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【玄界灘を越えて】白仁天物語(2)北から逃れた一家 (1/3ページ)

2009.11.23 17:49
このニュースのトピックス松井秀喜
キャンプで勢ぞろいした東映打線の面々。左から)岩下、大杉、佐野、白仁天、大下=昭和43年 キャンプで勢ぞろいした東映打線の面々。左から)岩下、大杉、佐野、白仁天、大下=昭和43年

 昭和37年、東映フライヤーズに入団した白仁天は、東京・駒沢の合宿所「無私寮」で生活を始めた。1年目はずっと2軍暮らし。外食もできず、それまで食べたことのない日本食にとまどった。例えばマグロの刺し身は血の塊にしか思えず、塩焼きにして口に入れたほど。満足に栄養を取れないまま猛練習に打ち込んだことで、73キロあった体重は58キロにまで落ちた。

 「やっぱり日本の野球にはついていけないのかな」。体の衰弱だけでなく、日本語を話せないことが孤立感を強めた。唯一の話し相手は夜空にポッカリと浮かんだ月。素振りをしながら故郷の家族を思った。

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 白は18年11月、中国の上海に近い無錫(ウーシー)で生まれた。後に『無錫旅情』の歌で知られる街で、父の慶道は駐留する日本軍相手に劇場を経営。戦争が終わると一家は慶道の故郷、平安北道鉄山(現在は北朝鮮)へ引き揚げた。

 ところが、まもなく慶道は「日本軍に協力した」疑いで、シベリア行きの貨物列車に乗せられてしまう。もし、そのまま父が抑留されたら白の人生はまったく違うものになっていただろう。この最大の危機を救ったのは見回りにきた係官。「なんで、あんたがここにいるんだ?」。知人だったおかげで列車から脱出。逆方向の南へと逃げた。

 その後、家族も慶道を追って“越南”。ソウルの民家に間借りした8畳一間に、一家6人で暮らすことになった。付近は元の日本人街。空き家に革製の手袋のようなものが残されていて、「これは野球というスポーツで使うグラブだ」と大人に教えられた。見よう見まねで始めたキャッチボールが、白の長い野球人生のスタートとなった。

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キャンプで勢ぞろいした東映打線の面々。左から)岩下、大杉、佐野、白仁天、大下=昭和43年
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