ団」で「一ケ団あたり1300人程度」。いわゆる通常軍とは違い、憲兵隊は本来戦闘兵力では ないので「雑兵」と呼ばれる後方支援部隊が必要ない。その為一ケ団の構成人数が少ない。 (譚道平参謀は、憲兵を雑兵に区分したようだ) すると定員100%なら憲兵隊のみで5200程度。 その他臨時に増員された機関銃部隊や、指令本部直属の官兵を含めて5490人という のは概ね妥当だと思われる。 憲兵団が定員80%程度で編成されていたなら譚道平推計「4000程度」になる。
結論 詳しい史料が手元に無いので孫宅魏説「5490人」を採用。 【15万から0人マイナス】 比較表に戻る |
総 括
南京防衛軍の総兵力の推移を簡単に説明すると 11月下旬、南京防衛軍の編成が決まった 時点で「15師強」。 定員を満たしていれば15万を超える兵力だが、上海での損害を考慮して 11万〜12万程度と推計されていたようです。(南京戦に従軍した中国軍高級士官の見積もり が11万前後)
実際には、ほとんどの部隊が上海戦からの撤退の途上にあり、日本軍の追撃を受けつつ下 がる という状態でした。日々変化する戦力数の正確な数値は、蒋介石でもなかなか把握でき なかったのではないでしょうか。 資料を見る限り、孫宅魏15万説の準拠資料は南京城攻防戦 の直前12月10日頃ではなく、11月中旬〜下旬を基準にしているようです。孫宅魏15万説か ら上記戦史分析で説明した 教導総隊の2万5000を除くと約12万5000人となり、当時の中国 軍将校たちの推計ともかなり近い数字になります。
中国側から見た南京防衛戦は上海戦線から続く一連の流れの中にあり、明確に区切ること は 難しいようですが、便宜上12月4日以降を「南京防衛戦」と区分しているようです。 これは 「南京衛戌軍戦闘詳報」(南京戦史P714所載)が12月4日から記載されたことからも 推測され ます。作戦範囲は、概ね、南京から10〜20キロ圏内と、50キロ圏内という二重の防衛線の内 側 とされているようです。
この南京外郭陣地の攻防は、概ね12月8日頃をもって終了しました。 中国軍が南京城近郊ま で撤退したからです。狭い意味での「南京城攻防戦は12月9日」から始まりました。
中国軍の高級指揮官が記録した当初10万強という数 字は11月下旬の動員予想兵力なので、12月10日頃 の実際の兵力は、戦闘により予想数よりも消耗していた と考えるのが妥当でしょう。
南京城攻防戦12月10日頃の戦力は、上記戦史分析 で考察したように 「大目に見積もっても9万程度」である 公算が強いようです。12月13日の陥落時の戦力は、 戦死,逃亡などを考慮すると、東京裁判判決に記された 「陥落時5万」というのが概数として妥当なようです。(こ の5万には揚子江ルートで脱出成功したものが含まれ る)
12月10日頃の動員兵力中、最低でも3.5万人が脱出 に成功しています。これは中国側戦史に記録が残ってい る部隊分だけなので、概数として4万人程度が脱出成功と いう笠原教授の見積もりは妥当でしょう。また、戦場からの 離脱に成功したものの、軍隊には復帰しなかった逃亡兵 が笠原説では1万人くらいと予想しています。
これらを考慮すると、各史料と最も整合性があるの は、12月10日頃の動員兵力が約8万〜9万(雑兵含 む)。脱出成功および逃亡など生存が4〜5万。差し引 き4〜5万から戦死をマイナスした分が、捕虜・便衣兵と して処刑された分と考えられます。日本軍に捕獲後殺害 された概数としては2万〜3万といったところでしょう。
南京防衛軍15万説、その内8万人が日本軍に不法に 殺害されたという説は、資料的裏づけが薄く、各史料と の整合性がない。つまり東京裁判の数字を否定する根 拠としてはかなり弱い言えるでしょう。
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